徳川慶喜
徳川 慶喜 | |
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時代 | 江戸時代末期 - 大正時代 |
生誕 | 天保8年9月29日(1837年10月28日) |
死没 | 大正2年(1913年)11月22日 |
改名 | 松平七郎麻呂(幼名)→松平昭致→徳川慶喜 |
別名 | 字:子邦 号:興山 通称:一橋慶喜 |
墓所 | 谷中霊園 |
官位 | 参議、権中納言、正二位・大納言兼 右近衛大将、征夷大将軍、内大臣、 従四位、正二位、従一位(明治政府) |
幕府 | 江戸幕府 15代征夷大将軍 (在任1867年 - 1868年) |
氏族 | 徳川氏 (水戸家→一橋家→将軍家→慶喜家) |
父母 | 父:徳川斉昭 母:吉子女王(有栖川宮織仁親王娘) 養父:徳川昌丸、徳川家茂 |
兄弟 | 徳川慶篤、池田慶徳、徳川慶喜、 松平直侯、池田茂政、松平武聰、 徳川昭武、喜連川縄氏、松平昭訓、 松平忠和、土屋挙直、松平喜徳、 松平頼之 義兄弟:徳川茂承、華頂宮博経親王' |
妻 | 正室:一条美賀子 側室:一色須賀、新村信、中根幸、他 |
子 | 徳川厚、池田仲博、徳川慶久、徳川誠、 勝精、鏡子、筆子 その他 養子:徳川茂栄、徳川家達 |
徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ)は、江戸幕府第15代征夷大将軍(在職:1867年 ‐ 1868年)。江戸幕府最後の将軍であり、歴史上征夷大将軍に任じられた最後の人物。
第9代水戸藩主・徳川斉昭の七男に生まれ、御三卿一橋徳川家第9代当主として将軍後見職・禁裏御守衛総督など要職を務め徳川宗家を相続、のち第15代将軍へ就任。大政奉還や江戸開城を行なった。明治維新後に従一位勲一等公爵、貴族院議員。薨去[1]後、勲一等旭日桐花大綬章叙勲。
目次
[非表示]名前[編集 | ソースを編集]
幼名は七郎麻呂(しちろうまろ、七郎麿とも)、その後初めは実父・徳川斉昭の1字を受けて昭致(あきむね)と名乗っていた(この時は松平姓)。その後、一橋徳川家を継ぐ際に当時の将軍(江戸幕府第12代将軍)・徳川家慶から偏諱(「慶」の1字)を賜い、(「慶」の字が「よろこぶ」の意味を持つことから「よろこぶ」が2つでめでたいの意で)慶喜と改名した。
「慶喜」は「よしのぶ」あるいは通称として「けいき」(有職読み)とも読む。出身地である水戸では「よしのぶ」と呼ばれる事が多いが、余生を送った静岡では「けいき」と呼ばれる事が多い。
生前の慶喜を知る人によると、慶喜本人は「けいき様」と呼ばれるのを好んだらしく、弟・徳川昭武に当てた電報にも自分のことを「けいき」と名乗っている。慶喜の後を継いだ七男・慶久も慶喜と同様に周囲の人々から「けいきゅう様」と呼ばれていたといわれる。「けいき様」と「けいきさん」の2つの呼び方が確認でき、現代においても少なくなりつつあると思われるが「けいきさん」の呼び方が静岡に限らず各地で確認できる。司馬遼太郎は「『けいき』と呼ぶ人は旧幕臣関係者の家系に多い」とするが、倒幕に動いた肥後藩の関係者も「けいき」と呼んでいたことが確認できる。
また、将軍在職中、江戸幕府の公式な文書等には「よしひさ」と読んだとの記録が残っている。本人によるアルファベット署名や英字新聞にも「Yoshihisa」の表記が残っている。このように「喜」を「ひさ」と読む説についてはこの字を与えられた以下の二名についても同じことが言える。
偏諱を与えた人物[編集 | ソースを編集]
生涯[編集 | ソースを編集]
幼年期[編集 | ソースを編集]
天保8年(1837年)9月29日、慶喜は第9代水戸藩主・徳川斉昭の七男として、皇族・吉子女王[2]を母として江戸・小石川の水戸藩邸にて生まれた。慶喜の血統は、江戸幕府初代将軍・徳川家康の男系子孫な事に加え、第2代将軍徳川秀忠の女系子孫でもあり、且つ第107代後陽成天皇と第112代霊元天皇の女系子孫でもあった[3][4]。幼名は七郎麻呂(しちろうまろ)。「水戸様系譜」(『徳川諸家系譜』収録)など一部史料では「七郎麿」との表記になっているが、慶喜自身は「七郎麻呂」と署名している。
尊敬する第2代水戸藩主・徳川光圀を踏襲し、子女は江戸の華美な風俗に馴染まぬように国許の常陸国水戸藩で教育するという斉昭の方針に則って、天保9(1838)年4月末(生後7ヶ月)慶喜は江戸から水戸へ移り、一橋徳川家を相続するまで同地に育つ間、水戸学者会沢正志斎らから学問・武術を教授された。慶喜の英邁さは当時から注目されていたようで、斉昭も彼を他家へ養子に出さず、長男・慶篤の控えとして暫時手許に置いておこうと考えていた。
一橋家相続[編集 | ソースを編集]
第12代将軍・徳川家慶は度々一橋邸を訪問するなど、慶喜を将軍継嗣の有力な候補として考えていたが、老中・阿部正弘の諫言を受けて断念していた。
弘化4年(1847年)8月1日、阿部から水戸藩へ七郎麻呂(当時は松平昭致)を御三卿・一橋家の世嗣[5]としたいとの家慶の思召(意向)[6]が伝えられた。これを受けて七郎麻呂は8月15日に水戸を発ち、9月1日に一橋家を相続。12月1日に家慶から偏諱を賜わり慶喜と名乗った。
将軍継嗣問題[編集 | ソースを編集]
詳細は「将軍継嗣問題」を参照
嘉永6年(1853年)、黒船来航の混乱の最中に将軍・家慶が病死し、その跡を継いだ第13代将軍・徳川家定は病弱で男子を儲ける見込みがなかった為、将軍継嗣問題が浮上した。慶喜を推す斉昭や阿部正弘、薩摩藩主・島津斉彬ら一橋派と、紀州藩主・徳川慶福を推す彦根藩主・井伊直弼や家定の生母・本寿院を初めとする大奥の南紀派が対立した。
一橋派は阿部正弘、島津斉彬が相次いで亡くなると勢いを失い、安政5年(1858年)に大老となった井伊直弼の裁定で、将軍継嗣は慶福(家茂)と決した。
同年、直弼は勅許を得ずに日米修好通商条約を調印した。慶喜の通常登城に続いて、斉昭、水戸藩主・慶篤、尾張藩主・徳川慶勝、福井藩主・松平慶永らが次々不時登城し直弼へ違勅行為を改めるよう説得したが、翌・安政6年(1859年)に慶喜は隠居謹慎処分となった(安政の大獄)。この日は三卿の将軍面会日であり、慶喜は斉昭らと違って不時登城ではなく罪状は不明のままの処分であった。
なお、慶喜本人は将軍継嗣となることに乗り気ではなかったのか「骨折りは申し訳ないが、天下を取ってから失敗するよりは取らないほうがいい」という内容の手紙を斉昭に送っていた[7]。
将軍後見職[編集 | ソースを編集]
安政7年(1860年)3月3日桜田門外の変における井伊直弼の死を受け、慶喜は万延元年(1860年)9月4日に謹慎を解除された。
文久2年(1862年)、島津久光と勅使・大原重徳が薩摩藩兵を伴って江戸に入り、勅命を楯に幕府の首脳人事へ介入、7月6日、慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を政事総裁職に任命させることに成功した。慶喜と春嶽は文久の改革と呼ばれる幕政改革を行ない、京都守護職の設置、参勤交代の緩和などを行なった。
文久3年(1863年)、攘夷の実行について朝廷と協議するため、徳川家茂が将軍としては230年ぶりに上洛することとなったが、慶喜はこれに先駆けて上洛、将軍の名代として朝廷と の交渉に当たった。慶喜は朝廷に対し、攘夷実行を含めた国政全般を従来通り幕府へ委任するか、政権を朝廷に返上するかの二者択一を迫った。しかし朝廷から は、幕府への大政委任を認める一方で「国事に関しては諸藩に直接命令を下すことがあり得る」との見解が表明され、逆に幕府は攘夷の実行を命じられるなど、 交渉は不成功に終わった。春嶽が朝廷の要求に反発して政事総裁職の辞表を出す一方で、慶喜はこれを受け入れる姿勢をとり、江戸の幕閣から猛反発を招いた。石清水八幡宮への孝明天皇行幸の際、将軍が攘夷祈願時に天皇から節刀を拝受してしまえば攘夷を決行せざるを得なくなるが、将軍・家茂が急病(仮病)[8]を装い天皇の供を辞退していたので、代わりに慶喜が供をする事になった。そこで慶喜は節刀下賜の段階になると、「風邪発熱」[9]と称しその場から退散した[10]。
江戸に戻った慶喜は、攘夷拒否を主張する幕閣を押し切り、攘夷の実行方策として横浜港の鎖港方針を確定させた。八月十八日の政変で長州藩を中心とする尊皇攘夷派が排斥されたのち、公武合体派諸候・幕閣による参預会議に参加すべく再び上洛したが、ここでも横浜鎖港に反対する参預諸候の島津久光・松平春嶽らと慶喜は対立した。薩摩藩による朝廷誘導を警戒した慶喜は、中川宮朝彦親王らとの酒席で故意に泥酔、同席していた伊達宗城、春嶽、久光を罵倒、さらに中川宮へ「島津からいくらもらっているんだ」等と暴言を発しこの参預会議体制をやり込めた(後述)。
禁裏御守衛総督[編集 | ソースを編集]
参預会議解体後の元治元年(1864年)3月25日、慶喜は将軍後見職を辞任し、朝臣的な性格を持つ禁裏御守衛総督に就任した。以降、慶喜は京都にあって武田耕雲斎ら水戸藩執行部や池田慶徳・池田茂政(鳥取藩主・岡山藩主。いずれも水戸家出身で、慶喜とは兄弟)らと提携し、幕府中央から半ば独立した勢力基盤を構築していく。江戸においては、盟友である政事総裁職の川越藩主松平直克と連携し、朝廷の意向に沿って横浜鎖港を引き続き推進するが、天狗党の乱への対処を巡って幕閣内の対立が激化し、6月に直克は失脚、慶喜が権力の拠り所としていた横浜鎖港路線は事実上頓挫した[11]。
同年7月に起こった禁門の変においては、慶喜は自ら御所守備軍を指揮し、鷹司邸を占領した長州藩軍を攻撃した(歴代の徳川将軍家の中で唯一、戦渦の真っ只中で馬にも乗らず敵と切り結んだ)。これを画期として慶喜はそれまでの尊王攘夷派に対する融和的態度を放棄、会津藩・桑名藩らとの提携が本格化する事となった(一会桑体制)[12]。また、老中の本庄宗秀・阿部正外が兵を率いて上洛し、慶喜を江戸へ連行しようとしたが、失敗した。その頃、水戸藩の義勇軍・天狗党は御所へ向かって従軍していた。当党の創始者である水戸藩士・藤田小四郎は水戸学者・藤田東湖の4男で、安政の大地震に死去した父の果たせなかった志を継ごうとする孝心に発し、慶喜の父・斉昭の志を継ぐためその党を創始した[13]。慶喜は幼少期に弘道館等でその東湖から教えを受けていた上、年少の小四郎に代わって天狗党の首魁を務めた水戸藩士・武田耕雲斎はかつて孝明天皇や慶喜の侍従を勤めていた事もあり慶喜や天皇に親しく、義勇軍としての天狗党を鎮圧しようとした幕府軍に代わって、慶喜と朝廷を頼り尊王攘夷を訴えようと西へ向かっていた[14]。しかし、将軍家は天狗党を反乱者とみなし、水戸藩自身のみならず諸藩へ鎮圧を命じていた上、江戸の幕吏らは慶喜と天狗党の内通を疑っていた[15]。御所を防衛する禁裏御守衛総督の慶喜はこれらの背景があった為、自分の実家の家来を討たねばならない[16][17]苦しい立場ながら幕府側からの嫌疑を解く為にも自ら鎮圧軍の出陣を買って出なければならず[18]、また水戸家の出身で慶喜の実弟・徳川昭武も彼を補佐するため出陣しなければならなかった。朝廷は慶喜の出陣を許可すると共に、天狗党が降伏するようなら相応の取計らいをするよう彼へ命じた[19]。この頃、薩摩藩からの密使が天狗党へ入京を助けるので中山道を直進せよと誘ったが、天狗党はこれへ感謝しながらも慶喜軍と鉢合わせするのを避けるため一行を北へ迂回させた[20]。また、長州藩からの密使が若狭国と丹波国を迂回した上で長州へ来ての共同行動を勧めて来たが[21]、武田は主君に等しい慶喜・昭武の二公に敵する事は臣子の情忍ぶべからざる所として、越前国敦賀で慶喜軍へ恭順した。こうして慶喜は長期化していた天狗党の乱を巡って出陣をせざるを得ない職責[22]として近江国大津に布陣したので、慶喜を支持していた武田耕雲斎ら水戸藩尊攘派勢力を不戦投降させる事ができた。公平な処置を慶喜へ誓った遠江国の相良藩主で若年寄・田沼意尊[23]が天狗党を引き受けに来たので、慶喜は投降した彼らを田沼へ引き渡したところで彼の幕府に於ける天狗党への手は切れた[24]。この後、加賀藩士・永原甚七郎や朝廷が武田らの助命を嘆願[25]、加賀藩では天狗党を厚遇していたが[26]、田沼は彼ら投降した天狗党828名を劣悪な環境の鰊倉に閉じ込めて餓死・病死者を出させたすえ彦根藩士らに命じ、そのうち352名を斬首、他を遠島・追放などに処した[27]。しかし、慶喜はのち彼ら天狗党の残党を、直書を通じて藩政に復帰させた(後述)。続く第一次長州征伐が終わると、慶喜は欧米各国が強硬に要求し、幕府にとり長年の懸案事項であった安政五カ国条約の勅許を得るため奔走した。慶喜は自ら朝廷に対する交渉を行い、最後には自身の切腹とそれに続く家臣の暴発にさえ言及、一昼夜に渡る会議の末、遂に勅許を得ることに成功した。但し、幕府は京都に近い兵庫の開港について勅許を得ることができず、それが依然懸案事項として残された。
将軍職[編集 | ソースを編集]
慶応2年(1866年)の第二次長州征伐では、薩摩藩の妨害を抑えて慶喜は長州征伐の勅命を得た。しかし薩長同盟を結んだ薩摩藩の出兵拒否もあり、将軍・家茂の率いた幕府軍は連敗を喫した。その第二次長州征伐最中の7月20日、家茂が大坂城で薨去。慶喜は朝廷に運動して休戦の詔勅を引き出し、会津藩や朝廷上層部の反対を押し切る形で休戦協定の締結に成功した。
家茂の後継として、老中の板倉勝静・小笠原長行は江戸の異論[28]を抑えて慶喜を次期将軍に推した。慶喜は「徳川家の存続が覚束ない今、王政復古により忠義を尽くそうと思うがどうか」と腹心の原市之進へ問い、原から幕府の人材不足と難局にあたっての慶喜自身による徳川家の存続を勧められ、「徳川宗家の相続のみにより将軍職を受けずに済むなら」と板倉と永井尚志へこの旨を報告し、宗家を存続した[29][30]。8月20日一橋慶喜はここに徳川慶喜となった。しかし老中らは将軍職をも慶喜へ受け継ぐよう強請し、且つ外国政府は当面の外交に当たる役割、即ち日本国王としての将軍を要請していた[31][30]。この時、慶喜は政権奉還の志を持ち始め、家康は日本の為に幕府を開き将軍職に就いたが、自分は日本のため幕府を葬るの任に当たるべきである、と覚悟を決めた[32][30]。こうして慶喜は12月5日に天皇からの将軍宣下を受け、ようやく将軍に就任した[33]。この頃の慶喜ははっきりと開国を指向するようになっており、将軍職就任の受諾は開国体制への本格的な移行を視野に入れたものであった[34]。
慶喜政権は会津藩・桑名藩の支持のもと朝廷との密接な連携を特徴としており、慶喜は将軍在職中一度も畿内を離れず、且つ多くの幕臣を上京させるなど、実質的に政権の畿内への移転が推進された。また、慶喜は将軍就任に前後して上級公家から側室を迎えようと画策しており、この間、彼に摂政・関白を兼任させる構想が繰り返し浮上した[35]。一方、慶喜はこれまで政治的に長く対立関係にあった小栗忠順ら改革派幕閣とも連携し、慶応の改革を推進した。
慶喜はフランス公使・レオン・ロッシュを通じフランス帝国から240万ドルの援助を受け、横須賀製鉄所や修・造船所を設立、ジュール・ブリュネを始めとする軍事顧問団を招いて軍制改革を行った。且つ慶喜は老中の月番制を廃止し、陸軍総裁・海軍総裁・会計総裁・国内事務総裁・外国事務総裁を設置した。また、実弟・徳川昭武をパリ万国博覧会へ派遣するなど幕臣子弟の欧州留学も奨励した。他方、慶喜は兵庫開港要求事件で朝廷を執拗に説いて勅許を得、不勅許で兵庫開港を声明した慶喜を糾弾するつもりだった薩摩・越前・土佐・宇和島各藩主による四侯会議の裏をかき、その談合を解散に追い込んだ。
薩長が武力倒幕路線に進むことを予期した慶喜は慶応3年(1867年)10月14日政権返上を明治天皇に上奏、翌日勅許された(大政奉還)。慶喜は緊迫する政治情勢下で内乱の発生を深く懸念しており[36]、大政奉還による政治体制の再編はその打開策であった。
詳細は「大政奉還」を参照
戊辰戦争[編集 | ソースを編集]
詳細は「戊辰戦争」を参照
12月、薩摩藩らは政変により朝廷を制圧、大政奉還後の政治体制については諸侯会議によって定められる筈であったが、慶喜を新政府から排除した(王政復古のクーデター)[37]。徳川宗家当主の慶喜は辞官(内大臣の辞職)と納地(幕府領の返上)を薩摩藩らクーデター勢から命じられた。二条城にいた慶喜は天皇の聖域(御所)で内戦が起こるのを避ける[38]と同時に配下の激昂を和らげる為[39]、会津・桑名藩兵らと共に大坂城へ退去した。慶喜はそこでアメリカ合衆国、イギリス、イタリア王国、オランダ王国、フランス第二帝政、プロイセン王国、全6国の公使らを集め自身の正当性を主張した[40]。慶勝と春嶽が彼の説得に当たるため大坂城へ登ると、会津藩・桑名藩の猛反対にも関わらず、慶喜は徳川宗家から天皇政府を維持する為の補助金を支出することを条件とし一部クーデター勢の要求を呑んだ[39]。また、慶喜は越前藩・土佐藩に運動し辞官納地をより温和な形とさせた。こうして慶勝・春嶽らが朝廷交渉に当たり、徳川宗家領の全納は減免された[41]。しかもここに年末には、慶喜の議定就任(新政府への参画)がほぼ確定した。
翌・慶応4年(1868年)慶勝と春嶽が大阪で慶喜へ伝えた「慶喜は軽装で上京せよ」との朝命[39]に基づき、先供として会津・桑名藩兵が大坂城を京都へ向け出発した[42][43]。この時、慶喜は会津藩と桑名藩を先鋒に京都へ行こうとは全く考えていなかった[39][44][45]。ところが会津・桑名藩兵は、関門を閉じていた薩摩藩兵と押し問答になった[42]。そこで薩摩藩兵は彼らの陣屋へ引いたが[42]、幕府軍先鋒を務めていた彦根藩主・井伊直憲が初発の大砲を幕府軍へ撃った[46]。会津・桑名藩兵が前から潰されると、左右の藪へ薩摩藩兵側は既に兵を回してあった為、会津・桑名藩兵は横からも銃撃を受け残さず潰されかかった[42]。会津・桑名藩兵は再び隊を整えて薩摩藩兵側と交渉[39]、会津・桑名藩兵側が「慶喜の上京を塞ぐのは朝命違反」と言うと、薩摩藩兵側は「慶喜の上京はよいが会津・桑名藩兵が甲冑ゆえに撃った」と言った[42]。また当時、薩摩藩は討幕の密勅を背景に、同時並行で江戸にて騒擾行為を行っており、江戸薩摩藩邸の焼討事件が起きるなど江戸の町は薩摩藩により荒らされていた。大坂城にいた慶喜[43]は、こうして1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦い敗戦の報を聞くと兵火が京阪神地方に波及し、外国軍隊の介入を招くことを恐れた[43]。慶喜はまだ兵力を十分に保持しているにも関わらず、陣中に伴った側近や妾、老中板倉勝静、老中酒井忠惇、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬らと共に夜半大坂城を脱して開陽丸に乗り込み、海路を執って江戸へ向かった[47][48][49]。慶喜はこの際自ら皇軍への恭順を誓い、且つ麾下にある旧幕府軍からの抗戦を一切禁止した[43]。慶応4年(1868年)、1月19日、慶喜は彼に侍った水戸藩士の在京組・本圀寺勢に託した実兄の水戸藩主・徳川慶篤への手紙で、天皇から勅を拝領し実家である水戸藩の内治を執るよう勧めた為、本圀寺勢に侍っていた生き残り組の天狗党は藩政に復帰する事ができた[50]。
間もなく、慶喜を朝敵とした追討令が正式に下り、東征大総督有栖川宮熾仁親王に率いられた新政府軍が東日本への侵略を開始した。慶喜は小栗忠順を初めとする抗戦派を抑え、旧幕府軍側の朝廷への一意恭順を主張した。旧幕府側の中には将軍が巻き返しに帰ってきたと思う者もいた[51]。彼らは箱根の関を境にした戦闘や、旧幕府海軍による東海道・紀州・瀬戸内海・薩摩への攻撃など諸々の作戦を、慶喜へ進言した[51]。この時、フランス公使のレオン・ロッシュも度々江戸城へ登り、フランスによる軍事的・財政的援助のもとで薩長軍を退治するよう慶喜へ勧めた[52]。 それに対し慶喜は、「朝命を名として兵を指揮すべきは日本の国風である。もし今、兵を動かせば内乱が起き300年前のよう戦乱の世となり、国民は皆この害 を受ける。皇室に無二の忠誠を誓う我らの心底は、東国へ帰ってきてからいささかも動揺していない。なぜ一時の怒りに任せ、祖先以来の忠功を空しくして擾乱 を開くべきか。この上さらに我らの本意に背き、私的な意地を張って兵を動かす者は、わが家代々の霊位に対し決して忠臣ではない。それどころか皇国へ逆賊の 名を免れない」と朝廷の処置を待つ事を主張し、且つ外国からの内政干渉を拒絶した[53][54]。
新政府軍が東国へ侵入してくると、その中にいた東征軍先鋒参謀の長州藩士・木梨精一郎と大村藩士・渡辺清の両名は、来たるべき戦争で生じるだろう傷病者の手当や、病院の手配などを、横浜の英国公使館にてイギリス側へ申し込んだ。この時、イギリス公使のハリー・パークスは、ナポレオン・ボナパルトさえ処刑されずセントヘレナ島への流刑に留まった例を持ち出した上で、恭順・謹慎を示している無抵抗の慶喜へ攻撃する事は万国公法に反すると激昂し、彼らとの面談を中止した[55]。またパークスは慶喜が西洋諸国へ亡命する事も、万国公法上に問題ないと話した[56]。東征大総督府の下参謀・西郷隆盛は、このパークスの義憤を伝え聞いて、愕然とした[55]。
慶喜は2月に事態収拾を勝海舟へ一任し、自ら上野の寛永寺大慈院で謹慎した。また、慶喜は徳川宗家の家督を養子である田安亀之助(後の徳川家達)へ譲った。勝はこのような状況について新政府軍側へ伝える為、幕臣・山岡鉄舟を新政府軍側へ派遣した。3月9日、山岡は薩摩藩士・益満休之助に案内され、駿府で西郷に会い勝からの手紙を西郷に渡し、且つ慶喜による皇軍への一意恭順との意向を述べ、朝廷へその旨を取り計らうよう頼んだ。4月11日江戸城は無血のまま新政府軍へ明け渡された(江戸開城)。
慶喜は彰義隊や旧幕臣の暴発を避けるため4月11日午前3時寛永寺大慈院を出て、水戸へ向かった。この頃、常陸国の郷里藩士ら諸生党は西軍の侵略へ抗った奥羽越列藩同盟に加勢するべく3月水戸を出発し、6月21日新潟県の北越戦争や6月10日から11月6日福島県の会津戦争で婦女子を救済するなど、各地を転戦していた[57]。こうして水戸城は空いており、水戸藩主・慶篤は天狗党と合流した本圀寺勢らを率いて既に水戸城へ入城していた。水戸にやってきた慶喜は幼少期に学んだ弘道館の至善堂に篭もって、そこで引き続き厳しい謹慎生活をした[58]。7月に徳川宗家は明治新政府により駿河国へ移された。会津戦争を終えてなお生き残る事のできた諸生党の面々は、水戸藩の主導権を再奪還するべく水戸へ踵を返した。慶喜はこの実家の政争に巻き込まれる事態を避けて、諸生党が水戸へ到着する前の7月19日に駿河へ向かって出発した。慶喜が出た弘道館へ入れ代わりに入った500人から1000人あまりの諸生党は、与党になった天狗党ら藩屏の構えた水戸城との間で11月14日、弘道館戦争となって数日後まで続け転戦し、11月19日下総の松山戦争で壊滅した[59]。慶喜は銚子から旧幕府軍の蟠竜艦に乗り、7月23日に清水港へ上陸した。彼はそこから東海道を通り、その日の夕方に徳川家の菩提寺・宝台院へ入った。慶喜は松岡萬の率いた精鋭隊士50人に護衛され、新門辰五郎が慶喜に同行した上で、宝台院近くの常光寺に居を構えた。慶喜は明治2年(1869年)9月28日に彼への謹慎が明治新政府から解かれるまで、宝台院で生活した[60]。
以後、幕府制度や征夷大将軍の官職は復活することはなく、慶喜は日本史上最後の征夷大将軍となった。
余生[編集 | ソースを編集]
明治2年(1869年)9月28日、慶喜は戊辰戦争の終結を受け謹慎を解除され、引き続き、駿府改め静岡に居住した。生存中に将軍職を退いたのは11代・家斉以来であるが、過去に大御所として政治権力を握った元将軍達とは違い政治的野心は全く持たず、潤沢な隠居手当を元手に写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活を送り、「ケイキ様」と呼ばれて静岡の人々から親しまれた。
明治30年(1897年)慶喜は東京の巣鴨へ移り住んだ。翌年には有栖川宮威仁親王の仲介により、皇居となった旧江戸城へ参内して明治天皇に拝謁した。明治33年(1900年)6月22日、慶喜は麝香間祗候となった。また明治35年(1902年)慶喜は新政府より公爵に叙せられ[61]、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を興し貴族院議員就任、35年振りに政治へ携わることになった。
明治43年(1910年)12月8日、慶喜は七男の徳川慶久に家督を譲って貴族院議員を辞し、隠居。再び趣味に没頭する生活を送った。
大正2年(1913年)11月22日、慶喜は感冒にて薨去[1]。享年77(満76歳25日)。徳川歴代将軍として最長命であった。
年譜[編集 | ソースを編集]
※明治5年までは天保暦長暦の月日表記。
- 弘化4年(1847年)
- 安政2年(1855年)12月3日、一条忠香の養女・美賀と結婚。参議に補任。
- 安政4年(1857年)、徳川家定の後継問題で有力候補となる。
- 安政6年(1859年)8月27日、安政の大獄において隠居謹慎蟄居の処分を受ける。
- 万延元年(1860年)9月4日、隠居謹慎蟄居解除。
- 文久2年(1862年)
- 文久3年(1863年)12月、朝議参預就任。
- 元治元年(1864年)
- 慶応元年(1865年)、10月12日、従二位権大納言昇叙転任を固辞。
- 慶応2年(1866年)
- 慶応3年(1867年)
- 慶応4年(1868年)4月11日、解官。
- 明治2年(1869年)9月28日、謹慎解除。
- 明治5年(1872年)1月6日、従四位に復帰。
- 明治13年(1880年)5月18日、正二位昇叙。
- 明治21年(1888年)6月20日、従一位昇叙。
- 明治30年(1897年)11月19日、東京・巣鴨に移住。
- 明治31年(1898年)3月2日、明治天皇に30年5ヶ月ぶり(大政奉還以来)謁見。
- 明治33年(1900年)6月22日、麝香間祗候[63]。
- 明治35年(1902年)6月3日、公爵受爵。徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許される。貴族院議員就任。
- 明治41年(1908年)4月30日、大政奉還の功により、明治天皇から勲一等旭日大綬章を授与される。
- 明治43年(1910年)12月8日、慶久に家督を譲って貴族院議員を辞め、隠居。
- 大正2年(1913年)11月22日(午前4時10分)薨去[1]。同日、勲一等旭日桐花大綬章を授与される。
人物[編集 | ソースを編集]
幼年時代[編集 | ソースを編集]
- 武芸や学問を学ぶことに関しては最高の環境で生まれ育ち、様々な武術の中から手裏剣術に熱心で、手裏剣の達人だった。大政奉還後も、毎日額に汗して手裏剣術の修練を行ない、手裏剣術の達人たちの中で最も有名な人物に数えられる。
- 寝相が悪く、躾に厳しかった父の斉昭が、寝相を矯正するために寝る際には枕の両側に剃刀の刃を立てさせた。本人は眠った時を見計らって家臣が剃刀は取り外すだろうと察知していたが寝心地は悪く、これを繰り返していくうちに寝相の悪さを克服できた[64]。一方、成人してからは寝る際に暗殺対策として、妻妾二人とYの字になるよう三人で寝ていた[65]という逸話も伝えられる。
- 幼少の頃の慶喜とされる写真が存在するが、彼が幼少の頃の日本に写真機はまだなかったと考えられるため、本人のものであるかどうかは疑わしい。
一橋家当主として[編集 | ソースを編集]
- 病に倒れた家茂の見舞いに訪れたことがあり、その時、普通に会話したという。
- 文久3年(1863年)末から翌年3月まで京都に存在した、雄藩最高実力者の合議制であった参預会議の 体制は、参預諸侯間の意見の不一致からなかなか機能しなかったが、これを危惧した朝廷側の中川宮は、問題の不一致を斡旋しようと2月16日参預諸侯を自邸 に招き、酒席を設けた。この席上、泥酔した慶喜は中川宮に対し、島津久光・松平春嶽・伊達宗城を指さして「この3人は天下の大愚物・大奸物であり、なぜ宮 は御信用遊ばされるのか、天下の後見職を大愚物同様に見透かすべきではない。この3人の遊説を御信用遊ばされるからこそ、今日のような過誤を引き起こしたのだ」と乱暴な言葉を吐いた[66]。この慶喜の発言によって機嫌を損ねた久光が完全に参預会議を見限る形となったので、春嶽らが関係修復を模索したが、結局体制は崩壊となった(その後の中川宮との顛末についても後述)。
将軍として[編集 | ソースを編集]
- 英邁さで知られ、実父・斉昭の腹心・安島帯刀は、慶喜を「徳川の流れを清ましめん御仁」と評し、幕威回復の期待を一身に背負い鳴物入りで将軍位に就くと、「権現様の再来」とまでその英明を称えられた。慶喜の英明は倒幕派にも知れ渡っており、特に長州藩の桂小五郎は「一橋慶喜の胆略はあなどれない。家康の再来をみるようだ」と警戒していた。
- 慶応の改革の一環として建築された横須賀製鉄所は明治政府に引き継がれ、現在もその一部が在日米軍によって横須賀海軍施設ドックとして利用されている。また同時期に幕府陸軍の人員増強やフランス軍事顧問団の招聘が行われたことで、多くの幕臣が西洋式の軍事教育を受ける機会に恵まれた。その中から山岡鉄舟・大鳥圭介・津田真道など、のちに明治政府の官吏・軍人として活躍する人材が輩出されており、明治維新により事実上頓挫した慶応の改革は日本の近代化に少なからず貢献した。
- 坂本龍馬は大政奉還後の政権を慶喜が主導することを想定していたと指摘する研究者もいる[67]。小説家・司馬遼太郎の作品では「大樹(将軍)公、今日の心中さこそと察し奉る。よくも断じ給へるものかな、よくも断じ給へるものかな。予、誓ってこの公のために一命を捨てん」との龍馬の評価が引用された。これは坂崎紫瀾が著した容堂伝『鯨海酔候』や渋沢栄一らによって書かれた『徳川慶喜公伝』で紹介されている。ただし、慶喜自身が龍馬の存在を知ったのは明治になってからと言われる。
- 小御所会議で慶喜排除のクーデターを主導した一人だった岩倉具視はのちに、「孝明天皇と家茂将軍が相次いで没したが、将軍後継者の慶喜は有能な人物であったから、天皇を上に頂く政府が絶対に必要とよく理解できた。慶喜は今の政治的難局を打開する唯一の道という誠実な確信に立って、単なる贈り物としてではなく政権を天皇へ奉還したのである」と語った[68]。
- 大政奉還後にも新たな近代的政治体制を築こうとした。
新政府軍との戦い[編集 | ソースを編集]
- 新政府から朝敵と冤罪されるとすぐ恭順した事から、天皇や朝廷を重んじる心ある者だと評価される[69]。また慶喜自身がのち、徳川光圀以来勤皇の水戸家訓に従った義、父・徳川斉昭より何があろうと朝廷に弓を引く事がないよう重々諭されていた旨を語った[47]。慶喜は少年の間、江戸時代最大の藩校・水戸弘道館にて尊皇思想である水戸学で教育され、且つ母親(吉子女王)が皇室出身であった。
- 大坂城から江戸城へ退却した事について、江戸や武蔵での薩摩藩による騒擾行為[70]に抗する必要があったのに加え、彦根藩を始め幕府への離反[46]があり、たとえ大坂城を守れても長期戦は必至、しかも諸外国の介入を招きかねなかった[43]。
- 経済史学者の千田稔によると、慶喜の皇軍恭順[47]は主戦派の会津藩士、幕臣らから「慶喜に裏切られた」「慶喜は腰抜け、卑怯者」、徳川一門からも「徳川家を潰した者」と非難された。対して恭順派はこれを「傷だらけの幕府を軟着陸させた」「無血で政権を交代させた」と好意的に評価した、という[71]。
- 慶喜は幼い頃に学んだ水戸弘道館[72]へ恭順に来ると、藩主である父・斉昭の休息所かつ慶喜ら諸公子にとって学問の場でもあった至善堂[72][73]に篭り、厳しい謹慎生活の中で深い反省の念を示した[58]。[74]
明治維新後[編集 | ソースを編集]
- 実業家の渋沢栄一は一橋家の当主だった頃に家臣である平岡円四郎の推挙によって登用した家臣で、明治維新後も親交があった。渋沢は慶喜の晩年、慶喜の伝記の編纂を目指し、渋る慶喜を説得して直話を聞く「昔夢会」を開いた。これをまとめたのが『昔夢会筆記』である。座談会形式で記録されている一部の章では、老齢の慶喜のいわば肉声に触れることができる。「島津久光はあまり好きじゃなかった」「鍋島直正はずるい人だった」と本音を漏らすなど、彼の性格と当時の心境が窺える。慶喜の死後、こうした資料を基に『徳川慶喜公伝』が作られた。
- 恭順謹慎、江戸無血開城などにより無血革命に近い状態で政権移譲できたことから、近代日本の独立性が守られ、維新への功績は大きいと評価された。渋沢栄一[75]、萩野由之[76]は、慶喜の恭順により京都や江戸が焦土になることをまぬがれ、また、フランスの援助を拒絶したため外国の介入がなかったとし、慶喜を維新最大の功績者の一人であったと述べ、且つ渋沢は安政の大獄と明治維新の際の謹慎の態度も高く評価している。鳥谷部春汀[77]は第二の関ヶ原の戦いを回避できたのは慶喜の功績であるなど、行跡・人格・才能とともに日本史上最大の人物の一人と記している。勝海舟[78]は、慶喜による皇居参内の翌日、慶喜からわざわざ訪ねて来て礼を言われた為、生きていた甲斐があったとうれし涙をこぼした。勝は「品位を保ち無闇に小大名などと交際しないように[79]」と忠告したところ、慶喜から「その通りにします」と言われ書も頼まれたため、うれし涙を飲み込み、さすが水戸家で養育された方だけある、と感心した。
- 初代リーズデイル男爵アルジャーノン・ミットフォードは、慶喜を傑出した個性、日本滞在中に会った日本人の中で西洋人の目から見て最も立派な容姿、体格は力強く活動的で男らしく、表情は優しく愛嬌に富み、英国の狩りの名人と同じく疲れを知らぬ馬術家と述べた。またミットフォードは慶喜との再会に際し、魅力的な物腰は昔のまま、名家の生まれを示す特徴は変わらずはっきりしており、彼こそ真の偉大な貴族と記した[80]。
- 赦免後の慶喜は、悠々自適の生活を送った[81]。彼は聡明、器用、負けず嫌いだった為どの趣味でもプロフェッショナル級となり、且つ正妻、側室二人と仲睦まじい生活を送って十男十女を儲けた[79]。
- 茨城県水戸市の一橋徳川家資料に残されている、慶喜の5男で旧鳥取藩主第14代池田家当主の伯爵・池田仲博による談話メモに、次のようにある。慶喜は維新の話を普段一切しなかったが、ある時、「あの時はああするより他なかった。やっぱりあれが一番よかったんだ」と言った。仲博は彼の子供としてその意見があまりに傲慢にも思えたが、大日本帝国憲法ができて父は非常に喜んでいた、その喜びの気持ちが父にそういわせたのだろう、と記している[82]。
- 明治31年(1898年)皇居参内に際し、明治天皇に会った慶喜は「浮き世のことはしかたない」と言ったので、天皇は胸のつかえをおろした[79]。
- 明治34年(1901年)、 有栖川宮家でスペイン王族との饗応があった際、初代内閣総理大臣の公爵・伊藤博文も慶喜と共にそこに招かれた。客が去ってから、伊藤が「維新の始めの頃、 公(慶喜)が尊王の大義を重んじたのはいかなる動機に出たのですか」と慶喜へ質問したところ、慶喜は迷惑そうに、次のよう応えた。「余(慶喜)は庭訓を 守ったに過ぎません、御承知のよう水戸は義公(徳川光圀)以来尊王の大義に心を留めていた為わが父(徳川斉昭)も同じ志で、我が家は三家三卿の一つとして公に仕えるのは当然、のち天皇家と徳川宗家の 間に何かが起き戦になっても決して天皇に弓を引く事はあるべくもない、これは義公以来の遺訓なのでゆめゆめ忘れるな、万一の為に諭し置く、と教えられまし た。しかし余が幼少の時には深い分別もなかったのですが、余の20歳の頃、小石川の水戸藩邸で父が容を改めて余へ言った事に、今や時勢は変転しこの末どう なっていくか心ともなく、御身(慶喜)は丁年に達したのだからよくよく父祖の遺訓を忘れるべきではない、と。この言葉を常に心に銘記していたので、ただそ れに従ったのみです」。この饗応の翌々日、伊藤は渋沢栄一と 大磯からの汽車に乗り合わせた時、次のよう渋沢へ語った。「足下(渋沢)は常によく慶喜公を称賛してきたが、余(伊藤)は心に、そうはいっても大名中の勢 い盛んな者くらいにのみ思っていたが、今にして初めて公(慶喜)が非凡なのを知った。かの言はいかに奥ゆかしい答えか、公は果たして常人ではない」。[83][84]
- 朝敵とされた自分を赦免した上、華族の最高位である公爵を親授した明治天皇に感謝の意を示すため、慶喜は自分の葬儀を仏式ではなく神式で行なうよう遺言した。このため、慶喜の墓は徳川家菩提寺である増上寺でも寛永寺でもなく、谷中霊園に皇族のそれと同じような円墳が建てられた。京都で歴代天皇陵が質素であることを見て感動したためである[85]。
逸話[編集 | ソースを編集]
- 父・斉昭と同じく薩摩産の豚肉が好物で、豚一様(ぶたいちさま、「豚肉がお好きな一橋様」の意)と呼ばれた。西洋の文物にも関心を寄せ、晩年はパンと牛乳を好み、カメラによる写真撮影・釣り・自転車・顕微鏡・油絵・手芸(刺繍)などの趣味に興じた。
- 将軍時代の慶応3年3月から、西周にフランス語を習い、すぐに初歩は理解したが、多忙なため学習を断念した[85]。
- 攘夷論をめぐり、孝明天皇の側近である中川宮が前日の会談での発言を撤回していることを知った26歳の時、茶碗5杯ほどの冷酒を飲み、帯刀して馬で親王家に押し入り、「殺しに来た!」と詰め寄るもなだめられ、お茶を勧められると「自分で買って飲む」と言った。
- 鳥羽・伏見の戦いにおいて軍艦開陽丸で江戸へ退却後、江戸城に入った慶喜は、鰻の蒲焼を取り寄せるように奥詰の者に命じ、二分の金を渡したが、時期はずれで一両でなければ入手できず、自らの金を加えて買い求めた。また慶喜から鮪の刺身を食べたいとの指示があったが、食中毒をおそれて刺身を食膳にあげた例はなく、そのため刺身を味噌づけにして食膳にそなえた。
- 静岡に住んでいる時、家臣達と一緒に愛用の自転車でサイクリングした(家臣達は走っていた)。その自転車を購入した自転車店は、現在の静岡市葵区紺屋町にあり、近年まで営業していた。
- 東京・墨田区の向島百花園には慶喜が書いた「日本橋」の文字が彫られた石柱が保存されている。実際に橋として使われていたものである。なお、日本橋の親柱に掲げられた「日本橋」と「にほんばし」の文字は、慶喜の揮毫によるものである[86][87]。
- 趣味としての写真撮影を日常とし写真雑誌にもたびたび投稿した。こうした趣味に没頭する生活の中で実弟・昭武との交流を深めていった。なお、曾孫の徳川慶朝はフリーランスフォトグラファーであり、彼によって慶喜の撮影分も含めて徳川慶喜家に所蔵されていた写真類が発見され、整理と編集を行なった上で出版された。写真家の長野重一は慶喜の腕前をセミプロ並みと評価、写真集『将軍が撮った明治』(朝日新聞社)を見る限り写真が芸術性を帯びてくるのは昭和の初期からで、慶喜は単に日記代わりとして撮っていたのだろうと、評している。
- 油絵も嗜み、慶喜作とされる油彩画が10点弱確認されている[88]。最初は武家のならいで、狩野派の狩野探淵に絵を学んだ後、静岡では開成所で西洋画法を身につけた中島鍬次郎(仰山)を召して油絵を学んだ。当時は元将軍であっても西洋画材は入手しづらく、時には似たもので代用したという。慶喜の絵は、複数の手本を寄せ集めて絵を構成しており、その結果遠近法や陰影法が不揃いで、画面全体の統一を欠く事が多い。反面、樹の枝や草、岩肌、衣の襞など、細部描写は丁寧で、現代の目では不思議な印象を与える絵となっている。モチーフに川や山がよく登場する事や、絵から絵を作る作画方法から、油絵という西洋の画法を使いつつも、作画姿勢は山水画を貴ぶ近世の文人の意識が強く残っているといえよう[89]。
- 北海道江差町の国道229号に、名前に因んだ「慶喜トンネル」が存在する。
- 1916年に徳川慶久により『徳川慶喜公歌集』が編纂され、2013年に松戸市戸定歴史館から解題等を付けた復刻本が限定500部で刊行された[90]。
- 水戸城旧本丸跡に建つ茨城県立水戸第一高等学校では徳川慶喜の揮毫になる「至誠一貫」が校是として受け継がれており、水戸空襲で失われるまで慶喜直筆の書が存在した[91]。
家庭・親族[編集 | ソースを編集]
安政2年12月3日、一条美賀と結婚(維新後に美賀子と改名)。美賀との間には女子(瓊光院殿池水影現大童女)が安政5年7月16日誕生するも、7月20日に早世。以後、美賀との間に子女は生まれず、明治になって誕生した10男11女は皆、二人の側室との間に儲けた子女である。公爵となり徳川慶喜家を継いだ七男・慶久や、勝海舟の婿養子となった十男・精、伏見宮博恭王妃となった九女・経子などである。なお、慶久の子女には、徳川慶光や高松宮宣仁親王妃となった喜久子らがいる。
明治天皇は義理の弟に当たる(正室の一条美賀子が昭憲皇太后の義姉であるため)。
- 正室:一条美賀(維新後に美賀子と改名)(今出川公久娘、一条忠香養女、天保6年7月19日 - 明治27年7月9日)
- 側室:一色須賀(一色貞之助定住娘、天保9年4月26日 - 昭和4年)
- 側室:新村信(松平政隆娘、新村猛雄養女、嘉永5年頃 - 明治38年2月8日)
- 長男:敬事(明治4年6月29日 - 明治5年5月22日)
- 長女:鏡子(明治20年3月23日結婚、徳川達孝夫人、明治6年6月2日 - 明治26年9月29日)
- 三女:鉄子(明治23年12月30日結婚、徳川達道(一橋茂栄の子)夫人、明治8年10月27日 - 大正10年12月10日)
- 五男:仲博(鳥取藩主家池田氏第14代当主、侯爵・貴族院議員、大正天皇侍従長、明治23年2月25日池田輝知養子、明治10年8月28日 - 昭和23年1月1日)
- 六男:斉(明治11年8月17日 - 明治11年11月28日)
- 六女:良子(明治13年8月24日 - 明治13年9月29日)
- 九女:経子(明治30年1月9日結婚、伏見宮博恭王妃、明治15年9月23日 - 昭和14年8月18日)
- 七男:慶久(公爵・貴族院議員、華族世襲財産審議会議長、明治17年9月2日 - 大正11年1月22日)
- 十一女:英子(明治44年4月29日結婚、徳川圀順夫人、明治20年3月22日 - 大正13年7月5日)
- 十男:精(伯爵、浅野セメント重役、明治32年1月20日勝海舟婿養子、明治21年8月23日 - 昭和7年7月11日)
- 側室:中根幸(中根芳三郎長女、天保7年頃 - 大正4年12月29日)
- 次男:善事(明治4年9月8日 - 明治5年3月10日)
- 三男:琢磨(明治5年10月5日 - 明治6年7月5日)
- 四男:厚(男爵・貴族院議員、東明火災保険取締役、明治7年2月21日 - 昭和5年6月12日)
- 次女:金子(明治8年4月3日 - 明治8年7月22日)
- 四女:筆子(明治28年12月26日結婚、蜂須賀正韶夫人、明治9年7月17日 - 明治40年11月30日)
- 五女:脩子(明治11年8月17日 - 明治11年10月8日)
- 七女:浪子(明治28年12月7日結婚、松平斉(松平斉民の九男)夫人、明治13年9月17日 - 昭和29年1月13日)
- 八女:国子(明治34年5月7日結婚、大河内輝耕(大河内輝声の長男)夫人、明治15年1月23日 - 昭和17年9月11日)
- 十女:糸子(明治39年5月19日結婚、四条隆愛夫人、明治16年9月18日 - 昭和28年10月11日)
- 死産:男子(明治17年8月22日死産)
- 八男:寧(明治18年9月22日 - 明治19年7月2日)
- 九男:誠(男爵・貴族院議員、明治20年10月31日 - 昭和43年11月11日)
- 死産:女子(明治24年6月2日死産)
- 妾:芳(新門辰五郎の娘)
関連作品[編集 | ソースを編集]
小説[編集 | ソースを編集]
- 『徳川慶喜』(山岡荘八)
- 『徳川慶喜の英略』(谷恒生)
- 『最後の将軍-徳川慶喜-』(司馬遼太郎)
映画[編集 | ソースを編集]
テレビドラマ[編集 | ソースを編集]
- 徳川慶喜が主人公のテレビドラマ
- その他のテレビドラマ
- 『竜馬がゆく』(1968年、大河ドラマ、尾上辰之助)
- 『大奥』(1968年、フジテレビ、天知茂)
- 『続・大奥の女たち』(1972年、フジテレビライオン奥様劇場、井上紀明)
- 『勝海舟』(1974年、大河ドラマ、津川雅彦)
- 『花神』(1977年、大河ドラマ、伊藤孝雄)
- 『竜馬がゆく』(1982年、テレビ東京12時間超ワイドドラマ、剣持伴紀)
- 『大奥』(1983年、フジテレビ、山本學)
- 『天璋院篤姫』(1985年、テレビ朝日、江守徹)
- 『白虎隊』(1986年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、石田信之)
- 『花の生涯 井伊大老と桜田門』(1988年、テレビ東京12時間超ワイドドラマ、国分郁男)
- 『五稜郭』(1988年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、石田信之)
- 『奇兵隊』(1989年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、高橋英樹)
- 『翔ぶが如く』(1990年、大河ドラマ、三田村邦彦)
- 『勝海舟』(1990年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、津川雅彦)
- 『大奥』(2003年、フジテレビ、山崎銀之丞)
- 『またも辞めたか亭主殿〜幕末の名奉行・小栗上野介〜』(2003年、NHK正月時代劇、比留間由哲)
- 『新選組!』(2004年、大河ドラマ、今井朋彦)
- 『篤姫』(2008年、大河ドラマ、平岳大)
- 『龍馬伝』(2010年、大河ドラマ、田中哲司)
- 『八重の桜』 (2013年、大河ドラマ、小泉孝太郎)
脚注[編集 | ソースを編集]
- ^ a b c 「薨去」は位階が三位(正三位・従三位)以上の者の死について用いる。薨去の項を参照。
- ^ 第3代・家光以来となる正室を生母とした将軍である。
- ^ *徳川秀忠―千姫―円盛院勝姫―池田綱政―池田政純―一条道香―八代姫―徳川治紀―徳川斉昭―徳川慶喜
- ^ 男系の血筋として慶喜は初代高松藩主・松平頼重の四男である松平頼侯の子孫でもある。
- ^ 当時、御三卿の祖は紀州徳川家の血筋だった為、将軍継嗣の紀州家独占という建前上にあった。
- ^ 第12代将軍・徳川家慶は第13代将軍・徳川家定に世子が見込めない事から慶喜を後継者にしたかった。徳川家慶の項を参照。
- ^ 原文は「骨折れ候故、(中略)天下を取り候て後、仕損じ候よりは、天下を取らざる方、大いに勝るかと存じ奉り候」(家近p.22)。
- ^ 童門p177。
- ^ 一説に、腹痛。童門p177。
- ^ 慶喜は節刀(指揮刀)下賜の段階でその場から逃げ出してしまって、相手側はまさか将軍後見職とあろうものが仮病を使うとは思わなかったので呆気にとられた、とされる。童門p177。
- ^ 奈良p.238。
- ^ 奈良p.240。
- ^ 常磐p.117
- ^ 常磐pp.107-116
- ^ 常磐p.124
- ^ 『武田耕雲斎詳伝』下
- ^ 常磐p.118
- ^ 常磐p.122
- ^ 常磐p.118-119
- ^ 常磐p.119-120
- ^ 常磐pp.121-122
- ^ 常磐p.124
- ^ 常磐p.123
- ^ 常磐pp.124-125
- ^ 常磐p.123
- ^ 常磐p.124
- ^ 元治元年(1864年)12月11日、水戸家出身の一橋慶喜を頼った天狗党828名一行は越前国新保宿(福井県敦賀市)で加賀藩監軍・永原甚七郎へ嘆願・始末書を提出、慶喜への取次ぎを請い投降した。加賀藩は彼らを厚遇したが、遠江相良藩主で若年寄・田沼意尊は彼らを劣悪な環境の鰊倉へ入れ、20名以上の病死者を出した。更に、参加を欲した彦根藩士らの手により元治2年(1865年)3月20日(旧暦2月23日)までに福井敦賀の来迎寺境内で水戸藩士・352名が斬首された。他の処刑者は遠島・追放された。天狗党の乱を参照。
- ^ 家茂が後継に指名した田安亀之助(後の徳川家達)を推す大奥を中心とする反慶喜勢力や慶喜の将軍就任を強硬に反対する水戸藩の動きなど、慶喜に向けられた強い反感が将軍職固辞に大きく関わっていた(家近p.p.113-117)。
- ^ 常磐pp.127-128
- ^ a b c 渋沢栄一編『昔夢会筆記』「将軍職を襲ぎ給いし事」東洋文庫、1966年
- ^ 常磐p.128
- ^ 常磐pp.128-129
- ^ これは言わば恩を売った形で将軍になることで政治を有利に進めていく狙いがあったと言われるが、就任固辞が「政略」によるとみなせる根拠も「政略」説を否定する根拠もないのが実情である。家近p.116。
- ^ 家近pp.140-141。
- ^ 奈良p.323。
- ^ 家近p.177。
- ^ 小御所会議構成員のうち、はじめ議定の島津茂久(薩摩藩主)が反慶喜派、浅野茂勲(芸州藩世子)が中立、山内豊信(前土佐藩主)は中立からやや慶喜寄り、徳川慶勝(元尾張藩主)、松平春嶽(前越前藩主)は親慶喜派だった。参与の岩倉具視(公家)が薩摩藩と結んでいた為、岩倉が非常手段に訴えてでもと慶喜排除を浅野へ持ちかけ、浅野が岩倉に賛同した。こうして芸州藩が反慶喜派に転向し、これに山内が説得され、また春嶽が決議に従い、慶喜を新政府から排除する旨は慶喜のいない場で布告された。小御所会議、小御所会議の展開の項を参照。
- ^ A.B.ミットフォード、1998。
- ^ a b c d e サトウ、第26章。
- ^ 慶喜は同年5月に将軍として外交官らを出迎えた時、威厳に満ちた態度で凛々しく誇り高い貴族の面持ちだったが、今回経験した多くの困難や悲しみ、侮辱を表情に顕しながら、外国公使らへ愛国的動機から京都を離れたと説明した(A.B.ミットフォード、1998)。5月の時点で慶喜は気位も高く態度も立派だったのに、眼前の彼はやせ、疲れて、音声も哀調をおびていたので、その場にいたイギリス外交官のアーネスト・サトウは彼へ同情の念を禁じえなかった(サトウ、26章)。また、慶喜は天皇支配は名目(*孝明天皇は慶応2年(1866年)12月25日崩御後、明治天皇は 当時15歳)で、京都は一群の無法な人間に占拠されており彼らはお互い争うだけで統治について何の意見も持っていない、と言った(A.B.ミットフォー ド、1998)。慶喜は京都は喧嘩仲間に終始、政事など顧みぬ連中で占められている、と言った(サトウ、26章)。慶喜は会議前に業を煮やして引き揚げた 藩主らもおり、5諸侯(薩摩・芸州・土佐・越前・尾張)の厚顔さに面食らっている者もあると言った(サトウ、26章)。しかし、慶喜は再び自分の味方に諸 大名が集まってくるかどうかの見当がついておらず、且つ反対派がここまで彼を攻撃して来るかどうかについて何とも言えなかった(サトウ、26章)。この際 の外交官らはそれぞれ、彼の行動について、フランス公使・レオン・ロッシュが口を極めて誉めそやし、イギリス公使のハリー・パークスは慎重な言葉で讃えた(A.B.ミットフォード、1998)。
- ^ 新政府は幕府へ、政権と一緒に政権維持用の領地を新政府へ引き渡せと言った。それでも徳川宗家には譜代大名と大部分の旗本領地を除いても、なお250万石が残る勘定だったが、第9代当主・徳川慶喜はこれを拒絶すると共に徳川宗家領のうち80万石だけ新政府側へ引き渡し、その上に天皇政府を維持していく為の補助金を継続支出したい、と申し出た。サトウ、26章。
- ^ a b c d e 渋沢p.70-72。
- ^ a b c d e サトウ、付録・当時の日本の政情。
- ^ 『昔夢会筆記』の中で、慶喜は「軍令状も何もない、無茶苦茶だ」「(討薩表は)確か見たようだったが、もうあの時分勢いで仕方がない……。とうてい仕方がないので、実は打棄らかしておいた。討つとか退けるとかいう文面のものを、竹中(竹中重固)が持って行ったということだ」「書面などは後の語で、大体向こうが始めてくれればしめたものだ。何方も早く始めりゃあよい。始めりゃ向こうを討ってしまうというのだ」と語っている。渋沢p.70-72。
- ^ 『徳川十五代将軍グラフティー』 新人物往来社 P.143。
- ^ a b 千田p.289。
- ^ a b c 江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜の勤皇行動は、幼少より与えられた水戸家・水戸学の尊皇思想が彼の根底にあったためとされる。慶喜は皇軍へ決して反撃せず、恭順に徹した。維新後の明治34年(1901年)ある宴席での公爵・徳川慶喜自身の述懐を明治新政府の初代内閣総理大臣・伊藤博文が感慨したところによれば、慶喜は伊藤へ勤王の大義について「義公(徳川光圀)以来の水戸家訓である尊皇の義を遵守したに過ぎない」、また具体的に「父(徳川斉昭)から水戸家が先祖代々そうであったよう公儀を助けるのは当然ながら、時節柄万一徳川宗家と朝廷の間に戦が起きても、例えどんな仕儀に至ろうと朝廷へ弓を引く事があってはならない、よくよく父祖の遺訓を忘れるな、と諭されていた」旨を語った。渋沢p456-468。水戸学と水戸家の項を参照。
- ^ 軍 事的勝利の可能性が十分あったにも関わらず、慶喜がこのような行動を執った動機については幾つかの説がある。ある説では慶喜政権が天皇の権威を掌中に収 め、それに依拠することによってのみ成立していた政権であったとし、それを他勢力に譲り渡した時点で彼の政治生命は潰え、一連の退却行動に繋がったとされ る(奈良p.323)。また、ある説では慶喜は鳥羽・伏見の戦いでの撤退原因について、薩摩を討つ覚悟はあっても、天皇(を擁した官軍)に対峙する覚悟が 無かったとされる(『徳川十五代将軍グラフティー』(新人物往来社) P.144)。
- ^ なお、大坂にて将軍職に就任した慶喜は、将軍就任後初めて江戸に入ったことになる。
- ^ 徳川慶篤の項を参照。
- ^ a b 常磐p154。
- ^ 常磐p.155
- ^ 常磐pp.154-155
- ^ 渋沢栄一編 『徳川慶喜公伝』巻七 、「明治元年春、拂国公使ロッシュの勧告を拒絶せられし事に関する記録」平凡社東洋文庫、1976-78年
- ^ a b 渡辺清『史談会速記録』「江城攻撃中止始末」第六十八輯。
- ^ 『大日本維新史料稿本』「復古攬要」
- ^ 市川三左衛門率いる水戸藩・諸生党約500名は慶応4年(1868年)3月に奥羽越列藩同盟側に加勢するべく水戸を出発、北越戦争で善戦後、会津へ戻り1868年会津戦争中の篭城戦に於いて会津藩内の婦女子を救済、その後も各地で奥羽越列同盟藩兵らと共に新政府軍に対して奮戦した。福島県会津若松市一箕町の白虎隊記念館敷地内に、会津で命を落とした水戸藩・諸生党士らの「諸生党鎮魂碑」がある。『茨城新聞』2014年(平成26年)5月2日金曜日、17頁、福島会津若松、殉難志士の冥福祈る。
- ^ a b 慶喜は5歳から11歳まで水戸弘道館で学んだ。明治元年(1868)水戸へ帰ると幼少時代を過ごした弘道館内の至善堂に篭り、静岡に移るまでの4ヶ月間、厳しい謹慎生活をした。日本最大の藩校 国指定特別史跡・重要文化財 弘道館、施設紹介 | 弘道館公園、至善堂(しぜんどう)〔重要文化財〕、茨城県水戸土木事務所 偕楽園公園課 弘道館事務所、2014年5月閲覧。
- ^ 弘道館戦争の項を参照。
- ^ 宝台院。2014年閲覧。
- ^ この時、徳川一族は「授爵の宴」で朝敵の汚名が晴らされた事を大いに喜んだ、という。千田p151。
- ^ 徳川慶喜 叙正二位位記袖書(平田職修日記)
從三位源慶喜
右可正二位
中務受將家系揚武威名亦抽忠誠能護禁闕
宜授榮爵式表殊恩可依前件主者施行
慶應二年十二月五日
(訓読文)従三位源慶喜(徳川慶喜 同日、権中納言から権大納言に転任)、右正二位にすべし、中務、将家系(将軍家当主)を受け、武威の名を揚げ、亦忠誠 に抽んで能(よ)く禁闕(きんけつ 朝廷)を護る、宜しく栄爵を授くべし、式(もっ)て殊恩(しゅおん)を表はす、前件に依り主者施行すべし、慶応2年 (1866年)12月5日 - ^ 『官報』第5091号、明治33年6月23日。
- ^ 渋沢栄一『徳川慶喜公伝 第4巻』平凡社〈東洋文庫 107〉、1968年、p416、田中彰『明治維新の敗者と勝者』1980年、日本放送出版協会〈NHKブックス368〉、『人物日本の歴史19』小学館、1974年、『徳川慶喜―将軍家の明治維新(増補版)』9頁
- ^ 部屋のどこから刺客が入ってきても、始め誰かに当たり刺客到来にいち早く気づけるため。
- ^ 『徳川慶喜公伝』3巻24ページ。参預会議の項を参照。
- ^ 松浦玲『坂本龍馬』
- ^ サトウ、35章。
- ^ 菊池謙二郎『水戸学論叢』によると、「公は実に尊王の大義によって皇基を守られた方である」という。常磐p4。
- ^ 江戸薩摩藩邸の焼討事件の項を参照。
- ^ 千田p150。
- ^ a b 水戸弘道館の正庁や至善堂、正門は国重要文化財。弘道館の項を参照。
- ^ 日本最大の藩校 国指定特別史跡・重要文化財 弘道館、施設紹介 | 弘道館公園、至善堂(しぜんどう)〔重要文化財〕、茨城県水戸土木事務所 偕楽園公園課 弘道館事務所、2014年5月閲覧。
- ^ 弘道館の項を参照。
- ^ 国立国会図書館デジタルライブラリーより1915年『至誠と努力』故徳川慶喜公の大偉勲
- ^ 国立国会図書館デジタルライブラリーより1915年『読史の趣味』徳川慶喜公の偉大なる功績
- ^ 国立国会図書館デジタルライブラリーより1909年『春汀全集』
- ^ 国立国会図書館デジタルライブラリーより1907年『海舟言行録』
- ^ a b c 千田p151。
- ^ A.B.ミットフォード、1998、第二章 将軍との会見。
- ^ 千田p150-151。
- ^ 常磐p.166
- ^ 渋沢栄一編 『徳川慶喜公伝』四巻、逸事。 平凡社東洋文庫 全4巻、1976-78年
- ^ 常磐pp.158-159
- ^ a b 渋沢栄一『徳川慶喜公伝』1918年版国立国会図書館・近代デジタルライブラリーによる。
- ^ 明治44年(1911年)日本橋完成当時の東京市長・尾崎行雄が依頼した。日本橋架橋百周年|今月の特集|「日本橋ごよみ」のご紹介|日本橋の遊び方|まち日本橋、2011年04月 【第6号】過去・現在・未来日本橋架橋百周年、2014年5月閲覧。
- ^ 39)日本橋≪徳川慶喜≫ - 文字看板めぐり、39)日本橋≪徳川慶喜≫、2014年5月閲覧。特集 日本橋 架橋100年 江戸から未来へつなぐ橋 - 旧街道ウォーキング - 人力、すべての道のはじまり The beginning of every road、2014年5月閲覧。
- ^ 公的機関にある作品として、『蓮華之図』(寛永寺蔵)、『西洋雪景図』(福井市郷土歴史資料館蔵、明治3年慶喜から松平春嶽に送られた作品)、『河畔風景』(茨城県立歴史館蔵)、『西洋風景』『日本風景』(共に久能山東照宮蔵)、「風景」(静岡県立美術館蔵)の他、個人蔵が数点ある。
- ^ 静岡市美術館ほか編集 『NHK静岡放送局開局80周年記念 静岡市美術館開館記念展:2 家康と慶喜 徳川家と静岡展』図録、2010年。
- ^ ““最後の将軍”の159首復刻 「慶喜公歌集」を新装版に 1世紀経てネットで発掘 松戸・戸定歴史館”. 千葉日報. (2013年12月9日) 2013年12月9日閲覧。
- ^ 茨城県立水戸第一高等学校の項を参照。
参考文献[編集 | ソースを編集]
- 渋沢栄一編 『昔夢会筆記―徳川慶喜公回想談』、大久保利謙校訂、平凡社〈平凡社東洋文庫〉、1966年 ISBN 4-582-80076-9
- 渋沢栄一編 『徳川慶喜公伝』 平凡社東洋文庫 全4巻、1976-78年
- 『徳川慶喜公伝 史料篇』 日本史籍協会編、東京大学出版会、新装版1997年、なお初版は1918年
- 徳川慶喜写真、徳川慶朝監修 『将軍が撮った明治―徳川慶喜公撮影写真集』 朝日新聞社、1986年 ISBN 4-02-255559-9
- 徳川慶朝 『徳川慶喜家の食卓』 文藝春秋〈文春文庫〉、2008年
- 『徳川慶喜家にようこそ わが家に伝わる愛すべき「最後の将軍」の横顔』 文藝春秋〈文春文庫〉、2003年
- 『徳川慶喜家カメラマン二代目』 角川oneテーマ新書、2007年
- 松浦玲 『徳川慶喜―将軍家の明治維新 増補版』 中央公論社〈中公新書〉、1997年 ISBN 4-12-190397-8
- 家近良樹 『徳川慶喜』 吉川弘文館〈幕末維新の個性1〉、2004年 ISBN 4-642-06281-5
- 家近良樹 『徳川慶喜』 吉川弘文館(人物叢書)、2014年 ISBN 4642052704
- 奈良勝司 『明治維新と世界認識体系』、有志舎、2010年 ISBN978-4-903426-35-8
- 星亮一、遠藤由紀子 『最後の将軍徳川慶喜の無念 大統領になろうとした男の誤算』 光人社、2007年
- 小西四郎編 『徳川慶喜のすべて』 新人物往来社、1984年、新装版1997年
- 久住真也 『幕末の将軍』 講談社選書メチエ、2009年-幕末歴代将軍4人を扱う。
- 田中惣五郎 『最後の将軍徳川慶喜』 中央公論社〈中公文庫〉、1997年、初版1939年
- 岩下哲典編 『徳川慶喜 その人と時代』 岩田書院、1999年
- 渋沢栄一編『昔夢会筆記』東洋文庫、1966年
- アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新』坂田精一訳、岩波書店、岩波文庫、1960年 ISBN 4-00-334252-6
- A.B.ミットフォード『英国外交官の見た幕末維新 リーズデイル卿回想録』長岡祥三訳、講談社、1998年 ISBN 4-06-159349-8
- 岡村青『水戸藩』現代書館、2012年 ISBN 978-4-7684-7129-6
- 童門冬二『真説 徳川慶喜』PHP研究所、1997年 ISBN 4-569-55776-7
- 常磐神社『徳川慶喜公――その歴史上の功績』常磐神社社務所、1998年
- 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、講談社、2009年
関連項目[編集 | ソースを編集]
- 側近
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