茨城県
いばらきけん 茨城県 |
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国 | ![]() |
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地方 | 関東地方 | ||
団体コード | 08000-4 | ||
ISO 3166-2:JP | JP-08 | ||
面積 | 6,095.84km² |
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総人口 | 2,922,869人 (推計人口、2014年5月1日) |
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人口密度 | 479人/km² | ||
隣接都道府県 | 福島県、栃木県、埼玉県、千葉県 | ||
県の木 | ウメ | ||
県の花 | バラ | ||
県の鳥 | ヒバリ | ||
県の魚 県民の歌 県民体操 |
ヒラメ 茨城県民の歌 茨城県民体操 |
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茨城県庁 | |||
知事 | 橋本昌 | ||
所在地 |
〒310-8555 ![]() |
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外部リンク | 茨城県庁 | ||
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ウィキポータル | 日本の都道府県/茨城県 | ||
ウィキプロジェクト |
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茨城県(いばらきけん)は、日本の県の一つ。関東地方の北東に位置し、東は太平洋に面する。県庁所在地は水戸市。
茨城県は日本全国にある研究機関の3分の1が集積[1][2]しており、人口あたりの研究機関数が日本一である[3][4]。また、茨城県の農業産出額は本州一かつ、北海道に次いで全国第2位である[5]。茨城県の都道府県人口は全国第11位、面積は全国第24位である。
茨城県は旧・
目次
[非表示]概要[編集]
茨城県は、関東地方の北東部に位置する県で、もとの常陸国全域と下総国北部にあたる。茨城県は首都圏[7]に属し、その一部が東京圏[8]に含まれる。茨城県の都道府県人口は2,922,869人(2014年5月1日)で全国第11位[9]。茨城県は政令指定都市を持たない県で最も人口が多いが、その人口は分散されており、人口30万人以上の都市は存在しない。茨城県の面積は6,094km²で全国第24位[10][11]。茨城県は平地が多いため、人の住むことのできる面積は全国第4位である[12][13][13]。茨城県内の市町村数は44あり、市は32、そのもとに10の町と2の村がある。又、これらのほかに7つの郡もある。
茨城県の県北部は五浦海岸や袋田の滝などの自然景勝地を持ち、総延長190キロメートルに及ぶ海岸線[14]に沿って多賀山地を望む緑豊かな田園地帯が続くと、日立製作所発祥地の日立市周辺には日立グループ関連工場が林立している。当県の県央部は県内最大の都・水戸市に日本三名園の一つ偕楽園や日本最大の藩校・弘道館があり、かつ、那珂湊や茨城港、国営ひたち海浜公園等の海岸施設を有し、東海村にJ-PARC等の世界最高性能の科学技術装置がある他、小美玉市には北関東唯一の空港・茨城空港がある。当県の県東部は全国第2位の大きさである霞ヶ浦や涸沼、牛久沼などの巨大な湖を持ち、広大な田畑の中に鹿嶋市・神栖市が鹿島臨海工業地帯を群れなし日本最大の工業化[15]が進んでいる。当県の県西部は関東平野のちょうど中央部にあたり、利根川や水戸線を巡る、本州一の農業[16]を中心とした長閑な内陸の地域となっている。当県の県南部では連歌の起源とされる
2012年の茨城県内総生産は11兆6,862億円[19]で全国第11位。一方、2010年度の一人あたり県民所得は297万8千円で東京に次ぎ首都圏第2位[20]、実質経済成長率は首都圏一だった[21]。2010年度の茨城県単独での経済規模はハンガリーとニュージーランドの間に位置し、世界の諸国家と比較しておおよそ第47位から第48位の順位であった[22][23]。
特徴[編集]
茨城県は、農業産出額が本州一と日本最大の農業県である[24][25]。このため茨城県は農家人口[26]や農業就業人口[27]、耕地面積割合[13]が日本一[27]、且つ多数の農作物・水産物・畜産物で共に日本一の産出額を持つ(後述)。この事は古代から同じだったようで、713年茨城県内で編纂された『常陸国風土記』の中にも「茨城県は土地が広く、土も肥え、海や山の産物もよくとれ、人々は豊かに暮らしており、まるで天国(常世の国)のようだ」と記されている。また、茨城県は人口あたり研究機関数[3]や中学生の全国体力・運動能力[28]、1住宅あたり敷地面積[13]、工場立地面積[13]、国民宿舎の宿泊利用率[29]、県内ロケ地での映画・ドラマ撮影作品数[30]なども日本一である。茨城県は上述のよう住宅敷地が日本で最も広い[13][31][32]事に加え、道路の実延長は全国第2位[13]であり、しかも農地と工場の面積も日本最大[13]と、極めて広大な県といえる。茨城県は温暖湿潤気候に属し[33]、年間を通して比較的暖かくてその住宅の日当たりもよく[34]、ほぼ降雪もない上、全季節に渡り屋外運動に適した巨大公園を幾つも保有している。茨城県は高い経済成長率を保っており[21]、1人あたりの県民所得も向上してきたが[20]、県内の所得格差は全国平均を下回っているため[35]、所得が比較的公平に分配されている望ましい社会状態にあるとされる[36]。こうした豊かさに加え、茨城県は日本最大かつ世界有数の学術研究都市である筑波研究学園都市を持ち、日本最大の総合電機メーカー・日立製作所の創業地となり、J-PARC等の実験物理学研究施設や鹿島臨海工業地帯を有するなど地球の諸国家に於ける物理科学と化学工業の最先端地という顔もある[37]。平成25年(2013年)10月実施の茨城県政世論調査によると、茨城県に愛着を持つ同県民は約9割、茨城県に誇りを持つ同県民は7割を超えている[38]。茨城県に愛着を持っていると回答した県民が愛着を感じる所は、住みやすさ(約6割)に豊富な農林水産物(44.7%)、海・山・川・湖などの自然(44.6%)が続いている[39]。なおかつ、茨城県民は約8割が現在の暮らし向きに満足しており[40]、しかもその割合は年々少しずつ増えている[41]。
他方、民間調査機関・ブランド総合研究所(代表・田中章雄)の実施した都道府県魅力度調査で、茨城県は2009年以来3年連続第47位(全国最下位)となった[42]。この原因について茨城県知事・橋本昌は、「茨城県民は遠慮がちで、周りにある(素晴らしい)ものを宣伝したがらない」とした[43]。且つ知事は東洋経済新報社「住みよさランキング2013」で全国第3位だがブランド総合研究所「地域ブランド調査2013」で第853位の茨城県守谷市や、逆に観光には魅力的だが住むには困難を伴う大雪の降る地域の例を挙げて、(活力ある)住みよい県と旅行に行きたい県とは違うとし、茨城県民みんなで茨城を宣伝していくことが必要になってくる、とした[44]。また、茨城県を応援・PRするいばらき大使へ選ばれた歌舞伎役者で俳優・中村獅童は茨城新聞のインタビューで、「(茨城県の好感度が)都道府県で最下位というのは1位以上に素晴らしい。私は負けてたまるかという言葉が大好き。最下位だからこそ湧き起こってくる底力が茨城にはある」とし、「茨城の人たちは震災(東日本大震災)にめげず前向きであり、最下位を話題にしても嫌な顔せず笑ってくれる底抜けの明るさがある」「最下位の茨城を多くの人たちに愛してもらい、そこから上り詰めるのは素晴らしいこと」と語った[45]。また、中村は映画作品の撮影で訪れた茨城県北茨城市にて東日本大震災のため残された傷痕を見て何かの役に立ちたいと思い、2014年5月18日同県水戸市内で同県副知事からいばらき大使の委嘱状を受け取ると、同県内で数々の作品を撮影してきた事から、「茨城は思い入れのある地」と同県への愛着を語り、「こんなにやりがいのある仕事はない」「(最下位を逆手にとって)売りにしましょう。観光にこないでと言った方がいいのでは。映画も見ないでと言うと見たくなる」と語った[46]。
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守谷市みずき野
名称[編集]
由来[編集]
茨城県の名は廃藩置県後、間もなくに行われた県の統合の際、茨城郡[47]の水戸へ県庁が置かれたためその郡名が採用された。
『
さかのぼれば、かつて常陸国の国府があった石岡市あたりが県名発祥の地という解釈もある。というのも律令制の時代、茨城郡は近世の場所[50]よりも南まで広がっていた。このため石岡市は現在、茨城郡に属していないが、かつてはそこに所属していたのである。茨城という郡名自体が、もとは国府周辺の地名だった過去を示唆するものとして、石岡市に
道の辺の
の 茨 に 末 ほ豆のからまる君をはかれか行かむ 這
丈部鳥『万葉集』巻二十 4352
という万葉和歌にあるよう、いばら(うまら、うばら、むばら)[51]とはバラの古名であり、又これらの故事から、茨城県の県の花はバラである。
茨城県の茨の字はかつて都道府県名として唯一表外漢字字体となっていたが[52][53]、2010年の常用漢字改訂により常用漢字となった。
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バラの絵
読み[編集]
茨城の読みについては、日本語の持つ連濁現象によりいばらぎと読まれることも多いが、正式には廃藩置県以来いばらきと読むことが正しいと定めている[54]。実際、茨城弁の発音はカ行音が濁音もしくは鼻濁音化する特徴があり、茨城弁を使える人がきと言っていても、その発音を聞き取れない人の耳にはぎと言っているように聞こえるため、県の内外でいばらぎと理解されているという説も有る。どちらの説においても、茨城には現在、いばらきといばらぎという2通りの読み方が並存しているようである。[55][56]
茨城を一文字で表す場合、茨城県内では茨(シ、ジ)の一文字でいばと読むことがある[57][58]。
地理・地域[編集]
- 地方:首都圏、関東地方、北関東、東関東、東京圏
- 平野・台地:関東平野、常陸台地(常総台地)
- 山・山地:筑波山(日本百名山)、加波山、筑波連山、八溝山地、阿武隈山地、多賀山地
- 川:利根川、鬼怒川、小貝川、江戸川、那珂川、久慈川、新利根川、桜川、大北川
- 湖・沼・利水施設:霞ヶ浦(西浦・北浦)[59]、千波湖、涸沼、牛久沼、菅生沼、渡良瀬遊水地、常陸川水門、霞ヶ浦用水
- 海浜:波崎海岸、下津海岸、大竹海岸、大洗海岸、阿字ヶ浦海岸、河原子海岸、伊師浜海岸、五浦海岸
- 滝:袋田の滝(日本三名瀑)
気候[編集]
茨城県は太平洋側気候を呈し、夏季に多雨多湿、冬季に少雨乾燥となる。また、茨城県の太平洋沿岸部は海洋性気候、内陸部は内陸性気候となる。茨城県は全般に冬季の朝晩、沿岸部を除き放射冷却により気温が下がるが、夏季は埼玉県に近接する一部地域を除き北東気流の影響を受けやすく、比較的冷涼である。豪雪地帯へ指定されている地域は茨城県内に無いが、その南東部を除く地域、特に北西山間部については南岸低気圧や北東気流の影響で、局地的に大雪となることもある。なお、茨城県は豪雪地帯に指定されている地域を持たない県として最北端に位置する。
- 北部沿岸部:北茨城市や日立市、高萩市な どの沿岸部がここに該当し、海に面するため県内でも温暖な地域である。日立の冬季の冷え込みは北部にありながら南部に位置する鹿嶋と同じく緩やか、1月の 平均最低気温は0.1℃とプラス気温である。一方、この地域の夏季は県内で最も冷涼であり、特に北茨城は8月の平均気温が23.5℃と県内で最も涼しい。 この地域には年間を通して海洋性気候の特色が出ている。
- 北部山間部:常陸大宮市や常陸太田市、大子町などがここに該当する。沿岸部とは打って変わって、冬季の冷え込みは筑波山を除くと県内で最も厳しく、時に-10℃前後の冷え込みとなることもある。大子は1月の平均最低気温が-5.5℃となっており、-10℃近い冷え込みが続くと袋田の滝の全面が凍り付く。夏の日中は猛暑日になるほど暑くなるが、朝晩は涼しく、熱帯夜は稀である。この地域は、内陸性の気候となっている。
- 南東端部:鹿嶋市や神栖市がここに該当し、海洋性気候のため冬の冷え込みも緩やかで、沿岸部は県内で最も温暖な地域である。特に銚子市に隣接している神栖市沿岸部は、県内はもとより、関東地方全体で見ても温暖な方である。この地域が積雪となることは非常に少ない一方、夏には比較的冷涼となる。
- 南西端部:古河市がここに該当し、夏の暑さが県内で最も厳しい地域であり、しばしば猛暑日を記録する。この地域は埼玉県や群馬県の平野部に近い気候特性で、冬季にからっ風の影響を受けやすい。朝晩の冷え込みは県内他地域に比べると幾分弱く、1月の平均最低気温は-1.7℃と、北茨城、日立、鹿島の沿岸部を除くと、内陸では霞ヶ浦に隣接する土浦に次いで暖かくなっている。古河は夏季の最低気温も県内で最も高く、熱帯夜になることも珍しくない。
- 中央部・南部平野部:水戸市からつくば市や竜ヶ崎市にかけて県内の大部分を占める地域は全般にほぼ似通った気候である。冬季の気温は関東平野部で最も低い部類に入り、1月の最低気温平年値はつくばで-3.2℃、鉾田で-3.1℃、最南部の竜ヶ崎でさえ-2.4℃などと低くなっており、過去にはつくばで-17.0℃(1952年2月5日)、竜ヶ崎で-15.5℃(1984年1月20日)を記録するなど平野部でも-10℃以下まで下がることがあった。21世紀に入ってからも下妻や筑西、鉾田は-10℃以下を観測している。土浦はこの地域でも唯一、霞ヶ浦の影響により冬季の冷え込みが弱く、夏季も北東気流の影響を受けやすいため比較的冷涼、熱帯夜も少なく過ごしやすい。水戸周辺などの東部地域は時に、突発的なゲリラ降雪を北東風によりもたらされる。また、まれに竜巻が晩春から初秋にかけてこの地域では発生する。
平年値 (月単位) |
北部沿岸部 | 北部内陸部 | 中部 | 西部 | 南部 | 南東部 | |||||||||
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北茨城 | 日立 | 大子 | 常陸大宮市 小瀬 |
水戸 | 笠間 | 下妻 | 古河 | つくば | 筑波山 | 土浦 | 龍ケ崎 | 鉾田 | 鹿嶋 | ||
平均 気温 (℃) |
最暖月 | 23.4 (8月) |
24.6 (8月) |
24.5 (8月) |
24.3 (8月) |
25.0 (8月) |
24.9 (8月) |
25.3 (8月) |
26.1 (8月) |
25.2 (8月) |
20.7 (8月) |
25.7 (8月) |
25.4 (8月) |
24.6 (8月) |
25.1 (8月) |
最寒月 | 3.5 (1月) |
4.4 (1月) |
0.3 (1月) |
1.5 (2月) |
2.8 (1月) |
2.1 (1月) |
2.6 (1月) |
3.2 (1月) |
2.3 (1月) |
-0.5 (1月) |
3.6 (1月) |
2.9 (1月) |
2.5 (1月) |
4.4 (1月) |
|
降水量 (mm) |
最多月 | 206.7 (9月) |
201.4 (9月) |
214.9 (9月) |
208.8 (9月) |
193.9 (8月) |
194.0 (9月) |
190.4 (9月) |
183.3 (9月) |
186.6 (9月) |
181.0 (9月) |
168.2 (9月) |
179.0 (9月) |
196.6 (9月) |
215.1 (9月) |
最少月 | 30.0 (12月) |
28.9 (12月) |
29.3 (12月) |
26.9 (12月) |
33.1 (12月) |
29.0 (12月) |
27.5 (12月) |
22.6 (12月) |
34.6 (12月) |
26.2 (1月) |
30.9 (12月) |
33.6 (12月) |
34.8 (12月) |
49.2 (12月) |
自然公園[編集]
- 奥久慈県立自然公園
- 花園・花貫県立自然公園
- 高鈴県立自然公園
- 太田県立自然公園
- 御前山県立自然公園
- 大洗県立自然公園
- 笠間県立自然公園
- 吾国・愛宕県立自然公園
- 水戸県立自然公園
地域区分[編集]
茨城県域は自然条件により県北、県央、鹿行、県南へ四分される。さらに社会・経済的特性、特に都市化を条件に加えると広義の県南は県南、県西へ二分される[60]。
2014年5月の時点で、茨城県は平仮名表記の市が日本一多い。つくば市とひたちなか市、かすみがうら市、つくばみらい市である[a 2]。 当時点で平仮名表記の市をもつ都道府県は、漢字とのくみあわせも含めて全国で21あるが、そのうち2つある都道府県が5、1つある都道府県が15ある。茨 城県は4つある為、単独で第1位となっている。なお、2014年現在、日本で最も多い文字数の市名は6文字だが、このうち茨城県のかすみがうら市とつくば みらい市は鹿児島県のいちき串木野市とならび、最多文字数の日本一である[61]。
県庁が定める地域区分[編集]
茨城県には32市7郡10町2村がある。町はちょうではなくすべてまちと読む。それらは、茨城県庁によって5つの地域に区分されている。以下に地域内人口と、都市圏等を記載する[62]。
茨城県は全国47都道府県のうち11番目に人口の多い県である。総面積は全国24番目であるが、可住地面積で は全国第4位である。これらの統計で見ると、特定の都市に一極集中せず、全体に広く人口が分布しているとも言える。しかし地域圏でみると、人口約300万 人のうち1/3がつくば都市圏並びに東京圏へ含まれ、残りの200万人がそれぞれの地域で、農業や小規模な商工業を基盤とした地域圏を形成している。
県北地域[編集]
人口約64万人。日立都市圏(37.8万人)が地域内にある。県北はけんほく[63][64]とけんぽく[65][66][67]、2通りの読みが見られる。
県央地域[編集]
人口約47万人。水戸都市圏(66.1万人)が地域内及び県北地域に渉ってある。県央はけんおうと読む。
鹿行地域[編集]
人口約28万人。鹿嶋都市圏(10.5万人)が地域内にある。鹿行はろっこうと読む[68]。
- 市部
県南地域[編集]
人口約100万人。地域内はつくば都市圏(55.5万人)をもつほか、東京都市圏の一部(44.3万人)に含まれる。県南はけんなんと読む。
- 市部
県西地域[編集]
人口約58万人。地域内は小山都市圏の一部(5.2万人)や東京都市圏の一部(5万人)に含まれるほか、下館都市圏(9.8万)、水海道都市圏(6.6万人)をもつ。県西はけんせいと読む。
その他の地域区分[編集]
水戸地方気象台が気象情報や注意報・警報などを発表する区分は、県北地域、県央地域、鹿行地域、県南地域、県西地域へ分けられている。これらに分類される市町村は県庁が定める地域区分と同じである。また、県北・県央地域を合わせて茨城県北部と表したり、鹿行・県南・県西地域を合わせて茨城県南部と表す場合もある[69]。
- 北部・南部
- 北部・南東部・南西部
- 地方に市町村名などを冠していう方法
- 市町村の事務組合で使用されることがある。
地域的特徴[編集]
地域色が茨城県北部[70]と茨城県南部[71]では異なっており、北部の人口が減少、南部の人口が増加傾向にある状態を南北格差[72]か南北問題[73]と呼ぶことがある。また、旧新治県の範囲でも、国道51号沿線と国道6号(常磐線)沿線とでは、それぞれ経済基盤が異なっている。かつ旧印旛県の範囲でも、国道6号(常磐線)沿線とつくばエクスプレス沿線、県西地域とはそれぞれ、経済基盤が異なっている。それらについて以下に詳しく叙述する。
- 北部(県北・県央地域)
- 水戸を中心とした地域であり、車のナンバープレートも水戸である。
- 戦国時代は佐竹氏の領地、江戸時代は水戸藩として水戸徳川家の領地に属していた[74]。
- 日立製作所関連の工場が日立市やひたちなか市、且つその周辺に多く存在する。地元の人は日立市という地名と区別するため、日立製作所を日立ではなく日製(にっせい)と呼ぶ場合が多い。
- 水戸市を県都、日立市を工都[75]ということがある。
- 人口減少や大型店の撤退などが相次いでいる。また、過疎地域が山間部にあり、それは年々増加する傾向もある。東京一極集中による青年層の都市部への流出が、これらの原因の一つだと見られている。
- 利用者の減少が続いていた日立電鉄線が、設備更新の経費増大などを理由に廃線となった。
- 北関東自動車道[76]が同地域と栃木県・群馬県を結んでいる。
- 重要港湾である茨城港(日立港区・常陸那珂港区・大洗港区)は北関東のみならず、東日本の一大物流拠点となっている。
- 2010年3月11日、北関東唯一の空港である茨城空港が開港した。
- 東海村や大洗町周辺は東海第二発電所を初め、原子力関連施設が集中する地域の一つである。
- 久慈川以北の沿岸部では方位を指す際に「海の方・山の方・水戸の方・平の方」と言うことがある。
- 2011年9月5日、県北地域と水戸市を含むエリアが茨城県北ジオパークへ認定された。
- 茨城県(常陸国)と福島県(磐城国)に渡る地域を常磐地方という。
-
日立港の第1及び第2埠頭
- 南部(県南地域)
- 車のナンバーはつくば市や守谷市、つくばみらい市がご当地ナンバーのつくばナンバーであり、それらのほかは土浦ナンバーである。
- つくばを中心とした地域である。かつては土浦が中心的役割を担っていた。
- 1875年5月6日まで印旛県(現・千葉県)及び新治県の一部。
- 常磐線・つくばエクスプレス・国道6号・国道294号の沿線である。
- 平安時代に平将門の地盤となった地域である。
- かつては守谷藩や谷田部藩、牛久藩、常陸府中藩、柿岡藩、常陸北条藩、土浦藩、江戸崎藩、龍ヶ崎藩、志筑藩、玉取藩、小張藩、常陸古渡藩、片野藩の領地に属した。
- 水郷筑波国定公園の一角であり、筑波山を望む地域でもある。
- 立地上、南側志向が強い地域であり、千葉県や東京都、埼玉県などとの繋がりが深い一方、北部(水戸など)との繋がりは浅い。2005年につくばエクスプレスが開通したほか、圏央道の整備が進んでいる。都市化や東京のスプロール現象を受け、大規模ニュータウンの造成や、大型店進出、人口増加が続いている。
- 県外からの転入者が多くを占めているほかに、東京都内や千葉県などへ通勤・通学する者が古くからの地元民にも多い。逆に、千葉県東葛地域などから茨城県南部への昼間人口移動も活発である。
- 1970年代以降に茨城県南西部へやってきた住民達はニュータウン造成などによる転入組が特に多く、東京都内へ通勤・通学する住民も多い。消費活動も通勤・通学先で行われる傾向があり、特に東京都区部へ通勤・通学する住民は茨城都民と称されることもある[77]。そのため、場合によっては茨城県南西部も南関東に含まれることがある。
- 国政選挙の投票率は県内最高位だが、県知事選挙の投票率は県内最低位である。この現象を、一部の全国紙ローカル面では県南現象[77]と呼ぶことがある。
- 茨城県(常陸国)と千葉県(下総国)に渡る地方を、常総地方という。ネットスラングでちばらきともいわれる。
詳細は「茨城県南地域」を参照
-
第80回土浦全国花火競技大会(土浦市)
-
筑波銀行つくば営業部
-
学園東大通り(つくば市)
- 東部(鹿行地域)
- 車のナンバーは水戸である。
- 鹿嶋や潮来を始めとする地域である。1875年5月6日までは新治県の一部で、大洗鹿島線・鹿島線・東関東自動車道・国道51号の沿線である。
- Jリーグ・鹿島アントラーズのホームタウンに鹿行地域の全部が指定されている。その本拠地たる鹿嶋にはサッカーが定着しており、鹿島学園高等学校や鹿島高等学校が全国高等学校サッカー選手権大会で力を付けてきている。
- 県南地域と同じくこちらも水郷筑波国定公園の一角で、筑波山を望む地域である。水郷(前川あやめ園・十二橋めぐり)や鹿島神宮など歴史ある観光名所が多くある。
- 海岸や海水浴場が鹿島灘沿岸の鹿嶋や神栖、鉾田には多くあり、各地からサーフィンに訪れる人がいる。
- 主に鹿嶋や潮来、神栖は、国道51号・東関東自動車道沿線の千葉県香取や成田、千葉、あるいは総武線沿線の銚子などとの繋がりが深い。
- 神栖は鹿行の中で最も人口が多く、現在は治安の悪化を防ぐため警察署新設運動が持ち上がっている[78]。
- 鉾田はメロンの一大産地であり、出荷量が日本一である。
- 鹿島臨海工業地帯が鹿島港を中心に造成されて以降、鉄鋼業や石油化学などの集中する臨海工業地域となっている。
- 風力発電施設が鹿嶋や神栖を中心に鹿島灘沿岸へ集中している。
- 県南部だけでなく、鹿行地域も古くから常陸と下総の一文字ずつをとって、常総地方という。ネットスラングでちばらきともいわれる。
-
茨城県立カシマサッカースタジアムを埋めつくした鹿島アントラーズのサポーター
-
潮来市の一部。空撮写真
-
鹿島線から見た北浦
- 西部(県西地域)
- かつては土浦ナンバーだったが、全域でご当地ナンバーにより新たに作られたつくばナンバーへと変わった。
- 古河や筑西を始めとする地域である。主に、旧猿島郡(一部西葛飾郡)や旧真壁郡、旧結城郡に相当する。
- 古河は宇都宮線の沿線にあるため、埼玉県や栃木県の一部だと誤認されることも多い。
- 結城も新4号国道が通っているため、埼玉県や栃木県、群馬県(両毛)との繋がりが深いのに対して、県内他地域との繋がりは浅い。
- 国や県の出先機関が集中する筑西も栃木県との境にあり、県庁所在地である水戸方面との繋がりは薄い。自動車と鉄道による移動も、栃木県の県庁所在地である宇都宮市へ行く方が水戸へ行くより遥かに近い。
- 古河市や五霞町、境町および坂東市の一部はNTT東日本栃木支店の管轄地域であり、電気通信上、栃木県扱いとなっている。同地域では、2010年1月をもってフレッツ光の全面供用が開始されたが、他の県西地域では現在も一部の市街地での提供に留まる。このため例えば、坂東市の旧猿島町域において栃木支店管轄あつかいで利用できるフレッツ光が、茨城支店管轄の沓掛市街地では利用できないなど、同じ地域内や市内で情報格差が生じている。
詳細は「茨城県西地域」を参照
茨城県の今後は、都心へ近く人口増加傾向の南西部に発展が続くと予想されている。逆に北部は過疎地域が増加する傾向にあるため、衰退の可能性も孕んでいる。
茨城県は地域格差を解消するための施策として、2006年から2010年度までの5ヶ年計画で北部圏[79]と南部圏[80]の2つに分けた県政展開を示唆してきた。南部圏は南関東との更なる連携を強め交通インフラに重点を置いた地域造り、北部圏は北関東における物流及び先端産業の拠点化とその為の広域的な交通基盤整備を目指してきた。 また県北地域振興を専門に行なう県北振興室が茨城県庁内に新設され、県北地域振興を担う財団法人グリーンふるさと振興機構と協調し、いばらきさとやま生活と名付けた主に団塊世代向けの移住や二地域居住などを推進してきた。こうして茨城県は田舎暮らしやグリーン・ツーリズム[81]による、県北の山間や海辺[82]での余裕ある生活様式を発信している[83]。
また、茨城県大洗町は2014年5月、家を買って同町内に住み始める新世帯へ、新生活スタート支援として最高で30万円を贈呈する定住促進奨励金制度を始めた。同町のまちづくり推進課は、保育所の待機児童がゼロ、かつ町内の中学校は専用教室を教科毎に設けているなど子育てや教育環境の充実を述べた上で、美しい海辺を持つ同町への移住を呼びかけた。[84]
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大洗リゾートアウトレットのウォーターガーデン部分
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アクアワールド大洗にある出会いの海の大水槽
歴史[編集]
先史略史[編集]

今から5億1100万年前にあたる日本最古の地層は茨城県常陸太田市の茂宮川最上流部にある[85]。2008年茨城大学の研究チームが茨城県日立市小木津町で約5億600万年前にあたる、カンブリア紀の地層を発見した。2009年同チームはつづけて、茨城県常陸太田市の長谷町、茂宮川最上流部の地層が、約5億1100万年前のものだと発見した。この研究チームのリーダーである茨城大学名誉教授の田切美智雄は、古生代地層が約30平方キロメートルも県内に分布している事をあげながら、「これほど広範囲なものは日本でほかになく、(地球科学的に)日本列島のはじまりが茨城県だったといえるかもしれない」と語った。[a 3]
茨城県に人が住み始めたのは、今からおよそ2万4000年前に火山灰層[86]が堆積した前後と考えられている。この層の下からナイフ形石器や局部磨製石器、焼けた礫石群が見つかっているからだ。これらの石器群の後に、細石刃が北[87]と南[88]から共に伝播した。同県ひたちなか市の後野B遺跡などがこの時期の遺跡として確認できる。又このサイトからは、細石刃核や細石刃、彫器、掻器等が出土している。[89]
先史の茨城県では、縄文時代の気候温暖化、いわゆる縄文海進によって、海水に浸された霞ヶ浦の周辺が香取海や古鬼湾といわれる巨大な内海となっていた。この周りは生き物の恵み豊かで、しかも人々の生活に安全だったと考えられ、今までに300箇所をこえる遺跡が発見されている。茨城県稲敷郡美浦村にある陸平貝塚は、 縄文時代の早期である約7000年前から、縄文時代の晩期である約3000年前にかけての人々の生活跡である。その面積は約3万平方キロメートル、大きな 台地の上にあり、かつ大小8つの貝塚がこのサイト内に点在している。この貝塚は日本人が最初に発掘調査を行った遺跡としても有名で、アメリカ国籍の動物学 者エドワード・S・モースに学んだ東京帝国大学の学生・佐々木忠次郎と飯島魁の2名が1879年(明治12年)にこの敷地を発見した。陸平貝塚は日本考古学の原点と呼ばれる。考古学史上も重要なこのサイトは、規模が日本最大級であるばかりか時代の変遷もわかるため、地域開発にさらされないよう茨城県民により保護され、その周辺環境はほぼ手付かずのまま保存されている。このことが評価され、陸平貝塚は日本国の史跡に指定された。現在、陸平貝塚の周辺は陸平貝塚公園として公開されており、この園内には三浦村文化センターが設けられ、土器や石器、貝類など出土物を管理し、且つ展示に努めている。
複数の古墳群が県内に、この他にも残されている。
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虎塚古墳の壁画
詳細は「Category:茨城県の古墳」を参照
古代略史[編集]

高・久自・仲・新治・筑波・茨城の6国が、古代の茨城県ではおのおの独立していた。それらは646年大化の改新で統合され、
の 筑波嶺 の田井に秋田刈る 裾廻 がり 妹 らむ 遣 黄葉 らな[92] 手折 現代語訳の一例:つくば山のすそ野あたりにある田んぼで、秋の稲穂を刈っているだろうあの子のもとへ、私もこの手で折った美しい紅葉を刈って、贈らなければな
今日の日にいかにかしかむ筑波嶺に昔の人の来けむその日も[93]
現代語訳の一例:今日の日より素晴らしかったのだろうか、つくば山に昔の人が来たろうその日も
他に、霞ヶ浦に面した場所で歌われていたものに、
高浜に
する 来寄 の 浪 つ 沖 浪 すとも寄らじ子らにし寄らば[94] 寄 現代語訳の一例:霞ヶ浦の高浜に寄せてきている波が、たとえどれほど寄せてきていてもあの子たちが寄ってこないのなら、自分からは寄らないのだ
高浜の
さやぐ 下風 を恋ひ妻と言はばやしこと召しつも[95] 妹 現代語訳の一例:霞ヶ浦の高浜の下にさわぐ風のよう、貴女に恋している私は貴女を妻と呼べればいいが、こんな無骨な自分と知っていながらに
と、豊かな自然の中で古代茨城の人達が寄せたとされる、いくつかの和歌などが残されている。その中には、常陸国司の藤原宇合へ 茨城県の女性が寄せた歌や(万葉歌番号521)、筑波山へ登り雁の鳴き声を聴き、霞ヶ浦に飛び交う鳥たちに秋風が立てた白波を眺め、長い年月に積り来た憂 いをなくしたという内容の歌もあり(万葉歌番号1757)、バラエティ豊かである。万葉歌番号1753の歌は、朝廷からやってきた貴人を筑波山で歓待した 高橋が、そこから一望できる茨城県の絶景を彼へ見せると、嬉しさのあまり着物の紐を解いて家の中にいるよう共に寛いで遊び、春の花見も夏草の茂る頃も楽し いがその日の楽しさはいいようもないと記している。
詳細は「Category:茨城県にある国指定の史跡」を参照

万葉和歌にも神話上の神々の山として歌われた筑波山は、西の富士に東の筑波と並び賞されてきた。その優雅な姿は古代日本から高貴な色とされる紫色をしているため、「紫峰」あるいは「むらさきの山」といわれてきた。712年(和銅5年)編纂された日本最古の史書『古事記』には、次のように書かれている。太古の神代、イザナギとイザナミの2人が筑波山頂の
しきかも我が 愛 高きかも神つ宮 胤 千秋
並びひとしく 日月と共に同じく 天地
人民集いび 賀 飲食富豊
代々絶ゆる事なく 日々に栄えて 弥 よ 万歳 窮まらじ 遊楽
こうして、富士山はいつも雪に覆われ登ることが臨めない山となった。一方、筑波山は往く人からつどってきて歌い踊り、神と共に飲みかつたべて、宴をする空間が今に至るまで絶えた事がない、と本にある[97]。[98]
奈良時代初期の713年、元明天皇は令制国ごとに風土記という地誌の編纂を命じた。茨城県では高度な漢文の素養が必要とされる四六駢儷体(四六文、駢文)による、民族叙事詩風のロマンスに満ちた地誌『常陸国風土記』を仕上げた。この華麗典雅な文章の修辞法は、漢籍へ使われる本格的表現や対句の多用によっていて、六朝の漢文学[99]に習った貴族的で荘重な文体において文人趣味的、と言える程のものであった[a 6]。古代茨城の時点ですでに高尚なまでの教養を有していた執筆者の知性と、その艶やかな文芸の才が偲ばれる[a 7][100]。奈良県にあった朝廷からみて、東海道最果てのフロンティアであった茨城県を理想郷にみせようとする様子が、執筆者の意図としてこの書の内容には伺われる[a 8]。『常陸国風土記』において各郡の詳細な記述についての地理学あるいは経済学的な分析が行われるところにいたると、その語り口の壮麗さというものは単に文章表現の上だけではなく、執筆者が古老から聴きこんだ古代茨城の物語や民話を込めてなお、情趣に満ちた民俗学的内容にまで及んでいる[a 9]。この風土記は単に古代茨城の地誌として、或いは律動を与えられた装飾的漢文による品位の高い文学作品として優れているだけではなく、現存する首都圏[101]唯一の風土記として、歴史学的にも貴重な書物となった。そこには様々な逸話が述べられているが、特に茨城県は地味豊かな「常世の国(天国のような場所)」として、住民の幸福度が高く、かつ農林水産業にとっても理想郷と述べられている。常世の国とは、古代日本から信仰されてきた海のかなたにある異界を指し、不老不死などの理想が叶えられるユートピアである[a 10]。
詳細は「ウィキクウォート上の『常陸国風土記』原典」を参照
常陸という名の由来について2つの説が、茨城の時と同様やはり古老による物語形式のなかで、同書へ並び記されている。そのひとつは、
7世紀後半から8世紀後半ころ(600年代後半から700年代後半ころ)成立した日本最古の和歌集『万葉集』には、朝廷の命で西国へ仕事に出かけた関東地方の防人たちの歌がいくつも収録されているが、茨城県出身の人々は故郷を懐かしむ歌や、別れを言わずに出てきた当県出身の防人が地元に残してきた家族や恋人を想う歌を残している(歌番号4363~4369、4371~4372)。663年当時の倭国は任那に日本府を置いていた為、白村江の戦いで任那に近い百済を援護、唐・新羅の連合水軍と争っていた。際して茨城県からも祖国防衛者として防人が募集され、遠く九州の筑紫国即ち、今の福岡県西部へ出かけたが、このとき武運を茨城県の鹿島神宮に祈ってからいくさに出かける、鹿島立ちという伝統が生まれた。現代日本語にとってこの言葉は旅立ちの意味を持つ雅語、としてその語彙に含まれている。茨城県鹿嶋市にあるJ1プロサッカークラブ・鹿島アントラーズの 名は、武運の神の使いとして鹿島神宮にいる雄鹿の角に由来している。アントラー(antler)とは英語で雄鹿の角である。また、そのチーム・エンブレム に描かれた角へは、茨城県に由来した茨も付加されている。茨城県の防人によって詠まれた次の歌が、鹿島立ちの一つの起源として『万葉集』に、収録されてい る。
降り 霰 の神を祈りつつ 鹿嶋 に我は来にしを[106] 皇御軍士
防人に応募した若者たちは鹿島神宮に集まり、国の武運長久と旅の安全無事を祈ってから任地へ赴いた[107]。また、鹿島と香取の2神が国土を平定した故事からも鹿島立ち、といわれる[108]。防人らの鹿島立ち以後、茨城県鹿嶋市では剣術が盛んになり、のち1489年に鹿島新当流を啓いた剣豪・塚原卜伝が生まれた。
『常陸国風土記』が書かれて間もなくのころ平城京では疫病が蔓延、社会不安が広がったため741年、聖武天皇は常陸を含む令制国らへ国分寺と国分尼寺の建設を命じた。こうして743年起工し、752年完成した石岡市の常陸国分寺と常陸国分尼寺は、今日でも後継寺院ならびにその遺跡を留めている[109]。
やがて朝廷は平安京へ移され、平安時代になった。強制による軍団制度が壊れはじめ、792年頃から志願による健児体制へ代わった[a 12]。826年常陸国は朝廷の命で親王任国となったので、常陸国司の長である常陸守は茨城県へ赴任しなくなり、常陸守は親王(皇族)が担うと共に、京へ留まる事になった。これを遙任という[110][111]。このため常陸守の現地赴任により本来担うべき役割を、国司制度上の次官である常陸介が代行するようになった[112]。この事は、平安時代に成立した『源氏物語』中に確認できる。物語中のヒロインである浮舟は、彼女の義理の父親が裕福な常陸介だったので、彼女自身も父親に着いて赴任先へ移り住み、茨城県で育った。彼女の素朴な育ちはやがて帰った大都会の風習と異なったが、それが却って他の皇族にとって魅力的だった、といった記述がその文中に確認される[113]。又、のちに常陸国が親王任国であった伝統を継ぎ、昭和天皇は第二次世界大戦後最初の宮家として常陸宮を儲けた。
905年醍醐天皇の命ではじめられ、927年完成、967年に施行されたした律令の施行規則・『延喜式』の国力区分において、常陸国は大国という最高の格式になった[114]。『延喜式』は次のように記している。茨城県は建児を現首都圏最大の200人配された。当県の諸国牧は信太郡に信太馬牧としてあった。当県は甲6領や横刀16口、弓60張、征箭60具、胡簶60具を配された。当県内の各府へ駅馬を榛谷と曽祢に5匹、安侯と河内、田後、小田、雄薩にそれぞれ2匹が配され、且つ河内郡に伝馬を5匹配された[115]。
939年12月茨城県豊田郡・猿島郡出身の豪族であり、初めて現首都圏統一を果たした平将門は自ら新皇と 称した。将門の支配した首都圏はあたかも坂東王国として独立国家の様相を呈した。この際、将門は関東諸国へ国司を独自に任命したが、今日の茨城県にあたる 常陸国と、千葉県中部にあたる上総国の両国には、親王任国の遙任と同様に長官としての常陸守や上総守を任命せず、次官にあたる介のみ任命した。940年1月中旬、将門は兵5000名を率い常陸国内へ出陣、彼の親族であった平貞盛と、常陸介であった藤原維幾の子・藤原為憲の行方を捜索した。その結果、貞盛の妻と、将門が兼ねて恩をかけてきた源護の長男・源扶の妻を捕らえた。これらの大規模捜索にも関わらず貞盛の行方は知れなかった。また、将門は捕らえた彼女らを哀れみ着物を与え国許へ帰した。これから将門は下総国に置いた本拠へ帰り、兵は各々の本国へ帰還させた。しかし貞盛は以後、朝廷へ通じた下野国押領使の藤原秀郷と共に兵を集め[116]、940年承平天慶の乱が起こって将門は皇軍により倒された。同時にこれらの結果として、中央集権的な律令国家の体制も事実上破綻していたのが明らかとなり、武士の勢力の大きさを天下に知らしめ、公家中心だった平安時代も終わりを告げた[a 13]。なお、将門がこのとき領内へ野生馬を放し、敵兵に見立て軍事訓練をした事に始まった祭り・相馬野馬追は、のちその神事に関して国の重要無形民俗文化財へ指定された。将門の自主的行動は彼の250年後に鎌倉幕府が成立する前の日本史上に初めて武士の発生を示し、首都圏の各国府を占領してまで彼が旗幟を鮮明にした背景には、山城国にあった公家政権への首都圏側の強い反対ムードがあった[a 14]。彼は合戦においては所領から産出される豊富な馬を利用した騎馬隊を駆使、反りを持った最初の日本刀を作らせた。なお、彼に因んだ将門煎餅が、将門の出身にして終焉の地である茨城県坂東市で作られている[117]。
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平将門の率いた騎馬隊を模している、相馬野馬追の様子
詳細は「Category:茨城県の神社」を参照
中世略史[編集]
鎌倉幕府以降、武家の世がやってくると、後白河法皇は軍事指揮官・守護と土地管理官・地頭の設置、及びその任免権を征夷大将軍・源頼朝へ国ごとに認めた。武将・八田知家こと小田氏が鎌倉幕府より常陸守護を任せられ、1185年彼は小田城を筑波山麓へ構えた。常陸平氏が県南部、常陸源氏が県北部に栄え12世紀半ば頃にはすでに茨城県では、平将門の乱で知行を得た将門の父・平国香を祖とする両武士団が並び立った[a 15]。ところで大国である常陸には、

伊達宗家の初代当主・伊達朝宗は、茨城県平安時代から鎌倉時代間の当県における代表的出身者の一人である。彼は常陸入道念西として茨城県筑西市の伊佐城に根を張った常陸伊佐氏であり、やがて戦国時代を通じて東北地方の一大大名へのしあがっていった。彼は鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝より陸奥国伊達郡を拝領してのち、その郡名をとって伊達氏と名乗った。その後、伊達氏は宮城県仙台市に根を張った[118]。
1214年、仏教僧の親鸞が後鳥羽上皇から流されていた越後国を発ち、関東地方で布教をするため茨城県へやってきた。同年かれは茨城県下妻市へ小島の草庵をつくり、1216年茨城県城里町へ大山の草庵をつくった。こののち彼は、茨城県笠間市稲田の領主・稲田頼重にまねかれ、同地の吹雪谷に稲田の草庵を42歳でつくった。親鸞はここを拠点に20年間、茨城県内14箇所をめぐり仏教を広めた。こうして茨城県笠間市稲田は浄土真宗発祥の地となった。1224年、親鸞の主著『教行信証』は茨城県で出版された。また、茨城県時代の彼の弟子たちはのち関東二十四輩と呼ばれた[119][a 17]。 当県水戸市に在住していた僧・河和田の唯円は関東二十四輩として親鸞の直弟子の一人であり、師の死後に『歎異抄』を当県で著しその仏教思想を分かり易く広めた[a 18]。他に、当県那珂市に在住していた関東二十四輩の一人の僧・鳥喰の唯円は当県の常陸太田市に西光寺を建立した[120]
やがて鎌倉幕府に対抗する勢力が現れ、鎌倉幕府は滅び、南北朝の時代となった。室町幕府の初代征夷大将軍・足利尊氏は、かれ自らが支持した光明天皇の北朝を擁立、後醍醐天皇の南朝は勢力を弱めていた。1339年、南朝方の公卿・北畠親房は三重県伊勢市から船にのって茨城県稲敷市桜川地区の東条浦へたどりついた。北畠はここから茨城県の南朝方・小田治久に迎え入れられ、桜川市の神宮寺城へ入った。1339年、北畠は南朝勢力の復興の為、茨城県つくば市の小田城で『神皇正統記』や『職源鈔』を書いた。小田城は茨城県内における北朝方と南朝方の間で起きた常陸合戦のため、北朝方により落城した。北畠は茨城県筑西市の関城や、同県下妻市の大宝城、再び筑西市の伊佐城を転々としながら抗戦を試みたが、みな北朝方の前に陥落した。5年にわたる戦いの末、茨城県内の南朝方は一掃され、駆逐された北畠は現首都圏を脱出し奈良県吉野郡へ逃げ帰った。[a 19]

南北朝は結局、南朝が北朝へ三種の神器を返して合一された。この後の200年間を室町時代と呼ぶ。この間、群雄割拠が茨城県では続いた。甲斐源氏で武田氏の祖・源義清が茨城県室町時代の代表的な出身者の一人である。義清は茨城県ひたちなか市武田を本貫として姓を武田氏と名乗ってのち、武田氏は山梨県に根を張った。[121]。
1455年(享徳4年)、第5代鎌倉公方・足利成氏が本拠を鎌倉から茨城県古河市へ移し、初代古河公方となった。御所は主に古河城とされ、こうして同市は新たな都となった。ここは東北への古い街道が古河城内を縦断し、観音寺曲輪や桜町曲輪の場所に宿場町が展開していた。桜町曲輪には連歌師の猪苗代兼載が居を構え、その屋敷には多くの桜が植えられていた。『松陰私語』は、1469年から1486年頃の文明年間に上野国の大名・岩松尚純が古河公方へ出仕したときの様子として、彼の居城であった金山城から古河まで利根川を舟で往来した事、御所に大きな四足御門があった事、御所の周辺に宿所と呼ばれた家臣団の集落があった事、座頭や舞々、猿楽等の芸能集団が古河公方周囲で活動していた事などを記録している。また、古河公方第2代・足利政氏の治世、連歌師・猪苗代兼載が公方家の侍医・田代三喜か ら治療を受けるため古河公方へ滞在し、その際に御所の殿中で句会を開催した。多数の奉公衆や家臣団、僧侶、文化人らが古河へ鎌倉から移住してきた。廻船業 や陸運業、倉庫業、金融業などを営む特権商人や、馬具作り等を行った職人集団が古河城を中心に展開した城下町に住んでおり、古河市は経済や医療、技術、宗 教、文化面でも首都圏の最先端地へ成長した。古河公方は鎌倉の持っていた政治や経済、文化面の機能を受け継ぎ、中でも鎌倉府から継承された政治権力組織を古河府と呼ぶ。首都圏における政治や文化上の中心地となったこの都は、その後も第3代古河公方・足利高基、第4代同公方・足利晴氏、第5代同公方・足利義氏へと約130年間引き継がれた[a 20]。1569年(永禄12年)、武将・武田信玄の動向を警戒した武将・上杉謙信と北条氏政との間に越相同盟が成立した。こうして後北条氏の関東支配が確定的になった為、1583年(天正11年)義氏が男子を残さず没したのち何ら対策が取られないまま、古河公方は自然に消滅した[122]。古河時代、第5代古河公方・義氏の娘によって勧請され作られた子安地蔵像が、古河の都の栄華を今に伝えている[a 21]。
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古河御所跡、古河総合公園内にある公方様の森とそれを三方から囲む御所沼

やがて甲斐源氏の同属である常陸源氏の武将・佐竹氏が茨城県北部より興り、1573年、小田城を占拠した。佐竹氏の由来は茨城県常陸太田市の佐竹村に本拠を構えたことによる。佐竹氏は茨城県西部の結城氏と同盟を結び、戦国武将たちの天下統一へ応じる態度を示した[a 22]。1572年室町幕府が滅びると、茨城県北部にある常陸太田市の太田城に拠った佐竹氏は1590年頃までに県内の他の城をほぼ全滅させ、更に県央の水戸城へ進出し茨城県の覇権を握った。佐竹氏は豊臣秀吉から朱印状をうけ、54万石の戦国大名となった。しかし徳川家康へ政権が交代すると、関が原の戦いにおいてかつて佐竹氏を救った石田三成の盟友・上杉氏との義理[a 23]を重んじ中立姿勢[a 24]だった佐竹義宣は、秋田県20万石へ徳川氏により国替えされた。[a 25]
各地から神奈川県へ向かう鎌倉街道がこの時代、茨城県にも開通した。開拓が進められ牛馬の飼育、養蚕、織物業も盛んになって、鹿島市の製塩なども広く茨城県の内外に知られた。当県内の各地に市場がひらかれ、鹿島市の鹿島神宮や行方市の西蓮寺などは特に賑わった。[a 26]
詳細は「Category:茨城県の城」を参照
近世略史[編集]

関ヶ原の戦いから2年後の1602年、家康の9男である武将・武田信吉が水戸城主へ15万石で封じられたが、信吉は翌年に病没した。次いで翌1603年、家康の10男で、まだ2歳の武将・徳川頼宣が水戸城主へ徳川家康により封じられ、20万石を得た。翌1604年、頼宣は25万石へ石高を加増された。1606年、頼宣は元服の際に常陸介を朝廷より叙任された。しかし頼宣は一度も水戸城へ入らなかった上、1609年静岡県へ家康により国替えされた。頼宣はこののち、1619年和歌山県へ封じられて初代紀州藩主となったが、紀州徳川家は最初、茨城県へ封じられ常陸介に叙任されたため徳川常陸介家といわれていた[123]。但し、実際に茨城県を治めたのは、頼宣のあと水戸城主へ家康により封じられた水戸徳川家だった。1606年9月23日、家康の11男である武将・徳川頼房は茨城県下妻市10万石を家康より与えられた。さらに1609年12月、頼房は7歳で水戸城主を家康により任せられ、石高は25万石に加増された[a 27]。また、秋田県へ行った佐竹氏の代わりに、1602年武将・戸沢政盛が茨城県高萩市下手綱の龍子山へ4万石で、秋田県から入った。戸沢氏は室町時代ころすでに築かれていた龍子山城の麓に城郭を整備、平山城とし、その名を松岡城にした。戸沢氏は暫く一帯を治めていたが、1622年再び、山形県の新庄藩へ江戸幕府により移封された。その後の1646年、水戸徳川家の御附家老・中山信政が松岡城へ入って一帯を治めた。
この間の1607年[124]秋、役人が茨城県大子町小 生瀬に年貢の取立てへやってきて、小生瀬の農民たちは通常通りそれを収めた。ところが別の役人が再びやってきて、新たな年貢を強要した。小生瀬の農民たち は今度来た者が偽物と考え、その一人を殺害してしまった。しかし、最初の役人の方が偽物だった為、同年10月、かつて武田信吉の部下だった武士・蘆沢信重らが水戸城より出兵、小生瀬の農民を皆殺しにした(生瀬騒動)。

頼房は1622年、初代水戸藩主として20歳ではじめて茨城県の水戸城へ入った。家康は茨城県に徳川家門や譜代大名を配し、当県内の外様大名は麻生藩1万石の新庄氏と谷田部藩細川氏のみだった。こうした家康による手堅い配置から、茨城県は江戸幕府にとってその外郭を固めた最重要拠点の一つだった、と現代の目からも判断される。[a 28]
1628年(寛永5年)6月10日、水戸家初代当主・徳川頼房(威公)の3男として茨城県水戸市宮町で生まれた、後の第2代水戸藩主徳川光圀(義公、通称・水戸黄門)は若いころから意気軒昂だった。まだ青少年だった義公は戦国の世が過ぎた時代に生まれ、彼の血気のやりどころに悩んでいた。そのうえ義公は彼の兄で、父・頼房の長男である松平頼重をさしおいて、自らが水戸徳川家(水戸家)の家督を継いでしまった負い目があった。水戸家の祖・頼房は、頼房の兄で尾張徳川家(尾張家)の祖・徳川義直や同じく頼房の次兄で紀伊徳川家(紀伊家)の祖・徳川頼宣に子がいなかったのをはばかって、頼房最初の子・頼重を認知していなかった。それ以後、尾張家や紀伊家には子ができたが、義公はこのような徳川将軍家(徳川宗家)や徳川御三家各々の家庭事情のため、父から公に認知されていなかったが本来長男として家督を継ぐはずだった頼重の立場を慮っていた。やがて義公は平和な世にも熱中できるものとして学問を知り、18歳のある時、書物を積み上げ読んでいた中国の歴史書『史記』の中で殷王朝の後継者である
1800年(寛政12年)4月4日第7代藩主・徳川治紀(武公)の3男として生まれた、後の第9代水戸藩主徳川斉昭(烈公)は実兄で第8代水戸藩主・徳川斉脩(哀公)の控えとして、30歳まで部屋住みであった。哀公の薨去に伴って藩主となった烈公は、水戸学者の藤田東湖や会沢正志斎ら進取の人材を登用し、斉昭の改革を断行した。1841年烈公は茨城県における彼の藩政のなかで、日本最大の藩校・弘道館を造り、士たちへ選良教育を施した。ここで教育を受けた者のなかには、烈公の7男で皇族・吉子女王を母にもった徳川慶喜がいた。徳川慶喜は長じてのち第15代征夷大将軍となり、且つ茨城県における烈公の水戸学に基づいた勤皇教育や水戸家の庭訓によって、大政奉還を実行した日本史上最後の将軍となり、江戸幕府に有終の美を表した[129]。1833年烈公は壮大な都市庭園・偕楽園を茨城県水戸市に構想、弘道館を開いて1年後の1842年それは開園した。日本三名園の一つに数え上げられるこの大名庭園は、2014年現在ではニューヨークのセントラルパークに次ぎ都市庭園として世界第2位の広さを持ち、日本国の史跡かつ名勝となっている。好文亭という茶室つきの別荘が偕楽園には烈公により設けられたが、好文とは当時の先進文明・中国の国花でもある梅の雅名である。この雅名は、晋の武帝が学問に親しむと梅の花が開き、学問をやめるとその花が開かなかったという故事に基づいている。即ち好文亭というその別荘の命名は、学問を好んだ水戸家の気風をよく示しているといえる。偕楽園だけではなく、弘道館も梅の名所として知られている。烈公はこの実を非常食としても重要視したため実用を兼ね、水戸の梅という水戸市の銘菓の起源ともなって今日でも仄かなその花の香は、茨城県を訪れる人達の感動を誘っている。初春に先駆けて咲く梅というものは、天下へ率先垂範を期した水戸学の精神にも通じており、烈公はそのいわれを漢詩『弘道館に梅花を賞す』へ凝縮し表現している。
弘道館中千樹梅
清香馥郁十文開
好文豈謂無威武
雪裡占春天下魁
――景山[130]
訓読の一例:弘道館中千樹の梅
清香馥郁として十文開く
好文豈に威武無しと謂わんや
雪裡春を占む天下の魁
現代語訳の一例:弘道館の中には千本の梅の木々がある
その清らかな香りは心地よく漂って水戸学の文章のよう十分に開かれ
どうしてわが藩の探究心に武道の威儀も欠けているといえようか
雪はそのうちに春を占めて天下のさきがけとなるのだ
なお偕楽園とは民と
ちゝに思ふ一つ報いもあらぬかな三十年民に恵まれし身の
朝な夕な飯くふ毎に忘れじな恵まぬ民に恵まるゝ身は[133]
茨城県かすみがうら市千代田町、志筑藩の農民達は、「できれば水戸様の農民になりたい」と言った程、農民にとって烈公は有り難い君主であり、名君だった。茨城県の農家は後に、烈公の業績を伝える『仰景碑』を義烈両公を祭る水戸市の常磐神社境内に立て、彼の徳政の事実を後世へ伝え残した[134]。
茨城県つくばみらい市小貝川のほとりに生まれた農民出身の探検家・間宮林蔵は、1799年北海道へ渡りやがてその最北端に辿り着いた。さらに彼は北海道人を引き連れて海をわたり北上、1808年
茨城県高萩市赤浜出身の学者・長久保赤水は諸学を修めたが特に地理学を好み、1760年代『日本図』や1768年『改製日本扶桑分里図』、1773年『日本
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長久保赤水『改正日本輿地路程全図』1779年(大英博物館所蔵1846年版)
飯塚伊賀七は茨城県つくば市谷田部町に生まれ育ち生活していた江戸時代後期の発明家である。1762年4月23日(宝暦12年3月29日)飯塚家第16代に生まれた彼は名主を務めつつ、建築や和算、蘭学等を学んで数理に明るく、からくり(いわゆるロボット)や、和時計、地図、多宝塔、五角堂製作等を行い、かつ飛行実験まで行って村人を驚かせた。彼が発明しあるいは製作したものは、凶作を見越して作った1883年の脱穀機(打穀機、米搗き機とも)や、自動製粉機、自動精米機、縄縒り機、糸繰り機などの農業機械をはじめ、酒買い人形、トウフ買い人形、茶くみ人形、人力飛行機、木製自転車、大型のそろばん、目覚まし時計ほどの大きさの鉄製・懐中時計等々があった。彼の代表作に、当時に類を見なかった日本初の本格的な屋外オートメーション装置として自動で時を知らせる巨大和時計があったが、これは単に時を刻んでいただけではなく、太鼓や鐘を鳴らして飯塚生家の門扉を自動で開閉していた[a 31]。彼の生家の片隅にあるこの時計は、茨城県の史跡となっている。彼は他に自作の測量器具「十間輪」を用いて1788年2月『分間谷田部絵図』や、『谷田部付近地図』、1806年『分間中野畠絵図』と同年『分間山絵図』、『分間下総絵図』等の地図を製作した。あるいは彼の設計した建築物に飯塚家に残る唯一の有形物で茨城県の史跡・五角堂や、千葉県柏市に残っている布施弁財天鐘楼、
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飯塚伊賀七の肖像画。広瀬周度・作
幕末略史[編集]

1822年(文政5年)茨城県古河市、旧・古河藩の第4代藩主となった土井利位は、奏者番や寺社奉行を経て大阪城代となり、やがて京都所司代となった。1839年(天保10年)彼は老中になった。彼はやがて老中首座となって幕府財政を黒字へ好転させはじめた時、江戸城本丸が火災に遭って財政が悪化した為、老中を辞任した。1848年(嘉永元年)4月25日、土井は家督を養子の利亨へ譲って隠居した。これらの幕政の傍ら、土井は趣味であった雪氷学を探求した。彼は日本で初めて顕微鏡によって雪の結晶を観察しこれを雪華と名づけ、20年にわたった観察成果を1832年『雪華図説』と1840年『続雪華図説』の2冊の本へまとめて発表した。これゆえ土井は氷雪学のパイオニアといわれている。これらの本には、14ヵ条の雪の効能が記され[140]、183種の雪の結晶図が描かれていた[a 32]。これらの本は私家版で出版数も少なかったが、掲載されている結晶図は織物のデザインとして取り入れられ、雪華模様の衣装が流行した。そのため、土井は庶民から雪の殿様の愛称で親しまれた。雪華模様の別名である
1807年初めて茨城県の近海に異国船が出現後、出没は次第に増え1823年6月9日から12日にかけ同県那珂湊沖合へ国籍不明の異国船が何度も接近した。水戸城下は緊張し、かつ水戸藩側は海岸の防備を固めた。1824年5月28日イギリスの捕鯨船員がその船内にいた壊血病者へ新鮮な野菜と水をもとめ、茨城県北茨城市の大津浜に上陸した。これを大津浜事件という。この船員らは侵略目的ではなく、単なる休憩を求めたとわかったため江戸幕府へ通報のうえで彼らは船に帰された。しかしこの事件における外国人取り調べに筆談役として参加した弘道館所属の水戸学者・会沢正志斎は、江戸幕府がこのとき朝廷から与えられた征夷大将軍の職務を十分に果たさなかった事を深く慮った。会沢は当事件の翌年にあたる1825年、外国対応を専守防衛に統一する国家論の論文『新論』を茨城県で著した。また、1841年水戸弘道館の開館に併せて、烈公『弘道館記』とその解説として、水戸学者・藤田東湖による『弘道館述記』が発表された。この弘道館述記の中で幕末を導く理念になった尊王攘夷の語彙が日本史上に於ける意味合いで、初めて援用された。この語の出典起源は紀元前770年から紀元前403年頃、中国の春秋時代にいた中国大陸の諸侯が対外危機に際して周王朝を尊び、かつ斉の桓公を中心に会盟という同盟を結んで周王朝を擁護、それによって異民族の侵入を防いだ故事だった。烈公や東湖ら水戸学者は、江戸時代末期の対外危機を皇室を中心に統一国家を形成する事で乗り越えようとした為、この古典的字義を温故知新として彼らの豊富な漢籍の知識から引いて、当時の状況へ照らしその意味内容を換骨奪胎したのである[141][142]。また、これらの著作の大きな影響もあって茨城県内では尊王攘夷論が生じ、対外国危機意識と対外防衛戦争への緊張度が特別に高まった。尊王の王の文字は、水戸学者・藤田幽谷が1791年(寛政3年)に著した『正名論』に於ける大義名分論の立場から、皇に置き換えられて用いられる事もあった。会沢による『新論』発表と同じ年、江戸幕府は異国船打払令を発した。また、この著作は密かに諸藩へ回し読みされ、諸藩では尊王攘夷を主張する草莽の志士層が生じていった。
1853年マシュー・ペリー代将率いたアメリカ合衆国海軍、東インド艦隊蒸気船2隻を含む艦船4隻が、神奈川県の久里浜および浦賀沖へ来航した[143]。烈公は水戸藩領内で追鳥狩と呼んだ大規模な軍事教練を行い、国民皆兵策を打ち出し、さらに手に入れた西洋近代兵器の国産化を行った。1854年ペリー艦隊が再び日本に来航したとき、最新型の拳銃・コルトM1851を幕府へ贈呈した。烈公はコルトM1851を入手し、茨城県内で模倣し製造させた。この銃を携帯していた者が水戸藩士の中には複数いた事が分かっている[144]。1853年6月烈公は老中・阿部正弘の信任を受け、国防の指導役にあたる幕閣の海防参与となった。1854年烈公は『建議書』を幕府へ出し、日の丸を国旗にするよう建言した。烈公は水戸藩によって石川島造船所を江戸隅田川河口の石川島[145]へ作らせた。烈公は江戸幕府最初の洋式軍艦・旭日丸をこの造船所にて茨城県の侍と民らから造らせ、幕府の国防力を近代化しようとした。なお、この造船所は現代の重工業系のメーカー・IHIの起源である。烈公は旭日丸の進水を記念して次の和歌を詠んだ。
人皆の心も空も
晴れて 打 るは 出 の 艦 なりけり[146] 旭
1857年烈公は大型の金属溶解炉である那珂湊反射炉2基を水戸藩営大砲鋳造所として茨城県ひたちなか市に、茨城県の人々によって建設させた。ここで造られた大砲のうち75挺は江戸の町を守るため、江戸幕府が設けた台場へ送られた。

孝明天皇はかれの遠戚にあたる当時21歳の徳川慶喜(慶喜公)を次期将軍へ望んだが、江戸幕府の大老・井伊直弼はこれを否定し、第13代将軍徳川家定により血筋が近い当時12歳の徳川家茂を第14代将軍とした。井伊は当時の幕閣らの多くがそうだったよう、政治は幕府が独裁できるという大政委任論の立場を執った。かつ井伊は、対外防衛戦争を求める天皇の許可をとらずに、日米修好通商条約をはじめとする安政の五ヶ国条約へ幕府の役人らから調印させた。これらは今日の目からみても不平等条約であるが、既に同様の条約が清と欧米列強の間で結ばれ、清は実質的に殖民地化されていた。慶喜公を擁護した烈公ら一橋派は、これらの対応が天皇の意を軽んじるものであるとして、尊王攘夷論のもと、井伊の説得にあたった。しかし、井伊は逆に一橋派を政権から排除するため、永蟄居や隠居、謹慎などの処分を彼らへ与えた。将軍家に対外戦争を一任していた天皇は井伊にこれらの対応への釈明を求めたが、却って井伊から皇位を退くよう要請された[147]。しかも天皇を支持した皇族や公卿らも、井伊に命じられた幕府の役人により逮捕された。対して、烈公を支持した薩摩藩主・島津斉彬が謀り、薩摩藩士・西郷隆盛を通して皇室界隈へ入れ知恵をした為に、朝廷では廷臣八十八卿列参事件が生じた。そこで天皇は秘密裏に幕政改革と諸大名の団結を求める手紙『戊午の密勅』を、前水戸藩主・烈公と現水戸藩主・徳川慶篤(順公)へ送った。義公以来の尊皇哲学の伝統があった水戸藩側ではこの手紙を大事に奉ろうとしたが、井伊はこの手紙を天皇へ書かせたのは水戸藩士らと誤認し[148][149][150][151]、水戸藩への冤罪によって次々同藩士ら関係したと疑われる人達を死刑などにしていった。これは安政の大獄と呼ばれる。やがて水戸藩士は大義名分論に立つ保守派の諸生党と、尊皇攘夷論に立つ急進派の天狗党へ、与野党化されていった。ここから大政奉還が成るまで、水戸藩の与党は諸生党が担った。井伊は密勅を天皇へ返納させようと謀ったが、これを防ごうとした初期の尊攘急進派は3000人規模の長岡屯集を藩境であった茨城県東茨城郡茨城町に造って、水戸の藩庁から江戸へ向かう街道を封鎖した。そこに属した玉造組の頭で水戸藩郷士の芹沢鴨はこれを期に御所警護へ向かい、壬生浪士組及び新撰組の初代筆頭局長となった。また同じく長岡屯集に参加していた水戸藩士・香川敬三[152]も別個に御所警護へ向かい、大政奉還後に東山道鎮撫総督府大軍艦を務め、のち宮内官僚として伯爵となった。1860年(安政7年)1月15日、井伊は天皇の勅書を朝廷へ返納するよう、この日江戸城へ登った順公へ重ねて催促し、かつ、同年1月25日をその期限としてもしそれへ遅延したら天皇に逆らった罪を烈公へ着せ、水戸藩を改易すると述べた[a 33]。改易とは主を交代させることである。水戸で永蟄居中の烈公は勤皇の水戸家訓[126]に従い同家老・大場一真斎から、水戸城内の祖廟の元へ密勅を納めさせた[a 34]。更に安全な場所にとの同藩士からの陳情により、密勅は水戸から約23.56キロメートル北の茨城県常陸太田市瑞竜町、歴代同藩主の墓のある瑞龍山の廟へ移された[153]。安政7年3月3日(1860年3月24日)初期の尊攘急進派の一部であった17名は烈公らへの濡れ衣を晴らそうと水戸藩を脱藩し、薩摩藩士1名と共に江戸城近くの桜田門付近で桜田門外の変を起こし、井伊を暗殺した。このとき、水戸浪士・黒沢覚三は襲撃開始の合図にコルトM1851を使った。また、この変における襲撃者18名を桜田烈士や水戸義士などという。烈士の一人、佐野竹之介は辞世に次の歌を詠んだ。
敷島のにしきの旗をもちささげ
の 皇御軍 とせん 魁
なおこの際、薩摩藩主の父・島津久光は、水戸藩の尊攘急進派との間で結んだ義挙計画の共同作戦を隠蔽し、この事件を水戸藩の脱藩浪士による単独計画と濡れ衣する陰謀をとった。彼ら烈士の多くはその後、切腹し或いは自訴した。彼ら自訴組は過酷な取り調べを幕府役人から受けたが頑として烈公を庇い、幕府役人たちの手により死刑になった。またこの変への関係者らの多くも幕府役人の手により捕らえられ、拷問を含む過酷な取調べを受けた末に死刑となった[154]。なおこのとき、幕府の役人は進歩主義者も保守主義者も共に、幕政改革の支障となっていた井伊の死を歓迎したという[155][a 35]。桜田烈士の一人・山口辰之介を叔父にもつ水戸藩士・山口正定は、烈士連名の『斬奸趣意書』草稿を事変前に携行したり[a 36]、事変後も桜田烈士の一人・関鉄之介を匿ったり[a 37]等この変の下調べに働いた。正定は本圀寺勢と呼ばれる順公に侍った士の一員として戊辰戦争に天狗党側で出陣後、男爵となり、第2代茨城県知事(県令)となった。正定は明治天皇の側近として宮内官僚になり侍従長などを務め、天狗党出身の水戸士族・鈴木縫殿や武田金次郎と共に茨城県の権大参事にもなった。平成時代、『桜田門外ノ変』映画支援の会は茨城県水戸市で、変を題材にした映画『桜田門外ノ変』を撮影し2010年10月16日公開した[156](後述)。
桜田門外の変から6ヵ月後の1860年9月、水戸藩が腐敗幕府を破り長州藩が幕府改革を成す、という内容の成破の盟約が、水戸藩士・西丸帯刀らと長州藩士・木戸孝允らとの間で結ばれた。このとき彼らは差し迫った時局に対して、成(建設)と破(破壊)の問題が存在すると議論した。水戸藩の西丸は、長州藩がその2つの内どちらを選ぶかについて桂へ尋ねた。江戸幕府の体制に於いて外様大名の侍であった桂が破の方が難しいと思うと言った為、当体制で格式が上の御三家の侍であった西丸は「そう仰るなら、その難しい方を私たちに任せて下さい」と答え、且つ「貴方がたはその簡単な方を分担して下さい。大丈夫ですな」と念を押した[a 38]。

1861年5月イギリス公使ラザフォード・オールコックは長崎から江戸へ向かう旅の合間、江戸幕府が国防上の問題から海路移動を勧めたのにも関わらず、条約で定めた国内旅行権を強硬に主張し、陸路を執って江戸へ向かった。同年同月27日こうしてオールコックはイギリス公使館が置かれていた江戸の高輪、東禅寺へ入った。この外国人の行動に対し、茨城県の尊攘派志士は「神州日本が汚された」と憤慨した。1861年5月28日午後10時頃、水戸藩を脱藩した浪士・有賀半弥ら14名は、東禅寺のイギリス公使館内へ侵入、イギリス公使ラザフォード・オールコックらを襲撃した。これを東禅寺事件という。このとき外国奉行の配下で公使館警備に就いていた旗本や、郡山藩士・西尾藩士らが水戸浪士へ応戦した。公使館邸の内外で水戸浪士と戦闘が行われ、双方とも死傷者を出した。オールコックは逃亡し、イギリス書記官ローレンス・オリファントと長崎駐在の領事ジョージ・モリソンが負傷した。多数の同浪士は公使殺害に失敗したため現場を脱出した。他方、同浪士・有賀半弥と小堀寅吉、古川主馬之介の3名がその場で殺傷されたほか、同浪士・榊鉞三郎が現場で捕縛された。逃げた浪士も品川の旅館・虎屋で包囲され、同浪士・中村貞介と山崎信之介の2名が幕府役人に捕らわれる前にその場で切腹した。また、その場では同浪士・石井金四郎が捕えられた。同浪士・前木新八郎も逃げ切れずやがて切腹した。同浪士らはいずれも『襲撃趣意書』を携行していたが、そこにはこの事件を尊攘の大義のため実行した旨が記されていた。逃走した同浪士・黒沢五郎と高畑総次郎はその後に同浪士により起こされた、坂下門外の変へ参加しそこで闘死した。同浪士・岡見留次郎は西国へ向かい、天誅組の変に参加して尊攘の義を果たそうとしたが、敗走後捕えられ幕府の役人から斬首された。なお、オールコックは著書で「(江戸幕府の)警備兵は浪士と戦わなかった」と記している[157][158]。
大老・井伊直弼が桜田烈士により誅戮されてのち、残された幕閣を主導した磐城平藩主・安藤信正は井伊の妥協的な開国方針[155][a 39][159][160]を継承し、且つ皇族・和宮を第14代将軍・徳川家茂と政略結婚させようと計った。尊皇主義の水戸藩士は、この江戸幕府側による皇室への命令を、安藤による不敬行為すなわち君臣の分を弁えない越権、と捉え悲憤した。1862年2月13日江戸城の坂下門の外で、水戸藩を脱藩した尊攘派水戸浪士6人が安藤を襲撃し、負傷させた。この事件を坂下門外の変という。[161]

1864年5月2日茨城県の尊攘急進派62人の同志たちは茨城県の筑波山で挙兵し、義勇軍・天狗党を結成した。水戸藩士・藤田小四郎は水戸学者・藤田東湖の4男で、安政の大地震で死去した父の果たせなかった志を継ごうとする孝心に発し、この党派を創始した[a 40]。しかも、小四郎の祖父・藤田幽谷も彰考館総裁として『正名論』を残した水戸学者だっので、小四郎の孝心は先祖の遺訓を継ぐ行動となって現れた[a 41]。かつ、小四郎の脳裏には成破の盟約もあったと考えられている[a 42]。小四郎は23歳と若輩であった為、水戸の町奉行・田丸稲之衛門を説いて主将とした。その後、彼の志とこの義勇兵へ志願しに集った浪士や農民らが続々と各地から集結していき、数日後には150人、やがてこの武装集団は最盛期に約1400人という大軍へと膨れ上がった。1864年5月8日天狗党一行は江戸幕府の初代将軍・徳川家康を祀った日光東照宮で対外防衛戦争の成功祈願をするため、栃木県日光市へ 進んだ。その時の小四郎らは檄文に「こいねがわくは諸国忠憤の士、早く進退去就を決し、心をあわせて力を尽くし、上は天皇の朝廷に報い奉り、下は幕府の片 方の翼として飽くまで彼らを助け、日本国の威厳を万国へ輝かしたく、われらの素願はまったくこの事にあり」と記した。ここには、従軍の目的が天皇とそのも とにある幕府への忠義に基づいた、彼ら義勇兵による率先した護国防衛行動として、即ち、愛国心に基づいた国威発揚の行動原理として示されている。彼らは祖 国の防衛者として天皇を守り、幕府を助けるつもりで自主的に義勇兵を作ったのである。
詳細は「ウィキクウォート上の『天狗党檄文』」を参照
対して水戸弘道館に集った学生らは、単に尊皇攘夷の義のみに逸るのではなく、桜田門外の変の直後に薨去していた烈公や、現水戸藩主・順公の意思を立て、且つ将軍家の命令を待つ姿勢を見せた。彼らは天狗党側の逸る行動を批判する内容の存意書を、幕府へ建言した。
詳細は「ウィキクウォート上の『弘道館諸生の建言書』」を参照
彼ら水戸学に含まれた大義名分論を忘れなかった国許の水戸藩士らは弘道館に属していた学生すなわち
1866年8月20日慶喜公は徳川宗家を相続し、1866年12月5日江戸幕府第15代征夷大将軍となったのち、1867年10月14日大政奉還を示した。慶喜公はのち、日本の為に家康公が開いた幕府を日本の為に葬る任に当たるべし、と宗家相続の時点で覚悟を決めた、と語った[a 48][163]。同年12月25日、35歳の孝明天皇は崩御し、同年10月12日、16歳の明治天皇が即位した。その翌年である1868年1月3日(慶応3年12月9日)薩摩藩や岩倉具視らがクーデターを起こし、慶喜公の持つ徳川宗家の領地を薩摩藩始めクーデター軍が盗み取り、かつ彼の前将軍としての政治家の地位を簒奪する内容の文書『討幕の密勅』を作り上げた。これらの慶喜公への命令を辞官納地という。慶喜公はこのような西軍の暴政に反発した徳川親兵らによって御所近辺で起こるだろう混乱を避ける[a 49]と同時に、配下の激昂を和らげる為[a 50]、二条城から大坂城へ退いた。やがて天皇が慶喜公へ再び御所に来るよう命令したので、先駆けとして会津藩士と桑名藩士が御所へ向かった。会津・桑名両藩の兵士は薩摩藩らの包囲網に遭い[a 51]、やがて慶喜公方だった彦根藩主・井伊直憲が会津・桑名両藩の兵士へ発砲し戦争になった[a 52]。こうして1868年1月27日起きた鳥羽・伏見の戦いにおいて、慶喜公は皇軍への一貫した恭順を徳川宗家当主として、主張した[a 53]。慶喜公の意思を重んじた同年の江戸無血開城によって、江戸幕府は有終の美を示し幕を閉じた。慶喜公は、父である烈公から朝廷へ弓を引くなと諭されていたが[163]、これは水戸弘道館での教育を含め義公以来の水戸家の歴史哲学、即ち水戸学の理念に基づいた判断だったといえよう[164]。天狗党は慶喜公の助言により、順公のもとにいた水戸藩士・本圀寺党と合流し正式な藩屏へ復帰できた[165]。同時にこの頃、茨城県にいた諸生党は1868年3月水戸を出発し、西軍の侵略へ抗った奥羽越列藩同盟に加勢するべく同年6月21日新潟県の北越戦争や同年6月10日から11月6日福島県の会津戦争で婦女子を救済するなど、各地を転戦していた[166]。 同年、順公は天狗党ら藩屏を率いて藩状を治める為、諸生党出陣中で空いていた水戸城へ入った。しかし、会津戦争を終えてなお生き残る事のできた諸生党の 面々は、水戸藩の主導権を再奪還するべく茨城県の水戸市へ踵を返し弘道館に入った。こうして、水戸城と弘道館の間では交代した与野党のにらみ合いが続い た。1868年11月14日、500人から1000人あまりの諸生党[167]は、天狗党ら順公のもとの藩屏との間で弘道館戦争になったのち、数日後まで続けて転戦し、同年11月19日下総に及んだ松山戦争で壊滅した。ほぼ同時期の同年4月11日午前3時、慶喜公は江戸城や謹慎先だった江戸の寛永寺大慈院を去って、茨城県水戸市の弘道館の内にある至善堂へ篭り謹慎していたが、弘道館戦争に巻き込まれるのを避け同年7月23日徳川宗家が移された静岡県宝台院へ移って、再びそこで謹慎した。慶喜公は江戸城退去の約束の日から1日ずらして水戸へ隠棲にきていた。なお、弘道館戦争時の弾痕が弘道館の正門や正庁に残っており、至善堂も含め2014年5月現在これらの歴史遺産は、日本国の重要文化財に指定されている。元の藩校敷地は開発から残された部分が弘道館公園となっており、その建物の敷地部分は日本国の特別史跡にも指定されている。
1889年(明治22年)5月、旧幕府によって処刑された天狗党の411名は新政府から名誉回復措置がなされ、靖国神社へ合祀された。茨城県出身の水戸藩士のものは、靖国神社における幕末と明治維新に関した祭神4200柱のうち、1420柱と約3分の1を占めている。このような事実から、来るべき新時代の先鞭をつけたのは水戸藩であり、その後継にあたる茨城県であったといえる[a 54]。幕末と明治維新に際して戦死した茨城県出身者らの祭神1865柱が、水戸殉難志士ノ墓として回天神社と常磐共同墓地にある[168]。なお2014年現在の靖国神社・宮司は徳川康久だが、彼は慶喜公の9男で男爵・徳川誠のひ孫である[169]。
明治維新以前の茨城県については、「常陸国」、「下総国」もそれぞれ参照
明治・大正及び昭和前期略史[編集]
明治時代の初め、水戸藩を筆頭に14藩と県域外諸大名の飛び地、幕領・旗本領などが茨城県域には錯綜していた。1868年(慶応4年、明治元年)旧幕領と旗本領は幕府の解体により新政府の直轄地とされ、同年6月に三上藩士・粥川満明が常陸知県事へ、同年8月に肥後藩士・佐々府貞之丞が下総知県事へ任命され、おのおの常総の民政を担当した。翌1869年(明治2年)1月に下総知県事の管轄地が葛飾県、同年2月に常陸知県事の管轄地が若森県になった。こうした動きの中で、同年6月に版籍奉還が行われ、1871年(明治4年)7月の廃藩置県を経て、同年11月、現在の茨城県域は茨城県や新治県、印旛県のそれぞれ一部へ統合された。1875年(明治8年)5月に新治県が分割されそのうち常陸国分の6郡は茨城県と再合併し、同時に1873年(明治6年)印旛県と木更津県が合併してできた千葉県から概ね利根川以北に当たる区域が茨城県へ編入された。こうして、現在の茨城県域が成立した。
これらの慌しい県域統廃合の背景には、薩長土肥に代表される明治新政府の外来者に指図される事を好まない、大きな藩や雄藩らの誇りがあった。明治政府は難儀な上意下達に一計を案じ、慶喜公からの書状を敵陣を貫いて持って行った逸話のある剣豪・山岡鉄舟を茨城県の初代県知事(初代参事)へ任命した。しかし初代茨城県知事の山岡は当県へやってこないまま、1872年(明治5年)7月、肥前国(佐賀県)出身の渡辺清が山岡知事の代行(県令心得)として現地へ赴任した。この時、よそ者が水戸城に入るのは許し難いと考えた水戸の士族は、渡辺の赴任から5日目に自らその城へ放火、城郭を消失させた。1872年(明治5年)11月の『郵便報知新聞』には「(茨城県の士族は)新政府の命令を蔑視、かつ袴をはいて大小の刀を帯び詩歌を吟じていた」とあり、水戸城下の士気は水戸藩士らが大きな犠牲を払ったにもかかわらず、明治初期、依然として高いままであった[a 55]。この後、第2代茨城県知事は、桜田烈士の一人・山口辰之介を叔父にもち藤田東湖の妻を伯母にもつ旧水戸藩の士族・山口正定が受け継いだ。

最後の水戸藩主で第11代水戸徳川家当主・徳川昭武(節公)は幕末、最後の将軍である実兄・慶喜公の名代としてフランス皇帝ナポレオン3世やイギリス女王ヴィクトリア、オランダ王ウィレム3世、ベルギー王レオポルド2世、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世らへ謁見、フランス、イギリス、オランダ、スイス、ベルギー、イタリアなどヨーロッパ各国を歴訪していた。さらに、節公は明治新政府の一員となりフィラデルフィア万国博覧会の御用係としてアメリカ・フィラデルフィアへ趣いてのち、フランス・パリへ再留学した。また、彼は帰国後に麝香間祗候として明治天皇の宮内へ仕え、1884年(明治17年)7月7日、侯爵となった。節公は貴族院議員を勤め隠居後、千葉県松戸に邸宅を設けた[170]。かつ彼は義公によって造られていた茨城県高萩市(旧・多賀郡)にある大能牧場を常陸太田市里美村の天竜院地区へも拡張し、再興した[171]。節公の子・徳川武定は松戸徳川家として別家を持ち、子爵となった。順公の長男・徳川篤敬(定公)は、前藩主・節公の養嗣子として水戸家第12代の家督を相続し1884年(明治17年)侯爵、かつ宮内省・式部職次官、貴族院議員等となった[172]。
1873年(明治6年)明治天皇は義烈両公を祀る神社を創祀するとき、当社を別格官幣社に列した上で、常磐神社の社号を贈った。また、天皇は両公へ神階最高位となる正一位神号を与え、義公は
花ぐはし桜もあれど
やどのよゝみこゝろを我はとひけり[175] 此
のち、この際の様子は茨城県出身の日本画家・木村武山によって『徳川邸行幸』として描かれた(後述)。また、明治天皇御製碑と明治天皇行幸所の碑がこの邸宅跡には定公の子で水戸家第13代当主・徳川圀順(明公)により建てられた[176]。1906年(明治39年)勤皇の家訓を守った明公は完成した『大日本史』を天皇へ献上した。1929年(昭和4年)義烈両公を含む水戸家の勤皇功績が皇室より顕彰され、同家は華族として最高位の公爵へ
明治はじめ一般武士は士族身分とされ、家禄を支給されたがその額はわずか、生活は困窮を極めた。貧乏士族や士族の商法などの言葉が囁かれ、彼らの貧しさは社会問題化した。明治新政府は地租改正を断行、地租が全国一律で収益価格として地価の3%と定められた。この税は金銭で納めることとされ、近代的税法が実施されたが、付加税も加わって農民の負担は重く、各地に農民一揆が頻発した。自由民権運動も盛んとなって1884年栃木県の自由民権運動家・鯉沼九八郎が栃木県令・三島通庸らを暗殺する計画をたてた。九八郎はやがて爆弾製造中に誤爆、この策謀が政府に発覚した為、逃亡後、茨城県桜川市と同県石岡市との境にある加波山へ立てこもった。これを加波山事件という。彼ら一味は警察署や豪商へ襲撃を行って、茨城県古河市の中田にあった文武館を中心に、栃木県小山市や茨城県結城市で再起計画を繰り返した。加波山へ立てこもった16人はのち起訴され、7名が死刑判決、3名が無期懲役となった。事件関係者の富松正安ら4名は茨城県筑西市の妙西寺に葬られ、加波山事件志士の墓として同市の指定文化財、史跡となっている。[a 57][177]
坂下門外の変の翌年である1863年2月14日に、もと福井藩士の子として美術思想家・岡倉天心が横浜の商館に生まれた。天心は維新後、東京大学(旧・東京開成所)の学生としてアーネスト・フェノロサに師事し、日本美術を愛する心を育てた。文部省の図画取調係(現・東京藝術大学の一前身)に勤務していた天心は、1886年から1887年にかけ東京美術学校を設立するためフェノロサと共に欧米視察旅行を行った。天心は19世紀末のヨーロッパを旅行し、彫刻家・ロダンなどにも会ったが却って日本の伝統文化における優位性を再発見、かつ日本美術の卓越性を確信して意気揚々と帰国した[a 58]。1890年天心の尽力で無事創設された東京藝術大学(旧・東京美術学校)で3年にわたり『日本美術史』と題した有名な講義を行って、美術家の卵である学生らを鼓舞した。天心の指導を受けた者の中には、茨城県出身で旧・水戸藩士の父をもつ横山大観や、同じく同県出身で旧・笠間藩士の父を持つ木村武山、やはり同県北茨城市磯原町(旧・北中郷村)出身の飛田周山らもいた。天心は日本画を主眼にした伝統尊重の指導を行った。また、彼は男爵・九鬼隆一と親しかった。1898年(明治31年)東京藝術大学長の天心や横山たち日本画科の教授らは、薩長藩閥の一角でもある薩摩藩士の父を持った洋画家・黒田清輝の擁した西洋画科を残し、美術学校騒動によって一斉辞任した。この騒動は政府・同校に偏在した西洋化勢力の陰謀がひきがねだった。西洋化勢力は、明治新政府が九鬼を帝国博物館の館長から更迭するという噂を謀略に用い、九鬼留任とひきかえに同館の美術部長であった天心を犠牲に 仕立て更迭させようとした。彼を美術界の王座から追い落とそうとした執拗な陰謀勢力陣は、天心の伝統尊重方針が新政府の西洋化方針とそりが合わないとした 新政府の側に立つ官僚グループにも、洋画家グループにもいたが、この騒動を直接引き起こした原因となったのは同校の図案科教師・福地復一による学内での政治運動だった[a 59]。当時の九鬼は、天心と親密だった九鬼の妻・九鬼波津子を 巡ったいざこざについて、天心との関係が悪化していた。また、築地警醒会と名乗った正体不明の団体が、天心批判の怪文書を関係各方面へ送りつけていた、と いう状況背景もあった。結局、九鬼隆一はこの天心を犠牲に仕立てる西洋化勢力の運動を受け入れた。天心を庇うため日本画科教授ら24人は連名で文部省へ辞 表を出しすでに総辞職していたが、そのうち一部は、自ら当学長を辞めた天心が同教授陣へ留任運動を行った事もあって、当学内に留まった。彼ら留任を決めた 教授陣を軟派や準硬派などといい、一方、師である天心へ飽くまで侍った横山や木村、飛田ら茨城県出身者を含む教授陣を硬派という[178]。硬派は天心と共に、彼を指導者に仰ぐ日本美術院を東京谷中へ創設した。こうして彼らは日本美術の道を当学外で探求する事にした。このとき横山らは次の歌を詠んだ。
奇骨侠骨 なんのその 堂々男児は死んでもよい[a 60] 懲戒免官
横山や木村、飛田らは日本美術院第一回研究生となった。その後、飛田は静寂の地を求めた天心のため、彼の地元であった茨城県北茨城市へ天心を案内した。1903年北茨城の五浦海岸を好適地とみなした天心は、ここへ日本美術院の絵画部を移転させ日本美術院研究所とした。天心は北茨城のこの地を近代日本美術を栄えさせる場所にしようと、近代絵画発祥の地の一つ、ミレーやコローらが集まったフランスの芸術家村バルビゾンになぞらえ、東洋のバルビゾンと呼んだ。天心は横山や木村らを北茨城へ呼び寄せ、彼らに邸宅を設けさせ、且つ彼らへアトリエを供出した。1906年天心は日本美術院自体を北茨城へ移転した。そこに横山や木村のほか、同じく日本画家の菱田春草、下村観山ら
の家族も引っ越してきた。彼らは五浦の敷地内に設けられた天心邸を中心に、南の高台へ横山邸、北の高台へ木村邸と下村邸、北の高台の裾に菱田邸を造った。
日本美術院研究所と呼ばれた共同アトリエは、そこから更に北にある蛇頭岬の突端へ作られた。新しい日本画表現を北茨城で追求した横山や木村らは天心の指導
のもと、ぼかしを用いて空気感の表現も可能な
明治新政府や欧米列強が大陸進出を行い東アジアに侵略していく中で、上述のような大きな矛盾をそれら自称文明化の勢力に対して指摘しながら、イギリス帝国に植民地化されていたインド始めアジア人の側に深く共感し、彼らの独立決起を促した天心[a 62]は次のように記した。
Asia is one. -- The ideals of the east, with special reference to the art of Japan(1903)
訳文の一例:アジアは一つである。――『東洋の理想集、日本の芸術への特別招待と共に』、1903年
欧米列強や明治新政府から被害を受けてきた自らと同じアジア人の独立を励ます為のこの一句は、1902年(明治35年)頃、インドの革命青年らの間で合言葉のように伝えられていた。しかし、明治新政府が増徴した大日本帝国の側は天心自身を新政府から排除したのみならず、のち天心によるアジア人の独立解放運動を促したこの言葉をも濫用し、日本による大陸侵略正当化のイデオロギーへと断章取義で仕立てたのである[a 63]。1942年(昭和17年)この言葉を刻んだ亜細亜ハ一なりの石碑が、天心邸の敷地内に横山や細川家第16代当主・細川護立、資生堂社長・福原信三ら天心偉績顕彰会のメンバーによって建立され、今も北茨城市に残されている[179]。彼の著作は、西洋化に逸った明治新政府が仕切っていた日本国内を敢えて避け、イギリスのロンドンやアメリカのニューヨークで発表された。1906年(明治39年)5月の発表当時、彼の著作はアメリカの読書界で大きな反響を呼び話題になったため、瞬く間にフランス語やドイツ語へ訳され、Okakuraの名を全ヨーロッパへ轟かせた。他方で、天心の著作を知らなかったのはひとり日本だけだったかもしれない、と哲学者・三宅雪嶺が痛評している。The Book of Teaが日本語訳されたのは、1929年(昭和4年)になってからだった[a 64]。天心は1911年(明治44年)、アメリカのハーバード大学からマスター・オブ・アーツ(en:Master of Arts)即ち文学修士号を贈られた。彼は朝の3時か4時頃には起き出して、北茨城市の五浦にある彼の邸宅の目の前に広がった波濤へ向かい、釣りに出かけることもよくあった[a 65]。横山ら天心を師と仰ぐ美術院メンバーは五浦時代、清貧に甘んじた。漢の武帝の学友・子稜は宮仕えを嫌って、羊の皮衣をまとい釣三昧の余生を送ったが、天心は彼を模して道教の帽子を被り、毛皮のマントを肩に掛けて自らを五浦釣人と称した[181]。彼は海が荒れていないかぎり沖へ竜王丸を浮かべ、昼も夜もなく潮騒のなかで沈黙した海との対話をくりかえした[a 66]。ここへ学者や文人、記者らが方々から晴れやかに訪れ、またアメリカのハーバード大学で考古学を専攻していたラングドン・ウォーナーも北茨城へやってきて、天心邸で教えを受けた[a 67]。これ以後、ウォーナーは天心の薫陶を受け、日本美術を研究するようになった[179]。日立製作所がウォーナー胸像建設の計画を興し、1970年(昭和45年)3月寄付を受けたウォーナー博士功績顕彰会はウォーナー像を北茨城市の茨城大学五浦美術文化研究所内に建立した。1907年天心や横山らは各界のセレブリティや美術愛好家を招待し盛大な観月会を五浦海岸で催した。この時代、横山は魚が安く買える同市・大津港の隣に一家で住みながら、それを買う金もなく、餓死寸前だったと回想している[a 68]。1913年天心は亡くなったが、残った弟子らは弛まず日本画の研鑽を続け日本美術院、即ち今日の院展を再興し、のち横山は1937年(昭和12年)第一回文化勲章受章者となった。この間の1930年(昭和5年)、木村は明治天皇の水戸徳川邸への訪問を描いた『徳川邸行幸』(聖徳記念絵画館壁画)を残した。天心の墓は遺言により分骨され、五浦海岸の天心邸近くに残されている。1913年天心と親交していたインドの詩聖・ラビンドラナート・タゴールはアジア人初のノーベル文学賞を受賞してのち、1916年(大正5年)8月に北茨城を訪れ、天心の墓前で彼の思想が国境を越え多くの若者へ受け継がれていることを報告した。タゴールは六角堂にて瞑想し、天心と五浦の海にまつわる詩を作った。茨城大学を訪れるインド人研究者は必ず、北茨城市の五浦海岸とそこにある六角堂を訪れている[182][183]。1954年(昭和29年)横山はおなじく茨城県の筑西市出身で同学の陶芸家・板谷波山と共に名誉県民となった。1997年(平成9年)11月8日茨城県天心記念五浦美術館が天心や横山ら五浦に集った朦朧派作家達の業績を顕彰し、且つ彼らのものを含め優れた作品の数々を鑑賞させるため、北茨城市五浦町に同県により開館した。この美術館内には岡倉天心記念室が設けられ、竜王丸や天心邸の書斎はじめ天心ゆかりの品々が展示されており、また、横山や木村ら朦朧派作家らの作品も同館に収蔵されている。一般観覧可能な同研究所敷地内にある天心邸と長屋門は、日本国の登録有形文化財である。2011年(平成23年)3月11日北茨城市は東日本大震災で被災し、同地を襲った津波によって茨城県内で最大の死者数を出した。五浦海岸も同様に大津波へ襲われ、六角堂は海中へ流され消失、天心邸も地震と津波により一部破壊された。茨城県天心記念五浦美術館の管理課長・津久井稔は「地域のシンボルを失った」とコメントを出した。同年4月22日今上天皇皇后は北茨城市を慰問した。2012年(平成24年)1月21日「天心・六角堂復興パネル展」が水戸市千波町にあった桜田門外ノ変オープンロケセット展示館で始められた。2012年(平成24年)4月17日茨城大学を中心とした地元の有志は各地各国からの支援を受け六角堂を再建、天心が創始した東京芸術大学の第9代学長・宮田亮平も出席しこの起工式が行われた。同年10月この天心・六角堂復興プロジェクトが単なる六角堂復元に留まらず、建設時に天心の持っていた復興の精神まで汲み取ろうとした姿勢で被災者を力づけ、地域振興にも寄与した旨で同年のグッドデザイン賞を受賞した[183]。同地で撮影が企画されていた松村克也監督の映画『天心』は、茨城県復興支援映画を兼ねて地元人たちも協力のもと撮影が続けられ、天心生誕150年没後100年の2013年10月同県から先行公開された。この映画は順次全国及び世界へ回っている(後述)。なお、北茨城市内のマンホールは六角堂をそのデザインにしている[183]他、五浦に通じた同市の大津港駅は六角堂を模したデザインとなっており、且つ同市の磯原駅には六角堂をモチーフにした複数の意匠が施されている(後述)。
1882年(明治15年)5月29日、かつて成破の盟約を結んだ水戸藩士・西丸帯刀を祖父にもった詩人・野口雨情が茨城県北茨城市磯原町に生まれた。野口家は回船問屋を営んでいて、江戸時代は義烈両公も含めた水戸藩主らが休息所として野口家を利用していた。義公は海が見える野口邸を観海亭と名づけ、この邸宅は他に磯原御殿とも称された[a 69]。烈公が観海亭に遊んだ際に詠んだ
四のとき咲きて変わらぬ波の華ながめ徒せぬ磯原の里
との歌碑が、野口家の目の前の海岸に残されている。雨情は茨城県の北茨城市立精華小学校[185]と同市の豊田高等小学校(現・北茨城市立磯原中学校と茨城県立磯原郷英高等学校の前身)を卒業後、早稲田大学へ進学、文学者・坪内逍遥へ師事した。雨情は父の死により19歳のとき大学を退学し帰郷、苦しい家計のなか悶々とした日々を送った。雨情は先生の坪内へ指導を仰いだところ、坪内から突如の帰郷を心配されつつ「作詞を続けるなら
シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ 屋根まで飛んで こわれて消えた
シャボン玉飛ばそ
シャボン玉消えた 飛ばずに消えた 産まれてすぐに こわれて消えた
風 風 吹くな
1919年(大正8年)雨情は詩集『都会と田園』で詩壇へ現れ、雑誌『金の船』から童謡を次々と発表した。坪内の忠告通り「田園の詩人」「土の詩人」となった雨情の代表作は『シャボン玉』の他、『七つの子』『赤い靴』『雨降りお月さん』『証城寺の狸囃子』『十五夜お月さん』『青い眼の人形』『こがね虫』『あの町この町』『兎のダンス』『俵はごろごろ』『キューピー・ピーちゃん』『波浮の港』『船頭小唄』など枚挙に暇がない。雨情は新民謡や校歌も作詞し、日本三大童謡詩人の一人といわれた。1935年(昭和10年)頃、雨情は東洋に軍靴の音が響き始めたなか栃木県宇都宮市鶴田町へ疎開、家族で農業に励みながら詩作を少しずつ減らしていった。1945年(昭和20年)雨情は63歳で疎開先の宇都宮市の近郊にて死去した[190]。1966年(昭和41年)1月27日童謡『七つの子』の歌碑が雨情が出身した北茨城市立精華小学校に建立され[191]、 1967年(昭和42年)野口雨情生家は茨城県指定文化財になった。また、雨情が出身した北茨城市立精華小学校や茨城県立磯原郷英高等学校では、雨情の命日である1月28日前後の毎年、彼の死後50年以上にわたり学校行事・雨情を偲ぶ会を催して全校生徒が共に彼の作になる童謡を合唱し、清らかな童心を貴んだ雨情の遺徳を奉じている[192][193]。2002年(平成14年)11月2日、北茨城市立精華小学校は野口雨情生誕120周年記念精華祭を開いた[194]。また、野口雨情記念館が同町に造られた。磯原駅東口に作られた磯原からくり時計は、 雨情の童謡とそれにまつわる人形劇をからくり人形の芝居として、1日7回自動で演じている。この時計は天心の書斎・六角堂を模した姿でもあり、屋根のか かった六角の直方体の形をとっている。雨情の童謡『七つの子』が磯原駅発着メロディーに使われていたり、雨情の銅像が同駅構内にあったり、また、雨情の顕 彰プレートが同駅にあったりする。同駅は雨降りお月さんの灯篭や雨情の童謡プレートなど、雨情の童謡世界をイメージしたデザインが随所に施されている。同駅前は雨情の童謡世界をイメージした同市出身の彫刻家・蛭田二郎による雨情の世界 童心の銅像や、『船頭小唄』の歌詞碑をそれぞれ広場に設けている。雨情の童謡世界を描いたレリーフや舗装装飾が、同駅前のタイルや磯原町の通りにはめこまれている。
遠く朝日は海よりのぼり千里奥山夜が明ける
と彼の歌が記された雨情顕彰碑が、雨情生家近くの海岸にあり、同市の花園山・山頂付近、亀谷地湿原にも同様の歌が記された雨情の歌碑がある[195]。彼の名を冠した雨情の里牛や雨情の里スポーツ広場、雨情通りなど多数のものが同市には存在する。
松に松風 磯原は 磯の蔭にも波がうつ
との彼の民謡・磯原節を記した野口雨情磯原詩碑が、同市天妃山の近くの磯原海岸の荒磯の中に立っている。さらに、1960年(昭和35年)彼の童謡『通りゃんせ』を表現した通りゃんせ像が同町の
1817年(文化14年)茨城県牛久市の武家に生まれた木村安兵衛は、水戸藩の番役をしていたが、明治維新を受け失業した。安兵衛は木村家本家の木村重義を頼って江戸に出た。安兵衛は江戸に出て来たばかりとき、最後の将軍・慶喜公のお供でしばしば水戸藩に出かけていた旧幕臣・山岡鉄舟と、剣術を通じて出会った。重義は東京府の授産所所長だった為、安兵衛はここで事務職をした。授産所とは失業者に職業訓練をする公共施設である。このとき安兵衛は長崎でオランダ人宅のコックを務めた人物と出会った。また、安兵衛はパンをいうものを知った。やがて彼は日本初のパン屋の開業を思い立った。実際にパン屋としての仕事をしたのは、安兵衛の次男で当時18歳ほどの英三郎だった。1869年(明治2年)、安兵衛は妻・ぶんのわずかな蓄えを元手として、パン屋・文英堂を今の東京・新橋駅付近に出店した。この店の名前は妻と息子の名から一文字ずつとったものだった。ところが数ヵ月後、その店は火事で焼失した。翌1870年(明治3年)、木村一家は再起をかけ木村屋と名を代え、銀座に再出店した[197]。木村親子は日本人の口にあうパンを研究し、小豆餅を 生地に包んだ。それだけでは飽きたらず、彼らは飯を盛った皿を持って筑波山へ行き、ふさわしい場所として選んだ同山・中腹の岩陰へそれを置いた。彼らが2 時間ほど待つと、この皿は澄んだ空気中で自然に降ってきた酒種の酵母菌を受けとめた。こうして彼らは澄んだ空気の中から自然採取を試みた酒種酵母を使っ て、前述のようパンに小豆餅を包んで焼き上げた[198]。ここに今日でいうあんパンが発明された。1871年(明治4年)7月13日から1871年(明治4年)12月9日まで、山岡は初代茨城県知事になった。1874年(明 治7年)木村親子ができたあんパンを山岡に試食をさせると、木村一家の努力を暖かい目で見守ってきた山岡はその味の良さに感心した。山岡は木村親子へ「陛 下に召し上がっていただこう」と申し出た。その日から木村親子は天皇の為、特別なあんパンを差し上げようと更に試行錯誤を重ねた。1875年(明治8 年)4月4日、明治天皇皇后が東京の向島にあった旧・水戸藩の下屋敷、いわゆる水戸徳川邸を訪れ、花見をした(前述の木村武山・画『徳川邸行幸』の際)。このとき侍従をした山岡が、事前の段取り通り木村屋のあんパンを茶菓子として天皇皇后へ献げた。この特製あんパンは英三郎のアイデアでパン中央部に桜の花びらの塩漬けをあしらったものだったが、天皇はそのパンをとても気に入り、ことのほか皇后の口に合った。以後、この桜あんパンは皇室御用達となった[199]これらのゆえんで、天皇皇后が水戸徳川邸を訪問した4月4日があんパンの日となっている[a 70][200]。[201][202]
1889年(明治22年)2月11日明治憲法が発布され、同年4月、市町村制も施行された。茨城県はここに1市39町336村とされ、水戸市だ けが日本で最初のこの時に市制を執った。市町村長と議員が各地市町村で選挙権を与えられた一部住民により選挙された。この後の茨城県の発展は目覚ましかっ た。1876年(明治9年)の茨城県人口は85万7882人だったが、1970年(昭和45年)には214万3551人へ増加、市町村は18市74町村と なった。また、明治以降の交通の変化は著しく、嘗ての茨城県の面影を一変させた。1885年(明治18年)古河駅(旧・古河停車場)が大宮‐宇都宮間の鉄道敷設に伴ってつくられ、1889年(明治22年)水戸線が水戸‐小川を通った。更に1896年(明治29年)常磐線が水戸‐東京間を通り、翌1897年(明治30年)水戸‐平(いわき)間を通った。その後、鹿島参宮線や筑波線、常総線も開設された[a 71]。1896年義公以来の梅の開花を祝う行事・水戸の梅まつりが水戸‐上野間の観梅列車の運行に併せてはじまった。1963年観光大使・水戸の梅娘が梅まつりPRのため選出されるようになり、2001年水戸の梅大使と名称を代えてこの伝統は続けられている。
常磐炭田の採掘が近代産業の先駆けとして、江戸時代の後期から始められた。1905年(明治38年)、山口県出身の久原房之助が日立鉱山を茨城県日立市に開き、久原鉱業を始めた。1908年(明治41年)12月日立鉱山の工作課長だった栃木県出身の小平浪平はこの鉱山用の機械修理工場、即ち日立製作所を同市(旧・日立村大雄院)へ創業した。1910年(明治43年)小平は国産初の五馬力誘導電動機(5馬力モーター)を第一号製品として3台、この窓にガラスさえない小屋のような茨城県の工場で完成させた。のち2002年(平成14年)1月25日このモーターは茨城県指定有形文化財になった。日立製作所の第一号製品である5馬力モーターは、日立市の小平記念館に今も、日本産業の宝として展示されている。1920年(大正9年)小平は株式会社日立製作所を設立し、久原鉱業から完全独立した[a 72]。他に、日立鉱山は銅や硫化鉄鉱を産む山だったが、この地を母体にした財閥・日産コンツェルンが久原の義兄で山口県出身の鮎川義介の手で生まれた。今日でもその名を冠している日産自動車も第二次大戦前、この財閥の一部だった。工都・日立のシンボルだった大煙突[203]は煙害防止を激減させたが、これは日本初の上層気流の調査を踏まえた繋留法により造られ、高さ155.7メートル、建設当時世界一の高さだった。大煙突は1993年(平成5年)に倒壊、翌年修復され高さが54メートルとなったが、JX日鉱日石金属日立事業所の設備として今も稼動している。また、大煙突の先端部(外直径8.17メートル、内径7.77メートル)を再現した円形ベンチと、日立鉱山にまつわる同市民の煙害克服の歴史を物語る、東京芸術大学学長を務めた彫刻家・宮田亮平制作になる2枚のレリーフ作品が、JR日立駅の中央口駅前に設置されている。日立鉱山の創業から80年目にあたる1985年(昭和60年)、日鉱記念館がかつての日立鉱山の中心地だった本山に建設された。日立鉱山やそこから発展していった日産コンツェルンと日立製作所の歴史、また、日鉱グループの事業などが当記念館では展示されている。1965年(昭和40年)日立鉱山で働く労働者の憩いの場だった共楽館は廃止となり、以後、日立市へ寄贈され日立市武道館となった。1999年(平成11年)この建物は日本国の登録有形文化財となった。1911年(明治44年)完成した石岡第一発電所は、日本に現存する最古の鉄筋コンクリート造建築物の一つである事に加え、日本の近代産業史に大きな役割を担った日立鉱山の代表的施設である事も評価され、2008年(平成20年)日本国の重要文化財へ指定された。また1913年(大正2年)日立鉱山で使用する電気をまかなうため建設された石岡第二発電所は2006年(平成18年)同じく登録有形文化財になった。さらに日立鉱山は、鉱工業都市・日立の発展と共に京浜地区へ近い特性を生かして重工業発展に金属供給源として貢献した事が日本政府から評価され、2007年(平成19年)経済産業省が認定した、近代化産業遺産群33中の「京浜工業地帯の重工業化と地域の経済発展を支えた常磐地域の鉱工業の歩みを物語る近代化産業遺産群」に選定されている。

激しい煙害の為、日立鉱山付近の山林は完全な禿山となっていたが、同鉱山は植林事業によって煙害に強いオオシマザクラを茨城県日立市内へ大量に植えた。同鉱山は土砂崩壊防止のためヤシャブシ植樹も試み、同鉱山の所有林のみではなく国有林や、煙害を受けた山林所有者へも無償で苗木を配布した。日立市は昭和時代の初期に単一の植物を植えて大虫害が発生したため、多種の植物をバランスよく植える等の工夫を重ねた。やがてソメイヨシノが学校や社宅の近隣へ植えられ、日立市各地に桜が植えられるようになった。こうして日立市は桜の名所として有名になり、現在、桜が同市の花とされている[204]。茨城県道293号日立停車場線、通称平和通りは、満開の桜のトンネルの下を開花期に車に乗ったまま通ることのできる名所として、日本さくら名所100選の一つに選ばれている。また、日立さくらまつりが毎年4月第2土曜日と日曜日に同市で開催されている他、観光大使日立さくらメイツが毎年選出されている。
1918年(大正7年)、イギリスとフランス、イタリア、アメリカ、日本の各国はその前年のロシア革命に対してシベリアへ向け兵隊を送った。これをシベリア出兵という。同年5月にアメリカは日本に共同出兵を提案し、日本はこれに応え連合国と約束した1万2000人よりはるかに多い7万2000人の大軍を送り込み反革命勢力を支援した。一方、ソビエト連邦の政府が反革命勢力を鎮圧できたので、各国が撤兵するなか、日本のみシベリア居留民保護を理由に沿海州の各都市を占領していた。この時、アムール川の河口に近い尼港で尼港事件が起きたが、そこにあった日本領事館へ駐屯していたのが茨城県の水戸から派兵されていた陸軍第十四師団第二連隊すなわち水戸第二連隊の336名と、海軍無線電信隊の43名だった。1920年(大正9年)前半、水戸第二連隊の約10倍の数であるロシア革命勢力の非正規軍・パルチザン約 4000人が尼港を包囲し攻撃した。日本側は間宮海峡が凍結していて援軍を送れず、5月に入ってようやく救援隊が到着した頃には、孤立したなか数度のパル チザンとの苦戦を経た水戸第二連隊は捕虜となっていた。パルチザンは日本の援軍到着を知って投獄されていた捕虜をことごとく惨殺し、非協力的な当地の市民 をも虐殺した上で、尼港市街に火を放って逃亡した。この事件が報道されると、日本国内ではソビエトへの怨嗟の声が湧き起こり、かつ大日本帝国政府は新聞を 用いて同国民の反ソ連感情をあおった。こうして当政府はシベリア出兵にあたっての失政をごまかし、水戸出身の犠牲者らの戦死を戦意高揚のプロパガンダに利 用した[a 73]。犠牲者を弔う尼港殉難記念碑が水戸第二連隊の出身地である茨城県水戸市堀原に建設されている。
戦時中の1939年(昭和14年)から、空へ憧れる若者が茨城県稲敷郡の阿見町にあった日本海軍予科練習生の訓練施設・霞ヶ浦海軍航空隊へ殺到し、全国各地の予科練航空隊のルーツといえる土浦海軍航空隊の指揮のもと1940年(昭和15年)11月に霞ヶ浦海軍航空隊予科練習部が独立した。戦闘機の搭乗員は体力や適性、高度な学識を要請された。厳しい訓練を経てここから出身した特攻隊員らは敢闘精神の強さゆえ、終戦までに1万9098人が皇国の義に殉死した。昭和17年公開の映画『ハワイ・マレー沖海戦』や、昭和18年公開の西条八十作詞になる主題歌・『若鷲の歌』と共に映画『決戦の大空へ』の大ヒットなど、当予科練を中心に据えた映画の影響で舞台となった土浦は、予科練の代名詞として知られるようになった[a 74]。茨城県稲敷郡の阿見町にある阿見町予科練平和記念館は彼ら予科練志願兵の青春群像を紹介し、戦時の記憶と命の尊さ、平和への認識を後世へ伝えている。
1944年(昭和19年)11月から1945年(昭和20年)4月の間、風船爆弾の発射基地が福島県いわき市の勿来や千葉県一宮町と共に、茨城県北茨城市の大津町へ大日本帝国軍により置かれた。ふ号作戦と 呼ばれた極秘部隊の大本営直属司令部は大津に置かれ、1500名の隊員がここで働いていた。『大日本史』にも使われた茨城県製の伝統和紙・西ノ内和紙を用 いコンニャクのりで作られた直系10メートルの気球が、当地から約9000個放流され、350個前後がアメリカ本土へ到達した。これらはアメリカ・ワシントン州リッチランドにあったプルトニウム製造用・ハンフォード工場の送電線へ引っかかり、短い停電を引き起こし3日のあいだ原子爆弾の製造を遅らせたという説やそれは影響がなかったという説もあり、また、アメリカ本土で小規模の山火事を起こした。1945年5月5日、アメリカ・オレゴン州のブライで当風船の不発弾に触れたピクニック中の民間人6人、女性1人と子供5人が爆死したが、これが太平洋戦争中にアメリカ国内で日本側の攻撃によりアメリカ人が死亡した唯一の例となった[a 75][205]。同時に、日本人3名が風船製作中の事故により大津で殉死した。アメリカ・ワシントンのスミソニアン博物館博物館は、不発で落下した当風船の気球部分を1つ、保管している。当風船の気圧計や、気球下部にあたる爆弾部分の実物は、同地の国立航空宇宙博物館に展示されている[206]。2014年現在、平成10年6月建立された風船爆弾犠牲者 鎮魂碑がこの風船放流地跡である大津町にあるほか、風船爆弾放流地跡わすれじ平和の碑が同町に建てられている。それは次のように結ばれている。
しかし戦争はむなしく はかないものです もう二度とくり返さないように努めましょう
この地で爆発事故のため 風船爆弾攻撃の日に 3人が戦死したことも銘記すべきでしょう
昭和59年11月25日建之
永遠の歴史の片隅で人目を偲び いぶし銀のようにささやかに光る夢の跡です
略年表[編集]
- 1868年(慶応4年、明治元年)
- 1869年(明治2年)
- 1870年(明治3年)
- 1871年(明治4年)
- 1872年(明治5年)
- 1月29日 - 弘道館裏に県庁開設。
- 1873年(明治6年)
- 1875年(明治8年)
- 1876年(明治9年)
- 1878年(明治11年) - 郡区町村編制法により茨城郡を東茨城郡、西茨城郡に分割、茨城県管下の葛飾郡を西葛飾郡、相馬郡を北相馬郡と改称。県下18郡となる。
- 1888年(明治21年) - 県内人口が100万人を突破。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 市制・町村制施行、水戸市が発足。
- 1896年(明治29年)4月1日 - 郡制施行。信太郡と河内郡が合併して稲敷郡となり、豊田郡および岡田郡が結城郡と、西葛飾郡が猿島郡と合併して県下14郡となる。
- 1899年(明治32年)4月1日 - 千葉県香取郡の一部(利根川および横利根川以北)を稲敷郡に編入。現茨城県の県域がほぼ確定する。
- 1939年(昭和14年)9月1日 - 日立市市制施行。
- 1940年(昭和15年)11月3日 - 土浦市市制施行。
昭和後期略史[編集]
第13代水戸徳川家当主・徳川圀順(明公)は尊皇攘夷を是とした水戸徳川当主として、原爆投下及び第二次世界大戦敗戦時に貴族院議長を務め、天皇を守護し奉った。明公の貴族院議長期間は昭和19年(1944年)10月11日から昭和21年(1946年)6月19日迄であり、正式なポツダム宣言受諾まで継続された。これ以後の昭和21年(1946年)6月19日、当院議長の座は徳川宗家へ引き渡され、当院が廃止された。今も、水戸家当主は初代水戸藩主・徳川頼房から直系で第14代徳川圀斉、第15代徳川斉正、第16代徳川斉礼と続いている[a 76]。
昭和天皇は人間宣言後の全国巡遊の際、1946年昭和21年11月18日から19日にかけ茨城県を訪れ、茨城県庁舎の屋上(旧茨城県庁舎であった三の丸庁舎の屋上)から水戸市街をみわたした[209]。1945年(昭和20年)8月2日アメリカ軍は無差別爆撃・水戸空襲を当地へ行っていた。このため同市内の死者数は300人を超え、国宝・水戸東照宮や、水戸城御三階櫓などの文化財をはじめ市街のほぼ全域が焼失、水戸の町は壊滅的状態になっていた。1947年(昭和21年)昭和天皇は宮中行事である歌会始で、戦後最初の御製を次のように詠んだ。
たのもしくよはあけそめぬ水戸の町うつつちのおともたかくきこえて[210]

1964年(昭和39年)9月30日正仁親王は節公を曽祖父にもつ津軽華子と婚姻した。彼らは、かつて親王が親王任国である常陸国司の長・常陸守へ遙任した伝統に習って、常陸宮と昭和天皇らの皇室により名づけられた。これは戦後初の宮家創設だった。2014年3月19日常陸宮宮妃は茨城の復興支援の為になれば、という気持ちから東京都美術館で行われた映画『天心』上映会へ訪れ、その映画作品を鑑賞した[211]。
1967年(昭和42年)2月23日明公は水戸家に伝わった文化遺産の散逸を防ぎ、かつ水戸学の精神を普及させ公益へ役立てるため財団法人水府明徳会を設立した。また、1974年彼は義公以来の伝統を継ぎ、水戸学の始まりだった彰考館の名を冠した彰考館徳川博物館を茨城県水戸市へ建設した。私立図書館・彰考館文庫が『大日本史』編纂資料を含み、事前予約制の学者向け施設としてこの敷地内に明公により置かれた。
1985年(昭和60年)3月17日から同年9月16日までの184日間をかけ国際科学技術博覧会(通称・つくば万博)が茨城県つくば市で開かれた。この国際博覧会は、「人間・居住・環境と科学技術」を主題として今上天皇を名誉総裁に据え、水戸藩が発祥のIHI社長などを歴任した土光敏夫会長のもと、日本を含む48国と37の国際機関が参加した。この万博の第二会場はのち再開発されつくばエキスポセンターとなり、メイン会場跡地は筑波西部工業団地へ転用され、Dブロック跡地に科学万博記念公園がつくられた。他、ソビエト連邦館は、筑波研究学園専門学校の2号館校舎である科学万博記念館へ転用された。芙蓉ロボットシアターのロボットの一部は、同市のショッピングセンターiiasつくば内に設けられたロボットミュージアムであるサイバーダインスタジオへ展示されている。テーマ館のWASUBOTは、同市つくばエキスポセンター内の科学万博‐つくば’85メモリアルコーナーへ展示されている
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筑波研究学園専門学校2号館(旧・国際科学技術博覧会ソ連館)
略年表[編集]
- 1947年(昭和22年) - 初の県知事選挙。人口200万人突破。
- 1949年(昭和24年) - 茨城大学発足。
- 1950年(昭和25年) - 古河市市制施行(8月1日)。
- 1954年(昭和29年) - 石岡市(2月11日)、下館市、結城市(以上3月15日)、龍ケ崎市(3月20日)、那珂湊市(3月31日)、下妻市(6月1日)、水海道市(7月10日)、常陸太田市(7月15日)、勝田市(11月1日)、高萩市(11月23日)市制施行。横山大観と板谷波山が名誉県民に。
- 1956年(昭和31年) - 北茨城市市制施行(3月31日)。
- 1958年(昭和33年) - 笠間市市制施行(8月1日)。
- 1965年(昭和40年) - 日本原子力発電公社東海発電所、試験発電成功。
- 1969年(昭和44年) - 筑波研究学園都市起工。
- 1970年(昭和45年) - 国鉄(現JR東日本)鹿島線(香取駅-鹿島神宮駅間)が開業(8月20日)。取手市市制施行(10月1日)。
- 1971年(昭和46年) - 大規模ニュータウン常総ニュータウン起工。
- 1972年(昭和47年) - 岩井市市制施行(4月1日)。
- 1973年(昭和48年) - 筑波大学発足。
- 1974年(昭和49年) - 茨城国体・第10回全国身体障害者スポーツ大会開催。
- 1976年(昭和51年) - 第27回全国植樹祭開催。
- 1977年(昭和52年) - 常磐自動車道、大規模ニュータウン竜ヶ崎ニュータウン起工。
- 1981年(昭和56年) - 県内初の高速道路である、常磐自動車道柏IC〜谷田部ICが開通。
- 1985年(昭和60年) - 国際科学技術博覧会(通称:科学万博)開催。
- 1986年(昭和61年) - 牛久市市制施行(6月1日)。エミリア・ロマーニャ州(イタリア)とエソンヌ県(フランス)と、国際友好州県を提携する。
- 1987年(昭和62年) - つくば市市制施行(11月30日)。東関東自動車道佐原香取IC(千葉県)〜潮来IC(茨城県)の県内初区間開通。
- 1988年(昭和63年) - 常磐自動車道県内区間が全通。第8回全国豊かな海づくり大会開催。
平成略史[編集]
茨城県水戸市の佐川一信市長は水戸芸術館を市制100周年記念施設として構想した。彼は文化による町興しを意図し、同市年間予算の1%を芸術館の活動資金にする制度を、日本で初めて市政へ導入した。1990年(平成2年)3月22日水戸芸術館は建設費103億5584万円をかけ、美術館・コンサートホール・劇場からなる現代芸術の複合施設として同市に完成した。この芸術館は、彫刻家ブランクーシの作品にインスパイアされた建築家・磯崎新設計になる塔が特徴的であり、水戸市のあちこちから見渡せるため同市のランドマークともなっている。[212]
日立製作所は1918年(大正7年)日立工場など主力工場や関連企業群を創業の地に残しながら本社を東京へ移転していたが、のち日本最大の総合電機メーカーへ成長、2011年(平成21年)米国フォーチュン誌のフォーチュン・グローバル500売上高ランキングでは世界第40位だった(後述)。2010年(平成22年)創業100周年の日立製作所はエレベータ研究塔として世界一の高さである213.5メートルのG1TOWERを茨城県ひたちなか市に建設した。G1とはグローバルナンバーワンをめざす決意を込めてつけられた名で、既に当地の日立製作所・水戸事業所内にあった旧塔はG1TOWER完成後も引き続き活用され、新旧合わせて地域のシンボルタワーとして社会に貢献する方針が日立から示された[213]。2011年(平成23年)このタワーは第24回茨城建築文化賞県知事賞を受賞した。なお、世界最初のエレベーターは1842年(天保13年)烈公が建築主となって造った好文亭の内にある為、茨城県内に既存している[214]。
2010年8月1日今上天皇皇后は茨城県つくば市の筑波宇宙センターを訪れ、小惑星探査機はやぶさのカプセルを視察した。[215]
2010年(平成22年)10月16日同県民主体の『桜田門外ノ変』映画支援の会は、茨城県によるバックアップのもと水戸藩開藩四百年記念と銘打ち、同県民発の映画『桜田門外ノ変』[216]を公開した。彼らは茨城県の地域振興と郷土愛を目的に、時代劇として当映画を造った[217]。茨城県水戸市は、それに併せて桜田門外を再現した総工費2億5千万円の巨大な桜田門外ノ変オープンロケセットを同市の千波湖湖畔に建設した[218]。記念展示館もそこに付属された。このセットは当初1年間公開の予定だったがその時期が延長され、3年間に約31万人が訪れた末、2013年(平成25年)3月31日を以て閉館となり取り壊された。また、この映画製作に関わった茨城県民を描いたスピンオフ作品『桜田門内の変!?』が、映画『桜田門外ノ変』にも出演した水戸市出身の俳優・渡辺裕之を監督として作られ、2012年(平成24年)6月公開された。
2011年(平成23年)3月11日茨城県は東日本大震災で被災し、同県各地で甚大な被害を出した。同県北茨城市は同地を襲った津波によって同県内で最大の死者数を出した。同年4月22日今上天皇皇后は同市を慰問した。東日本大震災で失われた岡倉天心ゆかりの六角堂や天心邸を復興する天心・六角堂復興プロジェクトの展示、「天心・六角堂復興パネル展」が2012年(平成24年)1月21日前述の映画『桜田門外ノ変』ロケセット内の記念展示館で始められた。同市五浦海岸にあった六角堂は津波で浚われ、土台を残し海中へ流出していたが、2012年(平成24年)4月17日茨城大学を中心とした地元の有志は各地からの支援を受け六角堂を再建した。同年10月この天心・六角堂復興プロジェクトが被災者を勇気付け地域復興のシンボルとなった由で同年度のグッドデザイン賞を受賞した[219]。同地で撮影が企画されていた松村克也監督による映画『天心』は、地元の協力のもと茨城県復興支援映画を兼ねた。この映画は撮影が続けられ完成、天心生誕150年没後100年の2013年10月同県から先行公開され、順次全国及び世界へ回っている。2014年3月19日この映画は、茨城の復興の為になればとの気持ちで東京都美術館における上映会を訪れた常陸宮宮妃にも鑑賞された[211]。
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東日本大震災で被災し、六角堂を失った五浦海岸
1956年(昭和31年)建築家・妹島和世は茨城県日立市に生まれ、やがて茨城県立水戸第一高等学校を卒業した。その後、彼女はプリツカー賞や日本建築学会賞を得て、フランス・ルーヴル美術館別館であるルーヴル・ランス等を協働した建築家・西沢立衛と共に設計した。彼女は個人において故郷の日立駅舎も設計し、2011年(平成23年)4月7日同駅は改築された。[220]
略年表[編集]
- 1993年(平成5年) - 森田茂が名誉県民に。
- 1994年(平成6年) - ひたちなか市市制施行(勝田市と那珂湊市が合併、11月1日)。北関東自動車道、首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス(当時の常磐新線)起工。
- 1995年(平成7年) - 鹿嶋市市制施行(9月1日)。第6回世界湖沼会議が霞ヶ浦沿岸地域で開催される。
- 1997年(平成9年) - 人口300万人突破(北部で減少、南部で増加)。
- 1998年(平成10年) - 第7回全国知的障害者スポーツ大会開催。
- 1999年(平成11年) - 現在の茨城県庁舎竣工。総工費は約800億円で、都道府県庁舎としては、東京都、群馬県に次いで全国第3位。高さは116mで、県内最高の高層ビルに。東海村JCO臨界事故が発生(9月30日)。
- 2000年(平成12年) - 北関東自動車道 友部JCT~水戸南ICが北関東自動車道で初めて開通(3月18日)。
- 2001年(平成13年) - 潮来市市制施行(4月1日)。カシマサッカースタジアムがリニューアルオープン。
- 2002年(平成14年) - 守谷市市制施行(2月2日)。2002 FIFAワールドカップ、2002年茨城総体開催。
- 2003年(平成15年) - 首都圏中央連絡自動車道つくばJCT〜つくば牛久ICの県内初区間が開通。
- 2004年(平成16年) - 常陸大宮市市制施行(10月16日)。
- 2005年(平成17年) - 那珂市(1月21日)、坂東市(岩井市ほか1町が合併)、稲敷市(以上3月22日)、筑西市(下館市ほか3町が合併)、かすみがうら市(以上3月28日)、神栖市(8月1日)、行方市(9月2日)、桜川市(10月1日)、鉾田市(10月11日)市制施行。首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス開業。第56回全国植樹祭開催。
- 2006年(平成18年) - 水海道市が1町を編入して常総市と改称(1月1日)。小美玉市、つくばみらい市(以上3月27日)市制施行。2004年から続いた平成の大合併が全て施行され、32市10町2村に再編される。第18回全国生涯学習フェスティバルまなびピアいばらき2006開催。
- 2007年(平成19年) - ご当地ナンバーの「つくばナンバー」が県南のつくばエクスプレス沿線3市・県西の10市町村の計13市町で導入される。首都圏中央連絡自動車道つくば牛久IC〜阿見東IC開通(3月10日)。第20回全国健康福祉祭茨城大会ねんりんピック茨城2007開催。
- 2008年(平成20年) - 第23回国民文化祭・いばらき2008開催。北関東自動車道栃木県の真岡IC〜桜川筑西IC開通(県内区間が全通、12月20日)。 日立港、常陸那珂港、大洗港を茨城港として統合(12月25日)。
- 2009年(平成21年) - 首都圏中央連絡自動車道阿見東IC〜稲敷IC開通(3月21日)。 第47回技能五輪全国大会・第31回全国障害者技能競技大会・いばらき大会2009開催。
- 2010年(平成22年) - 東関東自動車道茨城町JCT〜茨城空港北IC開通(3月6日)。小美玉市に茨城空港が開港(3月11日)。首都圏中央連絡自動車道つくばJCT〜つくば中央IC開通(4月24日)。
- 2011年(平成23年) - 県内全域で東日本大震災の被害に遭う(3月11日)。県北地域と水戸市を含むエリアが茨城県北ジオパークとして認定される(9月5日)。
- 2014年 (平成26年) - 第38回全国高等学校総合文化祭、いばらき総文2014開催。日本全国から高校生が集結する日本の文化祭典が開催される。
人口・面積[編集]
1920年(大正9年)茨城県の人口は135万人と、首都圏で東京府(現在の東京都)に次ぐ人口だった。それ以後、茨城県の人口は緩やかに増加傾向が続き、1950年(昭和25年)に204万人、1999年(平成11年)に300万人となって以降は緩やかに減少傾向にある。また、当県2014年現在の人口は政令指定都市を持たない県で最大である。
2008年(平成20年)度における茨城県の合計特殊出生率は1.37人と全国平均の1.37人と同じである。当県の総人口はつくばエクスプレス沿線の開発が進む南部で増加が著しく、平野部のひたちなか市や那珂市、東海村を除き山間部が多い北部で減少が著しい。当県の全人口の3分の1は東京通勤圏に位置する南部へ集中している。当県の北部や西部などは定住者への奨励金交付を定住化促進制度によって図るなど、人口減少を食い止める施策を行なっている。
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茨城県と全国の年齢別人口分布(2005年) | 茨城県の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 茨城県
■緑色 ― 日本全国 |
■青色 ― 男性
■赤色 ― 女性 |
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茨城県(に該当する地域)の人口の推移
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総務省統計局 国勢調査より |
茨城県の市町村の人口、面積、人口密度(2014年5月1日) | ||||||
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市町村 | 人口 | 面積 | 人口密度 | |||
1 | 水戸市 | 270,785人 | 217.43km² | 1,245人/km² | ||
2 | 日立市 | 186,070人 | 225.55km² | 825人/km² | ||
3 | 土浦市 | 142,003人 | 122.99km² | 1,155人/km² | ||
4 | 古河市 | 141,278人 | 123.58km² | 1,143人/km² | ||
5 | 石岡市 | 76,793人 | 215.62km² | 356人/km² | ||
6 | 結城市 | 51,605人 | 65.84km² | 784人/km² | ||
7 | 龍ケ崎市 | 78,995人 | 78.20km² | 1,010人/km² | ||
8 | 下妻市 | 43,576人 | 80.88km² | 539人/km² | ||
9 | 常総市 | 63,111人 | 123.52km² | 511人/km² | ||
10 | 常陸太田市 | 53,163人 | 372.01km² | 143人/km² | ||
11 | 高萩市 | 29,550人 | 193.65km² | 153人/km² | ||
12 | 北茨城市 | 44,418人 | 186.55km² | 238人/km² | ||
13 | 笠間市 | 77,381人 | 240.27km² | 322人/km² | ||
14 | 取手市 | 107,041人 | 69.96km² | 1,530人/km² | ||
15 | 牛久市 | 83,756人 | 58.88km² | 1,422人/km² | ||
16 | つくば市 | 220,093人 | 284.07km² | 775人/km² | ||
17 | ひたちなか市 | 156,480人 | 99.07km² | 1,579人/km² | ||
18 | 鹿嶋市 | 66,720人 | 106.09km² | 629人/km² | ||
19 | 潮来市 | 29,346人 | 71.41km² | 411人/km² | ||
20 | 守谷市 | 63,951人 | 35.63km² | 1,795人/km² | ||
21 | 常陸大宮市 | 43,161人 | 348.38km² | 124人/km² | ||
22 | 那珂市 | 53,783人 | 97.80km² | 550人/km² | ||
23 | 筑西市 | 105,136人 | 205.35km² | 512人/km² | ||
24 | 坂東市 | 54,941人 | 123.18km² | 446人/km² | ||
25 | 稲敷市 | 44,066人 | 205.78km² | 214人/km² | ||
26 | かすみがうら市 | 42,263人 | 156.61km² | 270人/km² | ||
27 | 桜川市 | 43,329人 | 179.78km² | 241人/km² | ||
28 | 神栖市 | 94,090人 | 147.26km² | 639人/km² | ||
29 | 行方市 | 35,601人 | 222.38km² | 160人/km² | ||
30 | 鉾田市 | 48,033人 | 208.18km² | 231人/km² | ||
31 | つくばみらい市 | 47,242人 | 79.14km² | 597人/km² | ||
32 | 小美玉市 | 51,406人 | 145.03km² | 354人/km² | ||
33 | 茨城町 | 33,283人 | 121.64km² | 274人/km² | ||
34 | 大洗町 | 17,179人 | 23.19km² | 741人/km² | ||
35 | 城里町 | 20,402人 | 161.73km² | 126人/km² | ||
36 | 東海村 | 37,846人 | 37.48km² | 1,010人/km² | ||
37 | 大子町 | 18,536人 | 325.78km² | 57人/km² | ||
38 | 美浦村 | 16,261人 | 66.57km² | 244人/km² | ||
39 | 阿見町 | 47,839人 | 71.39km² | 670人/km² | ||
40 | 河内町 | 9,386人 | 44.32km² | 212人/km² | ||
41 | 八千代町 | 22,331人 | 59.10km² | 378人/km² | ||
42 | 五霞町 | 8,990人 | 23.09km² | 389人/km² | ||
43 | 境町 | 24,876人 | 46.58km² | 534人/km² | ||
44 | 利根町 | 16,774人 | 24.90km² | 674人/km² |
政治・行政[編集]
行政府[編集]

知事[編集]
詳細は「茨城県知事一覧」を参照
財政[編集]
平成19年度[編集]
- 財政力指数 0.64
- Iグループ(財政力指数0.5以上、1.0未満)17自治体中6位
平成18年度[編集]
- 財政力指数 0.60
- Iグループ(財政力指数0.5以上、1.0未満)16自治体中7位
平成17年度[編集]
- 財政力指数 0.55
- Iグループ(財政力指数0.5以上、1.0未満)10自治体中7位
平成16年度[編集]
- 財政力指数 0.53
- Iグループ(財政力指数0.5以上、1.0未満)8自治体中7位
姉妹提携都市[編集]
立法府[編集]
県議会[編集]
会派名 | 人数 |
---|---|
自由民主党 | 47、公認36 |
民主党 | 6 |
公明党 | 4 |
自民県政クラブ | 3 |
日本共産党 | 2 |
無所属 | 1 |
欠員 | 2 |
茨城県議会議員選挙は、統一地方選挙では実施されない数少ない都県の一つ(他は東京都と沖縄県)である。これは1966年(昭和41年)、県議会議長ポストをめぐって汚職事件が発生したため同年12月21日に茨城県議会が解散したことによる。
茨城県議会は保守王国や自民王国と言われるほど、自民党が長年に渡り県議会の圧倒的多数を占めている[221]。しかし、2006年12月10日に投票が行なわれた県議選で は、自民党候補の一部が落選(水戸市選挙区・土浦市選挙区)、民主党候補が水戸市選挙区・土浦市選挙区などで初の議席を獲得し日立市・水戸市両選挙区で トップ当選した上、共産党候補(つくば市選挙区)が1000票余の票を上乗せして再当選、つくば市選挙区で公明党候補がトップ当選したなど票の動向に少し 変化が起きた。
詳細は「茨城県議会」を参照
国会議員[編集]
衆議院[編集]
茨城県内にある衆議院選挙区が選出した国会議員は次の通り。
- 茨城県第1区 - 田所嘉徳(自由民主党)
- 茨城県第2区 - 額賀福志郎(自由民主党)
- 茨城県第3区 - 葉梨康弘(自由民主党)
- 茨城県第4区 - 梶山弘志(自由民主党)
- 茨城県第5区 - 大畠章宏(民主党)
- 茨城県第6区 - 丹羽雄哉(自由民主党)
- 茨城県第7区 - 中村喜四郎(改革クラブ)
参議院[編集]
茨城県内にある参議院選挙区が選出した国会議員は次の通り。
茨城県は投票率が国政選挙・県政選挙ともに全体として低い傾向を持ち、参議院議員通常選挙をとってみると、第16回参院選(36.62%)・第17回参院選(36.94%)・第18回参院選(50.99%)・第19回参院選(50.18%)・第20回参院選(50.07%)と、選挙区別の投票率が他都道府県と比べ3回連続全国第47位(最下位)や第46位となっている。この他、県知事選挙の投票率は1997年9月14日が31.87%、2001年9月16日が29.93%だった。投票率は衆議院議員総選挙でも年々下がり続け50%台で推移、県議選も2002年は40%台まで落ち込んだ。
茨城県選挙管理委員会は投票率を向上させる施策を県民から公募し、銀行やコンビニATMに投票を呼びかける案などを実行したりしているが、そこに特に大きな変化は見られない。第21回参院選の投票率は、数々のキャンペーン――選挙区の投票率ぴったり当てると当県特産品のメロンや常陸牛がもらえたり、県内の中学生からメッセージを募集しラジオCMで流したりする――を行ったにも関わらず、全国第46位であった。
一方、2014年5月の時点で茨城県における戦後の総知事数は全国最少であり[222]且つ現知事・橋本徹の現役在任期間は全国最長、2013年(平成25年)10月実施の茨城県政世論調査によれば当県民の過半数である約8割(77.1%)は今の生活に満足しており、しかもその割合は年々少しずつ増えている[223]。茨城県民の声はこの世論調査において2009年(平成21年)度から2013年(平成25年)まで継続的に、今の暮らし向きの変化について「変わらない」の割合が増え、「少し苦しくなった」の割合が減っている[39]。なお、茨城県域は1869年版籍奉還以前、水戸徳川家による一族支配が267年間余り続いていた。
司法府[編集]
警察[編集]
茨城県警と当県庁を取り違えた情報提供者へ当県警・県庁側は次のような対応をした。2008年茨城県筑西市・北つくば農業協同組合の 元監事が実名を明かし、ある農協幹部による不正融資を訴える書を茨城県庁の県知事へ宛て送った。当県庁の農業経済課・担当者は秘書課を通じて受け取った知 事からの指導命令書の内にあった個人情報のコピーを、農協側へ渡した。農業経済課の掛札徹課長はこの件について、元監事へ謝罪した。茨城県警は、ある農協 幹部の不正融資に関するこの元監事による県知事あての情報提供を、刑事事件として受理していない。元監事によるある農協幹部についての情報提供は茨城県警 宛てではなく、県庁の県知事宛になっていた為、茨城県警はこの情報提供について刑事訴訟法に基づいた処理を行わなかった。[224]
自衛隊[編集]
茨城県小美玉市にある百里基地は、首都防空の要ともいわれる。これは、埼玉県の入間基地は埼玉地域からの申し立てによりダイバートを除くアフターバーナー装備飛行機の運用が不可能な事から、茨城県の百里基地が航空自衛隊にとって離島を除き戦闘機の運用可能な首都圏で唯一の基地だからである。また、当基地は各国の首脳を招いた各種の行事も多数実施している。なお、当基地は茨城空港として民間共用化されている(後述)。
50音順で茨城県内の自衛隊基地を次に挙げる。
- 航空自衛隊
- 陸上自衛隊
- 第1師団
-
百里基地航空祭2007における偵察航空隊のRF-4
経済・産業[編集]
農業[編集]
茨城県は『常陸国風土記』に常世の国と謳われ、律令国で大国と分類されたように、日本屈指の農業地帯である。2012年茨城県の農業産出額は4281億円であった。また、1975年~1993年・2008年~2013年に至るまで茨城県の農業産出額は本州一でありつづけ、これは北海道に次ぎ常に全国第2位[13]、日本国の農業産出額の約5%を占めてきた[225]。単に朝廷の編纂した古代の地誌にそう記されてきたのみならず公的統計に見られる通り少なくとも23年間以上、茨城県の生産農業所得は本州一かつ、北海道に次ぎ全国第2位であり続けてきた事からも、茨城県とは古代から現代に至るまで名実共に日本最大の農業県[226]であるといえよう。当県は、農業・水産王国とも言われている[a 77]。1998年から2011年に至るまで茨城県のカロリーベース食糧自給率は約70%で[227]、これはイギリス一国のカロリーベース食糧自給率を少し上回る位である[228]。なお、日本国全体の食糧自給率は39%と主要先進国の中で特筆して低い[228]。また、茨城県の生産額ベース食糧自給率は、1998年から2011年に至るまでほぼ120%から130%の間で推移しており、首都圏一である[227]。2004年度の市町村別農業産出額が首都圏一なのは茨城県鉾田市の525億円で、第2位の千葉県旭市が403億円、群馬県前橋市が319億円だった[229]。
平成21年(2009年)茨城県は主要農産物・畜産物の品目別産出額、水産物漁獲量において、メロン、レンコン、くり、鶏卵、みつば、ピーマン、うなぎ、あゆ、が日本一。コシヒカリ、はくさい、レタス、マイワシ、しらうお、わかさぎが全国第2位。豚、かぼちゃ、しじみが全国第3位。[30]
平成23年(2011年)茨城県は主要農産物・畜産物の品目別産出額、平成24年度水産物漁獲量において、メロン、レンコン、くり、鶏卵、みつば、ピーマン、ほしいも、みず菜、チンゲンサイ、芝、切り枝、マイワシ、エビ類(淡水)、コイ(養殖)、サバ類が日本一。はくさい、レタス、かんしょ(サツマイモ)、ナシ、ごぼう、落花生、豚、あゆ、はぜ類が全国第2位。かぼちゃ、ねぎ、にら、スイートコーン、らっきょう、パセリ、しそ、そらまめ、カリフラワー、こんにゃくいも、しらうお(淡水)が全国第3位。[13]
- 日本一(2011年度の品目別産出額、2012年度の漁獲量)
- 全国第2位(2011年度の品目別産出額、2012年度の漁獲量)
- 全国第3位(2011年度の品目別産出額、2012年度の漁獲量)
平成16年(2004年)から平成25年(2013年)まで、東京都中央卸売市場における茨城県産の青果物シェア(金額)は10年連続日本一でありつづけた。[13]
平成25年(2013年)7月15日茨城県は耕地面積割合において、28.4%と日本一である[13]。他方で、県土の大半が農地のため森林率では31%と大阪府に次いで全国で2番目に低い[230]。
穀物
茨城県の水稲は約78200ヘクタールに作付けされ、当県の農業産出額のうち約22パーセントを占める主力作物である。[231]
茨城県は関東一の米どころで2011年の生産量は39万3千トン、関東第2位の栃木県は35万トンだった[232]。また、食料品消費モニター調査結果によると、茨城県は人々の米購入先に決めている産地として、第1位の新潟県、第2位の秋田県、第3位の北海道に次ぎ、全国第4位に山形県と共に選ばれている[233]。
大子産米(大子米)は2013年(平成25年)お米コンテストで日本一になったほか、第15回米・食味分析鑑定コンクール国際大会にて金賞、第3回大阪府民のいっちゃんうまい米コンテストにて総合最優秀賞、第1回東京粋なごはんグランプリにて優秀賞などを連覇した。
関東の米蔵である茨城県産のコシヒカリは食味ランキングで特Aとされている。[234]
茨城県オリジナル品種の米・ゆめひたちは当県育成の第一号水稲品種で、1997年(平成9年)当県の奨励品種になった。[231]
また、茨城県は陸稲栽培が盛んであり、県北部を中心に2007年(平成19年)度に2760ヘクタールが作付されている。茨城県の生物工学研究所・普通作育種研究室は陸稲生産を安定化するため、早生や多収、良食味を目標に新品種を開発した。このなかで2005年(平成17年)陸稲・ひたちはたもち(陸稲農林糯61号)が早生の品種として、茨城県オリジナルで育成された。[231]
10年をかけて交配や選抜を進めた茨城県オリジナル酒造好適米であるひたち錦は、2001年(平成13年)当県の奨励品種となった。[231]
なお、ミルキークイーンは1985年茨城県つくば市にある農業・食品産業技術総合研究機構の稲育種法研究室で研究がはじまり、1998年水稲農林332号として品種登録された茨城県生まれの米である。茨城県におけるミルキークイーンの2008年(平成20年)度の生産量は4990トンで、県内水稲合計に占める作付比率は1.2%だった[235]。
キヌヒカリは1988年(昭和63年)茨城県の奨励品種に指定された。[234]
常陸秋そばは1978年茨城県農業研究所が常陸太田市・赤土地区の在来ソバ種から改良した品種で、品質日本一と呼ばれ全国へ出荷されている。このソバは茨城県の奨励品種である[234]。特に常陸秋そばの発祥地である常陸太田市金砂郷町の品種はブランド化され金砂郷そばとして商標登録されている[236]。
北条米はつくば市のつくば山麓で生成された特別栽培米で、昭和時代初期に皇室献上品だった。関連する筑波北条米は第4291267号、筑波北条米丸北(北 の文字を丸印で囲んだ「マル北」の印)は第4633770号、小田北条米は第5104597号で商標登録されている。北条米の流通価格は、一般的なコシヒ カリより5kgあたり500円以上高い高級品である。なお、この米を使ったオリジナル製品も茨城県つくば市の北条のみで製造されている(後述)。[237]
サツマイモの茨城県オリジナル品種・ベニアズマフリー系88は作物が清浄である状態をさすウイルスフリーのサツマイモ種として開発され、2007年(平成19年)普及された。[231]
奥久慈茶は 日本国の最北限で採れる茶であり、約400年の伝統を持ち、古くから非常に有名でかつては保内茶と呼ばれていた。この起源には複数の説があり、15世紀半 ばに茨城県大子町の文珠院僧侶・常庵が宇治から持ち帰ったとも、大子の近隣にある雲巌寺の僧侶が広めたともいわれ、或いは16世紀の終わり頃、茨城県龍ヶ崎市の佐貫町にある西福寺の宥明や慶松、常庵らが茶の実を宇治から持ち帰ったといわれてきた。これらとは別に確証的な起源は、1601年同市佐貫町の石附兵次らの努力と水戸藩の奨励により、広く栽培されるようになった事である[a 78]。奥久慈茶は、手もみと いう昔ながらの伝統技法を用いて作られる。大子町茶手揉保存会に属している生産者・藤田良が平成14年の第10回全国手もみ茶品評会で日本一である農林水 産大臣賞受賞を得て、同生産者小室栄寿が平成19年度の第15回全国手もみ茶品評会で日本一である農林水産大臣賞受賞を得た他、同生産者の見越政広と清水 善重、小室栄寿らが平成15年の全国手もみ茶技術競技大会で最優秀賞受賞を得たなど数多く、日本一の栄冠に輝いてきた。特に藤田良と小室栄寿は、全国名人 の称号を与えられている[238]。
さしま茶は13世紀初頭から、茨城県猿島郡付近 での空っ風と呼ばれる冬から春先にかけて吹く北西風から作物を守り、土壌浸食を防ぐため畑の境界に茶葉を植えたのが始まりである。さしま茶の産地はペリー の浦賀来航を機に、下田のアメリカ領事館へさしま茶の宣伝を行った結果、1859年(安政6年)開国後に初めて海外輸出を行なった地となった[239]。
古内茶は1390年頃から、八溝山の鶏足山塊の丘陵で栽培され始め、長い歴史の末、今では首都圏一円へおよそ20の工場からこの茶が出荷され非常に強い人気を保持している[a 79]。第2代水戸藩主・徳川光圀(義公)へこの茶を献上したところ、義公がその美味しさに感動の余り詩を詠んだという伝承が伝わっており、そのときに初音と名乗らせた樹が現在も茨城県東茨城郡の城里町にある清音寺の境内に残っている[240]。
野菜
農林水産省が2012年(平成24年)11月に発表した平成23年産野菜生産出荷統計によると、レンコンの日本全国4万8200トンの出荷量のうち、茨城県の出荷量は2万3900トンで日本一であり全国の出荷量の50%を占めている。第2位の徳島県が5530トンで第3位の愛知県が3300トンと、茨城県は単独で桁違いの出荷量を持っている[a 80]。この他、茨城県が日本一の出荷量を持つミズナやチンゲンサイ、ピーマン、メロンの うち、ミズナのシェアは全国4万2200トンの出荷量のうち茨城は1万1000トンと4分の1を占め第2位の福岡は3960トンで茨城は桁違いに生産量が 多い。また、チンゲンサイは全国4万2200トンのうち茨城は1万1000トンとその4分の1を占め、第2位の静岡は7610トンに留まっている。ピーマ ンは全国12万2400トンのうち茨城は3万2400トンとトップシェアを占め、第2位の宮崎は2万4400トンである。メロンは全国16万3100トン のうち、茨城は4万500トンであり、第2位の熊本が2万6600トン、第3位の北海道が2万5400トンと茨城県の生産量は段違いに多い[a 81]。
- レンコン(土浦市ほか)[234]
- ミズナ
- カボチャ(稲敷市ほか)[234]
- キュウリ(常総市ほか)[234]
- コンニャク(大子町)[234]
- サツマイモ(鉾田市、行方市。後述)[234]
- セリ(行方市)[234]
- 奥久慈茶(大子町)
- さしま茶(古河市・坂東市・常総市・境町・八千代町など、県南西部)
- 古内茶(県北西部)
- 茶(大子町ほか)[234]
- トマト(鉾田市ほか)[234]
- ニラ(小美玉市ほか)[234]
- ニンジン(鉾田市、茨城町)[234]
- ネギ(坂東市ほか)[234]
- ハクサイ(八千代町ほか)[234]
- ピーマン(神栖市)[234]
- ホウレンソウ(境町ほか)[234]
- マッシュルーム(美浦村、稲敷市)[234]
- みつば(鉾田市ほか)[234]
- 落花生(牛久市ほか)[234]
- エシャレット[241](行方市)[234]
- レタス(坂東市ほか)[234]
畜産物
2012年(平成24年)日本の鶏卵(たまご)生産量は250万6768トンだったが、うち茨城県の生産量は19万7234トンで日本全体の7.9%を占め日本一だった。なお、茨城県は2010年(平成22年)から続けて日本一の生産量である。[a 82]
茨城県北の山間地で育てられる奥久慈軍鶏は日本三大地鳥の一つで、1988年(昭和63年)3月25日全国鶏肉消費促進協議会が主催した全国特殊鶏(地鶏)味品評会で、日本一を獲得した。奥久慈軍鶏は2011年の比内地鶏54万6000羽や名古屋コーチン90万3000羽と比べても、4万8500羽と、希少な銘柄となっている[242]。[a 83]
雨情の里牛は茨城県北茨城市にある牧場で育てられた牛で、同市出身の詩人・野口雨情に因んだ名前が冠されている。ほか、常陸牛は茨城県の古名・常陸国に由来し、当県におけるオリジナル高品質牛である。
ローズポークは茨城県オリジナル品種の厳しい条件によるブランド豚で、肉の色が淡いピンクのバラのような色をしており、かつ県の花・バラに因み輝かしい未来が開かれる事を望んで命名された。この豚は1979年(昭和54年)に系統豚第1号に認定された[243]。
- 奥久慈軍鶏(県北山間地域)[234]
- 鶏卵(県内全域)[234]
- 雨情の里牛(県北山間地域)
- 常陸牛(県内全域)[234]
- ローズポーク(県内全域。茨城県に因んでバラの名を冠されたオリジナル銘柄)[234]
- 梅山豚(猿島郡、塚原牧場)
果実
茨城県オリジナル品種のメロン・イバラキングは日本一の生産量を誇る茨城メロンの王様として、茨城の顔になって欲しい、という願いを込めて命名された[231]。上述のよう、茨城県のメロン生産量は日本一である[a 84]。
茨城県オリジナル品種のいちご・いばらキッスは2010年(平成22年)2月に品種登録出願を行ない、同年4月22日に出願公表された(出願番号24622)。おなじく茨城県オリジナル品種のいちごひたち姫は「とちおとめ」を母親に、収量性に優れ甘さに特徴がある「章姫」を父親にして交雑を行ない、形状が整った美しい形で糖度が高く甘みを感じられる品種として生まれ、2005年(平成17年)「ひたち姫」と命名し品種登録を出願した。 [231]
茨城県のクリの収穫量は日本一である。2011年度、茨城県の収穫量は4970トンだったがこれは日本全国の収穫量の約26%だっ た。2010年の収穫量において全国第2位は熊本県で、2360トンだった(後述・2011年度の日本国内のクリ収穫量)。2012年(平成24年)度の 同量は全国で1万5300トン、うち茨城は日本一の4130トン、第2位の熊本は3130トンだった[a 85]。なお、世界的に見ると2011年度の日本のクリ生産量は第7位である(後述・2009~2011年度の国別年間クリ生産量)。
茨城県は、ナシの銘柄・豊水の収穫量が日本一、和なしと幸水の収穫量は千葉県に次ぎ全国第2位である。[244]
- イバラキング
- いばらキッス
- ひたち姫
- メロン(鉾田市ほか)[234]
- ナシ(かすみがうら市ほか)[234]
- クリ(かすみがうら市ほか)[234]
- こだますいか(筑西市、桜川市)[234]
- 大玉すいか(牛久市、阿見町)[234]
- イチゴ(鉾田市ほか)[234]
- ブドウ(常陸太田市ほか)[234]
- リンゴ(大子町ほか)
林産物
その他の農産物
茨城県つくば市の芝作付け面積は日本一であり、新品種の開発も盛んである。[247]
水産業[編集]

うなぎ屋が軒を連ねたうなぎ街道が茨城県龍ヶ崎市牛久沼の東、国道6号線沿いにあるが、茨城県人の大久保今助が江戸時代中期の1830年から1844年頃、牛久沼の渡し舟に乗る際、蒲焼を御飯に急いで載せた事がうな丼の発祥とされている[a 87]。
茨城の冬といえばアンコウといわれるが、この魚は江戸時代には朝廷への水戸藩からの献上品であった。また、アンコウ鍋は今日でも北茨城市や大洗町、水戸市の代表的料理である。アンコウの水揚げ量では山口県の方が多いが、味は茨城県の方が上とされその取引価格も高い。山口県で同様に水揚げ量が多いフグと対比させ、茨城県で獲れる常磐物のアンコウは「西のフグに東のアンコウ」ともいう。[a 88]
茨城県は汀線ハマグリの最大産地である。また、茨城県の鹿島灘において、有名な貝塚は大串貝塚である。縄文時代から鹿島灘一帯がハマグリを含め貝の名産地だったことは、『常陸国風土記』那賀郡条に次のような記述で見られる。
平津駅家の西へ1、2里のところに、大櫛という名の岡がある。昔、大男がいて、岡の上に立ったまま手をのばし海辺の砂浜の大蛤をほじって食べた。その貝殻が積もって岡となった。大きくくじったことから、大櫛の岡の名がついた。
1943年(昭和18年)大串貝塚の発掘調査では、ヤマトシジミ、マシジミ、ハマグリ、アサリ、カキ、アワビ、サザエなど、淡水産と海産の貝が共に混在して見つかった事から、古代より鹿島灘は各種の貝類が豊富だったと分かっている[248]。
養殖ウナギの原料、即ち養殖ウナギの稚魚となるシラスウナギの漁獲高は、1997年(平成9年)度から2012年(平成24年度)までの平均漁獲高において茨城県が日本一である。[249][30]
天然アユは全国で2557トン捕れるが、このうち、茨城県は日本一の産地で395トンの捕獲量がある。[a 89]
エビ類は全国で428トン獲れるが、このうち、茨城県は258トン収穫でき日本一の漁業生産量である。第2位の収穫量の北海道は41トンと、茨城県の収穫量は他都道府県を大きく引き離している。[a 90]
養殖コイは全国で2964トン殖やされているが、茨城県は日本一の養殖地で968トンの養殖高、第2位の福島県は679トンである。[a 91]
農業・漁業王国[a 92]としての茨城県は他にも、沖合いで親潮と黒潮がぶつかる好漁場である為にマイワシ、カタクチイワシ、サバ、サンマ、カツオ等々実に様々な魚が水揚げされている[a 93]。
- うなぎ
- 天然アユ
- アンコウ(北茨城市、日立市)[234]
- シジミ(茨城町、神栖市)[234]
- 鹿島灘はまぐり(鹿島灘)[234]
- ヒラメ(常磐沖全県)[234]
- カツオ(ひたちなか市)[234]
- ワカサギ(霞ヶ浦(西浦、北浦))[234]
- エビ(常磐沖全県)
- コイ(霞ヶ浦)
- シラス(大洗町、北茨城市)[250]
- コウナゴ(北茨城市)[250]
- アブラボウズ(北茨城市)[250]
- アナゴ(北茨城市)[250]
- アイナメ(北茨城市)[250]
- アカシタビラメ(北茨城市)[250]
- アカガレイ(北茨城市)[250]
- アカエイ(北茨城市)[250]
- イシガレイ(北茨城市)[250]
- ウスメバル(北茨城市)[250]
- ウマヅラハギ(北茨城市)[250]
- エゾイソアイナメ(北茨城市)[250]
- カガミダイ(北茨城市)[250]
- カタクチイワシ(北茨城市)[250]
- カナガシラ(北茨城市)[250]
- キツネメバル(北茨城市)[250]
- クロダイ(北茨城市)[250]
- コノシロ(北茨城市)[250]
- コモンカスベ(北茨城市)[250]
- コモンフグ(北茨城市)[250]
- サメガレイ(北茨城市)[250]
- サヨリ(北茨城市)[250]
- シイラ(北茨城市)[250]
- ショウサイフグ(北茨城市)[250]
- シラウオ(北茨城市)[250]
- イシモチ(北茨城市)[250]
- シロメバル(北茨城市)[250]
- スケトウダラ(北茨城市)[250]
- スズキ(北茨城市)[250]
- ソウハチ(北茨城市)[250]
- チダイ(北茨城市)[250]
- トラフグ(北茨城市)[250]
- ニギス(北茨城市)[250]
- ニベ(北茨城市)[250]
- ノレソレ(北茨城市)[250]
- ババガレイ(北茨城市)[250]
- バラメヌケ(北茨城市)[250]
- ヒガンフグ(北茨城市)[250]
- ヒラメ(北茨城市)[250]
- ヒレグロ(北茨城市)[250]
- ブリ(北茨城市)[250]
- ホウボウ(北茨城市)[250]
- マアジ(北茨城市)[250]
- マガレイ(北茨城市)[250]
- マコガレイ(北茨城市)[250]
- マサバ(北茨城市)[250]
- マダイ(北茨城市)[250]
- マダラ(北茨城市)[250]
- マトウダイ(北茨城市)[250]
- マフグ(北茨城市)[250]
- ミギガレイ(北茨城市)[250]
- ムシガレイ(北茨城市)[250]
- メジマグロ(北茨城市)[250]
- ヤナギムシガレイ(北茨城市)[250]
- ユメカサゴ(北茨城市)[250]
- オオクチイシナギ(北茨城市)[250]
- メジマグロ(北茨城市)[250]
- イセエビ(北茨城市)[250]
- シャコ(北茨城市)[250]
- ジンドウイカ(北茨城市)[250]
- スルメイカ(北茨城市)[250]
- ツノナシオキアミ(北茨城市)[250]
- ヒメコウイカ(北茨城市)[250]
- マダコ(北茨城市)[250]
- ミズダコ(北茨城市)[250]
- ヤナギダコ(北茨城市)[250]
- ヤリイカ(北茨城市)[250]
- イワガキ(北茨城市)[250]
- エゾアワビ(北茨城市)[250]
- キタムラサキウニ(北茨城市)[250]
- シライトマキバイ(北茨城市)[250]
- マナマコ(北茨城市)[250]
- ワカメ(北茨城市)[250]
長年有名な霞ヶ浦の養殖鯉は、2003年10月国際的に流行したKHV[251]の日本到来によって養殖が休業状態になっていた。5年後の2009年4月、茨城県は養殖自粛要請をKHVに耐性を持つコイの育成技術が開発された事から解除し、養殖は再開された[252]。安全を第一として当県は養殖鯉を生きた状態で霞ヶ浦と北浦流域以外へ移動する事を、防疫上禁じた。当県がKHV発生時に鯉の処分命令を下した業者数は58、再開後には30業者しか復活できなかった為、いけすの数は約半分に減った[253]。かすみがうら市の養殖業者には「鯉養殖は人生そのもの」と20年以上も鯉養殖を続けていた者もいた[254]。
茨城県の農林水産業は、2010年3月11日の東日本大震災という自然災害に伴った世界最大の公害・福島第一原子力発電所事故により、東京に本社のある東京電力株式会社が引き起こした人災被害を、偏に甚だしく受けた。同年4月22日、今上天皇皇后は茨城県の北茨城市を慰問し、津波で大きな被害を受けた同市の大津漁港で2度に渡り黙礼、当時、犠牲者が行方不明になっておりのち亡くなった太平洋と、津波で死者が出た同漁港の住宅に向け頭を下げた。同日、天皇皇后は地震・津波により避難民が集まっていた北茨城市民体育館を慰問してのち、同県知事・橋本昌や同市長・豊田稔らと同市役所にて同市の大津漁港・平潟漁港を含む地元で前日に水揚げされたカレイ、ヒラメ、アナゴなどの魚料理を囲みながら、会食した。天皇は同事故での風評被害を心配しながら「(国民や関係者も)しっかりとした知識に基づいて行動して欲しいですね」と述べ[255]、「コウナゴは入っているんですか」と当県の応対者に尋ねた。事故当時、同漁港で水揚げされた旬の時期のコウナゴから暫定基準値を上回る放射性物質が検出され出漁を自粛していたが[256]、天皇は「頑張って復興してください」と当県の漁業関係者に声をかけた[257]。2014年6月5日、同市は魚を傷つけないまま1時間で約900匹の魚介類[258]・農作物等の地場産品の放射性物質濃度を検査できる非破壊放射能検査施設を、同市の大津漁港に完成させた。当施設の検査機器・連続個別非破壊放射能汚染検査システムは、東北大学教授・石井慶造の研究成果を活かし、同大が復興庁を通じて開発した。茨城県内水面漁業協同組合連合会は自主基準として定めた魚介類1キログラムあたり50ベクレルを超えた場合に当県の検査機関に報告し、ゲルマニウム検査機を用いて更に詳しく測定していく[259]。北茨城市の豊田稔同市長は検査した魚に安全シールを貼るなどを行い、単に緻密な科学技術学設備で検査するだけではなく更なる安全安心をもPRしたいと語った。同年同月4日、非破壊放射能検査施設完成式が同市の大津漁港で開かれ、小泉進次郎復興政務官や石川昭衆議院議員はじめ、同教授や同市長ら150人が出席した。同漁港は2010年に 約6000トンの漁獲量を持っていたが、震災以後に激減し、2013年度にも1900トンとその量が大幅に減っていた。石井教授は「(茨城県北茨城市の) 大津漁港に活気がもどり、震災以前のよう賑やかな港になってくれればいい。今後とも技術的サポートをしていきたい」と語った。同年2月に訪れた北茨城市を 再び訪れた小泉復興政務官は「安心・安全な日本の海産物を世界へPRする大きな一助となる。消費者に安心して食べて貰えるよう、風評被害払拭に全力で取り 組んでいきたい」と語り、同教授の説明を受けながら同市の魚であるアンコウを検査機器に載せた[260]。
その他生産品目[編集]
茨城県那珂市の木内酒造が造る地ビール常陸野ネストは2000年ワールド ビア カップ; World Beer Cup[261]のHerb and Spice Beers部門で世界一になる金賞を得た[262]他、1886年からイギリスにて続く世界最古のビール国際品評会・ザ ブリューイング インダストリー インターナショナル アワーズ; The Brewing Industry International Awardsにて2002年International speciality beer with other speciality ingredienst部門で世界一の金メダルと、更に全部門が集ったInternational speciality beerで総合チャンピオンとして世界一の座を得、2004年に再びワールド・ビア・カップのHerb and Spice Beer部門で世界一になった[262]。また2011年ジャパン アジア ビアカップ2011で日本一である金メダルを得た。これ以外にも常陸野ネストの受賞歴は数え切れないほど多い[263]。木内酒造は2011年3月11日に発生した東日本大震災で被災したが、それから17日後の同年3月28日、ニューヨーク州ビー ル連盟に加盟しているBrooklyn Breweryをホストとしたビール会社9社のHeartland Brewery, Kelso of Brooklyn, Sixpoint crafy ales, Empior Brewring co., Lagunitas Brewing co., Shmaltz Brewing co., Victory Brewing co., New York State Brewers Assosiationらと、食事を用意したThe Meat Hook, Brooklyn Kitchen, Tanuki Tavern, SlantShack Jerky, Jimmy’s No. 43, Waterfront Ale Houseら、及びスポンサーのGood beer seal、Beer sessions radio、Chow ciao designら有志が、茨城県にある木内酒造のためのチャリティー・イベント、Brewers For Brewersをブルックリン・ブリュワリーで開催し収益の1万2千ドルを木内酒造のコミュニティ適用に寄付した[264]。
アサヒビールや麒麟麦酒などの大手ビールメーカーの工場が茨城県にはあり、茨城県のビール生 成量は日本一である。国税庁の酒税に関する年間統計によると、2011年(平成23年)度の日本全体のビール生産量は289万5187キロリットルだが、 そのうち茨城県は48万9737キロリットルで約2割を占めている。同年第2位は大阪府で、33万9289キロリットルだった。1970年(昭和45年) に操業開始した茨城県取手市のキリンビール取手工場の面積は26万平方メートルで東京ドーム5個半ほどの大きさである。キリンのラガービールや一番搾り生ビール、ハートランド、発泡酒などを1日あたり350ミリリットル缶に換算して570万本分を茨城県で生産している。また、茨城県守谷市のアサビビール茨城工場は1991年(平成3年)操業開始しその敷地面積は38万8700平方メートルで東京ドーム8個分である。この工場はビール大瓶に換算して年に7億本を茨城県で作っている。ここでは、アサヒスーパードライや発泡酒の他、三ツ矢サイダーなどの清涼飲料も製造している。[a 94]
2008年明利酒類の百年梅酒は全国梅酒大会(天満天神梅酒大会)で日本一を受賞した[265]。
2012年2月北条米シフォンは第一回つくばコレクションでつくば市役所が高い品質を認定し、2012年4月29日つくばの食王座決定戦スイーツ部門で3位を受賞した[266]。
茨城県牛久市にあるワイン醸造所・シャトーカミヤは日本初の本格的ワイン醸造所である。1898年(明治31年)神谷伝兵衛が神谷葡萄園を同県牛久市に拓き、1901年(明治34年)ワイン醸造所を当地に建設した。この年、牛久葡萄酒の赤と白が誕生した。これは神谷葡萄園で収穫されたブドウから作られる今日の牛久シャトーとして最初のワインだった[267]。神谷は1856年(安政3年)三河国(愛 知県東部)で生まれ、横浜のフレッツ商会という洋酒醸造所で働いていた17歳の頃、原因不明の病がワインで癒えた経験からその国内醸造を夢見、茨城県に日 本初となるその醸造所を実現した。2008年(平成20年)明治の面影を残しているシャトーカミヤの事務室と醗酵室、貯蔵庫は日本国の重要文化財に指定さ れた。[a 95]
1908年(明治41年)茨城県ひたちなか市の煎餅屋・湯浅藤七が県内生産を始めたほしいもは、2013年(平成25年)2月末の農林水産省統計によると、日本産のほしいもは全て茨城産であった[268]ほど、同県独自の特産品へ成長した。当年の当県によるほしいも産出額は53億円だったが、他県の記述はない。なお2007年(平成19年)の全国ほしいも生産高は70億円だったが、そのうち茨城県分は69億円、静岡が1億円だった。[a 96]
2014年(平成25年)2月18日総務省が発表した家計調査によると、茨城県水戸市の2013年度の1世帯あたり納豆購入額は日本一となった。水戸の納豆の歴史として、1083年武将・源義家が後三年の役で陸奥国へ向かう途中、茨城県水戸市渡里町の一盛長者屋敷へ泊まったとき、馬の飼料に使った煮豆の残りを藁で包んでおいたところ、それが自然発酵して水戸納豆ができた、ともいわれている[269]。また、1657年(明暦3年)義公(徳川光圀)が有事の為の備蓄食糧として、ソバや梅干と共に納豆製造を始めた[270]。茨城県水戸市生まれの笹沼清左衛門は当時人気だった糸引き納豆を水戸でも売り出そうと宮城県で修行を重ね、やがて水戸市に納豆工場を設立、この食品の量産化に成功した。1889年(明治22年)笹沼は水戸駅の開業に合わせ、水戸産独自の小粒納豆を偕楽園への観梅列車運行の際、駅で立ち売りした。こうして笹沼が水戸の天狗党に因んで名づけた天狗納豆は水戸名物となり、いつの間にか納豆は水戸のブランドイメージが確立した[a 97]。無論、水戸市を含む茨城県は納豆の生産量において日本一である[85]。
ネモフィラの風は茨城県ひたちなか市の国営ひたち海浜公園内にあるネモフィラの丘がみごろの時期に合わせ、4月1日から5月24日まで期間限定で販売される当園オリジナル和菓子である[271]。甘さと酸味の爽やかな調和が特徴で、生地にある水色の模様はネモフィラの花弁を表現しており、当県水戸市にある明治5年創業の老舗和菓子屋・あさ川製菓の職人がみな一つ一つ手描きしている。この和菓子の包装紙は、当園にあるみはらしの丘をさやかにそよぐ風や、その一面に広がるネモフィラの花をイメージして和洋の表現を統一して作られている[272]。当和菓子は当園の来場者しか味わえないため幻の和スイーツといわれる。この和菓子は当限定販売期間中であった約2ヶ月の間に1万5千箱を売り上げた。また、当和菓子はゴールデンウィーク中は売り切れる日もある[273]。
海浜公園のメロンパンはネモフィラの風と同じく、茨城県ひたちなか市にある国営ひたち海浜公園オリジナルの洋菓子である。このパンも4月4日から5月24日までの土曜日と日曜日、そして祝日のみ期間限定で販売され、メロン生産量が日本一である当県鉾田市産のメロン果汁で作られている[271]。また、当園のプレスリリースによると、このパンは黄緑色のパン生地でメロンの網を表現している愛らしい見た目の為、子供にも勧められている[272]。
茨城県は米どころであると共に水系も多く、首都圏で最も多い47の蔵元を持ち、それぞれ特色ある日本酒を作っている。[85]
- 常陸野ネストビール(那珂市)
- 天狗納豆(水戸市)
- 納豆(県内全域)[234]
- 吉原殿中(水戸市)
- 水戸の梅(水戸市)
- 干しいも(ひたちなか市、東海村)[234]
- ネモフィラの風(ひたちなか市)
- 海浜公園のメロンパン(ひたちなか市)
- 磯原まんじゅう(北茨城市)
- 八千代おこし(高萩市)
- 日立煎餅(日立市)
- モーター最中(日立市、青柳製菓)
- 扇風機最中(日立市、小川屋)
- シャトーカミヤ(牛久市)
- 常陸ワイン(常陸太田市)
- つぼ焼き(那珂市)
- 北条米スクリーム(つくば市)
- 北条米シフォン(つくば市)
- 北条えんむすび(つくば市)
- 日本酒(日本酒の銘柄一覧#茨城県も参照。「副将軍」「水戸藩」「別春」など茨城県の歴史に因んだ銘柄もある)
- 元亀(日立市)
- 至宝(日立市)
- 焼酎(常陸太田市。茨城県にゆかりの「千姫」「常陸姫」などの銘柄もある)
- 梅酒(水戸市、那珂市など)
- 干し納豆(茨城県特産。水戸市など)
-
梅酒(うめ物語)
- 非食品系
の 筑波嶺 の 新桑繭 はあれど君が 衣 しあやに着欲しも 御衣
という『万葉集』の和歌に示されているよう、結城地方の絹織物は古代から評判だった。1956年結城紬は国の重要無形文化財に指定され、2010年ユネスコ無形文化遺産に登録された(後述)。[a 98]
常陸三大銘石は稲田白御影石、真壁石、羽黒青糠目石である。稲田白御影石は日本橋や東京国立博物館の表慶館、日々谷の第一生命館、東京都電の敷石などに使われた。真壁石は迎賓館や日本銀行旧本店、東京商工会議所などの建築物に使われたほか、福沢諭吉や山本五十六、川端康成、菊池寛、力道山らの墓石にも使われた。羽黒青糠目石は希少なため他の石材の数倍の価格で取引されるが、高級仏像彫刻や庭園装飾などに用いられ、三船敏郎の墓石にも使われた。[a 99]
西ノ内和紙は350年以上の伝統を持つ手作りの和紙である。当和紙は楮の皮を用いており強靭で、虫がつかないので保存に適し且つ水につけても破れにくい。従ってこの紙は古くから布代わりとなり、着物にも使われた。当和紙は江戸時代に水戸藩の専売品であり、義公の編纂した『大日本史』執筆にも使われたほか、商家が大福帳に使った。当和紙は明治時代から大正時代、衆議院議員選挙の投票用紙へ指定された。また、当和紙は戦時中に風船爆弾の気球用紙へ使われた。いま当和紙は財布や手提げに使用されている。こうして、当和紙は日本国の無形文化財、茨城県の無形文化財に指定されている。なお、当和紙の生産される茨城県常陸大宮市は技術習得に10年かかるといわれる紙漉きの技を継承するため、和紙作りが中学校のクラブ活動にもなっている。[234]
天心焼は北茨城市の五浦を日本美術院研究所とした岡倉天心に因んで命名された。この焼き物は当市産の蛙目・軟質の粘土を使って制作される。[274]
淡水真珠は人工核を入れずに作られる国産品80トンのうち、69トンが茨城県で産まれており日本一の産地である。残りの11トンは滋賀県で産まれている。[a 100]
- 結城紬(結城市、ユネスコ無形文化遺産、日本国重要無形文化財。後述)
- 西ノ内和紙(常陸大宮市、日本国無形文化財、茨城県無形文化財)
- 淡水真珠(牛久市、茨城県推奨品指定)
- 農人形(水戸市)
- 真壁石燈籠(桜川市)
- 真壁小目(真壁町)
- 笠間焼(笠間市)
- 天心焼(北茨城市)
- がまの油(つくば市)
- 国寿石大子硯(大子町)


茨城県はコギクのリーダー産地で、年間約3千万本が出荷されている。茨城県の生物工学研究所、果樹・花き育種研究室は2014年現在までに9種類の茨城県オリジナル品種を開発し品種登録した。[231]
茨城県のグラジオラスは球根生産と切花生産でそれぞれ日本一、全国第2位を占める重要な花き品目である。[231]
2008年(平成20年)3月18日グラジオラスの茨城県オリジナル品種である常陸あけぼのは、第16902号に品種登録された。[231]
2007年(平成19年)3月15日グラジオラスの茨城県オリジナル新品種であるプリンセスサマーイエローは、 特徴的な花型をもち、栽培上の作型適応性が広くかつ採花率が高いなどの優良特性が多かった為、生産者からの高い評価を受け品種登録(品種登録番号 第15211号)された。また、この品種は2006年(平成18年)度の当県内グラジオラス生産量の10%弱を占めていた。[231]
- 常陸サニーホワイト(コギク。茨城県オリジナル品種)
- 常陸サニールビー(コギク。茨城県オリジナル品種)
- 常陸サマースノウ(コギク。茨城県オリジナル品種)
- 常陸サマーレモン(コギク。茨城県オリジナル品種)
- 常陸サマールビー(コギク。茨城県オリジナル品種)
- 常陸サマーゴールド(コギク。茨城県オリジナル品種)
- 常陸オータムホワイト(コギク。茨城県オリジナル品種)
- 常陸オータムレモン(コギク。茨城県オリジナル品種)
- 常陸オータムパール(コギク。茨城県オリジナル品種)
- 常陸あけぼの(グラジオラス。茨城県オリジナル品種)
- プリンセスサマーイエロー(グラジオラス。茨城県オリジナル品種)
ほしざきゆきのした(星咲雪ノ下)は茨城県つくば市の筑波山にのみ生育する固有種の花であり、絶滅危惧IA類と極めて希少なユキノシタとなっている。絶滅危惧IA類とは、「ごく近い将来における野生での絶滅の危険性が極めて高いもの」。筑波山で発見されたこの花はつくば市の花に選ばれ、同市の天然記念物となっている。昭和天皇は、茨城大学名誉教授で理学博士・鈴木昌友の案内で筑波山を登山したときほしざきゆきのしたに強い興味を示した。また、2000年(平成12年)12月12日天皇皇后が茨城県坂東市にあるミュージアムパーク茨城県自然博物館を訪れたとき、その職員がほしざきゆきのしたの標本を紹介したところ、皇后は「星のような花でした」と感想を述べた[275]。
茨城県日立市の十王町にある伊師浜海岸は、鵜飼の伝統を守る為、日本全国でここ1ヵ所のみ鵜飼用のウミウ捕獲が公認されている。全国12ヵ所の鵜飼場はここで掴まえたウミウによって支えられている。[a 101]
工業[編集]
茨城県日立市が発祥で、同市に本拠を置く日立製作所は日本最大の総合電機メーカーであり、日本国内の全製造業者の中でもトヨタ自動車に次ぐ規模の大企業でもある[276]。2013年(平成25年)3月末の時点で、日立グループ企業も含めたその連結従業員数は32万6240人、資本金は4587億9000万円、連結売上高は9兆410億7100万円。なお、同時点で同業大手のパナソニックは連結従業員数が29万3742人、資本金は2587億円、連結売上高は7兆3030億円。同様に東芝は連結従業員数が20万6087人、資本金は4399億円、連結売上高は5兆8003億円であった。因みに、同時点のトヨタ自動車は連結従業員数が33万1876人、資本金3970億は5000万円、連結売上高は22兆641億円であった為、この時点の日立は連結従業員数でトヨタとほぼ同規模で、連結売上高は劣るものの、保有した資本金においては大きく勝っている[a 102]。
茨城県日立市は日立グループ企業城下町と して有名であり、同市の人口の約40%は日立製作所社員か、日立グループ会社の社員およびその家族から成っている。同市内は、日立製作所とその系列企業の 工場や社宅、社員寮を多数持つ。同市は東日本有数の工業集積地域として発展し、その事業所数はピーク時1000社を数え、現在は約700社ある。機械や電 機、輸送機に関連する中小企業が同市の製造業を支えている。1999年4月に開設された日立地区産業支援センターは産業支援機関としてそれら中小企業の様々な事業活動をサポートしており、全国的に注目されるモデルケースとなっている。日立鉱山は、現在のJX日鉱日石エネルギーとJX日鉱日石金属の元になっている。ここは日本鉱業発祥の地でもある。日立鉱山は1981年に閉鎖されたが、鉱石の精錬事業自体はJX日鉱日石金属の工場で今も続いている。日立グループ企業の工場は、特に日立市・ひたちなか市へ数多くある。

茨城港の日立港区は自動車の輸出入を盛んに行っており、ダイムラー社のメルセデス・ベンツや日産自動車、ルノーらが主に利用している。特に、ダイムラー社のメルセデス・ベンツは茨城港を日本国内の一大輸入拠点としている。当社は新車を販売店へ配車する前に整備する同国内唯一の施設メルセデス・ベンツ日本日立新車整備センター (VPC)も、常磐自動車道の茨城県日立市にある常陸南太田インターチェンジ傍に設けている。車両はここで品質検査、納車整備などを経て日本全国へ出荷されている。また、2011年からダイムラーの100%子会社であるメルセデス・ベンツ日本株式会社(MBJ)は継続的に、同市で毎年開催されるランニング競技会の日立さくらロードレースへ 協賛し、先導車などのオフィシャルカーをこの会へ提供したり、参加記念Tシャツにベンツのロゴマークを提供したりしてきている。2014年度は欧州メー カーとして日本で初めて発売したベンツ製品のスマート電気自動車やスマートBRAUS電気自動車2台が先導車を、Vクラスが救護車を務めたほか、MBJ社 員がドライバーとして当会運営へ協力した[277][278]。なお2010年、同市は茨城港・日立港区PRのため、3500cc7人乗りであるメルセデス・ベンツ Vクラスのアンビエンテを公用車として約650万円で購入した[279]。
鹿島臨海工業地帯を形成する鹿嶋市・神栖市は鉄鋼、石油化学を中心に工場が置かれている。石岡市、鹿嶋市、かすみがうら市、つくば市、土浦市、日立市、ひたちなか市などに大手製造業の研究拠点が多く存在する。
2008年(平成20年)12月に稼動を開始した茨城県那珂郡東海村にある大強度陽子加速器施設・J-PARCは、世界最高性能の中性子線実験施設や、ニュートリノ振動実験施設等が揃った複合研究拠点であり、日本の国内外の多くの研究者が利用し国際的研究拠点となりつつある。既に国際的注目を集めているJ-PARCの名は、独立行政法人・日本原子力研究開発機構(JAEA)と大学共同利用機関法人・高エネルギー加速器研究機構(KEK)の共同プロジェクトである大強度陽子加速器施設、Japan Proton Accelerator Research Complexの愛称である。ここは、ハドロン実験やニュートリノ実験、ミュオン科学研究、中性子科学研究などに用いられるほか、発生させたニュートリノを295㎞離れた岐阜県にあるスーパーカミオカンデ検出器へ照射し、ニュートリノの質量を測定する実験予定もある。茨城県は物質科学や生命科学の研究で世界をリードしていく為、J-PARCの周辺地域に筑波研究学園都市と並ぶ新たな科学技術拠点の形成を目指し、サイエンスフロンティア21構想を推進している[280]。2013年5月23日装置の誤作動とそれに伴ったKEKの人為的なミスによるJ-PARC放射性同位体漏洩事象が J-PARCの施設群の一つであるハドロン実験施設で起きた。ホール内にいた55人の研究者や作業員のうち33人に1.7mSvから0.1mSvの実効線 量を示す被曝が確認された。その他にハドロン実験施設管理区域には当時47人が入域していたが、1名に0.1mSvの被曝が認められた。なお、日本人の1 人あたりの自然界からの年間被曝量は1.48mSvであり、世界の1人あたりの自然界からの年間被曝量は2.4mSv[281]、東京とニューヨーク間の航空機での往復旅行による被曝量は約0.2mSvである[282][283]。KEKとJ-PARCセンター長はこの事象の通報が茨城県へ遅れた事について謝罪し、文部科学省の丹羽秀樹政務官は、茨城県知事・橋本昌と当時の東海村村長・村上達也へ謝罪した。内閣官房長官・菅義偉は、 事故の報告が遅れた事に遺憾の意を示し、状況の把握や原因の究明、再発防止策をJ-PARCへ求め、且つ厳正に対処すると述べた。同年5月25日当施設が 設置されている茨城県は通報が遅いとした上で、JAEAと原子力安全協定を結んでいる7つの市町村と共にJ-PARCへ立ち入り調査を行った。また、水戸労働基準監督署も同日にJ-PARCへ立ち入り調査を行った。同年同月27日原子力規制委員会は、原子力事故・故障の評価の尺度である国際原子力事象評価尺度を 暫定的にレベル1・逸脱と評価した。レベル1の場合は事故でなく事象に分類される。この事象は作業員の被曝線量から単純に考慮するとレベル0+(尺度以 下)に分類されるものの、KEKの作業員らが放射性同位体を外部に漏洩させたのが故意であり、かつその通報が大幅に遅れたことを考慮しレベルを原子力規制 委員会側は1段階上げた。原子力規制庁はJ-PARCへの対応を検討する一方、その運転再開に地元の理解も不可欠な事から、仮に運転停止が長引けばJ-PARCを利用した基礎物理研究や大学と民間の研究にも影響が生じる可能性があった[284]。 J-PARCが安全管理や職員への安全教育を徹底した結果、2013年12月茨城県から利用再開の許可を受けた。2014年1月、当施設は外国人研究者も 交えた事故対応訓練を行うなどして実験再開に準備を進め、2014年5月26日、約1年ぶりにニュートリノ実験施設の運転を再開した。この施設の実験再開 は同年2月の物質・生命科学実験施設に次ぎ2番目であった。これまでにも当施設は、ニュ-トリノが飛んでいる間に性質を変えるという新パターンを観測した など、世界初の実績を挙げてきた。当施設はニュートリノを当施設のある茨城県東海村から岐阜県飛騨市のスーパーカミオカンデへ発射して観測、物質の起源に迫ろうとしている[285]。文部科学省はJ-PARCの更なる高度化を行い、世界に誇る中性子科学などの最先端研究拠点の環境を整備する事を目標としている[286]。

この事象にも関わった茨城県つくば市にある大学共同利用機関法人・高エネルギー加速器研究機構(KEK)は、当機構で要職を歴任し、ノーベル物理学賞を得たKEK特別栄誉教授・小林誠を出した。またKEK前身の1つで茨城県つくば市にあった高エネルギー物理学研究所は、1992年9月30日日本で最初にWebサーバを公開した組織でもあった。この日、同市にあった文部省の高エネルギー加速器研究機構・計算科学センターの森田洋平博士が日本最初のホームページを発信した[287]。現在も当時のFTPサーバはKEK研究本館の入り口に保存され、且つ展示されている[288]。同市のKEK内にあるKEKBは世界一のビーム強度を誇り2008年の物理学者・小林誠と益川敏英両 氏のノーベル物理学賞受賞を決定づけた電子・陽電子衝突型加速器である。日本国が得意としている素粒子物理学の分野で世界一の知性を堅持している茨城県で の研究へは、2014年現在15ヶ国62機関から約400人の研究者が参加しておりそのうち約250人と過半は40歳以下の若手である。当県のKEKBは 今の標準理論で説明できない新物理法則の糸口を発見し、世界中から注目を集めている。また、電子や陽電子を用いたB中間子の実験をなしえるのは世界中で茨 城県にあるKEKBのみなので、その施設環境の高度化には世界中の研究者が期待を寄せている。文部科学省は、筑波研究学園都市のある茨城県に素粒子物理学の新潮流を目指す国内外の若手研究者を集め、世界最先端の研究環境を提供し続ける事で欧州の類比施設CERNと並んだ学問研究に於ける世界一大拠点の地位を確立し、かつ当県を中枢にした日米欧の各国と研究グループ間での流動的な頭脳循環を通して、アジア域内での素粒子物理学に於ける若手人材を育成する事をも目指している。[289]
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KEKにあるスーパーコンピューター・Blue Gene
- 茨城県に工場を有する企業の一部
- JX日鉱日石金属磯原工場(北茨城市)
- JX日鉱日石金属磯原加工工場(北茨城市)
- NOK磯原工場(北茨城市)
- NOKクリューバー北茨城工場(北茨城市)
- 茨城SMK(北茨城市)
- 日本曹達茨城工場(北茨城市)
- 茨城技研(北茨城市)
- 鯨岡産業(北茨城市)
- 高砂鐵工所磯原工場(北茨城市)
- 日東工業(北茨城市)
- ウォーターケム常陸工場(北茨城市)
- ニットー磯原工場(北茨城市)
- ニットー茨城ロジスティクスセンター(北茨城市)
- ニッソー樹脂(北茨城市)
- ビーエフ工業(北茨城市)
- 株式会社ジーエス茨城製作所(北茨城市)
- 常磐共同印刷(北茨城市)
- アイメタルテクノロジー北茨城部品工場(北茨城市)
- アイメタルテクノロジー北茨城素材工場(北茨城市)
- 武蔵野化学研究所磯原工場(北茨城市)
- 中央理化工業茨城工場(北茨城市)
- BASFジャパン磯原工場(北茨城市)
- 日興運送(北茨城市)
- 日立化成山崎事業所(日立市、ひたちなか市)
- 日立金属電線工場(日立市)
- 日立金属日高工場(日立市)
- 日立金属豊浦工場(日立市)
- 日立金属電線材料研究所(日立市)
- 日立金属高砂工場(日立市)
- ジェイパワーシステムズみなと工場(日立市)
- ジェイパワーシステムズ豊浦事業所(日立市)
- ジェイパワーシステムズ日高事業所(日立市)
- 日立マグネットワイヤ株式会社(日立市)
- 日立電線ファインテック株式会社(日立市)
- 日立電線メクテック株式会社(日立市)
- 株式会社茨城テクノス(日立市)
- 安川電機つくば研究所(つくば市)
- 日立金属土浦工場(土浦市)
- 鹿島石油鹿島製油所(神栖市)
- 三井化学鹿島工場(神栖市)
- 日立化成五井事業所(神栖市)
- 日立化成下館事業所(筑西市、結城市)
- アサヒビール茨城工場(守谷市)
電気[編集]
2014年5月時点で、茨城県神栖市の鹿島火力発電所は火力発電所として、日本一の発電力を持つ[290]。
茨城県の主な発電設備の発電量は、鹿島火力発電所と東海第二発電所、鹿島共同発電所、常陸那珂火力発電所、パワーステーション茨城[291]を合わせて841.4万kWである。なお2014年現在停止中の東海第二発電所(110万kw)を除いても、茨城県の発電量は北関東一である。また、平成24年度の東京電力の設備のみに限って最大電力分の発電設備の割合をみると、茨城県は電力自給率が153%と千葉と神奈川に継ぐ首都圏第3位の電力供給源なのがわかる[292]。
2014年の時点で、茨城県は日本で最初に原子炉の廃炉作業へ成功してきた経験を持つ、国内唯一の自治体である。また、本社が東京にある日本原子力発電株式会社(日本原電)による日本初の商業用黒鉛炉かつ日本初の商業用原子力発電所である東海発電所を導入し、日本で最初に核の平和利用へ成功したのも茨城県だった[293]。東京の当会社によって茨城県に造られた日本初の百万kW級軽水炉である東海第二発電所は、1999年9月30日の東海村JCO臨界事故において作業員が日本初の臨界事故を自力で止めた発電所かつ日本初の事故被曝による死者2名を出した発電所である。当発電所はそれらと共に、2011年(平成23年)3月11日東日本大震災時に稼動中だった宮城県の女川原発や福島県の福島第二原子力発電所と同じく稼働中に被災しても過酷事故が起こらなかった日本初の原子力発電所となった[294]。なお、2000年10月16日に茨城労働局・水戸労働基準監督署が株式会社ジェー・シー・オーと同社東海事業所所長を書類送検し、同年翌11月1日に水戸地方検察庁が事故関係者を起訴して原子力事故による日本初の刑事事件を裁いたのも茨城県だった。東海第二発電所は福島第一原子力発電所事故と同じく津波に襲われたが、スマトラ島沖地震に伴った大津波を受けて、茨城県知事・橋本昌を始め茨城県庁側がこの発電所を持つ日本原電へその防波堤を事前に嵩上げさせていた為に、過酷事故に至らなかった[295]。もともと、東海第二原発での想定津波は2.35メートルで、2002年に4.86メートルへ見直されていた。しかし国土交通省がスマトラ沖地震を受け津波対策検討委員会を設置し各種提言を行い、それが各都道府県へ連絡された。茨城県庁側はこの通達を受けて2005年(平成17年)12月27日から2007年(平成19年)1月26日にかけ茨城沿岸津波浸水想定検討委員会を設けた。2007年(平成19年)10月茨城県庁は日本原子力発電株式会社に対しこの津波再評価の結果を伝え、かつ、防波堤のかさ上げを要請した。茨城県は、付近では津波の高さが6~7メートルになる、という予測値を日本原電へ示した[296]。日本原子力発電株式会社はこの茨城県庁からの要請に対して、独自に津波評価をやり直した。この結果、東海第二発電所は津波対策として、2009年(平成21年)7月か ら同原発の海水取水口付近で防波堤の役割をする護岸を従来の4.2メートルから6.1メートルへかさ上げする工事に着手した。日本原電はこのとき、 5.72メートルの津波を想定し、非常用設備の建物の壁(防波壁)の高さを6.1メートルへ設定していた。この工事へ取り掛かり、それが完了する前に 2011年3月11日の東日本大震災で現実にきた津波の高さは5.4メートルだった。だが、半ばできていた防波壁には工事用の穴があいており、そこから海 水が流入して海水ポンプと非常用ディーゼル発電機それぞれ1台ずつが停止した。既に工事が終わっていた部分は浸水しなかったため2台の非常用発電機で原子 炉の冷却を続けることができた。こうして当県の通達に基づいて日本原電が防波堤を嵩上げした部分は津波を防いだ[297]。一方、東京電力株式会社は2009年(平 成21年)から津波の再評価を進めていたが、地震による揺れの対策を先に進め、津波対策は後回しにしていた。福島原子力発電所の1~4号機は津波で非常用 発電機がみな水没して使えなくなり、深刻な危機を招いた。東海第2原発を襲った津波高さは5.4メートルと、福島第一原発を襲った高さ14メートル~15 メートルの津波[298]から比べると約1/3の高さだった偶然も手伝って、茨城県は過酷事故に至らず結果の明暗を分けた[299]。なお、同じく被災した宮城県にある東北電力株式会社の女川原発は 海抜14.8メートルの高台にあり、東日本大震災まで防潮堤がなかった。2011年3月11日女川原発の地盤が地震で1メートル沈下したが、襲った津波は 13.8メートルだったため過酷事故にならなかった。その後の2014年5月14日、東北電力は全国最高である基準面から高さ29メートルの防波堤(防波 堤自体は15メートル)を女川原発に建設すると発表した[300]。なお1966年(昭和41年)から2011年(平成23年)度まで戦後45年間、日本国の高度経済成長期を通じて茨城県にある東海発電所及び東海第二発電所の発電電力は、東京電力と東北電力へ売電されてきた。また、東海第二発電所の売電割合は東京電力へ80%、東北電力へ20%となってきた[a 103]。2014年の時点で、東海第二発電所は営業運転開始から35年あまりを経過し、東日本大震災後に安全審査を申請された11原発18基の中において日本最古の原子力発電所である。原子炉等規制法は原発の運転可能な期間を原則40年としている。茨城県知事・橋本昌は毎日新聞からのインタビューへ「稼働(可能な)期間と経費のバランスという点で、(東海第二発電所の再稼動は)あまり経済的ではないと感じている」と答えており、毎日新聞はその社説で橋本知事の意見を「その通りだ」としている。またこの社説は東京に本社を置いた日本原子力発電株式会社について、既に茨城県にある国内初の東海発電所の廃炉経験を活かして廃炉専業会社への転換を図るべきだ、かつ政府も明確な方針を打ち出す必要があるとしている[301]。東海発電所と東海第二発電所という2つの日本史上に記念碑的科学技術設備を有した茨城県東海村の前村長・村上達也は、社会福祉法人・愛信会運営の「幸の実園」設立30周年と「第二幸の実園」設立15周年を記念したさちのみフォーラムの一環として東海文化センターで作家・落合恵子と公開対談した。村上前村長はこの対談の中で、日本国や人類近代文明において都市経済の成長を支え続けてきた原子力発電所というものについて、「脱原発達成の為には、経済より命という価値判断が必要」「開発、発展という価値観からの転換期に来ている。不便を受け入れ、(生活の)スピードを落とす事を求めなければならない」と語った[302]。
発電所[編集]
- 鹿島火力発電所(鹿島市、火力):524.4万kW
- 東海第二発電所(東海村、原子力):110万kw;2014年現在停止中であり、稼動可能な中で日本最古の原子炉
- 東海発電所(東海村、原子力):日本初の廃炉作業中、日本初の商業用原子炉
- 鹿島共同発電所(鹿島市、火力):105万kW
- 常陸那珂火力発電所(東海村、火力):100万kW
- 日立臨海発電所(日立市、火力):19万kW
- パワーステーション茨城(北茨城市、バイオマス):1.5万kW[291]
この他、水力発電所や風力発電所が茨城県内の各地にある。
商業[編集]
県内の主要企業[編集]
茨城県水戸市に本社を置くケーズホールディングスの家電販売店・ケーズデンキは、『日経ビジネス』誌上のネットショッピングを除いた家電量販店部門のアフターサービス満足度において、2010年から4年連続で日本一になった[303]。また、ケーズホールディングスは法政大学や日刊工業新聞社、あさ出版の主催した第3回「日本でいちばん大切にしたい会社」大賞で実行委員長賞を受賞した[304]。
茨城県内ローカル規模やそれに近い企業以外で本県に本社を有する企業を次に挙げる(※五十音順)。
- 小美玉市
- 北茨城市
- 古河市
- 常総市
- 東海村
- つくば市
- 土浦市
- 日立市
生活・交通[編集]
交通[編集]
空港[編集]
茨城空港は2011年3月11日、東日本大震災で被災したにも関わらず滑走路が無事に機能し続けて当日飛行中だった2機を受け入れ[305]、震災から3日後の同年同月14日には被災した当空港ロビーも通常の営業を再開した。[306]。首都圏における残りの空港であった東京羽田空港と千葉県成田空港は 震災当日の午後2時46分、震度6から5の地震と同時に全滑走路を閉鎖した。羽田・成田の両空港へ向かっていた86機の航空機は、成田空港行き70機の殆 どが羽田空港を、羽田空港行き16機の殆どが成田空港を、目的地へ着陸できない場合の代替空港に指定していたため、新たに着陸を決める必要ができた。空中 にあった86機は震災当日午後8時48分までに、関西空港へ21機、中部空港へ17機、新千歳空港へ14機など計13ヵ所へ着陸した。それらのうち、米国 系の11機は在日米軍の横田基地が受け入れ、上述のよう、茨城空港も2機を受け入れた[307]。且つこれらの不時着した航空機の内、14機が燃料不足で緊急事態宣言を出していた[308]。2011年(平成23年)10月20日当空港はベスト ローコスト エアポート オブ ザ イヤー2011(The CAPA Low Cost Airport of the year 2011)を海外のシンクタンクであるセンター フォー アジア パシフィック アビエーション(Centre for Asia Pacific Aviation, CAPA)から受賞した。同日午後8時(現地時間)当空港を代表した茨城県知事の橋本昌は、シンガポールで開かれた授賞式へ出席した。当空港は航空会社へ適した環境を提供し、格安航空会社(LCC)運航へのサポートを通じ首都圏近郊への価値あるアクセスポイントとして機能している事からアジア・太平洋地域で最も革新的かつ影響力ある空港とされた。CAPAエグゼクティブ・チェアーマンのピーター・ハービンソン(Peter Harbinson)は「地震と津波の深刻な逆境にも関わらず、茨城は格安空港路線の産業努力を続け、傑出したサービスを提供し続けた」[309]「この授賞は、我々を確かにとてもよく勇気づけてくれるものだ」とした[310]。茨城空港は日本国で初めて、当国内の空港としてこの部門において外国から褒章された[311]。2011年11月30日茨城空港は受賞祝賀会を開催し、航空会社や地元企業など230人が参加した。1937年(昭和12年)大日本帝国により設置された百里ヶ原海軍飛行場を前身とした航空自衛隊百里基地の敷地を、諸国民の平和のために民間共用化するコンセプトで2010年(平成22年)茨城空港は開港した[312]。既に海外から褒章されたよう、徹底した格安化に取り組んだ茨城空港を利用する事は首都圏と世界の間をアクセスする者にとって旅行運賃が約半分となり、大幅に利便性が向上した。このため、茨城空港は時代の最先端といわれている[a 104]。 なお当空港の駐車場は無料であり、着陸料は首都圏にありながら羽田空港や成田空港より3割以上割安となっている。海外の大都市圏は、基幹空港に加え中小の 空港がセカンダリー港として、立地している。これは都心から多少離れていても混雑していないという特徴を活かし、多様な航空需要の受け皿となっているから である。しかも、茨城空港の立地は1時間以内にアクセスできるエリア人口が北関東地域を中心に340万人おり、2時間以内にアクセスできるエリア人口にお いては、東京の羽田空港や千葉の成田空港、福島の各空港を経由するのに比べて遥かに利便性が高い人々が1200万人にも達している。これは2014年時点 の東京の総人口・1323万とほぼ同じ人数である。2007年の日本国国土交通省・交通政策審議会の航空分科会において、茨城空港は首都圏の航空需要の一翼を担うべき立地として、活用される事が適当と既に定められていた[313]。ところが2010年東京の報道各社は、日本国内閣の構想になり、防衛大臣が設置し、国土交通省が維持管理する国営軍民共用空港に、茨城県が茨城県税を使って自費で応援した最も経費がかからない形でのこの自衛隊基地の民用化を「(将来的な空港廃止後は国税の)無駄遣い」と酷評していた[314]。しかし、民間共用化の自衛隊・米軍用空港は全国に北海道・丘珠空港や青森県・三沢空港、石川県・小松空港、鳥取県・米子空港、徳島県・徳島空港などが既存の上、茨城空港開港2年後の2012年に山口県は岩国錦帯橋空港を山口県に同様の手順で開港したのにも関わらず、これら将来的に首都圏の茨城空港より航空需要の見込めているとは決していえない他の民間共用空港について東京の報道各社はなんら批判していなかった[312]。なお、茨城空港開港2年目の2012年(平成24年)度の当空港利用者数は、国際線において全国51空港中第15位、これら民間共用6港の中で小松空港に継ぎ国際線利用実績第2位、 且つ国内線・国際線をあわせて民間共用6港中第3位だった。また、同年の当空港国内路線利用者は30万8649人で、開港から2年目で全国90空港中第 43位と既に全国において中位以上の利用者数であった。開港2年目の国際線・国内線の空港乗降客数は、既に全国90空港中第41位だった[315]。2014年5月現在、当空港の路線は国内線において札幌空港や那覇空港、名古屋空港、福岡空港、神戸空港、米子空港など全国へつながっており、かつ国外線において上海浦東国際空港や仁川国際空港などアジアのハブ空港とつながっている。当空港の旅客数は2010年(平成22年)20万3070人から、2011年(平成23年)29万3203人、2012年(平成24年)40万8139人と2年で倍増した[a 105]。2013年(平成25年)度1月末までの空港旅客者数は合計123万6451人を超えた[316]。
鉄道[編集]

バス[編集]
- 茨城交通(水戸市、笠間市など)
- 関東鉄道バス(土浦市、つくば市など)
- 日立電鉄交通サービス(日立市など)
-
大洗町の循環バス海遊号
道路[編集]
- 常磐自動車道
- 東関東自動車道
- 北関東自動車道
- 首都圏中央連絡自動車道(圏央道)
(→茨城県の県道一覧)
港湾[編集]

フェリー[編集]

医療・福祉[編集]
詳細は「Category:茨城県の医療機関」を参照
教育[編集]
2014年の段階で茨城県の大学及び研究機関は、受賞時に所属していた研究者のノーベル賞受賞数が3名と首都圏一であり、日本全体で見ると7名の京都府に継ぎ全国第2位である[320]。
茨城県の中学生の全国体力・運動能力は2011年(平成23年)度から2012年(平成24年)度まで日本一であり、又、平成24年度の茨城県小学5年生は男女とも全国第2位、平成25年度の茨城県小学5年生は女子第2位、男子第3位である[28]。小中学生の学力・学習状況は、2012年(平成24年)度から2013年(平成25年)度まで首都圏で東京に次ぎ第2位である[321]。
- 公立
- 国立大学法人(4校)
- 私立(6校)
- 独立行政法人国立高等専門学校機構
- 茨城工業高等専門学校(ひたちなか市)
茨城県水戸市の茨城県立水戸第一高等学校は最後の将軍・徳川慶喜揮毫になる至誠一貫の校是がある他、当県・当高出身のプリツカー賞建築家・妹島和世設計の合宿所・江山閣がある。当校の敷地は旧・水戸城であるため茨城県指定史跡となっており、茨城県指定有形文化財の薬医門がある。[322]
閑院宮載仁親王が植えた松の木(五葉松)が茨城県土浦市の茨城県立土浦第一高等学校にある。1976年(昭和51年)、当校の旧土浦中学校本館は茨城県の旧制太田中学校講堂と共に、全国の旧制中学の建造物群のなかで日本国で初めて当国の重要文化財へ指定された。 当館の設計者は茨城県営繕技師でのちに県技師となった駒杵勤治であり、竣工は1904年(明治37年)12月7日で あった。当館は全体としてゴシック様式を基にしたドイツ風の建築で、正面は三連のアーチである。アーチを支える柱は、ギリシャ建築の三様式の一つであるコ リント風であり、アカンサスの葉をモチーフにした柱頭に特徴がある。当館は尖塔があり、玄関に三連アーチ、そして高い天井や手すきガラス大窓をもち、重厚 な扉も配されている。また、デザインは内装外装とも桜色と濃茶でまとめられており、且つ随所に優美なアカンサス意匠を施されている。[323]
茨城県立大洗高等学校は、普通科に音楽コースを設け文化活動が盛んである。音楽コースは全員マーチングバンド部、即ち楽団・
茨城県水戸市の水城高等学校は、ゴルフ部が全国屈指の強豪校である。茨城県筑西市出身の片山晋呉や、県外から入校した静岡県出身の宮本勝昌、東京出身の横田真一、神奈川県出身の市原建彦ら数多くのプロゴルファーが当校のゴルフ部OBから生まれている。[326]
茨城県立磯原郷英高等学校は、同高校の前身である豊田高等小学校を卒業し、同高校のある北茨城市磯原町で生まれ育った詩人・野口雨情の遺徳を讃える雨情を偲ぶ会を毎年開いている。この行事は、50年以上続く当校の伝統である。[192]
茨城県立取手第二高等学校は、1984年(昭和59年)夏の甲子園で全国制覇し、当校の木内監督が当県の常総学院高等学校へ移ったため、常総学院が強豪の時代となった。常総学院高等学校は1980年代に夏の甲子園(全国高等学校野球選手権大会)で準優勝し、1990年代に甲子園常連となり2001年(平成13年)選抜高等学校野球大会で優勝、2003年(平成15年)夏の甲子園で全国制覇した。また、茨城県立水戸商業高校は1999年(平成11年)選抜高等学校野球大会で準優勝した。[a 106]
霞ヶ浦高等学校の男子バレーボールは2011年(平成23年)に全国高等学校総合体育大会の茨城県予選会で4年連続かつ8回目の優勝をした。土浦日本大学高等学校の女子バレーボールは同年度同大会の茨城県予選会で4年連続11回目の優勝をした。[a 107]
- 県立全日制(13学科110校)
- 県立定時制(3学科12校、うち独立校1校)
- 県立通信制(2学科1校)
- 県立専攻科(3学科2校)
- 私立全日制(6学科22校)
- 私立通信制(1学科6校)
- 私立専攻科(1学科1校)
詳細は「茨城県高等学校一覧」を参照
- 公立234校
- 国立1校
- 私立9校
- 公立1校
- 私立2校
詳細は「茨城県中学校一覧」を参照
北茨城市立精華小学校[327]は、同市の茨城県立磯原郷英高等学校と共に、当校を卒業し当市の磯原町で生まれ育った詩人・野口雨情の清らかな童心を貴んだ遺徳を讃える伝統行事として50年以上、雨情をしのぶ会や雨情をしのぶ週間を雨情の命日である1月28日前後に、毎年開いている[193]。1966年(昭和41年)1月27日童謡『七つの子』の歌碑が同小学校に建立され[328]、2002年(平成14年)11月2日、同小学校は野口雨情生誕120周年記念精華祭を開いた[329]。
- 公立582校
- 国立1校
- 私立3校
詳細は「茨城県小学校一覧」を参照
- 公立(19校、うち分校1校)
- 市立(1校)
- 国立(1校)
詳細は「茨城県特別支援学校一覧」を参照
- 学校教育以外の施設
- 公立(1校)
マスメディア[編集]
テレビ局[編集]
茨城県は全域がNHK放送センターのEテレ(NHK教育/JOAB-DTV)と関東1都6県共通の全民放キー局(日本テレビ・テレビ朝日・TBS・テレビ東京・フジテレビ)が視聴できるエリアとなっている。放送対象地域外ではあるが県南地域、県西地域はNHK東京総合テレビジョン(JOAK-DTV)がアンテナでの直接受信などで視聴できる場所も多い。県域民放テレビ局は県内に存在しない(後述)。
2004年10月1日から、地上デジタル放送による県域放送としてNHK水戸放送局(NHK水戸総合テレビジョン/JOEP-DTV)が地上波放送している。筑波中継局エリア外の南西部を除いてこのchが受信可能であったが、2011年9月5日に筑波中継局が無指向性化され、県内のほぼ全域で県域放送が受信可能となった[330]。
また、チバテレ・テレ玉・TOKYO MX・とちぎテレビ・群馬テレビを直接受信やCATVで視聴することが県内の地域によっては可能である。特に千葉県の県域独立局であるチバテレは地デジではほとんどの地域で高性能アンテナ利用を含めて直接視聴でき、チバテレも茨城県の視聴者に配慮した番組を組むことがある。実際東日本大震災発生当時も茨城県の視聴者に対する哀悼のコメントが放送されたことがあった。また茨城新聞・常陽新聞の県域2紙をはじめ、茨城県向けの新聞の番組表にもチバテレの番組が収録されている。TOKYO MXは東京スカイツリーからの放送開始で公式サイトの受信エリアのめやすに茨城県南(つくば市)・県西(古河市)なども新たに追加された[331]。
これらに加え、茨城県は2012年10月1日にインターネットテレビ・いばキラTVを開局した(後述)。
ラジオ局[編集]
- 茨城放送(IBS)
- FM
NHK水戸放送局が存在する。当局はFM放送で県域放送を実施し、中波ラジオは関東広域圏放送として東京のNHK放送センターより配信している。テレビと同様、民放FM局は県内に存在しない(後述)。
また、国際放送のNHKワールド・ラジオ日本の送信所が県内にある。
AMラジオもほぼ全域がNHKラジオ第1・第2、TBSラジオ、文化放送、ニッポン放送の聴取エリアとなっている。
県域民放テレビ局・FM局[編集]
茨城県は首都圏に於けるキー局の全ラジオ民放(民間放送)が視聴・聴取できる。また、NHK水戸放送局は独自番組編成で地域情報を流している。しかし、かつて県内での民放テレビ局と民放FM局開局の動きもあったが、テレビ放送を計画していた茨城放送はテレビ放送を断念した。2014年現在、茨城県は徳島県と同じく、県内に本社を置く民放テレビ局と民放FM局は存在しない。2011年3月11日発生した東日本大震災で茨城県内の被災状况がなかなかテレビで報道されなかった理由は、当県内に民放テレビ局が存在しないことが理由だと指摘する著名人の訴えがあった[332][333][334][335]。1979年10月7日から2011年3月27日まで茨城県の広報番組である『おはよう茨城』がフジテレビの放送枠を借りて放送されていた。
なお、茨城県内の情報を発信する民放に代わるものとして、2013年(平成25年)ネットテレビ・いばキラTVが当県により整備されている。
他に、テレビ朝日系列の番組「若大将のゆうゆう散歩」内で毎週金曜日10時25分頃から、「磯山さやかの旬刊!いばらき」が茨城県の情報を伝えるものとして放送されている。磯山さやかは茨城県鉾田市出身である。
ケーブルテレビ局[編集]
(茨城県のケーブルテレビ局を参照)
新聞[編集]

- 地方紙
かつては、新いばらき(水戸市)が存在した。
- 全国紙
文化・スポーツ[編集]
県民性[編集]
水戸徳川家の侍は、茨城県域で水戸っぽい人格を示す水戸っぽという言葉に代表される或る独創的な文化を形成した。第2代水戸藩主・徳川光圀(義公)は時代を超える修史事業『大日本史』編纂を創始し、その為の歴史研究所・彰考館を当県水戸市に設置した。ここへは世界中から学者が集まり、また多くの水戸家臣や学者を諸国へ派遣して資料収集に当たらせた。この茨城県内外に於ける歴史的事実を基礎として、義公一行が権力者の横暴に困っている庶民を救うため勧善懲悪による世直しの旅を行うという内容の、水戸黄門漫遊記としてよく知られた物語・詩劇が作られたのは、あまりにも有名である。更に、第9代水戸藩主の徳川斉昭(烈公)は日本のみならず世界最大の藩校・弘道館を同市に造った。この総合大学は独特かつ精神性の高い水戸藩社会を形成して、幕末期には爆発的な尊王攘夷運動すなわち対外的な国家防衛論を巻き起こし、当校出身の最後の将軍・徳川慶喜による王政復古を導いて、日本史上最大の革命を起こす原因となった。これら日本の伝統追求の学問体系は、水戸学として当県の中央から北部の領域で粛々と江戸時代の300年あまりに渡って形成され、非常な影響力を持って今日の皇室を中心とした統一国家の原型を提供した[336]。特にこの江戸時代の水戸藩政の歴史を根幹として、当県の常陸国としての水戸藩域には水戸の3ぽいと呼ばれる3つの気質が形成された。それは怒りっぽい・理屈っぽい・骨っぽいの3つの性格特性からなり、怒りっぽさは「正義感の強さ」、理屈っぽさは「ボキャブラリー豊かな文化の高さ」[337]、骨っぽさは「思想的な筋や理想を貫く気性」[338][339][340]を示している。[a 108]
これに加え、明治時代初頭に茨城県が下総国を含めて誕生したときそこにあった既存の要素が混ざり、茨城の3ぽいといわれる別の気質も化学反応的に生まれた。こちらは怒りっぽいが共通だが、他の2つは忘れっぽい・飽きっぽいから成っている。この為、正義感が強いと同時に、現実に対する切り替えが早い、また、過ぎた事をいつまでも引きずらない傾向も強くなっていった[a 109]。怒りっぽさは公益に関する自己主張のよさ、忘れっぽさは新しいもの好きに結びつき、飽きっぽさは要領のよさと表裏一体である。この県民性は、雪氷学のパイオニア・土井利位や探検家・間宮林蔵らを育んだ科学的な進取の精神を蓄積させ、筑波研究学園都市や鹿島臨海工業地帯を生み出したと見立てられる[341]。
文化人類学者・祖父江孝男はこうした茨城県民性を次のよう解釈した。
確かに茨城県人は口下手でごますりができない。表現力が乏しい為に小さな誤解が生じる。分かってもらえないから怒り出す。そこで摩擦ができる。人付き合いに計算ができないのだ。しかも、怒りっぽい反面、すぐに忘れてケロッとしてしまうところがある。
祖父江は、茨城県の県民性が茨城県人の陽気さと単純さ、あまり物事にこだわらない性格に起因しているとし、
昨日喧嘩をした相手でも今日、自分を頼ってくれば「よし、おれに任せろ」とポンと胸を叩く。少なくともウジウジとした内向的なタイプではない。
としている。また、茨城県人が怒りっぽいと思われるのは、茨城県の方言である茨城弁の言葉遣いに原因がある、という説もある。この語はかつて多くの東国武士も使った言葉として雄々しく威勢のよい表現が好まれ語尾の上がる特徴を持ち、敬語も簡略化されぶっきら棒に響く為、茨城県の人は軽い気持ちで言っている事も他県の者はまるで叱られているように感じるという[a 110]。またこのような武士道気質に付随した一面として、室町時代に著された『人国記』の茨城県についての項に、当県に於いて「昨日の味方が今日の敵になるようなことは滅多にない」とあり、中世の頃から茨城県人は律儀な性格であると見られていた。
これら外部の人たちからの同県民性への解釈に加え、茨城県人自身は自分達をどう捉えているかについての公的資料として、1965年(昭和40年)に茨城県企画開発部が行った当県の県民性についての調査がある。当時の当県生まれの人たちは自分達の長所を「親切(35%)」「勤勉(32%)」「明朗(30%)」「粘り強い(27%)」「淡白(25%)」と捉えており、短所を「短気(70%)」「熱しやすく冷めにくい(42%)」「執念深い(13%)」「島国的(11%)」「傲慢(10%)」と考えていた。また、2010年(平成22年)の茨城県人はじゃらんリサーチセンターによる当県を対象としたご当地調査において、自らの県民性を
- のんびりしているほうだ(63.6%)
- 伝統を大事にするほうだ(62.6%)
- まじめなほうだ(60.6%)
- 家庭や家族を大事にするほうだ(57.6%)
- 世話好きなほうだ(57.6%)
と考えている。こうして、首都圏に於いて唯一残る『常陸国風土記』の時代を含め、関東地方の極北にあったため日本国内で最長かつ独自の伝統が温存され、『大日本史』に代表される世界史的に見て独創的な文明を形成した歴史背景とその格式が分かりさえすれば、当県人は付き合い易い特徴をもった人々といえる[a 111]。茨城県東海村出身の茨城県知事・橋本昌も、茨城県人は人柄がよく、どんどん仲良くなれると語っている[342]。
方言[編集]
茨城県の伝統的方言は東京から程近い距離であれ、標準語とある程度異なる言葉である。茨城県は常陸国と下総国北西部によって形成され、歴史的に東関東方言地域に属する[343]。県南地域の一部や県西地域の大部分は旧下総国であったため明治時代に千葉県より移管された経緯もあるが、現在の茨城県内で使われる東関東方言を総称して茨城弁と呼ぶことがある。現在この言葉は首都圏に多く見られる流れとして共通語化にさらされており、県南部を中心に伝統的方言が衰退、首都圏方言が徐々に流通している[344]。また、このため県南部では伝統的な方言を解さなくなった住民も多い。茨城弁は東北語の影響も受け、関東圏の中で唯一古い東国語を残していると言える。
NHKが1996年(平成8年)6月から7月にかけ行った全国県民意識調査によると、自分の方言を嫌いだし恥ずかしいという意識が他県から群を抜き突出していたのが茨城県だった。茨城弁の語彙は標準語が部分集合として全て含まれているが、それだけではない独自の語彙もあり、かつ発音やアクセントが東北地方のそれらに近い。この言葉は平坦な発音のため橋と箸が似ている無形成アクセントや、濁音と鼻濁音の区別ができる特徴[a 112]、古語「べし」にルーツを持つ助動詞などで、他県の人々から愛着を持たれている[a 113]。なお平成25年の茨城県政世論調査によると、茨城県民の11.4%はこの言葉に愛着を感じている。茨城県の交通安全協会が毎年主催している茨城弁交通安全川柳コンテストへは老若男女から多数の応募が集まる[a 114]。
例えば、『吾輩は猫である』の冒頭を現代の茨城弁ふうにすると、次のようになる。
茨城弁の一例:俺は猫だ。名前はまだねえ。どこで生まれたかまるっきし見当つかねえ。何でも薄暗えじめじめしたとこでニャーニャー泣いてたことだけ は記憶してる。俺はここで始めて人間っつうもんを見た。しかもあとで聞くとそら書生っつう人間中で一番獰悪な種族だったんだって。
茨城弁はアニメ『Axis powers ヘタリア』において、北欧の雄・デンマークの使うデンマーク語のパロディとしてアニメ中の登場キャラクターへ擬人化され登場し、富山県出身の声優・下崎紘史が当方言の模倣再現をこのアニメ作品上で試みている。[345]
食文化[編集]
- 郷土料理
茨城県の北茨城市や大洗町の郷土料理として知られるどぶ汁は、はじめ、当県北部の漁師達が船上で食べたアンコウ鍋から伝わっている。水を使わずアンコウの肝を炒りつけ、野菜と味噌のみで味付けしてあり、船上でも調理可能だった。日本経済史学者の林玲子はあんこう鍋を食した感想について次の俳句を残している。
なる程のあと 鮟鱇鍋 ながき[a 115] 黙
どぶ汁の名は、
水戸藩らーめんは、明の遺臣・朱舜水を招いた第2代水戸藩主徳川光圀が日本で初めて食べたとされるラーメンを再現したものである。
詳細は「日本の郷土料理一覧#茨城県」を参照
- ご当地グルメ
うまい棒は茨城県常総市にあるリスカの工場で作られている。キャベツ太郎も同県常総市にある菓道の工場で作られている。その他、リスカや菓道は沢山の駄菓子を同工場で作っている。
行方バーガーはアメリカナマズや鯉を使ったもので、茨城県行方市で食べる事ができる。[85]
古河の七福カレーめんは7種類の具材が入ったカレーめんであり、うどんやラーメン、スパゲッティ等にする事ができ、茨城県古河市にある。[85]
笠間のいなり寿司はソバやクルミ、自然薯などの変わったネタが使われており、茨城県笠間市で食べる事ができる。[85]
納豆ケバブはピタと呼ばれるパンに納豆や豚肉、レタスなどを挟んだものである。[85]
- マックスコーヒー(かつて茨城県と千葉県、栃木県を中心とした地域で限定販売されていた)
- アラビヤン焼そば
- 柴沼醤油醸造
- 那珂湊焼きそば(ひたちなか市)
- 角切りほしいも(ひたちなか市)
- ほしいも焼いちゃいました。(ひたちなか市)
- 行方バーガー(行方市)
- 古河の七福カレーめん(古河市)
- 笠間のいなり寿司(笠間市)
- 納豆ケバブ
- メヒコ(茨城県や福島県、栃木県に展開)
- キットカット(稲敷市のネスレ霞ヶ浦工場で生産している)
「:Category:茨城県の食文化」も参照
伝統工芸[編集]
結城紬は室町時代に結城地方の豪族・結城氏が幕府へ献上し、江戸時代に光沢を抑えた渋みに人気が出て高級品となった。30をこえる工程はみな一貫して手作業である。
笠間焼は江戸時代の安永年間に始まり、2014年の時点で240年ほどの歴史を持つ。2014年の時点で茨城県笠間市を中心に200以上の窯元がある。1982年度から毎年4月29日~5月5日に200軒以上の陶芸家や窯元、地元販売店などが、広大で緑豊かな笠間芸術の森公園イベント広場に集い、個性豊かな店作りと作品で客を迎える笠間の陶炎祭が同市で行われている。
西ノ内和紙は350年以上の伝統を持つ楮の和紙であり、日本国無形文化財や茨城県無形文化財へ指定されている。当和紙は強靭かつ保存に適し『大日本史』紙面や衆議院議員選挙の投票用紙、風船爆弾の気球用紙、衣服、商家の大福帳、財布や手提げ等々に使用されてきた。和紙作りが中学校のクラブ活動にもなっている茨城県常陸大宮市は修得に10年はかかる紙漉きの技を継承している。[234]
茨城県石岡市は古代に常陸国府が置かれた事から墓地が多く、かつ親鸞の影響もあって仏教が定着していて、原料の杉など自然条件にも恵まれたため水車を使った線香の産地となっている。昔ながらの伝統工法を守った線香製造業者は2軒、現在まで続いて石岡市小幡に存在している。この業者は江戸末期から明治初期に創業された。[347]
茨城県桜川市で梵鐘づくりが初められたのは鎌倉幕府が開始された1190年から1199年(健久年間)頃である。現在37代目になる小田部鋳造所の先祖が河内国から桜川市真壁町へ移り住み、首都圏で唯一、梵鐘の製造を始めた。この茨城県産の梵鐘の特徴の一つは模様の中に天皇菊の御紋が入っている事であり、1個の製作に約3~4ヶ月かかる。[347]
茨城県北茨城市の手描き鯉のぼりは明治時代から製作が始められ、和紙製から布製品へ代々改良された。[347]
1504年、室町時代に茨城県常陸大宮市(旧・常陸国部垂)で生まれた雪村は佐竹一族だったが出家し僧侶となった。雪村が茨城県常陸太田市瑞竜町の耕山寺に住んでいた時期に、雪村うちわが始められた。徳川光圀も愛用したといわれ全国から注文がある。しかし骨組みに地元の真竹を使い1年の間、天日干ししながら雨や雪にあたらないよう毎日とりこんだり、33の工程をすべて手作業で行うこともあり、年間2000本ほどしか作れない。[347]
南北朝時代(1338年頃。建武年間)から茨城県常陸太田市に伝わっている鋳物の製造によって、第2代水戸藩主徳川光圀の家臣・前田介十郎が木彫りで作ったお面を原型として仮面・光圀卿のおもかげが同地で作られている。[347]
第2代水戸藩主徳川光圀が竹の栽培を奨励したため、茨城県は竹の産地となっているが、1972年(昭和47年)福井県で越前竹人形の修行を経た柴田重光がその技法を受け継ぎながら独自技法でひたち竹人形を創始した。[347]
民芸品のあやめ笠はかつて利根川下流の茨城県潮来市の水稲作業で必需品だったもので、潮来の野に咲いた花であるアヤメから命名されたとも、あるいは笠の形がアヤメに似ていたから名づけられともされる。潮来では既に300年前の民謡に
の 潮来出島 の中にあやめ咲くとはしおらしや 真菰
と歌われ、あやめ笠姿の農民がアヤメの野に田植えなどの農作業をしていた。歌手・橘幸夫が『潮来笠』で歌ったものがあやめ笠だった。[347]
各務鉱三は岐阜県で生まれ、ドイツ留学後、1934年東京蒲田で日本初のクリスタルガラス専門工場を設立したが、1990年本社と工場を茨城県龍ケ崎市へ移転し、同時につくば工場の操業も開始した。この茨城県で造られているカガミクリスタルのガラス細工は茨城県郷土工芸品へ指定されかつ皇室御用達であり、東宮御所や迎賓館、外務省の管轄である外国の在外日本国大使館へ納入され、現在も総理大臣官邸などへ調度化されている。[347][348]
- 無形文化財
- 伝統工芸品
- 線香 (石岡市)
- 梵鐘 (桜川市)
- 手描き鯉のぼり(北茨城市)
- 雪村うちわ (常陸太田市)
- 光圀卿のおもかげ (常陸太田市)
- ひたち竹人形 (日立市)
- あやめ笠 (潮来市)
- カガミクリスタル (龍ケ崎市)
詳細は「日本の伝統工芸品の一覧#茨城県」を参照
芸術[編集]
楽団・
水戸室内管弦楽団(MCO)は1990年以来、水戸芸術館に付属した楽団であり、指揮者で2014年現在の水戸芸術館館長・小澤征爾が総監督や指揮者としてその運営にあたっている。その構成メンバーはソリスト即ち独奏者や、オーケストラの首席奏者として、世界的活躍を続けている国内外の音楽家達が集っている。MCOは、水戸芸術館コンサートホールATMで定期演奏会を行っており、2013年7月現在の当演奏会は第87回目となっている。MCOは特徴的な注目すべき演奏会を行っている。それは入念なリハーサルの末に指揮者を置かないアンサンブルとしてのコンセプチュアルな試みであり、同時に個性的指揮者が彼らを新たな調和を作り出す主として導いた時の協演である。協演者らや日本の作曲家による作品の委嘱された初演は多数に上り[349]、かつ国内外で演奏をしている。1998年6月、当楽団はウィーン芸術週間やフィレンツェ5月音楽祭、ルートヴィヒスブルク城音楽祭らから招待を受け、ハンブルクやチューリヒ、ウィーン、ルートヴィヒスブルク、フィレンツェの5都市をめぐって小澤征爾指揮によるMCO第1回ヨーロッパ公演を行い、西洋の聴衆から圧倒的賞賛を得た。2001年3月、当楽団はフィレンツェやミラノ、ウィーン、パリ、ミュンヘンの西洋各地から招聘を受けMCO第2回ヨーロッパ公演を行い、世界有数の室内管弦楽団という評価を確立した。2008年6月、当楽団はミュンヘン、フィレンツェ、マドリードの3都市から招聘を受け、小澤征爾音楽顧問が急病のため指揮者なしで実行したMCO第3回ヨーロッパ公演は、小澤なしでもトップとその実力を絶賛された。[350]
劇団いばらき~水戸黄門~は、2011年夏、TBSパナソニックドラマシアターのTVドラマ水戸黄門 (第39-43部)完結を受けた水戸市民が水戸黄門の灯を絶やさないと署名を集め、独自劇団を水戸の象徴として立ち上げようと結成された。2012年2月2日、当市民らは市民劇団水戸黄門のメンバーを「桜田門外ノ変」映画化支援の会や常磐神社らの協力により一般公募し、みなボランティアでたちあげた。こうしてできた劇団は、月に何度も数多の公演を県内外でおこなってのち、2013年9月、劇団いばらき~水戸黄門~と名乗った。当劇団は施設慰問を中心に、地域の方々とふれあい茨城の良さを広く伝えていく事を主題・目標にし、且つ映画製作も進めている。[351]
- 楽団
- 水戸室内管弦楽団(MCO)(水戸市)
- 茨城交響楽団(水戸市)
- BLUE HAWKS(大洗町)
- 劇団
- 劇団いばらき~水戸黄門~(水戸市)
- 劇団ACM(水戸市)
- 劇団創造市場(土浦市)
- 民謡
磯原節は郷土の生んだ詩人・野口雨情が郷里を謡った叙情歌が始まりである。毎年12月、磯原節大会が彼の生まれた茨城県北茨城市で開かれ、彼の遺徳を顕彰しかつこの無形文化遺産を後世へ伝承している。多くの参加者らが、自慢の喉をこの大会で競っている。[352]なお、同県日立市出身の音楽家で津軽三味線奏者・上妻宏光が、彼の作品アルバムCD『GEN-源-』の中で磯原節をカバーしている[353]。
スポーツ[編集]

2014年現在、鹿島アントラーズは国内3大タイトル(Jリーグ、ナビスコカップ、天皇杯)について、Jリーグクラブで史上最多の16冠かつそれぞれのタイトルに最多優勝回数を誇る。鹿島はA3チャンピオンズカップやスルガ銀行チャンピオンシップ、スーパーカップを含めると24冠である。また、鹿島は1シーズンで国内3大タイトルを制覇する三冠(2000年)とJリーグ3連覇(2007年-2009年)を同時に達成している国内唯一のクラブでもある。アントラーは勇者が旅立つ事をいう「鹿島立ち」の伝統ある鹿島神宮における神の使い、即ち雄鹿の角の意味であり、茨城の茨をその角にデザインしたエンブレムを持つ。
水戸ホーリーホックの年間売上高はJ2平均の半分ほどの約5億円だが資本金はJ2最少の8000万円と最も経済的なチームだが、北関東ダービーで連続優勝(2009年-2010年、2012年-2013年)し、J2リーグ成績では22クラブ中で平均12位(2000年-2013年)と中位に入っている。水戸ホーリーホックは水戸市に座す徳川御三家の水戸家に因んだ名である。ホーリーホックとは英語で葵を意味し、チーム名とエンブレムは徳川家の葵の御家紋からとられた。なお、マスコットのホーリー君やエンブレムにあしらわれた竜は、水戸黄門こと義公の字・子龍からとられた。茨城県日立市出身の元日本代表サッカー選手・鈴木隆行は、2011年6月3日東日本大震災の直後に水戸ホーリーホックと契約する際、本人の強い希望により無報酬のアマチュア契約でシーズン終了までプレーした。
なお、アントラーズとホーリーホックが対戦する茨城ダービーが茨城県では毎年行われている。
- 茨城ゴールデンゴールズ(稲敷市)
- 新日鐵住金鹿島硬式野球部(鹿嶋市)
- 日立製作所硬式野球部(日立市)
観光[編集]
詳細は「茨城県の観光地」を参照
旧跡・歴史施設等[編集]
茨城県水戸市の日本庭園・偕楽園は都市公園としてアメリカ・ニューヨーク州のセントラルパークに次ぎ世界第2位の面積を持つ[354][355][356][357][358]。偕楽園は日本国の史跡及び名勝に指定されており、かつ伝統的に、岡山県岡山市の後楽園や石川県金沢市の兼六園と並んで日本三名園の一つに数えあげられてきた。
- 偕楽園(水戸市)
- 弘道館(水戸市)
- 西山荘(常陸太田市)
- 六角堂(北茨城市)
- 鹿島神宮(鹿嶋市)
- 牛久大仏(牛久市)
- 常磐神社(水戸市)
- 筑波山神社(つくば市)
- 笠間稲荷神社(笠間市)
- 西光院(石岡市)
- 小田城跡(つくば市)
- 土浦城跡(土浦市)
- 水戸城跡(水戸市)
- 長勝寺(潮来市)
- 猿島坂東三十三観音霊場(境町)
- 板橋不動尊(つくばみらい市)
自然景勝[編集]
袋田の滝は1990年(平成2年)行われた日本の滝百選の人気投票で日本一になった。この滝は日本三名瀑の一つに挙げられ、日本の滝百選に選定された。諸国を遍歴して袋田にやってきた西行法師は「この滝は四季に一度ずつ来なければ真の風趣は味わえない」と絶賛し、ここから袋田の滝を四度の滝とも呼んだ。次の過客らがここで歌を残した。
花もみち
にして山姫の錦織出す袋田の瀧 ――西行法師 経緯 いつの世につゝみこめけむ袋田の布引出すしら糸の瀧 ――徳川光圀
もみち葉を風にまかせて山姫のしみつをくゝるふくろ田の瀧 ――徳川斉昭
御空より巌を伝ひて飛落ちてすべりて散りて四度の大滝――大町桂月
2014年5月時点で、茨城県常陸太田市にある竜神大吊橋は、歩行者専用の橋として本州一の長さである[359]。毎年4月中旬から5月に子供の健やかな成長を願って竜神崎鯉のぼり祭りが、約1キロメートルに及ぶ壮大なワイヤーロープを使ってここで行われる。他、夏には500個の灯篭と100本の竹灯りが飾られ全国各地から集めた風鈴が音色を奏でる竜神崎灯ろうまつりが行われ、秋には常陸秋そばの新そばを味わえる竜神崎紅葉まつり、冬には厳冬期に熟成した日本一とも言われる美味しさの玄そばを参加加盟店が期間限定特別メニューで提供するすいふ蕎麦まつりがここで行われる[360]。
- 五浦海岸(北茨城市)
- 霞ヶ浦(土浦市・かすみがうら市・潮来市・行方市・鉾田市・石岡市)
- 加波山(桜川市)
- 峰寺山(石岡市)
- 水郷(潮来市)
- 筑波山(つくば市・土浦市・桜川市・石岡市)
- 花園・花貫県立自然公園(北茨城市・高萩市・日立市)
- 袋田の滝(大子町)
- 竜神峡(常陸太田市)
公園[編集]
茨城県ひたちなか市にある国営ひたち海浜公園は、季節の花々が咲き乱れる日本有数の大規模な花園として、他園では得がたい経験のできる名所となった。総入園者数は平成25年度に2000万人を超えた[361]。当園は特に丘一面に広がるネモフィラが有名となり、その鑑賞を目当てにしたバスツアーが開催され、かつ当園オリジナルの和菓子ネモフィラの風もその時期に合わせ限定販売されるなどブランド化した。他に先駆けて使われたこの花は、大規模な花園の修景に使うものとして一般的ではなかった。平成17年から毎年ネモフィラの丘を目当てにしたバスツアーによる来園者は増加している。ほかに、平成15年時点で252品種・約100万本のスイセンによる日本一のスイセンガーデン、平成19年度から独創的な花園の素材として紅葉の美しい当園オリジナル品種のコキアなどが導入されている[362]。この土地は民話・千々乱風の伝説に よれば、江戸時代の初期に70日以上北東からの大風が吹き続け、当地にあった集落が砂に埋まったとされている。今日この地は見目麗しい公園だが、かつては 昭和13年に日本軍が水戸東飛行場を建設して以来、昭和21年に連合国軍から接取され在日米軍の対地射爆撃場となっていた。茨城県の人々は周辺民家への模 擬爆弾の誤投下をこうむったり、機関砲不発弾の落下に伴う事故で罪のない者が死亡したりなど苦しい経験から同県民を挙げての返還運動を果たし、昭和48年 この土地が日本国へアメリカから返還された。この土地は戦争利用から平和利用へという各省庁への同県の地元からの要望書を受け、国民のレクリエーションや癒しの場となるよう公園へと国土交通省により作り変えられてきた歴史を持つ。当園内の不発弾処理を行うなどがその中途で行われた[363]。 当園の沖合いは暖流と寒流がぶつかるまれな自然環境であるため、当園内の敷地は生物の北限種と南限種が混在しており、かつ開発が及ばなかった歴史から手付 かずの自然が残ったので貴重な動植物が生息、生物多様性に寄与している。当園は同県ひたちなか市でみられる希少種の多くがみられ、環境省RDB(レッド データブック)絶滅危惧IB類・茨城県RDB稀少種ホトケドジョウや、環境省RDB絶滅危惧IA類・茨城県RDB絶滅危惧種ハナハタザオ、環境省RDB・茨城県RDB準絶滅危惧種のオオウメガメソサソウなどの絶滅危惧種が生息している。ひたちなか市の確認した稀少動物種54のうち37、稀少植物種48のうち20が当園で発見されている。当園は毎年、民間企業主催のROCK IN JAPAN FESTIVALや青年会議所主催のTEENS ROCK、各種協会主催のオータムフェスタ、JA茨城主催のメロン市場などを開いている。また当園は、ボランティアのガーデナーズ倶楽部やスイセンガイド、市民団体によるやんさ太鼓の演奏、平磯の杖術が行われる等、色々なイベントで様々な主体らにより活用されている。当園は2011年3月11日東日本大震災の際に、国民への井戸水による給水支援を行った。平成23年度の費用便益比(B/C)は総費用2926億円分の総便益5788億円で1.98と大幅な黒字である。同年度今後この園は東首都圏一円からの過剰利用客を見込んで、予定されていた自然を破壊しながら施設開発する事業部分を7億円分縮小し、北側に残る貴重な自然を保全し自然や生き物とふれあいながら来園者にそのなかの散策を楽しませる為の新計画へ切り替える予定とした。[364]
- 赤塚公園(つくば市)
- 茨城県笠間芸術の森公園(笠間市)
- 茨城県県西総合公園(筑西市)
- 茨城県水郷県民の森(潮来市)
- 茨城県フラワーパーク(石岡市)
- 港公園(神栖市)
- 科学万博記念公園(つくば市)
- 国営ひたち海浜公園(ひたちなか市)
- 常総運動公園(守谷市)
- 千波公園(水戸市)
- 洞峰公園(つくば市)
- 日立市かみね公園(日立市)
- ポティロンの森(稲敷市)
- 前川あやめ園(潮来市)
- ワープステーション江戸(つくばみらい市)
- 古河総合公園(古河市)
-
つくば市・緑ヶ丘大崎公園
博物館・美術館など[編集]
茨城県にある水戸市は18世紀に水戸学を興し、19世紀に日本最大の藩校・弘道館を造り、且つ日本で1番早く市制を執った。20世紀、その水戸市長・佐川一信が今度は芸術館を造って、当市民の精神面を一層充実させようとした。こうして茨城県水戸市に築かれた水戸芸術館は、音楽・美術・演劇にわたる総合芸術の施設として、水戸市制100周年記念に生まれた伝統を持つ[365]。
茨城県の北茨城市にある茨城県天心記念五浦美術館は、当地の五浦につどった日本美術院の作家達の業績を顕彰し、1997年(平成9年)11月8日に当地へ建設された。当美術館のある歴史的な景勝地・五浦海岸における大小の入江と松林は日本の渚100選、その海岸の波音は日本の音風景100選に選ばれている[366]。
- アーカススタジオ(守谷市)
- アクアワールド・大洗(大洗町)
- 板谷波山記念館(筑西市)
- 茨城県近代美術館(水戸市)
- 彰考館徳川博物館(水戸市)
- 茨城県つくば美術館(つくば市)
- 茨城県立図書館(水戸市)
- 茨城県立点字図書館(水戸市)
- 茨城県立歴史館(水戸市)
- 茨城県天心記念五浦美術館(北茨城市)
- 茨城県陶芸美術館(笠間市)
- 笠間日動美術館(笠間市)
- カシマサッカーミュージアム(鹿嶋市)
- 霞ヶ浦ふれあいランド(行方市)
- しもだて美術館 (筑西市)
- 地図と測量の科学館(つくば市)
- つくばエキスポセンター(つくば市)
- 野口雨情記念館(北茨城市。北茨城市歴史民俗資料館も併設されている)
- 水戸芸術館(水戸市)
- ミュージアムパーク茨城県自然博物館(坂東市)
- 吉田正音楽記念館(日立市)
- つくばみらい市立歴史館(つくばみらい市)
ホール・コンベンション施設[編集]
- 日立シビックセンター(日立市)
- 茨城県立県民文化センター(水戸市)
- つくばカピオ(つくば市)
- つくば国際会議場(つくば市)
- つくば文化会館アルス(つくば市)
- ノバホール(つくば市)
- 鹿嶋勤労文化会館(鹿嶋市)
大型スポーツ施設[編集]
茨城県稲敷郡美浦村のJRA美浦トレーニングセンターは、日本一の設備と規模を持つ競走馬の調教拠点である。1972年(昭和47年)9月に敷地造成が始まり1977年(昭 和53年)4月に開場して以来、そこは一般の人も馬に親しむ事ができるため一つの観光スポットになっている。その敷地面積は224万平方メートル、東京 ドーム約48個分である。常に2000頭以上の競走馬が約120ある厩で訓練に励んでいる。美浦トレーニングセンターで働く人々は騎手70人、調教師 110人、調教助手650人、厩務員550人を超える。毎月第2日曜、予約制ウマシタイベントとして乗馬体験や厩舎見学が行え、土日にも予約制の施設建学ができる。また、施設内の乗馬苑広場は一般開放されており、乗用馬やポニーを間近で気軽に眺められる。[a 118]
- 茨城県立カシマサッカースタジアム(鹿嶋市) - 鹿島アントラーズのホーム
- ケーズデンキスタジアム水戸(水戸市) - 水戸ホーリーホックのホーム
- 水戸市民球場
- ひたちなか市民球場
- 笠松運動公園(ひたちなか市・那珂市・東海村)
- ひたちなか市総合運動公園(ひたちなか市)
- 筑波サーキット(下妻市)
- 取手競輪場(取手市)
- JRA美浦トレーニングセンター(美浦村)
祭り・イベント[編集]

- 常陸大津の御船祭(北茨城市、佐波波地祇神社、5月2日~5月3日、5年に1度、平成26年開催、国選択無形民俗文化財、県指定無形民俗文化財)
- 大津の盆船流し(北茨城市、8月16日、県指定無形民俗文化財)
- 丹生神社の棒ささら(高萩市、丹生神社、4月、県指定無形民俗文化財、市指定無形民俗文化財)
- 大塚神社のささら(高萩市、9月、県指定無形民俗文化財)
- 日立風流物(日立市、4月、ユネスコ無形文化遺産、国選択無形民俗文化財、県指定無形民俗文化財)
- 日立のささら(日立市、神峰神社、5月初旬、県指定無形民俗文化財)
- 金砂神社磯出大祭礼(常陸太田市、東金砂神社、西金砂神社、72年間隔、次回は2075年、国選択無形民俗文化財)
- 西金砂神社大祭礼(常陸太田市、西金砂神社、72年ごとの3月初旬、国選択無形民俗文化財)
- 西金砂神社小祭礼(常陸太田市、西金砂神社、7年ごとの3月初旬、国選択無形民俗文化財)
- 町田火消行列(常陸太田市、西金砂神社、3月初旬、7年に1度の西金砂神社小祭礼開催時、県指定無形民俗文化財)
- 浅川のささら(大子町、熊野神社、20年毎の4月初旬、県指定無形民俗文化財)
- 天満宮御祭礼(湊八朔祭り)(ひたちなか市、那珂湊天満宮、8月下旬、国選択無形民俗文化財、県指定無形民俗文化財)
- 大串のささらばやし(水戸市、稲荷神社、2月下旬~3月下旬、国選択無形民俗文化財、文化庁選択民俗芸能、県指定無形民俗文化財)
- 大野のみろくばやし(水戸市、稲荷神社、2月下旬~3月下旬、国選択無形民俗文化財、文化庁選択民俗芸能、県指定無形民俗文化財)
- 磐戸神楽(古河市、4月4日、旧暦3月4日、県指定無形民俗文化財)
- 三和祇園ばやし(古河市、4月4日、旧暦3月4日、県指定無形民俗文化財)
- 小栗内外大神宮太々神楽(筑西市、小栗内外大神宮、4月21日と11月10日、県指定無形民俗文化財)
- 辻集落火渉(筑西市、辻稲荷神社、12月、市指定無形民俗文化財)
- 太太神楽(筑西市、関本神社、12月、市指定無形民俗文化財)
- 馬出し祭(行方市、八坂神社、7月、市指定無形民俗文化財)
- 鹿島神宮祭頭祭(鹿嶋市、鹿島神宮、3月上旬、国選択無形民俗文化財、県指定無形民俗文化財)
- 大生神社巫女舞神事(潮来市、大生神社 、11月、県指定無形民俗文化財)
- 延方相撲(潮来市、鹿島吉田神社、7月、県指定無形民俗文化財)
- 上戸の獅子舞(潮来市、国神神社、11月、県指定無形民俗文化財)
- あんば囃し(稲敷市、大杉神社、10月、国選択無形民俗文化財)
- 龍ヶ崎の撞舞(龍ケ崎市、7月、八坂神社、国選択無形民俗文化財、県指定無形民俗文化財)
- 神田ばやし(坂東市、香取神社、八坂神社、国王神社など、年に数回、県指定無形民俗文化財)
- 塚崎の獅子舞(境町、香取神社、4月15日、7月15日、11月15日、県指定無形民俗文化財)
- 柿岡からくり人形(石岡市、八坂神社、7月、県指定無形民俗文化財)
- 常陸國總社宮大祭(石岡市、常陸國總社宮、9月、関東三大祭りの一つ、県指定無形民俗文化財)
- 真家みたま踊り(石岡市、八坂神社、8月、国選択無形民俗文化財、県指定無形民俗文化財)
- 日枝神社流鏑馬まつり(土浦市、4月上旬、県指定無形民俗文化財)
- 田宮ばやし(土浦市、梶ノ宮神社、7月最終日曜日、県指定無形民俗文化財)
- からかさ万灯(土浦市、8月、国選択無形民俗文化財、県指定無形民俗文化財)
- 小張松下流綱火・高岡流綱火(つくばみらい市、小張愛宕神社、高岡愛宕神社、8月、国選択無形民俗文化財)
- 西丸山祈祷ばやし(つくばみらい市、1月、県指定無形民俗文化財)
- 日立さくらまつり(日立市、4月)
- やまがた宿芋煮会(常陸大宮市。毎年11月に行われる関東一の芋煮会)
- ひたちなか祭り(ひたちなか市、8月)
- ROCK IN JAPAN FESTIVAL(ひたちなか市・国営ひたち海浜公園)
- 水戸の梅まつり(水戸市、偕楽園、2月下旬~3月下旬)
- 夜梅祭(水戸市、3月の宵頃)
- 水戸黄門まつり(水戸市、8月第1週の金、土、日曜日)
- 小鶴祇園祭(茨城町、八坂神社、7月)
- 常陸國總社宮大祭(石岡市、関東三大祭に選ばれており、3日間で約40万人の来客がある)
- 下館祇園祭(筑西市、羽黒神社、7月下旬)
- 鹿島神宮御船祭(鹿嶋市、鹿島神宮、12年に一度の午年9月2日)
- 鹿島神宮神幸祭(鹿嶋市、鹿島神宮、9月)
- 潮来祇園祭禮(潮来市、8月)
- 水郷潮来あやめまつり(潮来市、8月)
- 将門まつり(坂東市、国王神社、市内、11月)
- 百里基地航空祭(小美玉市、10月)
- 土浦祇園祭(土浦市、7月)
- 土浦全国花火競技大会:日本三大花火大会の一つであり、秋季に開催される。毎年70〜80万人の来客がある。
- 筑波山梅まつり(つくば市、2月~3月)
- 筑波山神社御座替祭(つくば市、筑波山神社、4月1日、11月1日)
- まつりつくば(つくば市、8月)
詳細は「茨城県の観光地」を参照
茨城県を舞台とした作品[編集]
映画[編集]

- 天心(北茨城市、五浦海岸)
- 桜田門外の変(県内各地)
- いちばんきれいな水(つくば市)
- 男はつらいよ 寅次郎真実一路(牛久沼畔 - 稲敷郡茎崎町。現・つくば市)
- 恋するトマト(霞ヶ浦付近)
- ゴジラvsビオランテ(つくば市)
- ゴジラvsメカゴジラ(つくば市)
- ゴジラvsスペースゴジラ(つくば市)
- ゴジラvsデストロイア(つくば市)
- ゴジラ2000 ミレニアム(那珂郡東海村・鹿嶋市)
- ゴジラ×メガギラス G消滅作戦(那珂郡東海村)
- ピンチランナー(ひたちなか市)
- 下妻物語(下妻市・牛久市)
- 日本暗殺秘録(平磯町) - 千葉真一演ずる小沼正の故郷
- HAZAN(筑西市)
- 僕たちの戦争(つくば市・土浦市)
- メロン畑でつかまえて(鹿島郡旭村。現:鉾田市)
- 夜のピクニック(水戸市等)
- ViVA!Kappe ビバ!カッペ(水戸市)
- 大洗にも星はふるなり(大洗町)
- 手紙(日立市)
- 百万円と苦虫女(日立市)
- ゴキブリ刑事(神栖市)
- 魍魎の匣(常総市、水戸市)[367]
テレビドラマ[編集]
『水戸黄門』は1969年8月4日にその放送をナショナル劇場枠で始め、2003年12月15日放送1000回を迎えた、世界に類を見ない長編時代劇である。水戸黄門シリーズ全1227回の平均視聴率は22.2%、最高視聴率は1979年2月5日に記録した43.7%[368]であり、積木くずし最終回の45.3%に次いで民放ドラマ史上2番目の高さだった[369]。2012年、ザテレビジョンドラマアカデミー賞より本シリーズ42年の歴史へザテレビジョン特別賞が贈られた。水戸家の家老・三木之次は水戸黄門こと徳川光圀(義公)の育ての親であったが、彼の子孫・三木啓次郎は1918年(大正7年)桜田烈士の慰霊に大阪の四天王寺境内を訪れ、そこで二股ソケットを販売していた松下幸之助と出会った。経済的に困窮していた松下の話を聴き、啓次郎は彼を援助した。ナショナル、即ち今日のパナソニックの創業者として松下が成功してのち、啓次郎の恩に応えるためパナソニックの提供でドラマ『水戸黄門』を始めた[370]。松下は他に、茨城県水戸市の常磐神社内に設けられた三木神社や、同県同市の常磐共同墓地内の回天神社にも寄進した[371]。なお2014年5月現在、水戸黄門劇そのものは、同市の劇団いばらき~水戸黄門~が継続している。
- がきんちょ〜リターン・キッズ〜(大子町)
- 風と雲と虹と(岩井市。現:坂東市)
- 逆転夫婦の珈琲ワルツ(つくば市)
- 塚原卜伝(鹿嶋市)
- 水戸黄門(水戸市)
- 徳川慶喜(水戸市)
- 特急田中3号(つくば市・土浦市)
- ねばる女(水戸市)
- ママはバレリーナ(常総市・守谷市)
- ヤンキー母校に帰る(桜川市)
- 早乙女タイフーン(鉾田市)
漫画・アニメ・小説[編集]
- 葛本さんちの四兄弟(當麻町)※架空の町
- 魔法の妖精ペルシャ 第39話「科学博カッパ騒動」(筑波郡谷田部町。現:つくば市)
- 機動警察パトレイバー:シャフトエンタープライズジャパン土浦研究所がある。(土浦市)
- ゲッターロボ號:漫画版において本来の基地が閉鎖されたあとの作戦本部となった秘密基地の所在地が筑波。
- 卓球Dash!!(牛久市)
- 新世紀エヴァンゲリオン 第6話「決戦、第3新東京市 Rei II」(つくば市)
- 新竹取物語 1000年女王 )(つくば市)※作品の連載当時は谷田部町
- 主人公始のおじが所長をやっている筑波山天文台が出てくる。
- 天保異聞 妖奇士 説十二(第12話)「駁竜(はくりゅう)、月に吠える」 古河藩/古河城(古河市)
- 鳴弦の巫女 あるいは神内雪奈さんの秘密(桜市)※架空の市 ISBN 9784894257467
- 六番目の小夜子(水戸市) ISBN 9784101234137
- 図書室の海・ピクニックの準備(水戸市) ISBN 9784101234168
- 夜のピクニック(水戸市) ISBN 9784101234175
- 図書館危機(水戸市) ISBN 4840237743
- 応化戦争記シリーズ(常陸市)※架空の市(土浦市・つくば市など)
- 打海文三の小説。三部作の最後である『覇者と覇者』は未完。常陸市に拠点を置く常陸軍の物語のため、県内各地の土地が登場する。
- 新世界より(神栖市・つくば市)
- 貴志祐介の小説。主人公たちが1000年後の神栖市がモデルの「神栖66町」に居住。筑波山も登場する。
- 湾岸ミッドナイト (日本自動車研究所の谷田部高速周回路、 回想シーンに多数登場)
- 楠みちはるの漫画、ゲーム(PS3版)に登場。
- 頭文字D(筑波パープルライン)
- しげの秀一の漫画、アニメやゲームにも登場。
- あぐかる
- 茨城県の農産物を宣伝する目的で製作されているインターネットアニメ。
- ガールズ&パンツァー(大洗町)
- 俺の脳内選択肢が、学園ラブコメを全力で邪魔している(水戸市)
- 神様ドォルズ(常陸太田市)
ゲーム[編集]
- グランツーリスモシリーズ - グランツーリスモ4(筑波サーキット)
- レーシングバトル -C1 GRAND PRIX-(筑波サーキット)
- 火焔聖母 〜The Virgin on Megiddo〜(つくば市)
- 片恋いの月 (つくば市)
- 群青の空を越えて (つくば市)
- リアル妹がいる大泉くんのばあい (水戸市)
茨城県出身の人物[編集]
明治時代以降の茨城県文化において、当県出身者は学会に松村任三や栗田寛、市村さん次郎、藤懸静也、佐藤進、沼知福三郎らがいた。また、当県出身者は美術界に横山大観や板谷波山、木村武山、小川芋銭、中村彝、靉嘔、山下りん、熊岡美彦、飛田周山らがいた。文学界に野口雨情や長塚節、石河幹明、横瀬夜雨ら、音楽界にベルトラメリ・能子や吉田正らがいた[a 119]。当県高萩市出身の植物学者であった松村任三はハマギクの学名・Chrysanthemum nipponicum Matsumuraの名付け親で、牧野富太郎は彼の門下生である。また、茨城県の医者だった手塚光照は、手塚治虫の先祖である。
現代の当県出身者は建築界に妹島和世らがおり、音楽界に石井竜也や上妻宏光、フジファブリック、NIKIIEらがいる。評論界の立花隆、映画監督界に小泉堯史や栗山富夫、深作欣二らがいる。

ゲームクリエイター界の坂口博信はファイナルファンタジーシリーズの生みの親であり、薗部博之はダービースタリオンシリーズを生み出した。当県出身のゲームクリエイター・長谷川五郎はオセロを考案した。当県出身の都々逸坊扇歌は都都逸の生みの親だった。
当県は教育家として黒沢登幾や豊田芙雄、渡辺嘉重、黒沢酉蔵、長谷川良信、大矢敏行らを輩出した。豊田芙雄は水戸学者・藤田幽谷の次女で、文部省から御茶の水女子大学の付属幼稚園に於ける日本最初の保母へ任命され、日本の保母第一号と称された。
当県出身の芸能人は、梅宮辰夫や柳生博、渡辺篤史、渡辺徹、白石美帆、永作博美、栗山千明、マギー司郎、松居直美、三浦春馬、磯山さやか、乾曜子、来栖あつこ、谷桃子、綾部祐二、渡辺直美、黒沢かずこ、キタキマユ、鈴木奈々、渡部豪太、吉川友らがいる。
当県出身者は実業界に江戸英雄や小林孝三郎、黒沢酉蔵、川崎八右衛門、内田信也、磯部保次、太田祐雄、宮田栄助、市川忍、高杉晋一、川又克二、関浩二らがいた。堀義人や海老沢勝二は茨城県出身である。
江戸時代の水戸学者として徳川斉昭や藤田幽谷、藤田東湖、会沢正志斎、豊田天功、戸田忠太夫、青山延寿らが有名である。新撰組初代筆頭局長は芹沢鴨であり、新撰組最後の隊長は相馬主計と当組の創設と廃止に当たる構成は当県出身者から成っている。御陵衛士盟主・伊東甲子太郎も茨城県出身だった。華族は、最高位の公爵に水戸徳川家や徳川慶喜家、伯爵に香川家、子爵に松戸徳川家、石岡松平家、土屋家、土居家、男爵に中山家や山口家らがいた。
なお、藤原氏の始祖・藤原鎌足は『大鏡』によれば茨城県出身となっている。平国香は茨城県筑西市の真壁郡を本拠とし、常陸平氏や越後平氏、伊勢平氏の祖であり、のち秋田県知事となった佐竹氏や親皇・平将門らを輩出した。伊達氏こと伊達宗家の初代当主・伊達朝宗や甲斐源氏で武田氏の祖・源義清らが戦国大名として茨城県出身である。越前松平家宗家の初代当主・結城秀康は茨城県結城市を出自とした氏族であり、江戸幕府初代将軍徳川家康の子・秀康を養子として松平姓を名乗り福井県福井市へ移った一族である。赤穂浪士の討ち入りで有名な浅野氏の初代赤穂藩主・浅野長直も、当討ち入りの人数を占めた家臣団を含め、茨城県桜川市真壁町の真壁藩及び茨城県笠間市の笠間藩出身である。赤穂浪士のうち播磨国赤穂郡出身者は大石良雄を含め半数程度であり、それに次いで多いのが常陸国真壁郡や茨城郡笠間の出身者である。これは、赤穂浅野氏の家臣団のうちその中心陣は、1645年(正保2年)浅野長矩の祖父にあたる浅野長直が赤穂へ転封される以前の真壁藩・笠間藩時代に形成されている為である。吉田兼亮や小野寺秀和、堀部金丸など高齢者の浪士は茨城県の生まれが多い。そのため当県には今も赤穂浪士の出身した旧家が残り、浪士の遺品も当地に多く伝わっている。[372][373]。現在の徳川宗家第18代当主・徳川家広や御三卿の清水徳川家、香川県の高松松平家、福島県の会津松平家、守山松平家、茨城県の宍戸松平家らは男系先祖が茨城県の水戸徳川家出身である。かつ、千葉県の松戸徳川家は水戸徳川分家である。なお、尾張徳川家の第22代当主・徳川義崇も第17代当主・徳川慶勝や第18代当主・徳川義礼を通して水戸徳川家の女系子孫である。2014年現在、水戸徳川家と徳川慶喜家[374][375]、そして一橋徳川家[376]と茨城県には3つの徳川家が在住している。
ほかに戦国時代の茨城県で佐竹氏に仕えた上記と別個の徳川氏がいたが、彼らは清和源氏・新田氏の支流、得川義季の後裔と称し得川氏および世良田氏の始祖となった。この別個の常陸徳川氏は江戸時代に至って主君・佐竹氏に従って秋田県へ茨城県から移り、秋田藩に仕えた。この徳川氏は水戸徳川家や徳川宗家とは別系統の徳川氏である[377]。
代表的な茨城県出身もしくは当県出身継嗣及び家門の氏族一覧 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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詳細は「茨城県出身の人物一覧」を参照
脚注[編集]
- 出典
- ^ 草間p28。
- ^ 県民p72。
- ^ 県民p169。
- ^ 山本p31。
- ^ 茨城p2。
- ^ 草間pp39-40。
- ^ 草間pp39-40。
- ^ 県民p17。
- ^ 草間pp39-40。
- ^ 県民p17。
- ^ 草間p53。
- ^ 茨城p2。
- ^ 茨城p3。
- ^ 山本pp35-36。
- ^ 山本p37。
- ^ 茨城p3。
- ^ 茨城p3。
- ^ 山本p51。
- ^ 茨城p3。
- ^ 石塚p113。
- ^ 石塚p113。
- ^ 茨城p4。
- ^ 渡部pp130-131、pp134-135。
- ^ 渡部pp142-156。
- ^ 茨城p4。
- ^ 茨城p4。
- ^ 茨城p4。
- ^ 茨城p4。
- ^ 茨城p4。
- ^ 茨城p6。
- ^ 茨城p97。
- ^ 県民p145。
- ^ 吉田p381。
- ^ 岡村p125
- ^ 山川p271。
- ^ 岩崎p128。
- ^ 岩崎p301。
- ^ 山川p446-447。
- ^ 山川p271。
- ^ 常磐pp116-117。
- ^ 常磐p117。
- ^ 常磐p117。
- ^ 山川p100。
- ^ 常磐pp107-117。
- ^ 常磐pp118-122。
- ^ 常磐p123。
- ^ 茨城p5。
- ^ 常磐pp128-129。
- ^ A.B.ミットフォード、1998。
- ^ サトウ、第26章。
- ^ 渋沢p70-72。
- ^ 千田p289。
- ^ サトウ、付録・当時の日本の政情。
- ^ 岡村p159。
- ^ 県民p59。
- ^ 千田p76。
- ^ 茨城p6。
- ^ 色川p21。
- ^ 色川p30。
- ^ 色川p32。
- ^ 色川p33。
- ^ 色川pp34-36。
- ^ 色川p37。
- ^ 色川p45-46。
- ^ 色川p10。
- ^ 色川p11。
- ^ 色川p49。
- ^ 北茨城市p190-191。
- ^ 茨城p214。
- ^ 県民pp132-133。
- ^ 茨城p7。
- ^ 茨城p7。
- ^ 山本pp164-165。
- ^ 山本pp168-169。
- ^ 山本p170。
- ^ 千田p76。
- ^ 石塚p28
- ^ 山本pp96-97。
- ^ 山本p96。
- ^ 県民p46。
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- ^ 県民p50。
- ^ 県民p81。
- ^ 県民p46。
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- ^ 県民p92。
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- ^ 石塚p38。
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- ^ 電気、2010。
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- ^ 石塚pp25-27。
- ^ 北茨城民p18。
- ^ 県民p65。
- ^ 県民p65。
- ^ 県民p92。
- ^ 県民p92。
- ^ 石塚p191。
- ^ 県民p159。
- ^ 茨城p7。
- 注釈
- ^ 日立グループの研究所が集積した茨城県日立市や、日本国や独立行政法人・学校法人等の原子核物理学を始めとした物理学研究所が集積した茨城県東海村、日本国立の研究機関を初め多数の官民両方の研究所が集積した筑波研究学園都市など、茨城県内にある多数の研究所集積地を含む。総務省統計局、平成21年経済センサス‐基礎調査。2014年6月閲覧。
- ^ J-PARCなど世界最高性能の微科学研究機関の集積した茨城県東海村や、日立グループの研究所が集積している茨城県日立市、日本国立の研究機関が集積している茨城県つくば市などを含む。この内たとえば、平成23年度の茨城県つくば市に於ける博士号保持者数は8243人、研究者数は20258人であり、国や大手企業の研究拠点が多数存在、約300に及ぶ研究機関・企業を擁し、このうち日本人の博士号取得者は7215人に達する。また、外国からの研究者や留学生が多く、外国人登録者数は133カ国7565人である茨城の豆知識、茨城県、平成26年4月1日。2014年5月閲覧。総務省統計局、平成21年経済センサス‐基礎調査。2014年5月閲覧。(つ くば市FactBook2011:10ページ。2012年8月10日閲覧)。([http://www.city.tsukuba.ibaraki.jp /dbps_data/_material_/localhost/GyouseiKeiei/ToukeiTsukuba_2011/ToukeiTsukuba2011.pdf 統計つくば2011:42ページ。2012年8月10日閲覧])。
- ^ a b 総務省統計局、平成21年経済センサス‐基礎調査。2014年5月閲覧。
- ^ 茨 城県の人口10万人あたりの研究機関数は11.59軒と、2位の東京都9.38件を大きく引き離している。茨城県の都道府県あたり研究機関数の偏差値は 82.96、2位の東京都は70.92と大差がある。但し、茨城県の研究機関の総数自体は343件と、全国5位である。データ出典:2010年度経済セン サス‐基礎調査。
- ^ 昭和50年から平成5年にかけて本州1位、平成20年度以降再び本州1位。茨城県ホームページ、「農業産出額」と「茨城の日本一!~農業編~」、平成21年8月掲載 平成22年2月一部更新、2014年5月閲覧。
- ^ 下総国北部は千葉県より移管された。
- ^ 首都圏整備法施行令第一条による。
- ^ 多極分散型国土形成促進法第二十二条と同法律施行令第五条により、茨城県土浦市やつくば市、稲敷郡阿見町、新治郡の出島村・千代田町・新治村、稲敷郡茎崎町の区域が東京圏と定義されている。
- ^ 日本の総人口の約2.3%。
- ^ 霞ヶ浦・北浦・牛久沼・涸沼などを含めない場合は5,874.20 km²。
- ^ 国土の約1.6%を占める。
- ^ 山・川・湖などを除く。
- ^ a b c d e f g h i j k l 茨城の豆知識、茨城県、平成26年4月1日。2014年5月閲覧。
- ^ 茨城県庁、知事のページ、ようこそ「いばらき」へ。2014年5月閲覧。
- ^ 平成15年~平成24年度の工場立地面積は1317ヘクタールと日本一。茨城の豆知識、茨城県、平成26年4月1日。2014年5月閲覧。
- ^ 平成24年度の農業産出高、本州1位。後述。茨城の豆知識、茨城県、平成26年4月1日。2014年5月閲覧。
- ^ 『万葉集』にも詠まれ、日本百名山、日本百景の一つとされる。歌川広重は、江戸の街からの地平線を描く場合、北や北東なら筑波山を描くことが多かった。
- ^ 平成23年度のつくば市に於ける博士号保持者数は8243人、研究者数は20258人と、人口あたりそれぞれ日本最大。茨城の豆知識、茨城県、平成26年4月1日。2014年5月閲覧。総務省統計局、平成21年経済センサス‐基礎調査。2014年5月閲覧。
- ^ 茨城県、平成24年度 茨城県県内総生産速報(2次速報値)。2014年5月閲覧。
- ^ a b 2010年度の県民所得は首都圏で東京都に次いで2位、かつ全国5位。茨城県、平成22年度県民経済計算の全都道府県推計結果における茨城県の状況、平成25年5月29日公表。2014年5月閲覧
- ^ a b 2011年度の実質経済成長率は首都圏一で全国第4位。内閣府、県民経済計算 平成22年度(2013年5月29日)、2014年5月閲覧。
- ^ 県内総生産の国際比較。内閣府、統計表(県民経済計算)、結果の概要その2(PDF形式:383KB)。2014年5月閲覧。
- ^ IMF, World Economic Outlook Database, April 2013.
- ^ 昭和50年から平成5年にかけて本州1位を維持、平成20年度に再び本州1位。茨城県ホームページ、「農業産出額」と「茨城の日本一!~農業編~」、平成21年8月掲載 平成22年2月一部更新、2014年5月閲覧。
- ^ 北海道は道。
- ^ 農家戸数は全国2位。2005年農林業センサス、内閣府。2014年5月閲覧。
- ^ a b 2005年農林業センサス、内閣府。2014年5月閲覧。
- ^ a b 平成23~24年度、全国体力・運動能力、運動習慣等調査で茨城県中学2年生が50メートル走や反復横跳びなど実技8種目の合計点で、2年連続男女とも全国第1位。又、平成24年度の茨城県小学5年生は男女とも全国第2位、平成25年度の茨城県小学5年生は女子第2位、男子第3位。文部科学省、平成25年度全国体力・運動能力、運動習慣等調査結果文部科学省、平成24年度全国体力・運動能力、運動習慣等調査結果。茨城県、平成25年度全国体力・運動能力、運動習慣等調査結果(茨城県)。
- ^ 茨 城県の国民宿舎は、全国に128箇所設置されている国民宿舎(2009年度現在)のうち、客室58室、宿泊定員204人の年間宿泊利用率は93.5%と、 通年ほぼ満室状態(2009年度)。他の施設を大きく引き離した宿泊利用率で、2013年(平成25年)度も24年連続第1位を達成。茨城県、2013年なめんなよ♡いばらき県ブック。2014年5月閲覧。
- ^ a b c 茨城県『輝く茨城の先人たち』「茨城県のすがた」
- ^ 平成17年度の1世帯あたりの住宅の述べ床面積は栃木県と並び首都圏1位である。同年度の1世帯あたりの住宅の述べ床面積が全国区で1位なのは富山県。総務省統計局、表4-11 一般世帯の持ち家率及び1世帯当たりの住宅の延べ面積。2014年5月閲覧。
- ^ 1998年(平成10年)8月14日の時点で、一戸建や長屋建住宅の1住宅当たりの敷地面積の平均は、全国が262㎡、茨城県が420㎡。この数値は47都道府県中の第1位。又、茨城県はこれらの住宅の3割以上が50㎡以上の庭をもっていた。茨城県、本県の住宅の特徴-日当たり良く,敷地広い-、平成10年8月14日紙上掲載、企画部統計課 普及情報グループ。2014年5月閲覧。
- ^ 但し、筑波山は西岸海洋性気候に属している。
- ^ 1998年(平成10年)8月14日の時点で、住宅の日照時間が1日当たり5時間以上の住宅の割合は全国で60.8%、3大都市圏で54.7%、茨城県で72.7%。他方、それが3時間未満の住宅の割合が全国で15.3%、3大都市圏で20.0%、当県で8.1%。茨城県、本県の住宅の特徴-日当たり良く,敷地広い-、平成10年8月14日紙上掲載、企画部統計課 普及情報グループ。2014年5月閲覧。
- ^ 2009年度の都道府県内所得格差。資料・全国消費実態調査。
- ^ 茨城県、県民所得-県内の所得格差少なく-、平成11年9月24日紙上掲載、増加する1人当り県民所得,縮小する所得格差。2014年5月閲覧。
- ^ 県民性研究会『茨城学』カバー扉。
- ^ 愛着を「持っている」(47.4%)と「どちらかといえば持っている」(40.1%)をあわせた、少なくとも愛着を持っている者の割合は87.5%。茨城県、県政世論調査、平成25年10月実施。2014年5月閲覧。
- ^ a b 茨城県、県政世論調査、平成25年10月実施。2014年5月閲覧。
- ^ 十分満足している(10.4%)と十分とはいえないが一応満足している(66.7%)をあわせた割合。茨城県、県政世論調査、平成25年10月実施。2014年5月閲覧。
- ^ 平成21年度から平成25年度の茨城県政世論調査まで継続的に、「十分満足している」と「十分とはいえないが一応満足している」が増え、「まだまだ不満だ」と「きわめて不満だ」が減っている。茨城県、県政世論調査、平成25年10月実施。2014年5月閲覧。
- ^ 地域ブランド調査2011 都道府県ランキング - ブランド総合研究所
- ^ 茨城県。「橋本知事が語る なめんなよ♡いばらき県」 PartⅢ。2014年5月閲覧。
- ^ 茨城県、知事定例記者会見における発言要旨、平成25年9月27日(金曜日)11時20分~11時55分 庁議室。2014年5月閲覧。茨城県、知事定例記者会見における発言要旨、平成25年11月28日(木曜日)11時15分~11時45分 会見室。2014年5月閲覧。茨城県、知事定例記者会見における発言要旨、平成25年9月20日(金曜日)13時00分~13時35分 会見室。2014年5月閲覧。茨城県、知事定例記者会見における発言要旨、平成25年9月20日(金曜日)13時00分~13時35分。2014年5月閲覧。
- ^ 茨城新聞2014年(平成26年)5月21日水曜日、地域、20面。
- ^ 2014年5月19日東京新聞、妹尾聡太。2014年5月閲覧。
- ^ 1878年から東茨城郡。
- ^ 茨城郡条。
- ^ 『常陸国風土記』国立国会図書館。2014年5月閲覧。
- ^ 東茨城郡・西茨城郡。
- ^ 「うまら」と「いばら」は同じ語の異形同士で、「う-」形と「い-」形が併存していたものと考えられる。マ行とバ行の交替は現代語「淋しい」などにも見られる現象である。
- ^ 「茨」の左下の「冫」の字の部分が「二」の字の部分となる。
- ^ 但し、「愛媛県」の「媛」は1990年の人名用漢字の前は旧字体となっている。
- ^ 「城」は「き」とも読む。「宮城」を「みやぎ」というように濁音になる理由は連濁の結果であり、「いばらき」のように必ずしも連濁が起こるとは限らない。
- ^ 「茨城はいつから『いばらき』になったのか!?」excite.ニュース 2005年3月24日
- ^ パソコンや携帯電話などの漢字変換機能では「いばらぎ」でも「茨城」と変換されるが、厳密には誤りである。なお、ATOKダイレクト for はてなは『地名の「茨城」「茨木」の誤読。実際は「いばらき」』と表示する。
- ^ 例:茨城大学→茨大(いばだい)、茨城交通→茨交(いばこう)、茨城急行→茨急(いばきゅう)など。
- ^ これを不適切な使い方とする向きも一部にあるが、略語で読みが変化するのは日本語では古より一般的にみられる用法である。また、47都道府県名の中で一文字の読みが3音節以上になるのは茨城の茨(いばら)のみ。
- ^ 公式には「霞ヶ浦」は西浦、北浦、外浪逆浦の3湖沼および常陸川、北利根川、鰐川の3河川の総称である。ただし、西浦だけを指して霞ヶ浦と呼ぶことも多い。西浦は日本で第2位の面積をもつ淡水湖である。
- ^ 「茨城県」『世界大百科事典』平凡社、2007年
- ^ 茨城県、茨城県知事公室広報広聴課 県民情報センター。2014年5月閲覧。
- ^ 地域内人口は2005年国勢調査の値、都市圏の人口は2000年国勢調査に基づく都市雇用圏の値。
- ^ “茨城県で発生した高病原性鳥インフルエンザ(弱毒タイプ)についての一考察”. 茨城県県北家畜保健衛生所. 2010年8月2日閲覧。
- ^ “LISTA DE OTRAS ORGANIZACIONES RELACIONADOS”. 茨城県国際交流協会. 2010年8月2日閲覧。
- ^ “ジョブカフェいばらき”. ジョブカフェいばらき. 2010年8月2日閲覧。
- ^ “関連施設紹介”. 筑波大学附属病院. 2010年8月2日閲覧。
- ^ “茨城県北ジオパークとは”. 茨城県北ジオパーク. 2012年6月9日閲覧。
- ^ 鹿行はかつての鹿島郡(現・鉾田、鹿嶋、神栖の3市)と行方郡(現・行方、潮来の2市)から1字ずつとった名称である。学校の部活動の地区名など「県東(けんとう)」と呼ばれることもある。
- ^ 水戸地方気象台が気象予報や注意報と警報などを発表する場合など。
- ^ 県央地域と県北地域。1875年5月6日までの茨城県。
- ^ 旧印旛県北西部、旧新治県北部。
- ^ “第2回茨城県総合計画審議会(平成17年12月2日)の結果について”. 茨城県. 2010年3月13日閲覧。
- ^ “茨城県北地域振興の新たな可能性”. ARC. 2010年3月13日閲覧。
- ^ 但し、明治元年(1868年)1月常陸松岡藩が高萩市周辺へ新政府により立藩され、明治2年(1869年)元来一帯を任されていた水戸家の附家老・中山信徴が版籍奉還で常陸松岡藩知事となった。2年後の明治4年(1871年)廃藩置県で常陸松岡藩は廃され松岡県となった。また同年11月、松岡県は茨城県へ編入された。
- ^ 茨城新聞2014年(平成26年)5月21日水曜日、第2社会、22面、デスク日誌、整理部・寺内洋二。
- ^ 2011年3月19日に全線開通。
- ^ a b 「「茨城都民」はどう動く 知事選との同日選」 asahi.com 2005年9月2日
- ^ http://www.city.kamisu.ibaraki.jp/07_government/_hisho_koutyou/0702-29.htm
- ^ 北部広域連携圏は県北山間・県北臨海・県央。
- ^ 南部広域連携圏は鹿行・県南・県西。
- ^ 茨城のグリーン・ツーリズム(田舎・農業体験)、茨城県都市農村交流推進協議会(茨城県農村環境課)2014年5月閲覧。
- ^ ひたちなか市・那珂市・東海村を除く。
- ^ イギリスにおける地方地主の貴族としてのジェントルマンやジェントリも参照。
- ^ 東京新聞、茨城。2014年5月閲覧。
- ^ a b c d e f g 茨城県、2013年なめんなよ♡いばらき県ブック。2014年5月閲覧。
- ^ 姶良・胆沢火山灰、略してAT。
- ^ 樺太・北海道・東北。
- ^ 九州・西日本。
- ^ 鴨志田篤二・星龍象「文化のあけぼのから兵の世へ 海と大地を開く」 長谷川伸三・糸賀茂男・今井雅晴・秋山高志・佐々木寛司『茨城県の歴史』山川出版社 1997年6月 10-12ページ
- ^ または常陸国庁。
- ^ または常陸府中。
- ^ 『万葉集』歌番号1758。
- ^ 『万葉集』歌番号1754。
- ^ 『常陸国風土記』茨城郡条。
- ^ 『常陸国風土記』茨城郡条。
- ^ つくばエクスプレス、筑波山・筑波山神社について。2014年5月閲覧。
- ^ 『常陸国風土記』筑波郡条より。
- ^ 筑波山神社や筑波山の項を参照。
- ^ 四六駢儷体は、南朝の斉や梁の代に流行した。
- ^ 『常陸国風土記』執筆者は分かっていない。なお、719年に常陸国司になったのは、公卿・藤原宇合とわかっている。県民p17。
- ^ 東国。
- ^ 常陸国風土記の項を参照。国立国会図書館デジタルコレクション『常陸国風土記』。2014年5月閲覧。
- ^ 日立市の項を参照。
- ^ 多賀郡条。
- ^ 香島郡条。
- ^ 『万葉集』歌番号4370。
- ^ 鹿島神宮#鹿島立を参照。
- ^ 『デジタル大辞泉』鹿島立ち項等(コトバンク<朝日新聞社>より)。
- ^ 国分寺の項を参照。
- ^ 常陸国守の親王は常陸太守と称した。国司の項を参照。
- ^ 親王任国の項を参照。
- ^ 常陸介の項を参照。
- ^ 『源氏物語』の中で、常陸介の娘である皇族遠戚の浮舟は、皇子の薫や、皇族の匂宮から盛んに求愛される。浮舟 (源氏物語)の項を参照。
- ^ 令制国の項を参照。
- ^ 『延喜式』巻二十八、兵部省。
- ^ 承平天慶の乱#親皇と称すの項を参照。
- ^ 商標登録687647。
- ^ 伊達朝宗、常陸入道念西、伊佐郡 (常陸国)の項を参照。
- ^ 親鸞の項を参照。
- ^ 唯円の項を参照。
- ^ 武田氏の項を参照。
- ^ 古河公方や古河城の項を参照。
- ^ 紀州家、水戸藩の項を参照。
- ^ 1602年、1615年ともされる。
- ^ a b c 源光圀 編『大日本史』第一巻、大日本史序。国立国会図書館 近代デジタルライブラリー、源光圀『大日本史』第1冊 巻1-11 本紀。2014年5月閲覧。
- ^ a b 明治維新後に初代内閣総理大臣・伊藤博文が聞き及び渋沢栄一に伝えた、水戸家の生まれで最後の将軍・徳川慶喜の証言によると、かれの父で第9代水戸藩主・徳川斉昭は幼い慶喜へ水戸家の庭訓として「義公以来、代々水戸家がそうであったよう尊皇の義を重んじ、朝廷と幕府の間で万一いくさがあれば朝廷に着く様ゆめ忘るる勿れ」と戒めたという。徳川1966、烈公(斉昭)の御教訓の事。
- ^ 「常州水戸城主副将軍従三位権中納言」の記述が、義光の傳役だった小野言員(小野角右衛門)宛の義光による書簡に見られる。義公『小野言員宛書翰(付小野言員詞書)』常磐神社義烈館蔵。
- ^ 水戸徳川家第13代当主で侯爵・徳川圀順は明治天皇へ『大日本史』を献上した。この後、彼は『大日本史』完成を含む水戸家代々の勤皇功績を昭和天皇から顕彰され、華族最高位の公爵へのぼった。水戸学、大日本史、徳川光圀の項を参照
- ^ 第15代徳川宗家を継いだ最後の将軍・徳川慶喜は宗家を継いだ頃、初代徳川家康が日本のために開いた江戸幕府を、日本のために自分が葬るの任に当たるべしと覚悟を定めた、と後に語った。徳川1966、将軍職を襲ぎ給いし事。
- ^ 景山は烈公の号。
- ^ 好 文亭など有料部分を除く。偕楽園本園及び歴史館の区域は2/20~9/30の間午前6時から午後7時まで、10/1~2/19の間午前7時から午後6時ま で。また、有料公園施設の好文亭は2/20~9/30の間午前9時から午後5時まで、10/1~2/19の間午前9時から午後4時30分まで。
- ^ 烈公は三雑石切返しの法、砕代を廃止、殺生運の廃止、鷹場以外の村々に一率に課していた殺生に関する高掛物の廃止、などの農政改革に際して、「一度は水戸藩の損になっても、その結果、農民が肥えればまわりまわって藩の益になる事もあるから実施したい」といった、とされる。水戸藩天保の検地とその意義、大石慎三郎。2014年5月閲覧。
- ^ 常磐神社、御田と農人形像。2014年5月閲覧。
- ^ 常磐神社、改革の発端とその発想、仲田昭一。2014年5月閲覧。
- ^ 海外では、タタール海峡やダッタン海峡といわれる。県民p130。
- ^ a b 高萩市生涯学習推進本部編『生涯学習の先人 長久保赤水』1996年。郷土の先人、長久保赤水(ながくぼ せきすい)1717年~1801年。2014年5月閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp bq br bs bt bu bv bw bx by bz ca cb cc cd ce cf cg ch 高萩市。2014年5月閲覧。
- ^ 『デジタル大辞泉』《改正日本輿地路程全図》(コトバンク<朝日新聞社>より)。]
- ^ 飯塚伊賀七、五角堂の項を参照。
- ^ 土井利位の項を参照。
- ^ 一方、茨城県や水戸弘道館を訪れ、東湖らと議論をして去った長州藩士・吉田松陰は始めは水戸学のこの理念に習い、やはり尊王攘夷を主義していた。しかし、広島県にいた盲目の僧侶・宇都宮黙霖はこの字義が、暴力を用いて政権を維持した覇者によるものに過ぎず、道徳を用いて政権を維持する王者の用いるべき語彙ではない、と『孟子』を引き山口県にいた吉田を説得した。このため、反幕府行為の罪で捕らわれていた吉田は1854年『幽囚録』を著し、その中で尊王攘夷論を捨てて、倒幕論、さらに北海道と沖縄および東アジアへの対外侵略を主張した。吉田松陰の項を参照。
- ^ 水 戸学に於ける尊皇攘夷論は、『史記』又は中国史に於ける斉の桓公を中心とした尊王攘夷の成功、即ち周王室への忠誠により諸侯が一致協調して異民族侵入を防 いだ会盟策からの援用であった。この同盟を率いた有力諸侯を中国に於いて覇者といったが、のちに出た孟子は覇者による武断政治である覇道を否定、徳による 王道政治を主張した事から、芸州の僧であった宇都宮黙霖は「水府(水戸藩)の人の尊王論とは徳川家による覇道の正当化に過ぎないため倒幕すべきである」と 主張し、この趣旨を長州藩士・吉田松陰へ往復書簡で伝えた(崎門学研究会、2014年3月閲覧)。しかし、実際の武力倒幕を行ったため明治新政府の覇者と なり幕末の会盟に類したのは、薩長同盟や薩土盟約を通じた長州藩そのものだった。このような覇者の逆転現象は、水戸弘道館を訪れた長州藩士・吉田や薩摩藩 士・西郷隆盛らへ水戸学者の東湖や会沢らが尊皇思想を先に伝えていた事から、大政奉還や江戸開城によって、水戸学で教育された徳川慶喜による政権の禅譲が果たされたのに加え、幕末前半の武備が幕府方に有利だったのに対し、幕末後半は武器商人としての海援隊や薩長同盟を通じ薩長方へイギリス製の最新武備が行き渡った事もそれぞれその一因であろう。また維新後の明治7年(1874年)黙霖は『十七條追考』を著し、その中で「西山(徳川光圀)、景山(徳川斉昭)の如きは半王幕の域を脱せず」と水戸学の趣旨を一君万民論の立場から否定的に解釈していた事から、薩長土肥ら西国諸藩や皇軍による覇道政治、即ち江戸薩摩藩邸の焼討事件に至る薩摩藩のテロ活動や戊辰戦争、征韓論、士族反乱鎮 圧などの一連の国内武力行使へは肯定的であった様である。つまり黙霖は、第一に幕政否定を是とし、覇者による倒幕の合理化に尊皇思想を用いていた。黙霖に とって皇軍による武断政治及び薩長土肥ら西国諸藩による覇道は戊辰戦争等への看過からみても明らかに否定されるものではなかった訳であり、いわば倒幕あり てのちに尊皇ありの考えだったともいえる。この点では、江戸時代中期の『柳子新論』等で別個に尊皇論を説いていた山県大弐も同様であった(明和事件)。しかし一方で水戸学は、日本の王道をしばし武力を持たない天皇への覇者からの忠義そのものに認めていた。鎌倉幕府から悪党とされた天皇擁護の武将・楠木正成はこうして、徳川光圀を初めとした水戸学派から盛んに称揚されてきた(南朝正統論)。また事実上すべての政権は武力を用いる為に、王道は水戸学に於いては弱者擁護(愛民)に見出された(『水戸藩改革の余光』薗部等、2014年5月閲覧)。即ち、水戸学は道徳を武力上の強者としての武士から庇われた武力上の弱者としての天皇擁護かつ愛民という、弱いもの虐めを行わない武士道の気骨に見出していた。水戸弘道館での学生からなった市川三左衛門率いる水戸藩・諸生党約500名は1868年3月奥羽越列藩同盟側に加勢するべく水戸を出発、北越戦争で善戦後、会津へ戻り同年である1868年会津戦争中の篭城戦に於いて会津藩内の婦女子を救済、その後も各地で奥羽越列同盟藩兵らと共に新政府軍に対して奮戦した。福島県会津若松市一箕町の白虎隊記念館敷地内に、会津で命を落とした水戸藩・諸生党士らの「諸生党鎮魂碑」がある(『茨城新聞』2014年(平成26年)5月2日金曜日、17頁、福島会津若松、殉難志士の冥福祈る)。明治維新とは尊皇の観点からすると、徳川方からみれば禅譲であり薩長方からみれば簒奪、それに伴う天皇の江戸進軍であった。幕末のとき、薩長はそれぞれ別個に留学生をイギリスやアメリカへ密航させた為(薩摩藩第一次英国留学生、薩摩藩第二次米国留学生、長州五傑)、優勝劣敗や適者生存の合理化を含む社会進化論をとりこんだ帝国主義者となった。ここに、吉田松陰が1854年『幽囚録』で主張した東アジア植民地化が、弱肉強食の侵略として明治以降の新政府から進められた。こうして尊皇論が国内に行き渡った一方で、江戸民衆による揶揄「勝てば官軍敗ければ賊よ命惜むな国のため」の狂歌にみられるとおり覇道を握った薩長藩閥か らは、水戸学に於ける他方の武士道上の徳、即ち愛民は殆ど省みられなくなった為、水戸学は単なる尊皇攘夷思想として皇室が自己権威の後光として利用した他 は、戦後の日本の教育において積極的には用いられなくなった。江戸幕府から明治政府へ至る事になった王政復古とは、薩長土肥を始めとした西国諸藩側にとっ ては天皇制度を利用した覇権の奪取による倒幕論として解釈されたが、水戸学及び水戸藩にとっては尊皇であるべき幕府を執政の将軍として担う自主的な徳治主義、 水戸藩出身の徳川慶喜を除く徳川宗家とその配下にとっては大政委任論の立場から将軍絶対主義の屋台骨を揺らがす弾圧対象であり危険思想でもあった。この三 者の超克が水戸学の正当解釈を是とした、江戸幕府第15代にして最後の将軍徳川慶喜による大政奉還に果たされた。慶喜は慶応の改革に みられる様、近代化による幕政改革を続けていた上、大政奉還後も諸侯に列し一大名として公に仕えるつもりだったので、徳川宗家を継ぎはしたが水戸学及び水 戸藩の自主徳治主義の方へ準じていた。結局、水戸学には大義名分論の趣旨が含まれていた為、それを持たないか打ち捨てていた吉田らの様に倒幕を主張する事 はなく、水戸学派に於いては幕政改革による敬幕論あるいは佐幕の立場が一貫していたのである。第14代将軍・徳川家茂は1863年5月10日に攘夷決行を孝明天皇へ誓ったがそれは叶わず、翌年である1864年2月既に開港済みの横浜を改めて鎖港した上で、海岸防御を強化するとして再び天皇へ攘夷を誓った。天狗党首領格の水戸藩士・藤田小四郎らは、攘夷決行不能による幕府権威の失墜を憂い、幕府による横浜鎖港を側面から応援するつもりで挙兵した(『茨城新聞』2014年(平成26年)4月30日水曜日、19頁、幕末動乱――開国から攘夷へ、土浦市博物館学芸員・野田礼子)。こうして幕府権威失墜を先んじて憂い、尊皇かつ佐幕を理由に茨城県から出陣した義勇兵の士とそれに呼応した民による天狗党は、尊王攘夷を幕府側へ促すため決起された。天狗党は尊攘が目的で倒幕が目的ではなかった為、那珂湊の戦いでは主に水戸藩・諸生党の藩屏からなる鎮圧軍と争い敗れたものの慶喜率いた皇室直属の幕府鎮圧軍とは争う事なく、不戦投降もできた。これは皇軍と最後まで抗戦した会津藩屏を始めとした、後の奥羽越列藩同盟軍とは対照的である。なお、上述のよう諸生党もこの同盟軍側に加勢した。
- ^ この黒船来航の原因となったアメリカはイギリス人らの殖民地であった。阿片戦争が当時の中国にあった清では既に、1840年から2年後まで行われ、不平等条約をアメリカやイギリス含む欧米列強と結ばされていた。1842年8月29日清とイギリスは南京条約へ調印し阿片戦争を終えたが、清はイギリスから多額の賠償金と香港の割譲、さらに広東や厦門、福州、寧波、上海の強制的開港を認めさせられた。又、翌年の1843年虎門寨追加条約で清は治外法権や関税自主権放棄、最恵国待遇条項承認等をイギリスから強要され、実質的な植民地化を余儀なくされていた。この清とイギリスとの不平等条約に他の列強諸国も便乗する所となり、清はアメリカとの望厦条約やフランスとの黄埔条約等をそれぞれの欧米諸国と結ばされていった。黒船来航の当時、こうして清は欧米列強から実質的に植民地化されていた後だったのである。
- ^ 桜田門外の変の項を参照。なお2010年1月16日の報道によると、このピストルは現物が出現し、そこには高度な旋条線が刻まれていたという。コルトM1851の項を参照。
- ^ 現在の東京都中央区佃二丁目。
- ^ 常磐神社、義烈館蔵。
- ^ 桜田烈士『斬奸趣意書』1860年の記述による。
- ^ 現実には、薩摩藩主・島津斉彬の密命を受けた薩摩藩士・西郷隆盛の朝廷への密勅降下の策謀によるものだった。1858年3月に一橋派の薩摩藩主・島津斉彬の命を受けた同藩士・西郷隆盛は島津家の養女で将軍徳川家定の正室・篤姫から左大臣の公卿・近衛忠煕への書簡を持って京へ向かい、僧・月照らの協力により、慶喜継嗣へ向けて天皇からの内勅降下を謀った。同年8月、西郷は近衛家から託された孝明天皇の内勅を水戸藩と尾張藩へ渡すため江戸に赴いたが、できずに京へ帰った。以後、西郷は9月中旬頃まで薩摩藩士・有馬新七や薩摩藩士・有村俊斎、薩摩藩士・伊地知正治と共に大老・井伊直弼排斥による幕政改革を謀っていた。以上については、西郷隆盛の項目を参照。なお西郷が同じく島津の命で、同年8月ころ水戸藩家老・安島帯刀に水戸への近衛による内勅を示しながら共謀密勅降下運動を打診をしたところ、安島は尊皇攘夷論主流の水戸藩の立場から遠慮(水戸学に於ける大義名分論の立場では幕府による天皇利用は主客転倒になってしまう為)、共同謀議を固辞していた。西郷が京へ帰った直後の同年同月16日深夜、京都留守居役の水戸藩士・鵜飼吉左衛門の子・鵜飼幸吉よりもたらされた天皇からの『戊午の密勅』拝受に安島は驚愕したという。以上については、戊午の密勅の項目を参照。水戸藩士の曽祖父を持つ評論家・山川菊栄『覚書 幕末の水戸藩』によると、西郷は安島に密勅降下の企ての有無を問い安島の無策動を確認後東海道へ向かい、『戊午の密勅』を伝える為江戸へ向かっていた水戸藩士・幸吉と中仙道で行き違ったとされ、この論拠を『水戸史談』に求めている(山川p235)。他方で、同年同月7日深夜に武家伝奏の公家・万里小路正房より水戸藩士・吉左衛門へ渡された『戊午の密勅』はその子の水戸藩士・幸吉に渡され彼は東海道を潜行、副使の士・日下部伊三次は中山道より進んだともされる(戊午の密勅を参照)。また、彦根藩主・井伊直弼の大老就任以前、1857年7月頃、前水戸藩主・徳川斉昭は関白・九条尚忠へ、幕政参与並びに海防参与という江戸幕府内での権力の限界から攘夷を思うように果たせない苦しい内面と朝廷への変わらぬ尊崇の念、そして水戸藩による自主的な皇居警護の志を吐露する書状を送っていた(井伊、1967)。
- ^ 薩摩藩士・西郷隆盛は薩摩藩主・島津斉彬からの密命を受け、島津の示した公武合体策と徳川慶喜擁立に向け福井藩士・橋本左内や僧侶・月照と共に朝廷工作へ奔走した(京都手入れ)。
- ^ 小浜藩士・梅田雲浜も密勅降下の策動に加わっていた、とされる。山川p235。
- ^ 始め脱藩していた父の元で生まれ、水戸藩主に仕えていたが、やがて国元から許され薩摩藩主へ仕えた薩摩藩士・日下部伊三次の朝廷工作が背後にあった、とされる。岡村p119。
- ^ 当時の名は鯉沼伊織。
- ^ 水戸藩士・青山延光の記述によれば、最後まで密勅を守り抜くつもりなら江戸駒込の水戸藩邸に置いても同じと青山は考えたが、同藩士・会沢正志斎や豊田(豊田天功か豊田香窓か不明)も瑞龍山安置案へ賛成なので彼も多数に従って置いた。山川p237。
- ^ 桜田門外の変の項を参照。
- ^ a b 桜田門外の変当時は青年通訳官として幕府の外国係の末席に列していた幕臣・福地桜痴(福地源一郎)『懐往事談』「井伊大老の不人望」項によれば、井伊は本より開国主義者ではなく、実は鎖国・攘夷精神の保守家、ただ外国からの圧力に屈して余儀なく談判に望み、後戻しできないため心で欲してはいないが英断により調印を許可したに過ぎず、条約以外の事について井伊は従来の幕府独裁を変えてはならないという考えだったと考察されるという。また井伊は永井尚志や川路聖謨、岩瀬忠震など幕府の内外に信任が厚かった真に進歩的な人物を、将軍継嗣問題により外国局から追放した。水野忠徳のみ残留したが、彼はあたかも針の上に立つほどに不案内であったという。さらに福地と縁故のあった平山謙次郎や木村敬蔵なども退けられ、福地は知遇者が殆どいなくなってしまい、外国局では井伊を快からず思っていた。それは外国局だけではなく陸海軍でも同様で、阿部・堀田両老中時代に欧州化で進歩改良し始めていた制度が井伊大老時代には歩みを止めてしまった。更にオランダやイギリス、フランスの書による洋学も 衰微したが、こちらは寧ろ井伊大老の意思だったというより、井伊が西洋の政治・学術を好まないのを知った幕府有司が迎合した状勢であったろう、と福地はい う。こうして尊攘論者のみならず幕府の進歩論者からも共に、幕政改革を挫折させた大老として井伊は失望と反感を買った地位におり、桜田事変により人々は井 伊の死を内治外交の一転機として歓迎した、と福地は述べている。また1859年ころ、水野は福地へ江戸で、「水野自身も堀も井伊から喜ばれておらず、他に 代わりがいないから残留しているだけで井伊にとって代役が見つかればすぐに排除され、岩瀬、永井、川路らと同様の災厄に陥るだろう」と語った。幕末の情勢 の中、森山栄之助は外交論をするたび常に福地へ阿部の人となりを賞賛し、「阿部老中が松平近直や筒井政憲、堀利煕、永井、川路、岩瀬らを途用して始めて調印がまとまったのであり、もし井伊大老が任に当たれば100人のハリスが来ても砲煙を見ずに平和の開国はできなかったろう」と語ったとされる。国立国会図書館 近代デジタルライブラリー、福地1894、「井伊大老の不人望」、2014年5月閲覧。
- ^ 桜田門外ノ変#映画の項を参照・
- ^ 東禅寺事件を参照
- ^ 事件当時、外国方として東禅寺にいた福地桜痴は目撃した事件の概要を記録している。
- ^ 幕末の事情を記した福沢諭吉の自伝『福翁自伝』によれば、大老・井伊直弼と徳川将軍家を含む全国諸藩そして日本国内輿論はみな攘夷派だったが、井伊は外国折衝でやむなく条約調印したとされている。福沢p183。
- ^ 井伊家2014年現在の当主・井伊達夫によると、直弼は責任感が強いだけに小心者で、開国も外圧によるもの、彼の真の魂胆は富国強兵後に祖法(いわゆる鎖国)へ国を戻したかったのが本音という。『井伊直弼史記』井伊達夫、2012年1月、平成24年度特別展より、2014年5月閲覧。
- ^ 坂下門外の変の項を参照。
- ^ 『茨城新聞』2014年(平成26年)4月30日水曜日、19頁、幕末動乱――開国から攘夷へ、土浦市博物館学芸員・野田礼子。
- ^ a b 徳川、1966。
- ^ 水戸学の項を参照。
- ^ 1868年(慶応4年)1月19日山 城国にいた順公と水戸藩士・本圀寺勢(上洛中の順公と彼の実弟・徳川昭武(節公)らへ侍った水戸藩士ら)は次の順公の実弟・慶喜公からの書状を受け取っ た。それは「除奸反正の勅書(諸生党らを討伐し藩政を正常化せよという内容の勅状)を速やかに天皇より受諾しその通りに藩政を刷新せよ」という内容であっ た。こうして謹慎直前の弟から助言され、同年2月10日順公はその通りに勅命を明治天皇から受諾した。これ以後、福井県敦賀市での死刑を免れた天狗党生存者らは本圀寺勢と合流でき、江戸小石川・水戸藩邸側の実権を握った。
- ^ 市川三左衛門率いる水戸藩・諸生党約500名は慶応4年(1868年)3月に奥羽越列藩同盟側に加勢するべく水戸を出発、北越戦争で善戦後、会津へ戻り1868年会津戦争中の篭城戦に於いて会津藩内の婦女子を救済、その後も各地で奥羽越列同盟藩兵らと共に新政府軍に対して奮戦した。福島県会津若松市一箕町の白虎隊記念館敷地内に、会津で命を落とした水戸藩・諸生党士らの「諸生党鎮魂碑」がある。『茨城新聞』2014年(平成26年)5月2日金曜日、17頁、福島会津若松、殉難志士の冥福祈る。
- ^ 弘道館戦争の項を参照。
- ^ 「水戸市史跡 水戸殉難志士ノ墓 天狗党ゆかりの回天館 宗教法人 回天神社」パンプレットより。
- ^ 朝日新聞朝刊平成25年1月19日。
- ^ 徳川昭武の項を参照。
- ^ 大能林業。2014年5月閲覧。
- ^ 徳川篤敬の項を参照。
- ^ 常磐神社の項を参照。
- ^ 明治天皇崇敬会。明治天皇 絵画と聖蹟「第13回 徳川邸行幸」。2014年5月閲覧。
- ^ 隅田公園の明治天皇御製碑より。
- ^ 明治神宮崇敬会。2014年5月閲覧。
- ^ 加波山事件の項を参照。
- ^ 美術学校騒動の項を参照。
- ^ a b c 茨城大学五浦美術文化研究所、五浦海岸の魅力。2014年5月閲覧。
- ^ 岡倉天心『茶の本』より。
- ^ 茨城大学、茨城大学所蔵学術文化資料。2014年5月閲覧。
- ^ 小泉晋弥『六角堂の復興へ向けて』2011年、Joyo ARC(常陽地域研究センター)、12ページ。
- ^ a b c 六角堂 (北茨城市)の項を参照。
- ^ 茨城県天心記念美術館の岡倉天心記念室や茨城大学五浦美術文化研究所(六角堂・天心邸の敷地)の天心記念館。
- ^ 旧・磯原尋常小学校。当時は豊田尋常小学校磯原分校。
- ^ a b c 石川啄木『悲しき思出 (野口雨情君の北海道時代)』
- ^ 石川啄木『明治四十丁末日誌』
- ^ シャボン玉 (唱歌)の項を参照。
- ^ また、作曲家・中山晋平の作曲になるこの歌曲はいわき湯本温泉の最寄駅である湯本駅の発車メロディーに使われている。
- ^ 野口雨情の項を参照。
- ^ 書は当時の精華小学校校長・大都直光のもの。
- ^ a b 茨城県立磯原郷英高等学校。2014年閲覧。
- ^ a b [北茨城市立精華小学校。2014年閲覧。
- ^ 北茨城市立精華小学校。2014年5月閲覧。
- ^ この花園山の歌碑は、1958年フロラ茨城の会の創設者・長谷川貞夫が建立した。財団法人・日本鳥類保護連名茨城県支部『かわせみ便り』第28号、2007年6月20日発行。
- ^ ほか茨城県外には、福島県いわき市湯本町には同地に滞在した野口雨情を記念した湯本温泉の童謡館がある。雨情が千葉県の木更津小学校を尋ねた際に、木更津町長から頼まれ雨情が作詞した同県木更津市証誠寺がモチーフの童謡『証誠寺の狸囃子』に因み、木更津駅ではこの歌曲が発着メロディーになっている。また、1979年雨情の童謡『赤い靴』に登場した少女を模した銅像が赤い靴記念文化事業団(旧・赤い靴を愛する市民の会)から横浜市へ寄贈され、神奈川県横浜市の横浜山下公園にこの銅像が設置されたほか、1982年この像のミニチュア版が横浜駅へ設置されのち2010年12月同駅自由通路へ移設された。2010年この少女像と同型の蔵が横浜市と姉妹都市のアメリカ・カリフォルニア州サンディエゴの海辺へ建てられた。その他にも、雨情の『赤い靴』に基づいて以下の銅像が各地へ作られている。
- 静岡県日本平『母子像』(1986年)
- 東京都麻布十番『きみちゃん像』(1989年)
- 北海道留寿都村『母思像』(1991年)
- 北海道小樽市『赤い靴 親子の像』(2007年)
- 北海道函館市『きみちゃん像』(2009年)
- 青森県鯵ヶ沢町『赤い靴の像』(2010年)
- ^ このとき、横浜で働いていた武島勝蔵という職人を新たに雇い入れた。茨城県、いばらきもの知り博士。あんパンを初めて作った木村安兵衛 きむら・やすべい 常陸国河内郡田宮村(牛久市)。2014年5月閲覧。
- ^ 筑波山#筑波山とあんパンを参照。
- ^ また、このパンは、現在でも木村屋で一番の人気である。茨城県、いばらきもの知り博士。あんパンを初めて作った木村安兵衛 きむら・やすべい 常陸国河内郡田宮村(牛久市)。2014年5月閲覧。
- ^ なお山岡は木村親子の成長が嬉しく、水戸徳川邸行幸の年、木村家の看板を書いて贈ったが、この看板の文字は今も木村屋總本店で使われている。筑波山#筑波山とあんパンを参照。
- ^ 茨城県、いばらきもの知り博士。あんパンを初めて作った木村安兵衛 きむら・やすべい 常陸国河内郡田宮村(牛久市)。2014年5月閲覧。
- ^ 『木村屋総本店百二十年史』
- ^ 茨城新聞、1993年(平成5年)2月20日土曜日、社会、19面。
- ^ 日立鉱山#試験農場と植林事業の項を参照。
- ^ アメリカ・ワシントン州のポートエンジェルスにあるOcean View Cemeteryは、アメリカ側で犠牲となった当時26歳のElsie Mitchellを葬った。また、彼女らを弔う記念碑を持ったMitchell Recreation Areaが、同国オレゴン州のブライにあるFremont–Winema National Forestの中に、林業を営むウェアーハウザー社によって作られた。1976年、当風船の製造に携わった日本人科学者・足達左京が この地を訪れ、記念碑へ花輪を添えた。足達の書に『風船爆弾大作戦』(学芸書林、1975年)がある。彼はその後、当事故で子供を亡くしたPatzke家 の遺族へ謝罪の手紙を送った。1995年、日本人学生が千羽鶴を、日本の平和の象徴と犠牲者の遺族への癒しとして送った。また、6本の桜の木が当地・ブラ イへ贈られ、そのうち一本は当記念碑の近くに植え残りはフェンスエリアに植えられた。その後、500人の人々が50周年記念として当地を巡礼した。1996年、ウェアーハウザー社は当地をFremont–Winema National Forestへ寄付し、1997年そこへピクニックエリアが付加された。2003年このエリアは、意義深い歴史的価値を持つとしてアメリカ合衆国国家歴史登録財となった。
- ^ 風船爆弾の項を参照。
- ^ この時県庁が茨城郡水戸におかれたので、茨城県と命名された。
- ^ 当初は印旛郡佐倉に県庁を置く予定であったが、実際は加村の旧葛飾県庁舎を県庁とした。
- ^ 水戸弘道館近くの大手橋のたもとにある、水戸市「御製碑」案内板による。
- ^ 宮内庁。2014年5月閲覧。
- ^ a b 復興支援映画「天心」公式ブログより。
- ^ 水戸芸術館の項を参照。
- ^ G1TOWERの項を参照。
- ^ 茨城県、いばらきもの知り博士。2014年5月閲覧。
- ^ はやぶさ (探査機)#カプセルの一般公開を参照。
- ^ この映画は吉村昭の小説『桜田門外ノ変』を題材にした。
- ^ 映画『桜田門外ノ変』の項を参照。
- ^ ロケセットの売店等で配られた限定冊子『桜田門外の変 SAKURADAMONGAI NO HEN』ライター・金澤誠、2010年(非売品)より。
- ^ 六角堂 (北茨城市)の項を参照。
- ^ 妹島和世の項を参照。
- ^ 青森県・栃木県・群馬県・埼玉県・富山県・石川県・福井県・岐阜県・和歌山県・鳥取県・島根県・岡山県・広島県・山口県・愛媛県・高知県・熊本県・宮崎県・鹿児島県なども同様に言われる。保守王国の項を参照。
- ^ 2014年5月の時点で石川県と並び4人と、全国最少。
- ^ 2013 年(平成25年)10月実施の茨城県政世論調査によれば、現在の暮らし向きに「十分満足している」(10.4%)と「十分とはいえないが一応満足してい る」(66.7%)を合わせた値。特にこの両者を合わせた現在の暮らし向きに満足している割合は、主婦・主夫層で約9割(86.8%)と高い。
- ^ 2008年12月1日共同通信配信のニュースによる。
- ^ 農林水産省統計部『生産農業所得統計』
- ^ 北海道は道である。
- ^ a b 農林水産省、平成23年度 都道府県別食料自給率について、概要(PDF形式)、2014年5月閲覧。農林水産省、平成23年度 都道府県別食料自給率について、概要(Excel形式)、2014年5月閲覧。
- ^ a b 関東農政局、食料自給率、低下する「食料自給率」。2014年5月閲覧
- ^ 総務省統計局。2014年5月閲覧。
- ^ http://www.rinya.maff.go.jp/toukei/genkyou/shinrin-jinkou.htm
- ^ a b c d e f g h i j k l 茨城県農業総合センター。2014年5月閲覧。
- ^ 農林水産統計平成23年度12月7月。
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- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw 茨城県庁『発見!! いばらき』「農林水産物」2014年5月閲覧。
- ^ 茨城県産米銘柄化協議会調べ。
- ^ 商標登録日本第4873108。
- ^ 北条米の項を参照。
- ^ いばらきもの知り博士。2014年閲覧。
- ^ それ以前に、長崎を通して、営々とオランダに緑茶が輸出され、ヨーロッパ各国やイギリスなどにも渡った歴史があった。しかし、ヨーロッパでは、緑茶と硬水の相性が悪かったために、後に登場した紅茶によって衰退した。
- ^ 日本茶#関東地方を参照。
- ^ ラッキョウを軟白栽培したもので「エシャレット」は日本独自の商品名である。フランス料理などに使用される本物のエシャロットとは別物
- ^ 独立行政法人家畜改良センター調べ。
- ^ 茨城県銘柄豚振興会より。
- ^ ナシ#日本における産地の項を参照。
- ^ 農林水産省 平成23年産西洋なし、かき、くりの結果樹面積、収穫量及び出荷量。
- ^ “Production of Chestnut by countries”. UN Food & Agriculture Organization (2011年). 2013年12月21日閲覧。
- ^ 茨城県農業総合センター こだわりの産地 日本一の芝産地
- ^ チョウセンハマグリの項を参照。なお、チョウセンハマグリは朝鮮とは関係がなく、漢字で汀線と書く。
- ^ ニホンウナギの資源管理について。平成26年2月、高知県内水面漁場管理委員会、p172014年閲覧。
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- ^ 東京新聞、霞ケ浦の養殖コイ大量死(茨城県) 出荷再開も道のり険しく、2009年10月6日、塙幸雄。2014年5月閲覧。
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- ^ 平成23年生産農業所得統計。
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- ^ 「日本でいちばん大切にしたい会社」大賞、第3回受賞企業。2014年閲覧。
- ^ 茨城県開発公社の坂入健理理事長が茨城空港の建設段階で「天井はいらないのではないか」と設計者の梓設計(本社・東京都品川区号) へ伝えていたにもかかわらず、当設計会社は見た目や防・吸音のため天井パネルを設置した。東日本大震災の当日、この天井パネルが落下した。施設の設計を担 当した梓設計の原口修執行役員は「法的に問題がない補強をした為、設計ミスや施工ミスではないと考えている」と語った。坂入理事長は天井を張らずに復旧し た。日本経済新聞、2011年6月27日。2014年閲覧。
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- ^ a b なお、2014年の時点で他に民間共用化の自衛隊基地群は次にあげるものがある。
- 北海道:札幌飛行場(丘珠空港)※自衛隊と共用
- 東北:三沢飛行場(三沢空港、青森県)※自衛隊・アメリカ空軍と共用
- 首都圏:百里飛行場(茨城空港、茨城県)※自衛隊と共用
- 中部:小松飛行場(小松空港、石川県)※自衛隊と共用
- 中国:美保飛行場(米子空港、米子鬼太郎空港、鳥取県)※自衛隊と共用
- ^ 茨城県企画部空港対策課。2014年閲覧。
- ^ 東京千代田区紀尾井町にある株式会社文藝春秋発刊の週刊誌・週刊文春(2010年3月11日号)は『「陸の孤島」茨城空港、開港直前の現実』(宮嶋茂樹 著)と題した特集記事を組んだ。
- ^ 茨城空港は百里として記載されている。国土交通省、航空旅客数・貨物取扱量の推移。2014年閲覧。
- ^ 茨城県、企画部空港対策課。2014年5月閲覧。
- ^ a b 利根川の千葉・茨城県境から取手駅までの900mのみ
- ^ 県内では古河駅のみ
- ^ 日本国内の鉄道路線において、路線が通過する県に1つも駅がないのは本県における東北新幹線が唯一である。中川浩一は1981年の「茨城県鉄道発達史」において、新幹線が茨城県にただ騒音のみをもたらすことを危惧していたが、30年近く経つ現在もその状況は変わっていなく、新駅設置運動も行われている。[1]
- ^ 1965年ノーベル物理学賞の朝永振一郎。2000年ノーベル化学賞の白川英樹。2008年ノーベル物理学賞の小林誠。筑波大学は旧・東京教育大学であった(京都大学、日本人のノーベル賞受賞者一覧。2014年5月閲覧)。なお、小林誠は茨城県にある高エネルギー加速器研究機構に おいて、旧高エネルギー物理学研究所教授や素粒子原子核研究所長、高エネルギー加速器研究機構理事、高エネルギー加速器研究機構名誉教授を歴任しつつ研究 していた。彼は2008年度のノーベル物理学賞を受賞し、2009年1月高エネルギー加速器研究機構特別栄誉教授となった。高エネルギー加速器研究機構の つくばキャンパスは当県つくば市、東海キャンパスは当県那珂郡の東海村にある。
- ^ 文部科学省、全国学力・学習状況調査。
- ^ 水戸城の項を参照。
- ^ 茨城県立土浦第一高等学校の項を参照。
- ^ 茨城県立大洗高等学校の項を参照。
- ^ a b 茨城県、茨城県知事公室広報広聴課 県民情報センター。2014年5月閲覧。
- ^ 水城高等学校の項を参照。
- ^ 旧・磯原尋常小学校。当時は豊田尋常小学校磯原分校。
- ^ 書は当時の精華小学校校長・大都直光のもの。
- ^ 北茨城市立精華小学校。2014年5月閲覧。
- ^ 総務省資料
- ^ TOKYO MX地上デジタル受信ガイド
- ^ 「茨城も被災地」 元日本代表・鹿島アントラーズの小笠原選手ら訴え - ニコニコニュース、2011年3月16日。
- ^ 磯山さやか、テレビで放映されない忘れられた被災地、茨城の惨状訴える - シネマトゥデイ、2011年3月17日。
- ^ 「被災地に伝える」姿勢を - 読売新聞、2011年4月5日。
- ^ ”関東被災地”茨城県の震災報道 新・週刊フジテレビ批評、2011年5月21日。
- ^ 水戸学の項を参照。
- ^ 作詞家・作曲家の中村泰士は2000年(平成12年)12月10日に茨城県行方郡麻生町(現行方市)で開かれた講演会にて、「怒りっぽい」を「正義感が強い」、「理屈っぽい」を「ボキャブラリー豊かで文化が高い」という意味であると語った。茨城県水戸生涯学習センター 編(2001):4ページ
- ^ 常磐神社。2014年4月閲覧。
- ^ 楽書快評。2014年4月閲覧。
- ^ 水戸 弘道館から偕楽園を歩く 2014年4月閲覧。
- ^ 県民性研究会『茨城学』「はじめに」
- ^ 西内義雄『週刊アサヒ芸能』2007年11月15日特大号"ちょっとだけ、田舎暮らし 気候・風土・県民性…快適な住みやすさに茨城県知事が太鼓判":pp.150-151
- ^ 日本語の方言地図より
- ^ 青木智也(2004)『いばらぎじゃなくていばらき』(茨城新聞社)
- ^ Axis powers ヘタリア#北欧を参照。
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- ^ a b c d e f g h 茨城県庁『発見!! いばらき』「農林水産物」2014年5月閲覧。
- ^ カガミクリスタルの項を参照。
- ^ MCOは指揮者として小澤征爾や、シモン・ゴールドベルク、ルドルフ・バルシャイ、トレヴァー・ピノック、ジャン=フランソワ・パイヤール、トン・コープマン、準・メルクル、ヘルムート・ヴィンシャーマン、若杉弘、広上淳一、ハインツ・ホリガー、大野和士と協演してきた。或いはソリストではムスティスラフ・ロストロポーヴィチ、アンドラーシュ・シフ、ブルーノ=レオナルド・ゲルバー、園田高弘、ドリス・ゾッフェル、カール・ライスター、ナタリー・シュトゥッツマン、ライナー・クスマウル、アンドレアス・シュタイアーと協演してきた。他に、 一柳慧の『汽水域』や、1995年に尾高賞を受賞した林光の『悲歌』、平義久の『彩雲』 などの作品が初演された。水戸芸術館。2014年5月閲覧。
- ^ 水戸芸術館。2014年5月閲覧。
- ^ 劇団いばらきHP。2014年閲覧。
- ^ 北茨城市、磯原節大会(12月)。2014年閲覧。
- ^ 上妻宏光#CDアルバムを参照。
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- ^ 常磐神社。三木神社(末社)。2014年閲覧。
- ^ 回天神社の項を参照。
- ^ 浅野長政の3男・浅野長重の家系は分家して後に、播磨国の赤穂藩主となった。
- ^ 赤穂浪士の項を参照。
- ^ 徳川慶喜家第4代目当主の徳川慶朝氏は、主に茨城県のサザコーヒーにおける徳川将軍珈琲の仕事へ専念する為、2009年の数年前には茨城県へ東京から引っ越してきた。また、慶朝氏は仕事を通して茨城県に仲間ができ、その土地柄も気に入ったという。YUCASEE MEDIA(ゆかしメディア)、徳川慶喜家当主・慶朝氏【1】「もし18代将軍になっていたら」更新日:2009年03月25日。2014年5月閲覧。
- ^ 徳川慶喜家第4代目当主の徳川慶朝氏は、2008年1月に茨城県へ東京のマンションを処分して引っ越してきたという。水戸家の慶喜公出身地だったのは偶々で、仕事や趣味を通して仲間ができ、土地柄も気に入った事が茨城県へ来た一番の理由という。PRESIDENT、2008年11月17日号、徳川慶喜家当主 徳川慶朝さん。2014年5月閲覧。
- ^ 水戸徳川家第12代当主・徳川篤敬の次男である一橋徳川家第12代当主の伯爵・徳川宗敬は太平洋戦争で戦火に遭わなかったがその家を米軍に接収された為、1946年(昭和21年)兄である水戸徳川家の牧場へ移り、その地を開墾して農業を始めた(石塚p71)。1984年(昭和59年)彼は伝来の家宝計5600点を茨城県立歴史館に寄贈した。このため一橋徳川家記念室が当館に設けられた(徳川宗敬の項を参照)。
- ^ 樋口清之監修・丹羽基二著『姓氏』秋田書店、1970年。
- ^ 甲斐武田氏・第20代当主・武田信吉は茨城県常陸太田市瑞龍町にある歴代水戸家の墓地・瑞龍山へ彼の甥にあたる第2代水戸藩主・徳川光圀により葬られた。
- ^ 初代・結城秀康は結城氏として茨城県結城市の戦国大名。
参考文献[編集]
- アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新』坂田精一訳、岩波書店、岩波文庫、1960年 ISBN 4-00-334252-6
- A.B.ミットフォード『英国外交官の見た幕末維新 リーズデイル卿回想録』長岡祥三訳、講談社、1998年 ISBN 4-06-159349-8
- 井伊正弘編『井伊家史料 幕末風聞探索書』雄山閣、1967年
- 石塚眞 編著『茨城県謎解き散歩』新人物往来社、2012年
- 茨城県歴史散歩研究会『茨城県の歴史散歩』1974年、山川出版社 ISBN 0121-0308-8515
- 岩崎英重『桜田義挙録 維新前史 下編』吉川弘文館、1911年
- 岡村青『水戸藩』現代書館、2012年 ISBN 978-4-7684-7129-6
- 北茨城市史編纂委員会 編『北茨城市史 下巻』北茨城市、1987年
- 北茨城民俗学会『方言辞典』北茨城民俗学会、2003年
- 県民性研究会編『茨城学』伊藤雅人、西沢教夫 共著、2013年、洋泉社 ISBN 978-4-8003-0211-3
- 草間吉夫『図解 常陸国風土記 高萩編』茨城新聞社、2013年 ISBN 978-4-87273-276-4
- 渋沢栄一編『昔夢会筆記』東洋文庫、1966年
- 千田稔『華族総覧』 ISBN 978-4-06-288001-5
- 電気事業連合会統計委員会編『電気事業便覧 平成22年版』日本電気協会、2010年 ISBN 978-4-88948-231-7
- 徳川慶喜『昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談』東洋文庫、平凡社、1966年 ISBN 978-4582800760
- 常磐神社『徳川慶喜公――その歴史上の功績』常磐神社社務所、1998年
- 福沢諭吉『福翁自伝』岩波書店、岩波文庫、1978年 ISBN 4-00-331022-5
- 山川菊栄『覚書 幕末の水戸藩』岩波文庫、岩波書店、1991年 ISBN 4-00-331624-X
- 山本博文『あなたの知らない茨城県の歴史』洋泉社、2012年、ISBN 978-4-8003-0038-6
- 吉田常吉『井伊直弼』吉川弘文館、1985年 ISBN 978-4642050166
- 渡部景一『佐竹氏物語』無明舎出版、1980年 ISBN 4-89544-133-4
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
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- 茨城県 (Ibaraki_Kouhou) - Twitter
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