天狗党の乱

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天狗党の乱(てんぐとうのらん)は、元治元年(1864年)に茨城県の筑波山で挙兵した水戸藩内外の尊皇攘夷派から成る義勇兵・天狗党によって起こされた一連の争乱。元治甲子の変ともいう。

天狗党の乱
Tenguto no ran.jpg
『近世史略』の「武田耕雲斎筑波山之図」
歌川国輝筆 明治24年9月
戦争:天狗党の乱
年月日元治元年3月27日12月17日
1864年5月2日1865年1月14日
場所水戸筑波山敦賀
結果:天狗党の降伏
交戦勢力
幕府陸軍Mon-Tokugawa.png
水戸藩兵(諸生党
高崎藩兵、笠間藩兵ほか
天狗党
宍戸藩兵(大発勢)
指揮官
田沼意尊
市川三左衛門
徳川慶喜
武田耕雲斎
藤田小四郎
山国兵部
松平頼徳
戦力
不明 1,000
損害
- 降伏

背景

水戸藩における派閥抗争

文政12年(1829年)に徳川斉昭が水戸藩第9代藩主となると、その擁立に関わった藤田東湖藤田幽谷の子)らが登用され、斉昭の改革の担い手となった。これに藩内の保守派は反発し、また幕府は弘化元年(1844年)5月に斉昭を失脚させた。斉昭はその後謹慎を解かれ、第10代藩主徳川慶篤の後見として復権するが、この間にも藩内の保守派と改革派の対立は残った。

嘉永6年(1853年)の黒船来航を期に斉昭が幕府より海防参与を命じられると、水戸藩でも軍事を中心とした藩政改革を進め、改革派を中心に以前から潜在していた尊王攘夷派が確立された。尊攘派は勅書返納問題(後述)への対応を巡り、強硬に攘夷を主張する激派と、よりゆるやかな幕政改革を目指す鎮派とに分裂し、ともに保守派(反対派からは姦党などと呼ばれた)と対立した。桜田門外の変を引き起こし、また天狗党の中核となったのがこの激派であった。

勅書返納問題

斉昭は外敵撃退を望む孝明天皇に無断で日米修好通商条約へ調印した江戸幕府の大老・井伊直弼と対立した。斉昭は第2代水戸藩主・徳川光圀以来の水戸家の風として尊皇論者の為、この井伊の不敬行為を咎めた。しかし井伊は幕府が政治を独裁できるとする体制委任論を奉じていた事に加え、時の第13代将軍・徳川家定身体障害を持つなど不具合があった背景からも、斉昭が反将軍家的な振る舞いをして将軍の地位を脅かそうとしているに過ぎないと臆断した。また、天皇は、血統が天皇の親戚かつ斉昭の実子でもある21歳の徳川慶喜が次期将軍に望ましいとしたが、井伊はこれについても天皇の意を退け、第14代将軍を家定により血統の近い12歳の徳川家茂とした。薩摩藩主・島津斉彬の命を受けた同藩士・西郷隆盛の京都手入れと呼ばれる朝廷工作も手伝って、朝廷では幕府への抗議として公卿らによる廷臣八十八卿列参事件が生じた。将軍継嗣に於ける独断も含め、元より幕府による日米修好通商条約調印を不服とした天皇は、安政5年8月8日1858年9月14日)水戸藩へ直接、水戸藩が中心となっての幕政改革と諸大名の団結を命じる戊午の密勅を賜るという異例の行動に出た。折しも将軍継嗣問題を巡って斉昭らは慶喜を擁立して井伊と対立していた為、井伊は一橋派の中心人物である斉昭が密勅の降下へ主体的に関与していたとの冤罪を始めた。現実にその謀略は薩摩藩によるものであり、1858年3月、斉昭を支持し慶喜を将軍継嗣にしたてようとした薩摩藩主・島津斉彬の命を受けた薩摩藩士・西郷隆盛は島津家の養女で将軍徳川家定の正室・篤姫から左大臣の公卿・近衛忠煕への書簡を持って京へ向かい、僧・月照らの協力で、慶喜継嗣実現に向け天皇からの内勅降下を謀った。同年8月、西郷は近衛家から託された孝明天皇の内勅を、水戸藩と尾張藩へ渡すため江戸に赴いたが、これを果たせず京へ帰った。以後、西郷は9月中旬頃まで薩摩藩士・有馬新七や薩摩藩士・有村俊斎、薩摩藩士・伊地知正治と共に大老・井伊直弼を排斥する事による幕政改革を謀っていた[1]。また尊皇論主流の水戸藩側では家老・安島帯刀を含めこの薩摩・西郷からの共同謀議を固辞しており、1858年8月、薩摩藩士・西郷隆盛が水戸藩家老・安島帯刀に近衛家から託された孝明天皇の内勅を水戸へ示しながら共謀密勅降下運動を打診したところ、安島は尊皇論主流の水戸藩の立場、すなわち水戸学に於ける大義名分論の 立場では幕府による天皇利用は主客転倒になってしまう為、これを遠慮し、共同謀議を固辞していた。西郷が京へ帰った直後の同年同月16日深夜、京都留守居 役の水戸藩士・鵜飼吉左衛門の子・鵜飼幸吉よりもたらされた天皇からの水戸藩へ直接の『戊午の密勅』拝受に、安島は驚愕していた[2]。これらの背景を知らない井伊は、安政の大獄と 呼ばれる水戸藩を主とした一橋派や尊攘派と見られた者達への大量粛清を開始した。井伊は諸藩の志士ら数十人以上を死刑・獄死にしていき、総勢100名以上 に及ぶ人々を逮捕し且つ遠島・永押込・隠居・謹慎・手鎖などに処した。井伊はことさら冤罪を与えた水戸藩には斉昭へ永蟄居を命じ再び失脚させたり、天皇の 命を受けただけの鵜飼親子や安島を死刑にしたり、現実には薩摩藩が行なった朝廷工作にも関わらず、それを行ったと疑われた水戸藩士らに十分な証拠がない状 態で死刑を含む重い冤罪処分を犯して行った。更に井伊は、皇族・久邇宮朝彦親王や天皇を輔弼した左大臣・近衛忠煕、右大臣・鷹司輔煕諸大夫ら多数の皇族・公卿・公家らを逮捕・軟禁し、彼らに落飾させた上で、天皇へも譲位を要請した[3]

井伊は先に朝廷から水戸藩に送られた密勅の内容を無効化させる為、それを朝廷へ返納するよう水戸藩に命じた。これへの対応を巡り、尊攘派は密勅返納 に応じようとする鎮派と、あくまで密勅を奉じようとする激派に分裂した。翌年に斉昭らは勅書返納の方針を定めたが、激派の中にはそれに反発して飽くまで尊 皇の至善に留まり、密勅返納防止の実力行使を企てる者が現れた。高橋多一郎ら水戸藩士は水戸街道長岡宿東茨城郡茨城町)へ集結して街道を封鎖した。彼らに共感した農民など数百人が次第にこれへ合流していった。やがて3000人規模に膨れ上がった彼らは、長岡宿において自主的に検問を実施し、水戸から江戸への密勅流出を全力で阻止しようとした。後に長岡屯集と呼ばれたこの行動集団を鎮圧するため、水戸藩庁は部隊を派遣した。このかいあって屯集勢力は、斉昭による説得も受けて漸く解散し、武力衝突はかろうじて回避された。この間、長岡屯集に属していた新撰組初代筆頭局長の芹沢鴨御陵衛士盟主の伊東甲子太郎岩倉具視に侍った香川敬三らの水戸藩士が別個に皇居護衛へ向かう動きを始めた。また井伊は自ら天皇による勅書を捏造した上で、第10代水戸藩主・徳川慶篤に対してもし期限前に朝廷へ密勅を返納しなければ天皇の命令に背いた罪を斉昭へ着せ、かつ水戸藩を改易し水戸徳川家を別の国へ移すと脅した。水戸家は朝廷と幕府に戦があれば朝廷に就くべしとする家訓を持っていた[4]。斉昭は密勅を家老の大場一真斉から水戸城内の祖廟へ納めさせたが、更に安全な場所へとの同藩士からの陳情により、それは代々の水戸家の墓所がある水戸から約23.56キロメートル北の瑞竜山の廟へ移された。水戸藩士・斉藤留次郎が尊皇の念から密勅返納に命懸けで抗議するべく水戸城内で「いたずらに朽ちぬ身をもいまはただ国の御為に数ならずとも」と辞世を書き残して割腹自殺した。結局、同藩庁側は長岡屯集を解散させたにも関わらず密勅を同藩領内に留め続けた。[5]

万延元年1860年3月3日、高橋ら長岡宿の屯集勢力から、また水戸城下から集結した水戸浪士らは斉昭雪冤を期して江戸城桜田門外で桜田門外の変を起こすに至り、井伊を暗殺した。万延元年7月(1860年9月)、水戸藩士・西丸帯刀らと長州藩士・木戸孝允らの間で天皇に命じられた幕政改革に際し水戸が幕府を破り長州が改革を成すという内容の密約・成破の盟約が結ばれ、万延元年8月15日(1860年9月29日)に斉昭が病死すると激派の行動は更に活発となり、第一次東禅寺事件坂下門外の変などを繋いでいった。孝明天皇はこれら水戸藩を脱藩した浪士らの尊皇攘夷運動に際し、『御宸筆にて公卿方へ御下げ相成候控』(文久二年七月望後二日 延寿謹識)と題した和文2700字の親書を公卿へ 宛てて発した。その内容は、桜田・坂下の水戸浪士始め尊攘志士らの行動は一見乱暴なようながら君国を思う至情に出たもので、彼らを無駄に死なせず対外防衛 戦の先頭に立たせれば皇国の為になるのに全く残念な事とし、彼らの誠意を汲んで厳しく罰するような事があってはならないとした。また、幕府が無責任な遁辞 で対外防衛戦を引き延ばすばかりで実行せず、しかも無勅許で外国と条約を結んだ為、天皇は公武一体となって外敵を防ぐため忍び難きを忍んで和宮を遠く江戸 へ遣わしたが、もし天皇が幕府の要求を呑めば承久の乱元弘の乱の先例のよう退位や流罪を余儀なくされるだろうと廷臣がいい、世間にその風説も流されている、と訴えた[6]

横浜鎖港路線の成立

文久2年(1862年)水戸藩尊攘派の活動が再び活発となった。この年、長州藩等の尊攘派の主導する朝廷は、幕府に対し強硬に攘夷実行を要求し、幕府もこれに応じざるを得ない情勢となった。水戸藩においても、武田耕雲斎ら激派が執政となり、各地の藩校を拠点に尊攘派有志の結集が進んだ。翌文久3年(1863年)3月、将軍徳川家茂が朝廷の要求に応じて上洛することとなり、これに先立って将軍後見職に就任していた一橋慶喜が上洛することとなると、一橋徳川家当主で配下の家臣団が少ない慶喜のため、彼の実家である水戸藩に上洛への追従が命じられた。水戸藩主徳川慶篤には、武田耕雲斎、山国兵部藤田小四郎など、後に乱を主導することになる面々が追従し、藤田らは京都において、長州藩の桂小五郎久坂玄瑞らと交流し、尊皇攘夷の志をますます堅固なものとした。

文久3年5月、藤田は一橋慶喜に追従して江戸に戻ったが、八月十八日の政変により長州藩系の尊攘派が京都から一掃され、急進的な尊王攘夷運動は退潮に向かった。しかしなお天皇の攘夷の意思は変わらず、政変直前に幕府が表明していた横浜港の 鎖港について、引き続き実行に移すよう要求した。9月、幕府はこれに応じて横浜鎖港交渉を開始したが、幕閣の多くはもとより交渉に熱心ではなく、あくまで 横浜鎖港を推進しようとする一橋慶喜らとの間で深刻な対立が生じた。このころ諸藩の尊攘派は、長州藩に代わって水戸藩を頼みとするようになり、水戸に浪士 らが群集することとなった[7]。藤田は長州藩と連携した挙兵計画を構想し、武田の強い慰留にも関わらず、遊説や金策に奔走した。この頃、藤田は武州血洗島村(埼玉県深谷市)の尊攘派豪農であった渋沢栄一とも、江戸で2度に渡り会見した。

文久4年(1864年)1月、将軍家茂は老中らとともに前年3月に続く再度の上洛を果たし、参預会議を構成する諸候と幕閣との間で横浜鎖港を巡る交渉が行われた。ここでも一橋慶喜は横浜鎖港に反対する他の参預諸候と対立し、参預会議を解体に追い込んだ。朝廷より禁裏御守衛総督に任命された慶喜は、元治元年(文久4年2月改元、1864年)4月には水戸藩士の原市之進梅沢孫太郎を家臣に登用し、武田耕雲斎に依頼して200~300名もの水戸藩士を上京させて自己の配下に組みこむなど、水戸藩勢力との提携を深めた。天狗党の挙兵はその最中に勃発した。

「天狗党」の名称の由来

以下の三通りの説がある。

  1. 保守派(門閥派)の中には代々名門の家を受け継いできた上級武士が多く、改革派の中には下級武士が多かった。その為、「成り上がり者が調子に乗っている(天狗になっている)」といった侮蔑の意味を込めて保守派が改革派をそう呼んだところから来ているという説。
  2. 改革派は世直しをするものとして、自らを天狗と称したという説。
  3. 九代藩主斉昭が、彼らの才覚を賞賛して呼称したという説。

挙兵とその後の経過

筑波山挙兵

第14代将軍・徳川家茂1863年5月10日攘夷決行を天皇へ誓ったがそれも行われず、翌年である1864年2月家茂は既に開港済みの横浜を改めて鎖港した上で、海岸防御を強化するとして再び天皇へ攘夷を誓っていた。家茂が単に優柔不断なだけではなく、幕閣内の対立も加わって横浜鎖港は約束ばかりで一向に実行されない事態が、ひたすら水戸藩士らの目の前に展開されていた。藤田幽谷の孫で藤田東湖の4男と水戸学者の血を継ぐ藤田小四郎は、安政の大地震で死去した父祖の果たせなかった志を継ごうとする孝心に端を発し、先祖代々の遺訓である尊王攘夷を継ぐ行動を執らねばならなかった。藤田は、それら攘夷決行の不能による幕府権威の失墜を先んじて憂い、幕府による横浜鎖港を側面から応援するつもりだった[8]。この頃、藤田は長州藩と密議をくりかえし、長門国木戸孝允因幡国八木良蔵と江戸は麻布の長州藩邸に集まった。彼らは東西で挙兵する計画をそこで立てた。当計画の内容は、長州藩が山城国で薩摩藩と会津藩に対抗するとした上で、時に幕府がたやすく山城へこれないよう水戸藩が関東で挙兵し、幕府を足止めできれば、長州が山城の薩摩と会津を倒すとした。故に長州藩がこの為の軍資金を水戸藩士の藤田へ出すと約束した。これ以後、既に成破の盟約を結んでいた長州の木戸が斉昭の墓参と称して水戸へやってきて、藤田と打ち合わせをした。この際、木戸が軍資金として1000両を約束した内の500両分を藤田へ渡した[9]。これを手始めとして藤田は北関東各地を遊説して軍用金を集め、元治元年3月27日(1864年5月2日)、62人の同志たちと共に筑波山に集結し、そこで挙兵した。藤田は23歳と若輩であったため、水戸町奉行田丸稲之衛門を説いて主将とした。

挙兵の報を聞いた水戸藩目付役の山国兵部は、弟の田丸が主将に担がれていることを知り、藩主徳川慶篤の命を受けて説得に赴くも、逆に諭されて一派に加わることになった。その後、各地から続々と浪士、農民らが集結し、数日後には150人、その後の最盛期には約1400人という大集団へと膨れ上がった。彼らは筑波山で挙兵したことから筑波勢波山勢などと称された。

日光参拝と田中隊の活動

藤田小四郎ら筑波勢は、元治元年4月3日(1864年5月8日)に下野国日光(栃木県日光市)へと進んだ。彼らは徳川家康を祀った聖地である日光東照宮を 占拠して攘夷の軍事行動に踏みきるつもりだった。彼らは日光東照宮への攘夷祈願時に『天狗党檄文』を表し、そこに「こいねがわくは諸国忠憤の士、早く進退 去就を決し、心をあわせて力を尽くし、上は天皇の朝廷に報い奉り、下は幕府の片方の翼として飽くまで彼らを助け、日本国の威厳を万国へ輝かしたく、われら の素願はまったくこの事にあり」と記した。ここには、彼らの従軍の目的が天皇とその配下にある幕府への純粋な忠義に基づいた、彼ら義勇兵による率先した護 国防衛の行動として、即ち、愛国心に基づいた国威発揚の行動原理として示されている。彼らは将軍が無能化している今、正に水戸藩の代名詞であった天下の副将軍として天皇の意を奉り護国防衛を成就させる、この目的のため幕府を助けるつもりで自主的に義勇兵を作ったのである。

彼らは急進的な尊王攘夷思想を有していたが、当激文に上は天朝に報じ奉り、下は幕府を補翼しと表明している通り、基本的に敬幕派であり、攘夷実行も東照宮の慰霊、即ち江戸幕府初代征夷大将軍・徳川家康の遺訓であると考えていた。また、武田耕雲斎ら藩執行部は問題の解決に苦慮するものの、横浜鎖港という挙兵勢力の方針自体には積極的に同調し、その圧力を背景に幕政への介入を図っていくこととなった[10]日光奉行・小倉正義の通報を受けた近隣各藩の兵が出動したため、藤田らは日光から大平山へと移動し、同地に5月末までに滞在した。

一方水戸城下においては、保守派の市川三左衛門が鎮派の一部と結んで、水戸弘道館の学生、即ち書生からなる事からそう呼ばれた諸生党を結成し、藩内での激派排撃を開始した。彼らは単に尊攘の義のみに逸るのではなく大義名分論をも保持し、既に薨去した斉昭や、現水戸藩主・慶篤の意思をより厳密に立て、しかも将軍家の命令を待とうとした。彼らは天狗党側の逸る行動を批判する内容の存意書を、幕府へ建言した。

これを知った藤田らは筑波山へと引き返すが、この間に挙兵勢力は約700人に達しており、軍資金の不足が課題となった。このため筑波勢は近隣の町村の役人や富農・商人らに対し金品を徴発した。とりわけ田中愿蔵により組織された別働隊は、このとき資金供出を断った栃木(6月5日~6日)・真鍋(6月21日)などの町で放火・略奪・殺戮を働いた。

とりわけ惨劇が展開されたのが栃木であった。6月5日、栃木宿に到着した田中隊は、家々に押し入って金品を強奪したうえ、町に対し軍資金 30,000両の差し出しを要求した。町側がこれに応じられないと知るや、田中は宿場に火を放たせ、この火災により翌日までに宿場内に限っても237戸が 焼失した[11]

幕府の対応

北関東における筑波勢の横行に対し、幕府は将軍徳川家茂が上洛し不在であったこともあり、水戸藩や諸藩に鎮撫を要請するのみで、6月に至るまでこれ を放置していた。水戸藩も激派が藩政を握っており、藩主慶篤は幕府が横浜鎖港を実行しない限り筑波山に立て篭る挙兵勢力の鎮撫はできないと主張していた[12]。4月20日、参内した家茂に対して朝廷は横浜鎖港を必ず実行するよう指示し、川越藩松平直克政事総裁職)及び慶篤がその実行者に指名された。

こうして、横浜鎖港は幕府にとっても受け入れざるを得ない情勢となったが、一方で老中板倉勝静牧野忠恭ら はこれが筑波挙兵の結果として受け止められることを回避するため、5月、家茂の江戸復帰を機に、水戸藩に対し筑波勢追討を命じた。これに呼応し、市川三左 衛門ら諸生党約600人余は江戸に上り、藩主慶篤のいる江戸小石川の水戸藩邸を掌握、激派を藩執行部から更迭するクーデターに成功する。慶篤の変節は筑波 勢追討を巡る幕閣内の抗争にも影響を与え[13]、6月、一橋慶喜の意を汲んで横浜鎖港を主張し、筑波勢鎮圧に反対姿勢を示していた直克が失脚し、ようやく筑波勢の鎮圧方針が定まった。7月8日、相良藩田沼意尊若年寄)が追討軍総括に任命された。

また、7月19日には筑波勢の決起に意を強くした長州藩尊攘派が武装上洛し、会津藩らと京都市中で交戦した(禁門の変)。これに敗北した長州藩は「朝敵」となり、政局の課題は鎖港実行より長州征伐に重点が移ることとなった。筑波勢は挙兵の名目を半ば見失い、決起は水戸藩の内部抗争の色彩を強めていった[14]

追討軍との開戦

元治元年6月、幕府は筑波勢追討令を出して常陸国下野国の諸藩に出兵を命じ、直属の幕府陸軍なども動員した。幕府陸軍約3300人、高崎藩・笠間藩兵約2000人に、諸生党が結成した追討軍数百人が追従した[15]7月7日に諸藩連合軍と筑波勢との間で戦闘が始まった。筑波勢は機先を制して下妻近くの多宝院で 夜襲に成功し、士気の低い諸藩軍は敗走した。水戸へ逃げ帰った諸生党は、筑波勢に加わっている者の一族の屋敷に放火し、家人を投獄・銃殺するなどの報復を 行った。8月半ばまでに市川らは水戸における実権を掌握し、江戸にいる藩主慶篤の意向と関わりなく藩政を動かすことが可能となった[16]

諸生党の報復に対し筑波勢の内部では動揺が起こり、藤田ら筑波勢本隊は攘夷の実行を優先する他藩出身者らと別れて水戸に向かった。藤田らは水戸城下で諸生党と交戦するが敗退し、那珂湊ひたちなか市)の近くまで退却する。藤田ら本隊と別れて江戸へ向かって進撃した一派も鹿島付近において幕府軍に敗北した。また筑波勢追討が開始されると、茨城郡鯉淵村など近隣三十数か村の領民らが幕府軍に呼応し、各地で尊攘激派およびこれに同調していた村役人・豪農等への打ち壊しが行われた[17]

大発勢の出陣と那珂湊の戦い

江戸の水戸藩邸を掌握した諸生党に対し、激派・鎮派は領内の尊攘派士民を下総小金千葉県松戸市)に大量動員し、藩主慶篤に圧力をかけ交代したばかりの諸生党の重役の排斥を認めさせ[18]、水戸藩邸を再び掌握した。しかし、市川らによる水戸城占拠の報に接し、国元の奪還を図ることとなった[19]。そこで、在府の慶篤の名代として支藩・宍戸藩主の松平頼徳が内乱鎮静の名目で水戸へ下向することとなり、執政・榊原新左衛門(鎮派)らとともに8月4日に江戸を出発した。これを大発勢という。これに諸生党により失脚させられていた武田耕雲斎、山国兵部らの一行が加わり、下総小金などに屯集していた多数の尊攘派士民が加入して1000人から3000人にも膨れ上がった。

大発勢は8月10日に水戸城下に至るが、その中に尊攘派が多数含まれているのを知った市川らは、自派の失脚を恐れ、戦備を整えて一行の入城を拒絶した。頼徳は市川と交渉するが、水戸郊外で対峙した両勢力は戦闘状態に陥る。大発勢はやむなく退き、水戸近郊の那珂湊に布陣した。筑波勢もこれに接近し、大発勢に加勢する姿勢を示した。8月20日、頼徳は水戸城下の神勢館に進んで再度入城の交渉を行うがまたも拒絶され、22日に全面衝突となった。大発勢は善戦するが、田沼率いる幕府追討軍主力が25日に笠間に到着して諸生党方で参戦すると、29日には再び那珂湊へ後退した。

筑波勢の加勢を受けた大発勢は、市川らの工作もあり筑波勢と同一視され、幕府による討伐の対象とされてしまった。大発勢内では、暴徒とされていた筑 波勢と行動を共にする事に当初抵抗もあったが、結局共に諸生党と戦うことになった。この合流によって、挙兵には反対であった武田も筑波勢と行動を共にする 事になった。

幕府追討軍・諸生党は那珂湊を包囲し、洋上にも幕府海軍黒龍丸が 展開して筑波勢へ艦砲射撃を行なった。この際、軍艦の圧倒的な兵器力の前に敗れた筑波勢の藤田は、玉砕主義で最後の一人までぶつかって斬り死にしようと主 張したが、年長の武田は一人でも多く生き残って御所へ向かい、朝廷へ訴えようと主張した。武田は幕府軍とは違って、朝廷のみならず慶喜も彼らを見殺しにし ないだろう、と考えた[20]。文久3年(1863年)、武田は慶喜に侍って御所へ行き、文久3年(1863年)4月15日に孝明天皇の陪食をして天皇の用いた箸を貰った経験もあった為、攘夷論者としての天皇を間近に感じた事もあり、しかも慶喜は尊皇攘夷論者であった父・斉昭の遺志を奉じる存在である事をも武田への慶喜からの手紙で知っていた[21]。ここで武田耕雲斎が首領となり、筑波勢の田丸稲之衛門藤田小四郎を副将として一同が上洛し、禁裏御守衛総督・ 一橋慶喜を通じて朝廷へ尊皇攘夷の志を訴えることを決した。彼らは説得を試みても尊皇攘夷をまるで行なおうとしない江戸幕府へそれを天皇の権威で強制的に 果たさせようとした。即ち彼らは天皇の意思を尊んで、征夷大将軍府の構成員として正式な対外防衛戦争を侍らから履行させる為に、慶喜を通じて彼らの至誠を 帝へ訴え、朝廷の力によって幕府を動かそうとしたのである[22]

頼徳の依頼を受けて市川との仲介を試みていた山野辺義芸は幕府軍・諸生党と交戦状態に陥った末に降伏、居城の助川海防城も攻撃を受けて9月9日に落城した。その後、今度は筑波勢の田中隊が助川海防城を奪還して籠城したが、これも幕府軍の攻撃を受けて9月26日に陥落した。敗走した田中隊は、最終的に棚倉藩を中心とする軍勢に八溝山で討伐され、そのほとんどが捕われて処刑された。

10月5日、「幕府に真意を訴える機会を与える」という口実で誘き出された頼徳が筑波勢との野合の責任を問われ切腹させられた。この時、頼徳の家臣ら1000人余りが投降した。このとき降伏した榊原ら43名は後に佐倉藩古河藩などに預けられ、数ヶ月後に切腹ないし処刑された。

天狗党の西上

大発勢の解体と那珂湊での敗戦により挙兵勢力は大混乱に陥ったが、脱出に成功した千人余りが水戸藩領北部の大子村(茨城県大子町)へ集結した。世間はこの一行を指して天狗党あるいは天狗勢と 呼んだ。このとき武田らは、天狗党が度重なる兇行によって深く民衆の恨みを買い、そのため反撃に遭って大損害を被ったことをふまえ、好意的に迎え入れる町 に対しては放火・略奪・殺戮を禁じるなどの軍規を定めた。道中この軍規がほぼ守られたため通過地の領民は安堵し、好意的に迎え入れる町も少なくなかった[23]

天狗党は11月1日に大子を出発し、京都を目標に下野上野信濃美濃と約2ヶ月の間、主として中山道を 通って進軍を続けた。この時、道中に位置する諸藩には幕府から天狗党追討命令が出されていたが、これらの藩はそのほとんどが小藩だったこともあり、天狗党 が通過して行くのを傍観していた。また諸藩の中には密かに天狗党と交渉し、城下の通行を避けてもらう代わりに軍用金を差し出した藩もあった。

11月16日、上州下仁田において、天狗党は追撃して来た高崎藩兵200人と交戦した。この下仁田戦争に於いて激戦の末、天狗党死者4人、高崎藩兵は死者36人を出して敗走した。また、11月20日には信州諏訪湖近くの和田峠において和田峠の戦いが生じて天狗党は高島藩松本藩兵と交戦し、双方とも10人前後の死者を出したが天狗党が勝利した。天狗党一行は伊那谷から木曾谷へ抜ける東山道を進み美濃の鵜沼宿付近まで到達するが、彦根藩大垣藩桑名藩尾張藩犬山藩などの兵が街道の封鎖を開始したため、天狗党は中山道を外れ北方に迂回して京都へ向って進軍を続けた。

朝廷を防御する役目である禁裏御守衛総督となっていた慶喜は、朝廷付近で天狗党を受け入れると、慶喜と天狗党の内通を疑う江戸の幕府方に慶喜らへのさらなる嫌疑を招くと考えた。この為、慶喜は自ら朝廷に願い出て近江国琵琶湖近くへ出張し、そこで武田らを抑えようと、11月下旬、追討の願書を朝廷へ提出した。11月31日、朝廷は「もし降伏するようなら相当の取計らいすべき事」として、暗に追討という対幕府的な名目を理解する文脈でそれを許可した。揖斐宿に至った天狗党は、薩摩藩士・西郷隆盛の秘命を受けたとする桐野利秋から武田への面会を申し込まれた。武田は藤田と竹内百太郎か ら彼へ応対させた。桐野は薩摩藩が尽力するので速やかに(中仙道と思われる)本道を通って京へ入るよう天狗党に勧めていた。桐野と応対した藤田は薩摩藩側 の好意を有り難いとしながら、出陣した慶喜と戦になるのは望ましくないので本道を行くのは断った。この際、薩摩藩が何をするかは面会の中で何も告げられて いなかった[24]。天狗党は慶喜軍と遭遇しないよう、琵琶湖畔を通って京に至る事は不可能と判断し、そこから更に北上して蠅帽子峠を越え越前に入り、大きく迂回して京を目指すルートを選んだ。12月3日に京を出発した慶喜軍は会津藩兵や加賀藩兵を率いて近江国の大津に陣を張った。また、慶喜実弟の徳川昭武もその翌日、在京の水戸藩士である本圀寺勢を率いて出陣した。その頃、薩摩藩の探索方と称した4人が早打駕篭に乗って美濃路で、大垣藩彦根藩へ 慶喜の内意は天狗党を降伏させる事なので、一方的に討伐するのは彼の内意に悖る事になると告げていた。慶喜の側は、この幕府側に抗っている天狗党を庇おう としている印象をつけるような薩摩藩士側による遊説によって、幕府側から慶喜への更なる嫌疑を招く事態を払拭する必要が生じた。このため12月7日、慶喜 は大津の総督本陣から加賀藩の永原甚七郎を呼び出して前述の薩摩藩の説を打ち消し、十分な討伐を彼へ命じた。12月10日、一橋家の探索人である渋沢誠一郎が葉原宿にいた金沢藩の陣へやってくると、「薩摩藩士・河田十郎美濃国近江国の 諸藩へ離間策を告げたと分かった。私は濃州路で彼と面会したのでそのことを詰問したところ相手は困惑したが、それ以上に推して追及はしなかった。一橋卿は この薩摩遊説を吹き込んでいないので、寧ろ一橋卿への幕府方からの嫌疑を解くには速やかに天狗党を征討する事」と金沢藩へ告げた[25]。越前の諸藩のうち、藩主が国許に不在であった大野藩は関東の諸藩と同様に天狗党をやり過ごす方針を採ったが、鯖江藩主・間部詮道福井藩府中城主・本多副元は天狗党を殲滅する方針を固め、兵を率いて自領に通じる峠を厳重に封鎖し、天狗党が敦賀方面へ進路を変更するとそのまま追撃に入った。

投降

12月11日、天狗党一行は越前国新保宿(福井県敦賀市) に至った。天狗党の828人は慶喜が自分たちの声を聞き届けてくれるものと期待していたが、その慶喜が朝廷の命を受けた幕府軍を率いていることを知り、ま た諸藩からの追討軍も徐々に彼らへの包囲網を狭め、優に1万数千人の兵隊から追い詰められた状況下でこれ以上の進軍は無理であると判断した。今度は長州藩 が彼らへ密使を遣わし、若狭国丹波国を経由して日本海側を通り、長州へやってきて共に行動するよう勧めて来た。天狗党に属した72歳の山国兵部は、 同党の中で是非そうするよう主張し、ここで自首しても滅ぼされるのみ、華々しく一戦を交える為にも長州へ行こうと言った。しかし、武田は主君に等しい慶 喜・昭武の二公に敵するのは臣子の情に忍ぶべからざるところであり、万事休すとして、主君へ忠義の降伏を天狗党一行に選択させた[26]。天狗党は彼らの前方を封鎖していた加賀藩の監軍・永原甚七郎に 嘆願書・始末書を提出して慶喜への取次ぎを乞うたものの、幕府軍はこれを斥け、17日までに降伏しなければ総攻撃を開始すると通告した。山国兵部らは降伏 では体面を損なうとして反対したが、総攻撃当日の12月17日(1865年1月14日)、払暁とともに動き出した鯖江・府中の兵が後方から殺到すると、つ いに天狗党員828名は加賀藩に投降して武装解除し、一連の争乱は鎮圧された。

天狗党が最後の時を過ごした鰊倉は福井県敦賀市から茨城県水戸市回天神社内へ移築され、保存された。この倉は回天館と名づけられ、現存する

加賀藩は投降した天狗党員を諸寺院へ収容し、武士の体面を重んじた敬意と、夜具や風呂、時に酒を振舞うなどかなりの厚遇を以て処した。慶応元年(1865年)1月18日、遠江国相良藩主で若年寄かつ天狗党追討軍総括の田沼意尊山城国の慶喜のところへ来た。意尊は田沼意次の曾孫であり、老中を務めた事もある田沼家の意尊は「天下の公論もあり、最善の処置でなければ皇国の人心にとっての折り合いもあり、常野にも天狗党と同様に降伏した徒もいるのでその処置は一致しなければならない」と慶喜へ告げた。慶喜は彼らを田沼へ引き渡した。この間、加賀藩士・永原甚七郎が天狗党の助命を幕府方へ嘆願し、朝廷も盛んに天狗党の助命を幕府方へ嘆願していた。永原らは、できたら加賀藩が天狗党を預かって能登半島あたりへ移し、しばらくそこで生活させようと考えていた[27]。田沼率いる幕府軍が敦賀へ到着し、加賀藩から天狗党員の引渡しを受けるとただちに全員を鰊粕の 貯蔵施設である鰊倉の中へ厳重に監禁した。藤田ら一部の幹部達を除き、彼らは手枷足枷をはめられその衣服は下帯一本に限らされ、また、真っ暗で何も見えな いほど閉鎖された鰊倉の中で一人につき一日あたり握飯一つと湯水一杯のみを与えられた。彼らの衛生状態は、腐敗した魚や用便用の桶が発した異臭が篭もる狭 い鰊倉へ大人数で押し込められた為に最悪となり、また折からの厳寒も相まって病に倒れる者も続出、そこで20名以上が死亡した。京で天狗党の処刑を知った薩摩藩士・大久保利通は、裸身での鰊倉監禁など、幕府の彼らに対する扱いが過酷を極めた事について「是を以て、幕府滅亡の表(しるし)と察せられ候」と彼の日記に書き残した。

この時捕らえれた天狗党員828名のうち、352名が彦根藩士らの手により斬首された。1865年3月1日(元治2年2月4日)、武田耕雲斎ら幹部24名が来迎寺境内において斬首されたのを最初に、12日に135名、13日に102名、16日に75名、20日に16名と、3月20日(旧暦2月23日)までに斬首を終え、他は遠島・追放などの処分を科された。天狗党が真っ暗な鰊倉の中で残した「」の絶筆が、後に茨城県水戸市へ移築された鰊倉の一つに於ける重い木戸の内側に残されている。

乱後

天狗党降伏の情報が水戸に伝わると、水戸藩では市川三左衛門ら諸生党が中心となって天狗党の家族らをことごとく処刑した。

一方、天狗党に加わって遠島処分となった武田金次郎(耕雲斎の孫)以下110名は、小浜藩に預けられて謹慎処分となった。同藩は彼らを准藩士格として扱い、佐柿(福井県美浜町佐柿)に収容のための屋敷を建てて厚遇した。慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発すると、慶喜に説かれた慶篤は、朝廷から藩状是正を命じる勅諚を受諾した。これに加え天狗党の残党は長州藩の支援も受け、京の水戸家家臣を構成していた本圀寺勢と合流した。天狗党と本圀寺勢の両者を併せて「さいみ党」とも称した。

同時にこの頃、郷里にいた市川の率いた諸生党は1868年3月水戸を出発し、西軍の侵略へ抗った奥羽越列藩同盟に加勢するべく同年6月21日新潟県北越戦争や、同年6月10日から11月6日頃の福島県会津戦争の篭城戦で婦女子を救済する等、北陸・東北各地を転戦していた。この時、会津で命を落とした水戸藩諸生党士らの「諸生党鎮魂碑」が福島県会津若松市一箕町の白虎隊記念館敷地内にある[28]

慶篤はさいみ党と共に、諸生党出陣中で空いていた水戸城へ入った為ここに与野党が交代し、今度は諸生党の家族らがさいみ党により処刑された。大政奉還を果たした慶喜は父・斉昭の遺訓である水戸家先祖代々の言い伝え通り皇軍へ一意恭順し、江戸城や謹慎先の上野・寛永寺大慈院をも退去し、水戸弘道館に於ける諸公子の勉強部屋であった至善堂を訪れると、そこで引き続き謹慎した。至善堂とは、彼の父・斉昭が『大学』の一節からとって命名した「人間は最高善に達し、それを維持する事を理想とすべきである」との意味が込められている。さらに慶喜は同年7月23日徳川宗家が移された静岡県宝台院へ移って、再びそこで謹慎した。北陸・東北での一連の戦が新政府軍の勝利に終わると、同年9月29日、諸生党は水戸へ踵を返した。帰還した500人から1000人あまりの諸生党が弘道館に篭もると、水戸城の藩庁との間で睨み合いが続き、同年11月14日弘道館戦争となった。諸生党は更に下総へと脱出してさいみ党側と抗戦を続けたが、11月19日松山戦争で壊滅した。こうして市川ら諸生党の残党も捕えられて処刑されたが、金次郎らはなおも諸生党の係累に対し弾圧を加え続け、水戸における凄惨な報復と私刑はしばらく止むことが無かった。一方、翌1869年7月25日版籍奉還後に慶喜の幕臣として働いた剣豪・山岡鉄舟茨城県の初代県知事(初代参事)とされ、第2代茨城県知事が桜田烈士の一人を叔父にもつ男爵山口正定とされる等、水戸藩改め新生・茨城県の士気は新政府の意向如何に関わらず、高いままに保たれてもいた。1872年(明治5年)7月薩長土肥の一員である肥前国佐賀県)出身の渡辺清が山岡茨城県知事代行の県令心得として水戸へ直接赴任した際、旧水戸藩の士族は主君を裏切った新参者が代々の水戸城へ入るのは許せないと考え同城へ放火して自らその城郭を消失させた。徳川の侍としての誇りと操を守ろうとした彼らは、同年11月の『郵便報知新聞』に「(茨城県の士族は)明治新政府の命令を蔑視し、袴をはいて大小の刀を帯び詩歌を吟じていた」と記されていた[29]

天下の副将軍を自負し水戸学を背景に尊皇攘夷運動を主導した御三家水戸藩は、水戸藩士・西丸帯刀丙辰丸の船上で長州藩士・木戸孝允に約束し、難役を引き受けた成破の盟約に予見されていた通り、率先垂範をさきがけ自主的に犠牲を支払っていった。この為、有為な現役の人材はごく貴重な生き残りの例外を除いて、必然的にその殆どが自ら命を失った。茨城県水戸市にある回天神社は幕末に討ち死にした水戸藩士達を祭神として、水戸殉難志士、1865柱を安置している。靖国神社幕末維新に 関係した祭神約4200柱を祀っているが、このうち1420柱、約3割の殉死者を水戸藩士で占めている。これらの事からも水戸藩は勤皇の副将軍として名実 共に、宿命的なまでに甚大な犠牲を払いながら来るべき新時代へ先鞭をつけた存在といえよう。処刑された天狗党411名は明治22年(1889年)に靖国神社へ合祀され、彼らの名誉回復措置が明治新政府によって為された[30]。水戸藩出身者は、妥協的な開国政策を行なっていた将軍絶対主義の江戸幕府側から格好のスケープゴートとなって大量粛清された義勇兵・天狗党を代表格として、老公・斉昭の指導した通り尊皇攘夷[31]を信念に天下の魁[32]を期した。水戸藩が初めに目指した勤皇と祖国防衛の志は江戸幕府体制に於いてのみならず新政府体制に於いても何とか遂げたものの、大量の人材を失った水戸藩は当然のよう明治新政府への参画に後塵を拝した。同藩出身者の多数がそこで過半の枢要な地位を占める見事までは薩長藩閥主体になる創立当初の新政府において、叶えられなかったのである。彼ら幕末水戸藩士らの殉難に際しても、同藩は貴族院議員公爵徳川慶喜や、宮内省麝香間祗候侯爵徳川昭武、宮内省・式部職次官侯爵徳川篤敬、或いは皇后宮大夫皇太后宮大夫枢密顧問官等を務めた皇室近侍の伯爵香川敬三たち、少数の重役を輩出し得た事は、犠牲となった殉難志士の為にも特筆すべきであろう。香川は東山道軍総督府大軍監や兵部権大丞などを勤めていたが、明治新政府においては宮内大丞、宮内少丞、宮内大書記官、皇后宮大夫有栖川宮閑院宮家政取締、皇太后宮亮、宮内少輔、華族局長、久宮御養育主任、主殿頭諸陵頭主馬頭、閑院宮別当、大膳大夫東伏見宮御用掛、大膳頭、議定官、枢密顧問官皇太后宮大夫大正天皇の御婚儀御用掛長など、宮内官僚としての要職を歴任した。

明治22年(1889年)5月、徳川慶喜は瑞龍山の歴代水戸家暮所で、天狗党を創始し幕府から斬首された藤田小四郎の父・藤田東湖の墓参りをした。この際、慶喜が追慕の至情を止めがたく落涙した様子に、彼と共に参拝した左右の人々も御供に堪えない様だった。慶喜は東湖の次男で小四郎の実兄・藤田健(幼 名・藤田健二郎)に会うと「東湖の子か」といい、昔、東湖に学んだ時の事など諸々の物語をすると、懐旧の情に堪え難いほどだった。やがて慶喜が東湖の墓前 で懇ろに焼香し、一拝した様子はさも子供が亡き父へひざまづくより丁重であり、健も見守る人々も思わず、感涙に咽んだ[33][34]

行程

元治元年11月1日大子発 -2日 川原 -3日 越堀 -4日 高久 -5日 矢板 -6日 小林 -7日 鹿沼 -8日 大柿 -9日 葛生 -10日 梁田 -11、12日 太田 -13日 本庄 -14日 吉井 -15日 下仁田 -16日 本宿 -17日 平賀 -18日 望月 -19日 和田 -20日 下諏訪 -21日 松島 -22日 上穂 -23日 片桐 -24日 駒場 -25日 清内路 -26日 馬籠 -27日 大井 -28日 御嵩 -29日 鵜沼 -30日 天王 -12月1日 揖斐 -2日 日当 -3日 長嶺 -4日 大川原 -5日 秋生 -6日 中島 -7日 法慶寺 -8日 薮田 -9、10日 今庄 -11日 新保

処刑対象

名前、処刑日(旧暦)、辞世の句の順に記載。

斬首の後、水戸にて梟首

首級は塩漬けにされた後、水戸へ送られ、3月25日(新暦4月20日)より3日間、水戸城下を引き回された。更に那珂湊にて晒され、野捨とされた。

武田耕雲斎 2月4日
(新暦3月1日)
かたしきて寝ぬる鎧の袖の上におもひぞつもる越のしら雪
雨あられ矢玉のなかはいとはねど進みかねたる駒が嶺の雪
田丸稲之衛門 2月4日
(新暦3月1日)
山国兵部 2月4日
(新暦3月1日)
ゆく先は冥土の鬼と一と勝負
藤田小四郎 2月23日
(新暦3月20日)
かねてよりおもひそめにし真心を けふ大君につげてうれしき
さく梅は風にはかなくちるとても にほひは君が袖にうつして

斬首

  • 武田彦衛門
  • 武田魁介
  • 根本新平
  • 川上清太郎
  • 秋山又三郎
  • 高橋市兵衛
  • 小野藤五郎
  • 芹澤助次郎
  • 瀧口六三郎
  • 岩間久次郎
  • 玉造清之允
  • 安東彦之進
  • 桑屋元三郎
  • 金澤要人
  • 二方舎人
  • 大島官壽
  • 本田佐久之介
  • 澤田信之介
  • 片岡源次
  • 楠帯次郎
  • 高瀬秀之介
  • 津久井衛門七
  • 白須権次郎
  • 堀江一壽
  • 小泉虎次郎
  • 小泉芳之介
  • 津村雄二郎
  • 栗田源左衛門
  • 平野重三郎
  • 荘司与次郎
  • 寺門左太吉
  • 鈴木秀太郎
  • 関雄之介
  • 黒澤新次郎
  • 相田健之介
  • 松崎熊之介
  • 安東正之介
  • 飯村慎三郎
  • 安島鉄次郎
  • 篠原造酒
  • 北川元三郎
  • 藤田秀五郎
  • 小田部重平
  • 高橋辰三郎
  • 森荘三郎
  • 阿久津蔵之介
  • 小林蘆左衛門
  • 大高要介
  • 小林貞七郎
  • 加藤木総吉
  • 加藤木勇之介
  • 川澄善兵衛
  • 堤三之助
  • 谷島福次郎
  • 中崎貞介
  • 中庭直三郎
  • 川津丑之介
  • 梶山敬介
  • 青木源之允
  • 青木源吉
  • 安掛藤十
  • 安清四郎
  • 小沼義太郎
  • 登戸佐兵衛
  • 幡谷善七
  • 小貫藤介
  • 皆川亀松
  • 小澤弥一郎
  • 森山勝蔵
  • 浅野善十郎
  • 前島竹次郎
  • 加藤卯之介
  • 栗又鉄之介
  • 内藤利兵衛
  • 卯月七之介
  • 飯島喜介
  • 山澤啓介
  • 長峰寅松
  • 藤田理兵衛
  • 坂本勝次
  • 鈴木荘三郎
  • 岡野亀太郎
  • 小松崎荘之介
  • 小沼栄介
  • 田村長衛門
  • 山田才介
  • 金澤啓蔵
  • 坂本啓介
  • 樽井総吉


逸話・伝承

  • 田中愿蔵は、の代官所から処刑場である久慈川の河原まで連行される道すがら、馬上で下記の歌を繰り返し高唱したという。
みちのくの山路に骨は朽ちぬとも 猶も護らむ九重の里[35]
  • 諸生党によって斬首された田丸稲之衛門の次女・八重はまだ17歳の若さであったが、見事な辞世の句を残している。
引きつれて 死出の旅路も 花ざかり
  • 天狗党に参加した常陸久慈の僧侶・不動院全海は、その剛力から「今弁慶」と呼ばれていたが、和田峠の戦いで討死した。この時、高島藩士・北沢与三郎はその力にあやかろうと全海の死体から肉を切り取り、持ち帰って味噌漬けにして焙って食べたという。
  • 敦賀の古老が身近な人々に語った(戦時中頃か)ことによれば、天狗党の処刑は公開で行われたので見物に行ったが、引き出された党員は逃亡を阻止するためか両足を竹に括られていたという。
  • 天狗党の処刑の際には、彦根藩士が志願して首斬り役を務め、桜田門外の変で殺された主君の無念を晴らした。またこの時、福井藩士にも首斬り役が割り当てられたが、後々の報復を恐れた春嶽が命令して役目を辞退させた。
  • 永原甚七郎は明治5年(1872年) に、自らの菩提寺である金沢の棟岳寺に天狗党の供養碑を建立した。これは今日「水府義勇塚」と称されている。なお、天狗党処刑の報に接した永原が、自分の 説得がなければ天狗党を無残に殺させずに済んだと激しい自責の念に駆られ、精神を病んで死んだという話が後に創作されたが、実際の永原は明治2年(1869年)から学政寮・軍政寮の副知事を務めるなど、引き続き金沢藩の重臣として政務に奔走し、明治6年(1873年)に61歳で死去している。
  • 水戸など茨城県の一部地域では、身内で争うことを「天狗」と呼ぶことがある。
  • 渋沢栄一は、天狗党に参加しようとしたが、周囲に止められ参加出来なかった。
  • 天狗党の処刑地である敦賀市は、昭和40年(1965年)に水戸市姉妹都市となっている。
  • 山田風太郎は天狗党の上洛行と毛沢東長征とを比較し、天狗党に武士階級以外の階層を含む水戸藩領以外から多数の参加者がいたことや、行軍中に政治的な宣伝を行っていることなどを類似点として挙げており、加えて乱の初期から過酷な行軍の間にかけて意識や思想に何かしらの変容があった可能性を指摘している。
  • ヴィクター・コシュマンは、筑波山で挙兵した天狗党が日光東照宮に向かい、最終的には皇居へとその目標を定めたことから、その意図を「中心に向けての巡礼」であったと分析している。
  • 水戸藩士民の後継である茨城県民や水戸市民は、天狗党・諸生党らの政権交代劇を超えて、彼らの奉じた水戸徳川家に由来するクラブ名やエンブレムを、Jリーグのプロサッカークラブ・水戸ホーリーホックへ採用している。

慰霊碑等

  • 明治7年(1874年)、武田耕雲斎以下の天狗党員を祀った松原神社が敦賀市松島町に建立され、毎年10月10日には例祭が行われている。昭和29年(1954年)には、天狗党員が監禁された鰊蔵が境内に移築され「回天館」という水戸烈士記念館となっている。松島町には「水戸烈士追悼碑」や武田耕雲斎の像が建てられている。
  • 昭和44年(1969年)、水戸市松本町に天狗党員を祀った回天神社が建立された。昭和32年(1957年)に敦賀市から水戸市常磐町の常磐神社に移築された鰊蔵が、平成元年(1989年)に回天神社境内に再移築され「回天館」として天狗党資料の展示が行われており、扉や板壁などには天狗党員の絶筆が残されている。
  • 天狗党員の家族らが処刑された水戸赤沼牢跡には慰霊碑が建てられている。
  • 群馬県甘楽郡下仁田町には、下仁田町ふるさとセンター(歴史民俗資料館)に「下仁田古戦場碑」、山際稲荷神社(山際公園)に「義烈千秋の碑」及び「維新之礎碑」、本誓寺に天狗党員、高崎藩士の墓などがあり、町内下小坂には勝海舟揮毫による「高崎藩士戦死之碑」が建てられている。
  • 長野県諏訪郡下諏訪町和田峠古戦場付近には天狗党戦死者を供養する「浪人塚」がある。
  • 福島県東白川郡棚倉町には八溝山で破れた天狗党員の供養碑がある。
  • 栃木県那須町には八溝山で破れ、処刑された天狗党「浮浪徒十四人墓」がある。
  • 埼玉県深谷市血洗島には天狗党の碑がある。
  • 茨城県ひたちなか市には「天狗党百色山戦場供養碑」がある。
  • 茨城県鹿嶋市には天狗党の一隊大平組に所属し処刑された23人の「天狗党の墓」がある。
  • 茨城県笠間市池野辺には天狗党員の首塚がある。
  • 茨城県行方市には麻生藩に処刑された天狗党員を供養する「天狗塚」、大宮神社境内には天狗党の忠魂碑がある。
  • 茨城県つくば市筑波山神社には藤田小四郎の像がある。

関連作品

1994年度の大佛次郎賞受賞作。
  • 杉田幸三『天狗党血風録』(毎日新聞社)
  • 山川菊栄『覚書 幕末の水戸藩』(岩波文庫)。乱後の水戸藩における粛清について詳述している。
  • 山本薩夫監督『天狗党』(大映京都、1969年11月15日公開)
三好十郎の戯曲「斬られの仙太」を原作に高岩肇 、稲垣俊が脚色。仲代達矢加藤剛若尾文子十朱幸代らが出演した映画。

脚注

  1. ^ 西郷隆盛を参照。
  2. ^ 戊午の密勅を参照。
  3. ^ 桜田烈士『斬奸趣意書』
  4. ^ 徳川1966、烈公(斉昭)の御教訓の事。
  5. ^ 岡村pp.120-121
  6. ^ 山川p.289
  7. ^ 水戸市編、p.192。
  8. ^ 『茨城新聞』2014年(平成26年)4月30日水曜日、19頁、幕末動乱――開国から攘夷へ、土浦市博物館学芸員野田礼子
  9. ^ 山川p.326
  10. ^ 奈良、pp.222-223。
  11. ^ 『栃木市史 通史編』874~876頁(栃木県栃木市、1988年)
  12. ^ 高橋、p.175。
  13. ^ 奈良、p.231。
  14. ^ 水戸市編、p.331。
  15. ^ 水戸市編、pp.300-301
  16. ^ 水戸市編、p.336。
  17. ^ 高橋、p.71。
  18. ^ 高橋、p.176。
  19. ^ 水戸市編、pp.338-340。
  20. ^ 山川pp.99-100
  21. ^ 常磐神社p.107-116
  22. ^ 常磐神社p.117
  23. ^ 天狗党が諸費用をきちんと宿場に支払うなど規律厳守に努めたことは、島崎藤村の代表作『夜明け前』にも記述されている。
  24. ^ 常磐神社pp.116-120
  25. ^ 常磐神社pp.120-122
  26. ^ 常磐神社p.122-123
  27. ^ 常磐神社p.123-124
  28. ^ 『茨城新聞』2014年(平成26年)5月2日金曜日、17頁、福島会津若松、殉難志士の冥福祈る。
  29. ^ 県民学研究会編p.59
  30. ^ 岡村p.159
  31. ^ 徳川斉昭『弘道館記』
  32. ^ 徳川斉昭『弘道館に梅花を賞す』
  33. ^ 『渡井量蔵筆記』
  34. ^ 常磐神社、宮田正彦『烈公と慶喜公』2014年閲覧。
  35. ^ 「九重の里」とは宮中のことだとされる。

参考文献

外部リンク