桜田門外の変
『安政五戌午年三月三日於イテ桜田御門外ニ水府脱士之輩会盟シテ雪中ニ大老彦根侯ヲ襲撃之図』大判六枚続(一部) 月岡芳年画
場所 江戸城桜田門外 座標 北緯35度40分39.6秒 東経139度45分9.6秒 / 北緯35.677667度 東経139.752667度 / 35.677667; 139.752667座標: 北緯35度40分39.6秒 東経139度45分9.6秒 / 北緯35.677667度 東経139.752667度 / 35.677667; 139.752667 標的 大老井伊直弼 日付 安政7年3月3日1860年3月24日) 概要 暗殺事件 原因 安政の大獄 攻撃手段 拳銃 犯人 水戸藩浪士薩摩藩藩士一覧) 動機 「横暴な国賊への天誅に代えた斬戮で政治を正しい道に返した上で、天下万民にとって日本平和をもたらし、に殉じに報いること」[1][2][3] 関与者 (一覧) 防御者 彦根藩藩士一覧

桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)は、安政7年3月3日1860年3月24日)に江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)で水戸藩からの脱藩浪士17名と薩摩藩士1名が彦根藩の大名行列約60名[4][5]を襲撃、大老井伊直弼暗殺した事件。この襲撃者らを「桜田烈士[6]や「(桜田)十八烈[7]、「水戸[8]、「桜田十八士[9]等と云う。またこの事件自体を「桜田義挙[10]や、単に「桜田事変[11]とも云う。

目次

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経緯

外桜田門と彦根藩邸の距離は600m。

安政5年(1858年)、大老に就任した彦根藩主・井伊直弼は、将軍継嗣問題修好通商条約の締結という二つの課題に直面していた。

先ず、病弱世子が見込めない江戸幕府第13代将軍徳川家定の後継をめぐって、一橋派(幕閣上席の大広間や大廊下に列した親藩大名中心)と南紀派(幕閣下席の溜間詰に列した譜代大名中心)の議論していた将軍継嗣問題があった。去る事数年前の嘉永6年(1853年)に起きていた黒船来航など[12]対外危機[13]を慮った一橋派[14]は、孝明天皇から示された方針に沿って英明で知られた当時21歳の一橋慶喜を推挙していたが[15]、それに対する井伊は、南紀派の推す当時12歳の徳川慶福養子とすることに決めた[16]。これは血縁を重視する慣例と現将軍家定の内意[17]に沿い、井伊を大老に推した南紀派を満足させたが、「時節柄、次期将軍は年長の人が望ましい」とした朝廷の意に反するものであった[18]

もう一つの懸案である修好通商条約の締結については、攘夷論者である天皇の勅許が得られず反対論が勢いを増していた。井伊は当初こそ無勅許条約調印に反対であったが、朝議は国体を損なわぬ為であるとの認識で止むを得ない場合の調印を、下田奉行・井上清直と目付・岩瀬忠震へ命じた。そこで、駐日米公使タウンゼント・ハリスからの早期締結要求も強まる中、井伊は同年6月19日、勅許を得ずに日米修好通商条約をはじめとする不平等条約[19]安政の五ヶ国条約の調印に踏み切った[20][21][22][23]尊皇攘夷論者の前水戸藩主・徳川斉昭をはじめ、幼君を擁し独裁色を強めた井伊へ不信を抱いた徳川二家と福井藩主・松平春嶽は一橋派であったため[24]、条約締結へ抗議すべく登城時[25]に違勅行為を改めるよう慶喜と共に井伊を説得したが[26][27]、「大政関東御委任」(政治は幕府に委任されている)の立場を固めた井伊から逆に処罰され、発言は封じられた[28]

ここに一橋派は弾圧され江戸城内での活動を制限されたが、一橋派を支持していた薩摩藩主・島津斉彬の密命により薩摩藩士・西郷隆盛京都における内勅降下運動を行ったため[29][30][31][32]、朝廷にて違勅抗議として廷臣八十八卿列参事件が生じた。こうして井伊による勅許を得ない条約調印と斉昭[33]ら排斥の業は攘夷論の強かった公家たちに喧伝され、かつ天皇幕府の要を得ない行いへ悲憤した。天皇は『譲位の勅諚』を記し一時は帝位を降りようとしたが周囲の強い説得で踏みとどまり[34]、幕政の刷新と大名の結束を説く『戊午の密勅』を水戸藩へ伝え[34][35][36]、幕府寄りとされた関白九条尚忠内覧を解いて朝政から遠ざけた[37][38]。水戸藩は密勅に記された朝廷の意に従い、密勅の写しを雄藩へ送って賛同を求めた(後述)。一方、朝廷が大名へ直接指令するという事態は江戸幕府始まって以来前代未聞であったため、幕閣は大いに狼狽した。密勅が天皇の意思ではなく水戸藩の陰謀と誤認した井伊は[29][39]、反論者への徹底弾圧を決心した[40]。まず、老中に再任させた鯖江藩主・間部詮勝を京へ送り、新たに京都所司代に任命した小浜藩主・酒井忠義からこれを補佐させた。「天下分け目の御奉公」と井伊へ表明した間部は、着京後、態度不鮮明のまま病臥と称して参内を延期し、長野や九条家家士の島田左近と連日協議した。やがて間部は井伊の指示を受け、一橋派と関係を深めていた公卿の家人らを次々と捕縛断罪、また全国でも民間の志士を手始めに、幕政を批判する政治運動に関わった人々を死罪等で処刑していった[41]。いわゆる安政の大獄の始まりである。

こうした中、安政5年7月6日(1858年8月14日)家定が没し、12歳の慶福は第14代将軍となり家茂を名乗った。

天皇は無断での条約調印について幕府の釈明を求める沙汰書を発し、それは家茂が将軍になった同日、勅使の権大納言二条斉敬から江戸城にいた井伊の手元へ届いた[42]。沙汰書は御三家並びに大老へ、 釈明のため早々に上京するよう天皇自ら命じていた。しかし井伊は「三家は処分中であり自分は政務多忙で、何れも上京できない」と拒絶、「そのうち使いの者 が上京し説明する予定である」旨の返事を、2日後の安政5年(1858年)7月8日に朝廷へ送った。また井伊は間部を通じて、幕府の否応なかった対外調印 の意図を朝廷へ繰り返し説明させた。他方で井伊は賄賂を使って関白九条尚忠を徒党に引き入れさせた[1][2]。そして井伊は、禁裏付岩村田藩主・内藤正縄に命じ天皇へ譲位を要請した[1][2]。しかし井伊の朝敵行為は太政大臣鷹司政通左大臣近衛忠煕右大臣鷹司輔煕らが天皇を輔弼した為、頓挫した[1][2]。対して井伊は、近衛や輔煕、内大臣三条実万らを辞職させた[43][44][45]。更に井伊は諸大夫らを公職から追い落として江戸へ送り、それぞれに処罰した[1][2]。また井伊は皇族久邇宮朝彦親王へ不徳と称し寺務を取り消させ、幽閉した[1][2]

この事態を重く見た天皇は、いずれ鎖国に復帰するという条件のもと、条約調印が切羽詰まった措置であったという井伊の弁明に一通りの理解を内々に示 した。朝廷内も公武一和のため幕府の行いを渋々認めたことで、幕府へ批判的な一派は勢いを挫かれた。しかしこの時、朝廷との折衝に当たった間部は再攘夷の 準備段階と説明した故[46]、南紀派で占められていた幕閣はこの内容を尊皇攘夷論者含む一橋派[47]へ公表し辛くなった[48]。他方、井伊による粛清対象は日を追うごとに加増し総勢100名以上へ上って行った[49]

水戸では、密勅への対応をめぐって藩論は紛糾し始めた。前水戸藩主・斉昭永蟄居処分、同藩主・徳川慶篤も隠居・謹慎させられ、且つ同藩家老安島帯刀らも切腹等重い冤罪[50]を受けていた。そこに、水戸藩は大老・井伊の仕切る幕政から『戊午の密勅』の朝廷への返還を求められた。水戸藩側の密勅降下謀議という嫌疑は無実の罪にも関わらず[50]、同藩士らは主君の処分解除のため幕府へ恭順を示さねばならなくなった。同時に密勅返納を断固認めない尊皇論者の抵抗があり、同藩内の膠着状態は続いた。これを見た幕府は、自ら返還を促す勅命の草案を作って天皇の同意を得る方針に転換した。水戸藩論は二派に別れ、将軍(実権的には大老・井伊)からの密勅返還要請にも容認姿勢の大義名分保守派・諸生党と、称・副将軍先行を主張する尊皇攘夷急進派・天狗党の間で、野党化されつつあった。水戸藩庁では斉昭・慶篤間での協議により返納論が主流となりつつあったが、密勅返納阻止と斉昭ら大獄処刑者雪冤(斉昭雪冤)の運動は却って激化した。有志は密かに返納されることを警戒、藩境の長岡宿[51]でたむろし水戸街道を封鎖した(長岡屯集)。小金宿には槍と鉄砲で武装した農民部隊まで加わり、水戸藩士らおよそ3000人が結集した[52][53]。水戸藩庁は同藩士・野村彝之介[54]金子孫二郎らをこの長岡屯集の解散説得に派遣したが、金子は途中で水戸藩士・高橋多一郎と計り同藩士・関鉄之助矢野長九郎[55]住谷寅之介らを西へ向かわせ、天皇から示された密勅の内容通り、その写しを諸藩へ回達させようとした。直ちに行動を開始した彼らは西南雄藩との連合を目指し、安政5年(1858年)10月10日、関・矢野らが北陸路から西に向かい越前藩鳥取藩長州藩等へ[56][57][58]、住谷らが中山道から南に向かい土佐藩宇和島藩薩摩藩等へ各々遊説に進んで行った[59][60]。また、水戸弘道館内の鹿島神社神官斎藤監物も彼の部下で神官宮田齋雨宮鐵三郎鈴木齋ら3名をひそかに北陸道から京都大坂へ向かわせ、密勅にある「諸藩一同群議評定せよ」という天皇の内命通り諸国神官職の者達へその写しを回覧させた[61]。且つ宮田、雨宮、鈴木の3名も又彼らの部下たる有志らを仙台藩山形地方へ向かわせ、密勅内容の回覧と共に斉昭雪冤に尽力した[62]。安政6年(1859年)3月、薩摩藩士・高崎五六が水戸藩を訪れ、斎藤らと会合して非常事態についての協議を行った[61]。斎藤はことさら前藩主・斉昭へのの念が深かった為[63]、安政6年(1859年)7月、高松藩主へ斉昭雪冤の嘆願を行った。又、斎藤は長岡屯集に際して神官140名連名書を水戸藩主・慶篤へ提出、密勅返納不可と幕府専横抑制を陳情したが回答は得られなかった[64][65]

安政6年(1859年)5月、江戸の小石川・水戸藩邸及びその支藩の動因した大発勢が生じ、長岡屯集と一体になった兵士数は更に膨れ上がっていた。水戸藩士・佐野竹之介[66]はこの隊中に加わり、また金子と高橋の意見で下総八幡宿に屯していたが、やがて江戸へ向かい小石川・水戸藩邸で密勅を奉じるのと同時に同藩邸を警護、斉昭雪冤運動を行った[67]。結局、長岡屯集は水戸藩上層部からの工作により懐柔されて失敗、一部の尊攘急進派・同藩士らは活動の中心を江戸へ移した。又残った一部の尊攘急進派・同藩士らはのち元治元年(1864)3月筑波山で挙兵、天狗党を結成する事になった[68]

安政7年(1860年)1月15日、井伊はこの日[69]江戸城へ登った水戸藩主・慶篤に対し重ねて勅の返納を催促、同年1月25日を期限とし、もし遅延したら違勅の罪を老公・斉昭へ着せ、同藩を改易するとまで述べた[70]。このため、水戸藩の対応には寸刻の猶予もなくなった。水戸で永蟄居中の斉昭は事態を危惧し、「もし朝廷と幕府の間に戦があれば(将軍ではなく)天皇を奉れ」との水戸家[71]に従うべく家老大場一真斎から、水戸城内の祖廟の元へ密勅を納めさせた[72]。また更に安全な場所にとの同藩士からの陳情により、密勅は水戸より六里(約23.56キロメートル)北で、歴代同藩主の墓のある瑞龍山[73]の廟へ移された[74]

以前より尊攘急進派の水戸藩士・高橋多一郎金子孫二郎らと、薩摩藩在府組の薩摩藩士・有村次左衛門らは、双方の藩に仕えた日下部伊三治[75]を介した結合を維持していた。江戸へ着いた尊攘急進派の水戸藩士は、薩摩藩在府組から薩摩藩主・島津斉彬による藩兵数千人規模の率兵上京計画を打診された[76][77]。そうして江戸での大老誅戮による義挙と同時並行的に、天皇の勅書を以て御所警護と幕政是正(即ち尊皇・攘夷)を行おうとする東西義挙計画が、彼らの間に持ち上がった[78]。他方で、帰国した薩摩藩在府組からこの目論見を聴いた薩摩藩郷里組は、江戸義挙を黙認しつつも自藩の直接関与を抑制する陰謀をとった。薩摩藩主・斉彬急死後[79]急速に実権を握った同藩主実父の同藩士・島津久光[80]は、息子である同藩主・島津茂久より直書で脱藩突出を計画した精忠組へ後日を期して思い留まるよう説諭させ、同藩内の尊攘急進派を沈静化させた。薩摩藩から尊攘急進派の水戸藩士らへこの事は知らされなかった[81][82]

安政7年(1860年)2月夜半、返納容認論者の水戸藩士・久木直次郎[83]が江戸で、何者かに襲撃された[84]。また水戸城下の魂消橋で返納反対派を鎮圧しようとした藩屏が彼らへ発砲を加え、水戸市街は大騒ぎとなった[84]。安政7年(1860年)2月24日、密勅返納を命懸けで止めようとした水戸藩士・斎藤留次郎が次の辞世を書き残し、水戸城・大広間で割腹自殺したため返納は延期された[85][84]

いたずらに朽ちぬ身をもいまはただ国の御ために数ならずとも[84]

一方、幕政是正の為には井伊への天誅が必要不可欠と考えた一部の尊攘急進派・水戸藩士達は、関東における義挙を単独でも実行する方針を固め、井伊暗殺計画の準備を進めていた[86]

潜伏期間

安政7年(1860年)、水戸藩士・高橋金子[87]は水戸で『井伊誅戮計略書』をしたため、同藩士・黒澤忠三郎[88]佐野竹之介らにそれを渡して薩摩との連携のため江戸へ向かわせた[89]。それは全10か条からなったとされる。[90]

一、斬奸期日は安政七年二月十日前後とする
一、薩摩より兵士三千名を率いて京師守護
一、斬奸の上首級は馬にて南品川まで運びそこから船路
一、浅草観音に夜五ツ頃百度参りし「かん」と問えば「おん」と答える
一、ぶら提灯の上に桜一輪つける
(以下5か条は不明)[90]

この他に江戸への出府者の潜伏場所や相互の連絡などを、この計略書は定めた。高橋は自らに捕史がまわる気配を察知して、嫡男で水戸藩士・庄左衛門[91]をともなって安政7年(1860年)2月18日朝、水戸の家を脱出した。この際、多一郎が有司へ送った一書に「老公(斉昭)らへの冤罪の痛憤で寝食安んぜず、同志と申し合わせ様々に雪冤の周旋をしたが幕吏の腸は一朝一夕で挽回できず、また老公を侮辱されたとあっておめおめ生をぬすんでいるのはの一分にあらず。悔恨の涙を飲み国辱を雪ぐに、幕吏の意のままにしておいては東照宮先祖様(徳川家康)以来の御が水の泡となってしまい神州滅亡ゆえ、言語に絶し血に泣き、武士根性覚悟仕り罷り出た」等とある[92]。そして予ねての計画どおり、薩摩藩在府組の同志と中山道を西へ向かった。高橋は名を磯部三郎兵衛とかえた。[90]

水戸藩士・金子孫次郎は藩からの召喚こそ免れたが、決行期日が迫ったので藩庁へ脱藩状を届けた。安政7年(1860年)2月18日、金子は勝栗、銚子に土器で武家の嗜み通り門出を祝い、妻女へ「兼ねがね申す通り、われらこの度の旅立ちはひたすら尊王大義と、また前様(斉昭)への冤罪を 雪辱し奉らんとするものである。生きて再びそのもとを見る事も叶わないと思うが、われ亡からん後は、子供を生い立て文武忠孝の道を励まし、われらの志を継 がしめられよ」と述べた。また金子は軸の太い筆で傍らの襖に、文字の跡が躍り出るばかりに大書した(後述)。先ほどからその様子をみていた11歳になる4 男・芳四郎[93]は「とと様いずこへ行かせ給うや、何時帰らせ給ふぞ」と袖を引き止め、金子の顔を見上げて問うた[94]。折から混じりの白雪が庭に降り、綻びかけのの枝へそれが積り、雪中に血を落としたような風情で淋しい団欒へ凄味を添えていた[95]。金子は短冊へと以前作っていた次の和歌を記し、家族へ残した。

帰るさの路や絶えなん白雪の故里をかく出でて行く身は[96]

同藩士・稲田[97]は 義挙の図りを打ち明ければ家族に引き留められるだろう事を鑑み、安政7年(1860年)2月18日、いよいよ出発の時に臨んでいつものよう家内と酒を酌み 交わして、何気ない体で「この度止むを得ない用事があってちょっと江戸まで行って来るが、少し手間がかかるかもしれない。しかし決して気遣いには及ばな い」と穏やかな顔つきで、何ら憂慮の顔色を表さずに妻子へ言った。このため稲田の妻子も、彼を怪しまなかったという[98][99]。安政7年(1860年)2月18日夜、金子孫次郎は嫡男・勇次郎や、稲田、同藩士・佐藤鉄三郎飯村誠介[100]らを伴って江戸へ向かった[90]。金子らは那珂川を渡り、田谷村の田尻新介邸に憩い、やがて小塲村の安藤幾平邸に移った。この日、同藩の有司が金子と高橋を捕縛するという説があったので長岡屯集はこれを聞いて憤激し、孫次郎と高橋を擁して去ろうと20名程が一挙に水戸へ押し寄せた。藩の方でも兵士数百名を出していたので、水戸・紺屋町[101]で長岡勢と衝突、互いに斬り合いとなった。このとき同藩士・林忠左衛門[102]を初め、長岡勢にも2、3人の負傷者が出た[103]。長岡勢は藩屏を破り、安政7年(1860年)2月18日午後8時ごろ金子邸のあった中之町へ行ってみると、既に孫次郎も高橋も前日去った事が分かった為、一同は大いに安心したと見え門外に出て鬨の声を挙げ、また長岡へ引き返した[104]。同年同月19日、孫次郎が安藤邸に滞在していると、同志から昨夜の紺屋町衝突を告げられ油断できないと彼らは考え、同年同月20日未明、下國井村の岩之進という人物を道案内にして小塲村を出発[105]。この際、孫次郎は数人同行を失敗の元として勇次郎と飯村へ1日遅れで後からくるようそこに残らせ、且つ自らの名を西村東衛門[106]と変えた。風雨の烈しさを幸いと小荷駄に乗り、稲田と佐藤の2名を従えた孫次郎は、笠間を経て稲田村に着き、岩之進の懇意な真壁郡鬼怒川沿岸の薬屋・塚田清兵衛邸に泊まった[107]。この頃、関東八州(関東地方) の取締りが出張し同村辺りで強盗捜索をしていたが、取締り方は塚田宅に昨夜4名が泊まった事を聞いたので主人の塚田を呼び出し尋問した。塚田は「水戸様の 御家来」と保証したが役人はまだ疑っている様子だったので孫次郎一行が滞在を続けていると、同年同月22日の晩、そこへ勇次郎と飯村が到着した。勇次郎は 生死を共に孫次郎と同行するよう告げたが、孫次郎はこれを制した。且つ、孫次郎は「先に出て大事を遂げよ」と勇次郎へ命じた。勇次郎が容易に立ち去ろうと しなかったので、孫次郎は桜井の駅の故事を引き、楠木公正行公河内へ返したのは死ぬのみがではなく、生き残り、父に万一があればその志を継いで天朝主君に尽くすよう両全の義理を話した所、涙を呑み勇次郎は御意とたち別れていった。夜間2名が出入りした所を更に怪しんだ取締り方は塚田邸を取り囲み、塚田から孫次郎に理由と行き先を尋ねさせた。孫次郎は水戸藩よりお尋ね者[108]の 行方捜索に来たと塚田から取締り方へ告げさせ、かつ役人側に疑いがあれば自ら面会・陳述する由を伝えさせた。このとき稲田は、万一孫次郎の身の上に禍があ れば天下の大事が敗れるので、稲田が孫次郎の名を騙り説明のため表に出て、取締り方の旅館へ取締り方らと共に集まった間に、佐藤は孫次郎を連れて塚田邸を 立ち退くよう佐藤へ計らった。佐藤もこれに賛成したが、孫次郎はこの話中の無言を破り、稲田案に任せると答えた。その後、塚田が返ってきて言うには御家来 自ら出て面談する旨を告げると役人の疑念は晴れたというので、一同は虎口を逃れた心地がしたという[109]。同年同月23日に同所を白昼に出、その晩、結城泊。同年同月24日、古河[110]で旅の疲れを癒すべく一同は酒を飲んで閑話中に臥した。同年同月25日、岩之進を下國井村へ帰し、孫次郎ら3人は宿駕籠に乗って草加駅より王子へ向かい、その日の日暮れ頃、先発委員の水戸藩士・木村権之衛門が旅の宿に手配していた、江戸・神田は佐久間町の岡田屋へ着いた。同年同月26日孫次郎らの所へ薩摩藩との連絡役でもあった木村がやってきて、諸々の打ち合わせ後、この日から薩摩藩士・有村雄助有村次左衛門兄弟の計らいで三田・薩摩屋敷へ彼らは移った。[111]この屋敷は江戸にいたはず在府組が疾うに薩摩へ帰国していたので、がら空きだった。[112]

水戸藩士・へ召喚状が水戸藩庁から届いた。しかし、関は既に脱藩の覚悟を決めていた[113]ので、早速旅装を調えて早朝、自宅を抜け出し江戸へ走った[90][114]。関は水戸に妻子があったが、好男子でもあったので江戸の芸妓滝本いの[115]から恋慕されており、且つ情を通じていた[116]。関はこの滝本の家があった江戸の京橋北槇町へ寄宿した[117]

格式高い常陸二の宮神官・斎藤は安政7年(1860年)2月20日前後、桜田義挙のため佐々木馬之介と浪人風に名を変え[90]て家を出たが、家族愛の絆が断ち切れず一旦家を出たのに再び家へ立ち返り、次男・徳寛のりひろの為に書道の手本[118]を残しまた家を出て行った[119]。斎藤のほか要撃へ加わった神官鯉渕要人海後嵯磯之介が いた。弘化元年(1844年)の斎藤による斉昭雪冤の運動時、鯉渕と海後も老中・阿部邸へ哀訴、この為、彼らも水戸・赤沼獄へ数年禁固されていた。鯉渕と 海後は藩政回復後に許されて家へ帰り、父の後を継いで神官となった。各々奉公を怠らず、なお大獄による藩主らの冤を雪ごうと目指した。鯉渕はある日その 倅・義次を一室に招き、「吾は事情があり、これから遠出しようと思う。御前は後に残ってよく家を治め、を 片時も忘れるなよ」と義次へ言い聞かせた。義次は「如何なる事で御立ちになるか存じませんが、私はどこまでも御供致したいと存じます、御隠しあるのは却っ て御情けなく思います」と申し述べたが、鯉渕は頭を横に振り「この事は思うままにし通せればそれで結構だが、万一仕損じれば獄吏から汝への詰問があるであ ろう。そのとき知らない事を知らないと答えるのは容易、知っていながら知らないと言うのは、口ごもってはっきり申せないものである。故に知らせないのがよ かろう」といって袂を払い、斎藤と江戸へ向かった[120]。安政7年(1860年)2月13日頃、郷里にいた海後は、水戸郷士・黒沢覚介[121]か ら「桜田義挙の件、15、6日頃までに城下へ出て聞き合わせるがよかろう。但しこの事は長岡勢へは申さないように」と言われた。これは桜田義挙を長岡屯集 へ伝えれば、何れの者もその襲撃者になる事を希望する筈なので、予め襲撃者を選抜してあったからだという。海後は野村彜之介に面会、野村から「佐野からも 海後は後から急いで江戸へ来させるようにとの申し置きがある」と伝えられた。同年同月21日、海後は別れに際し野村を訪ね、「この上はとても今生では対面 する事ができない、いずれ黄泉であいまみえる事としよう」と同藩士・黒澤覚蔵小室壽作へ語った[122]。そこへ同藩士・梶清次衛門山口徳之進が来客、山口は同藩士・下野隼次郎のもとから『斬奸趣意書』の草稿を持ってきたので野村はこれを広げ、あれこれと筆を加えた。また梶は海後の髪を直し、大糸鬢へ改め、且つ服装を町人風に改めさせた[123]。こうして海後は身なりを奥州人らしく、如何にもいなかものといった姿に変え街道を南へ向かった[90]。彼らは途中で大雪に見舞われ雨具の購入に困り閉口したが、日本橋馬喰町の旅籠・井筒屋へ漸く辿り着いた。そこには既に投宿していた水戸藩士・増子金八杉山弥一郎らがいた[112]

増子は居合が家業、金子と高橋領袖の縁類でとうに相互理解、両領袖の意を受け江戸で偵察探聞へ奔走していた。増子は嘉七がた(後述)に投宿、同志の潜伏する家を用意していた。[124]

また安政5年(1858年)の前水戸藩主・斉昭幽閉時に幕吏から斉昭への嫉み甚だしく、幕吏が斉昭を殺害するとの風説が専らだった際に、鉄砲師の父 を持つ杉山は江戸・水戸藩邸警護を志願したが身分が低い為その選に漏れた。これを残念に思った彼は忍びやかに江戸入りし、夜な夜な水戸藩邸界隈を徘徊して 陰ながら同藩邸を守っていた。その時の歌に、

うばたまの夜はよもすがら忍びつゝ守るは君のためとこそ知れ

とある。その後、長岡屯集に加わって返納阻止運動をしていた杉山はやがて増子と一緒に江戸へ来て、下総国香取郡・津宮村、窪木縫殿衛門[125]と共に江戸・馬喰町2丁目井筒屋の嘉七のところへ潜伏、井伊家の動静を伺っていた。杉山は井伊大老の出仕時刻や供廻りの如何までも探知、悉くそれを同志へ報せた。[126]

水戸藩士・岡部三十郎は江戸在勤の父[127]の元で育ったため江戸っ子肌、結城着物唐桟羽織博多矢立をはさみ、前垂れをかけ雪駄を突っかけ歩いている様子などはどう見ても頑丈な水戸っぽではなく、日本橋辺りの商人だった[128]。この為、岡部はこの町人のいでたちで諸方へ立ち回り偵察探聞に勤めていたが、江戸では誰も彼が水戸人たるを知る者はいなかった[129]

安政7年(1860年)2月23日夜、水戸藩士・大関和七郎の家[130]へ同士・山口辰之介[131]が やってきて潜んだ。山口は自らの大小の刀が余り良くなかった為「どうか君の差し換えを一腰譲って貰いたい」と大関へ言った。大関は数本の刀を取り出し「こ の内からどれなりと良いものを取り給え」と7、8腰みせた。山口は備前物か何かを取り出し「これを一腰願いたい」と大関へ告げ、また太刀を贈られたにか近くの白屏風へ辞世を書き付けた(後述)[132]。また水戸藩士・広木松之介は常に大関へ随従して行動した[133]。 大関家は裕福であった為、和七郎はこの時点から前後の運動時に古金の150両程を売って費やし、且つこの出発に際しても古金7枚を持って行った。同年同月 25日夜半、大関は山口と共に出発しようとしたが、使いの者に町木戸(関門)を見てもらいに行くとそこが閉ざしてあった為、産婦の薬を買いに行くとして使 いの者から町木戸を開けさせ、その後から2人が出て行った。大関は町人風に髪を剃り落とし、大小の柄も鞘も鍔も皆取り外し、萌黄色の風呂敷になるだけ小さく包んで、酒泉好吉と名を変えた。山口は見送りの大関家・妻女を顧み、「自分共は数にも足らない冷や飯の身分[134]であるが、大関君のような歴々一家の当主でこの始末は御心中察し入る、水戸さむらいは 一度乗った船は飽くまで乗るというが、この位の覚悟なら成し遂げる事は無論である。吉相を待って下さい」と言った。大関家は彼らが江戸まで行けたか非常に 心配していたが、4、5日後、水戸・和泉町の伊勢彦という宿屋に泊まった旅人が下総・流山で古物商を名乗る変な2人組の男に会ったが、よく聞くと水戸浪人 だそうだなと話をしたと聞き、もう流山まで彼らが行けば安心だと喜んだ[135][90]

水戸藩士・森五六郎[136]は家を出るに際し、

君がため我が里いでて武蔵野に紫にはふ花とちらなん[137]

と詠んだ[138]。彼は国家の為に井伊を討つ決心をし単独で江戸入り、乞食を装っていた。ある日、彼は赤坂で井伊と喰い違って出合乗り物へ銃撃を試みたが、逆に大勢の追っ手から追い詰められ、堀へ飛び込んで難を逃れた。その後、彼は斎藤と出会った為、同士に編入した[139]

水戸藩士・蓮田一五郎は、幼年のころ父が亡くなり、母により養育された[140]。また蓮田は篤学、貧しい下士の家で灯り代や筆、紙にも事欠く生活の中で自分の食事を減らしその分を勉学用のともし火代に当てるよう母に頼むほど向学心が強く、かつ幼い頃から養を尽くした[141]。蓮田は水戸藩・軍用方小吏、寺社方を経て、職務上に斎藤と知り合い、彼の思想に共鳴した為、母と姉にそれとなく別れを告げ、江戸へ出た。この江戸行きの旅間に蓮田が作った、故郷の母を想って詠んだとされる複数の和歌が残されている(後述)。[142][143]

増子と杉山、岡部は、桜花を描いた提灯を作り、浅草寺の百度参りを装って何度も江戸入りをしてくる面々を「かん」「おん」の合言葉で迎え[144]、安政7年(1860年)2月末までには要撃の面々があらかた出てきたのを見届けた。[112]

彼らは一か所に多数で泊まれば疑われるのを予想、海後は江戸到着の2日後、品川へ宿を移した。関は浅草吉原京橋へ転々とした。これらにも関わらず、同士らは一様に町奉行の目をかわすのに苦労していた。[112]

薩摩屋敷では金子孫次郎らと有村兄弟が談義をかさねた。先ず彼らは水戸・薩摩とも大量参加者は見込めない事を再確認し、当初予定の斬奸期日を同年2月28日に延期した[112]。斬奸者らは候補にあげていた井伊側近の老中磐城平藩主・安藤信正[145]や井伊の娘千代子を正室へもらった高松藩主・松平頼胤[146]を外し、井伊一人に絞り込んだ[112]。また薩摩の有村次左衛門(23歳)と水戸の佐野竹之介(21歳)とは気象が似ており、2人は薩摩藩邸で仲良くなった。次左衛門と佐野どちらが井伊の首を取るか2人で言い合いになった折、佐野はどこからか硯箱を持って来て、佐野の右手に太刀、左手に井伊の首を抱いた図にあら楽し思ははれて敷島の大和の道の開けそめけむと添え描き付けた[147]

期日が迫ったが金子はなお熟慮の粘りを見せ、斬奸絶対成功の為、烈士らへ軽率を避けさせた。[112]

安政7年(1860年)3月1日、金子は日本橋西河岸の山崎屋に関や斎藤、有村、稲田、佐藤そして薩摩藩との連絡役の水戸藩士・木村権之衛門を呼んだ上で、挙行は3月3日桃の節句とし[148]、要撃は登城中の井伊を桜田門外で襲うべし、と最終決断を下した[112]。この他に金子は、武鑑を携え四、五人を一組とし相互連携すべし、先ず先供を討つべし、駕籠脇が狼狽する隙に大老を討つべし、大老の首級を挙げるべし、負傷者は切腹か閣老へ自訴すべし、その他の者ただちに薩摩藩との次の義挙計画の約束[149]通り天皇警護に京へ趣くべしと定めた[112]。又、できるだけ生き延びて次の仕事の機会を待つ、という申し合わせも同志らは行った[150]。更にこの時、烈士は面々の役割と斬り込み隊の配置も定めた[151]。金子は全体統率、関は現場指揮、彼らは斬り込み隊へ加わらず皆の監督役とし、水戸藩士・岡部三十郎と同藩士・畑弥平は結末を見届けたのち、品川の川崎屋に待機した金子へ結果報告する事とした。斬り込み隊の配置は、井伊邸[152]へ向かって右翼即ち江戸城の堀に面した側へ常陸神官海後や水戸藩士・広岡子之次郎[153]森山繁之介[154]、稲田、佐野、大関。左翼即ち松平親良[155]側へ水戸藩士・山口辰之介、杉山、増子、黒澤、薩摩藩士・有村とした。後衛に常陸神官・鯉渕、水戸藩士・蓮田市五郎、広木を配し、前衛には水戸藩士・森を当てた[151]。また常陸神官・斎藤は襲撃に直接参加せず、事変後に一同を率い、烈士連名の『斬奸趣意書』を然るべき藩邸へ提出する役目とされた(後述)。広岡は20歳と烈士最年少ゆえ、生きて帰れない挙に打って出る事を思い留まるよう周囲から説得されたが、彼は「一国の大事を処するには、年齢は問題でない」と言い、且つ突如片肌を脱ぎ切腹しかけた為、襲撃隊参加を他烈士らより認められた[156][157]。この会合の際、山崎屋で水薩両藩士らは『烈士絶筆』を残した[158]

また次左衛門は安政の大獄で刑死した士・日下部伊三次の一人娘との縁談を、伊三次の未亡人・静子より薦められていたが、「少々考える所が御座る」とかつて断っていた。安政7年(1860年)3月2日の義挙前日、次左衛門は日下部家へやってくると「水戸藩士・佐野、黒澤らと申し合わせ、天下の為、井伊掃部頭殿(井伊直弼) を討ち果たし申すべく計画が御座りましたので、どうせ長く持って半年、1年の命でどうして縁談をお請けできましょうや。その手筈は一致、いよいよ明日の御 登城を桜田門外に待ち受けて御首を申し受ける事と相成りました。ご令嬢によき婿、貴方様にも御長命の程を願い申し上げます」云々と言った為、静子は「それ はそれは御大望、どうぞ首尾よく御し遂げの程、神かけ願い申します」と答え、勝栗、熨斗昆布を整えた上で当の伊三次の娘も呼び入れて訣別の盃をあげ、共に 出陣の門出を祝った[159]

安政7年(1860年)3月2日同日の夕刻、品川・相模屋の奥座敷にはすでに酒宴の膳が並び、早い者は座に着いていた。この夜列席したのは桜田十八士を含む19名だった[160]。面々が一堂に会するのはこれが最初で、しかも最後にもなった。斬奸期日が遂に明日と決まった中、面々は改めて義挙成就を誓い、酒盃を交わした[151]。又この日、面々は小石川水戸藩邸の目安箱へ、脱藩届けを投げ入れて来た[72]

襲撃

安政7年3月3日1860年3月24日)の早朝、烈士一行は決行前に訣別の宴を催して一晩過ごした東海道品川宿[161]の旅籠を出発した。又この朝までに、彼ら水戸藩士らは脱藩届けを出し、浪士となった[162]。この日いわゆる雛祭りのため、在府の諸侯は祝賀へ総登城することになっていた。水戸浪士一行は東海道[163]に沿って進み、愛宕神社[164]で薩摩藩士の有村と待ち合わせた上で、桜田門外へ向かった。生憎この日は明け方から雪模様でもあったため一時は大きな牡丹雪が盛んに降り、辺りは真っ白になった。しかし、斬り合いの時刻には雨混じりの小雪で、やがて薄日が射した[165][166]

十八士ら[167]が現地へ着いた所、既に沿道には物見高い江戸っ子武鑑片手に、登城していく大名行列を見つめていた。襲撃者たちは同じく武鑑を手にして大名駕籠見物を装い、井伊の駕籠を待った。物見客相手によしず張りの燗酒屋が店を出していた為、面々のなかには調度いいと景気酒を一杯引っかける者もあった。海後は懐中からとりだした当時流行の気つけ薬・勝利散[168]を佐野と分けてのんだ。大関は懐から紙包みを取り出すや、包んであった人参をぽりぽりと食べ、皆に分け与えた。彼は甥の広岡と何やらひそひそ話し、くすくす笑って同士らの固くなった気持ちを和らげた[169]。堀に面した物見客の中には、傘を差し、半合羽姿の関が居た。彼も武鑑を開き如何にも見物人かの如く装った。[72]

午前8時、登城を告げる太皷が江戸城中から響いた。それを合図に諸侯が大名行列をなし桜田門をくぐって行った。尾張藩の行列が見物客らの目の前を過ぎた午前9時ころ、井伊家の赤門が八の字に開き、井伊の行列は門を出た[5]。井伊邸から桜田門まで三、四町(327から436メートル)、彦根藩の行列は総勢60人ばかりだった[4][5][72]

雪で視界は悪く、彦根藩護衛の供侍たちは雨合羽を羽織り、の柄、鞘ともに袋をかけていたので、それは襲撃側に有利な状況だった。また江戸幕府が開かれて以来、江戸市中で大名駕籠を襲った前例はなく、彦根藩行列の警護は薄かった。尤も井伊の元には以前より不穏者ありとの言が届いていた上、当日の未明にも直接の警告があったが[170][171][172]、護衛の強化は失政の誹りに動揺したとの批判を招くと井伊は判断し、敢えてそのままに捨て置いた[173][174]。井伊の乗り込んでいた駕籠は彦根藩邸上屋敷[175]の赤門を、刻み足で出た。彦根大名行列は内堀通り沿いを進み、江戸城外の桜田門外[176]へ差し掛かったとき、烈士からの襲撃を受けることになった。[72]

22歳の若い水戸浪士・佐野はこの行列が門を出るなり早くも羽織の紐を解き始め、「まだまだ」と年上の水戸浪士・大関から諫められた。先供が松平親良[155]に近づくと、突如前衛の水戸浪士・森が駕籠訴を装って、行列の供頭へ駆け寄った。森は「捧げますぅ、お願いの筋がござりまするー」と叫び[5]、懐中から書状を取り出して彦根藩の行列へ強訴に及んだ。こうして寸刻後、俄かに群衆がざわめきだした。[72][177]

この森の大芝居に、取り押さえに出た彦根藩士・日下部三郎右衛門は「何者かっ、無礼者」と制止しにきた[5]が、森は即座に斬りかかった為、日下部は面を割られ前のめりに突っ伏した。先供が惨殺されたのを見た彦根藩士は「狼藉者ぞぉ」と叫んだ[5]為、行列はすぐ総崩れとなった[4]。こうして護衛の注意を前方に引きつけた上で、水戸浪士・黒澤忠三郎[178]が合図のピストル[179]を駕籠めがけて発射した。[177]

発射された弾丸によって井伊は腰部から太腿にかけて銃創を負い、独自に修錬した居合を発揮すべくもなく、動かなくなった[180][181]。それを合図に、沿道の両側から抜刀した十五名の水戸浪士[182]と一名の薩摩藩士が一斉に行列へ襲い掛かった。突然の襲撃に驚いた丸腰の駕籠かきや草履取りは勿論、行列に群れていた彦根藩士ら[183]の多くも算を乱して遁走した[184]。残る数名の供侍たちが井伊の入った駕籠を動かそうと試みたものの、彼らも銃撃で怪我を負ったうえ次々襲撃側に斬りつけられ、駕籠は雪上に放置された。護衛の任にある彦根藩士らは、べた雪の水分が柄を濡らし刀身が湿るのを避けるため両刀に柄袋を掛けており、銃創と鞘袋が邪魔して咄嗟に抜刀できなかった[185]。このため鞘のままで抵抗したり、素手で刀を掴んで指や耳を切り落とされるなどしながら、彦根藩士らは早くも数名斃れた[186][177]

桜田門外はたちまち修羅場と化したため、当初は斬り込み隊に加わらず『斬奸趣意書』の提出役だった斎藤までもいつしか熱くなり[187]、遂に我慢できず乱闘の渦中へ駆け込んでいた[188][177]

こうした防御者側に不利な形勢の中、彦根藩の目付二刀流の 剣豪・河西忠左衛門は冷静に合羽を脱ぎ捨てて柄袋を外し、襷をかけて刀を抜きつつ駕籠脇を守って水戸浪士・稲田と争い、さらなる襲撃を防ごうとした。同じ く駕籠脇の若手剣豪・永田太郎兵衛も二刀流で大奮戦し、襲撃者に重傷を負わせた。しかし、河西は斬られ、永田も銃創が酷く闘死した[189][190]

十八士側では予め計画、一部は先御供、他の一部は後御供に撲り込みをかけ、彦根側がそれに気を取られて駕籠を離れる隙を狙って井伊を斬る手筈だったが注文通りに事は進んだ。[191]

駕籠かきは早々と退散し、もはや護る者のいなくなった駕籠周りはがら空きだった[5][192]。そこを目がけて先ず稲田が刀を真っ直ぐにして一太刀、駕籠の扉に体当たりしながら井伊を刺し抜いた[193]。しかし広岡、海後が続けざまに駕籠を突き刺した。こうして次々と襲撃者の刀が駕籠へ突き立てられた。この間、稲田は河西による刃で討ち死に、河西も遂に斃れた。更に、有村が荒々しく駕籠の扉を開け放ち、中で虫の息となっていた裃姿の井伊のを掴み駕籠から引きずり出した[194]。井伊は既に血まみれで息も絶え絶えであったが[191]、無意識に地面を這おうとした。有村が発した薬丸自顕流の猿叫(「キャアーッ」という気合い)と共に、振り下ろした薩摩刀によって井伊は斬首された[195]。事変の一部始終をつぶさに見ていた水戸藩士・畑は、襲撃から井伊の首級をあげるまで「煙草二服ばかりの間」とのちに述懐した為、襲撃開始から井伊殺戮まで、僅か十数分の出来事だった。[191][196][197]

有村は刀の切先に井伊の首級を突き立てて引き揚げた。「よかよかー」と薩摩弁で大音声を発した有村の勝ち鬨の声[198]を聞いて水戸浪士らはみごと本懐を遂げた事を知った。が、急ぎ彼らが現場を立ち去ろうとしたとき、既に斬られて昏倒していた目付助役の彦根藩士・小河原秀之丞がその鬨によって蘇生し、主君の首を奪い返そうと有村に追いすがった。米沢藩邸前辺り[199]で、小河原は有村の後頭部に斬りつけた[200]。すぐさま有村の助太刀へまわった水戸浪士・広岡らによって小河原はその場で斬り倒されたが、現場に隣接する杵築藩邸の門の内側から目撃した人物の表現によると、小河原が朦朧と一人で立ちあがった直後、数名の浪士らから滅多微塵に斬り尽くされた有様は目を覆うほど壮絶無残だったという。一方、この一撃で有村も重傷を負って歩行困難となり、井伊の首を引きずっていった。また別の目撃者(会津藩士・石沢源四郎)の述懐によれば、有村は雪の積もった中に黒い死体が点々とある現場を脱出、やがて辿り着いた竜ノ口[201]の 滝がある場所を背景に胡坐をかき、短刀一本を持っていた。有村は腹を斬るため有村自らの着た稽古胴を斬ろうとするが力失われ斬れず、稽古胴を脱ごうとして も脱ぐに脱げずにもがき、やがて短刀を雪の中に突き入れ、自分がそれへ乗し掛って死のうとしたが死ねなかった。有村の近くに置かれた稽古胴の中に井伊の首 が入っており、有村はその髻を掴んで引き出し、眺め、また胴着に入れた。そして有村は短刀の上に再び乗って死のうとしたがやはり巧くいかず、最早精神尽き 果ててはいるが、己の希望を達した様子で井伊の首級を取ってそれを眺めていた。有村は周りに立っている者をしきりに拝み、首をやってくれという風をした が、誰もやる者がいなかった。有村はどうしても死ぬことが出来ないので前にある雪を取って口に入れた[202]。こうして、有村は若年寄遠藤胤統邸の門前で自決した[203](後述)。小河原は救助され、藩邸にて治療を受けるが即日絶命した。現場跡には、水戸浪士で唯一その場にて討ち死にした稲田の他、数名の彦根藩供侍[204]と首のない井伊の死体が横たわり、雪は鮮血で赤に染まっていた。[198]

海後は事変後、現場を少し行くと後ろから声をかけてきた者がいた。顧みると井伊の首級を刀の切っ先に貫いたままの有村と広岡が歩いてきた。それから海後、有村、広岡で日々谷見附を通行していると、棒を持った者[205]が 3人ほど居たが、彼らを敢えて追って来なかった。広岡は歌詞を吟じながら歩いて行った。また海後は八重洲橋を渡って行くと、一人の男が橋の上に座って喉を 刀で突こうとしているのを見た。その男は重傷でよろけ、刀が逸れるのを自分の手が震えるからと思わず、刃こぼれの為と思う風でその切っ先を自らの喉へ当て ようとしてよろけていた。襲撃に参加した水戸浪士・山口だと気づいた海後は、声をかけ力をつけてやりたかったが、前々からの約束で「手負いに声をかけず手 もかさず、逃れるだけ逃れ次の計画のため働け」となっていたので、海後は山口を敢えて見捨てて先を急いだ(後述)[206]。竜ノ口に到った頃、有村と広岡は深手により歩行できなくなった。やむなく海後は2人と別れ、藩屋敷へ自訴しようとしたが門が閉じられており、それも叶わなかった。もう一度、竜ノ口へ戻ってみると、有村と広岡は既に前に突っ伏し、絶命していた。[207]

指揮者役の水戸浪士・関は傘を手に、これら変の一部始終を悠然と見届けていたとされる[208]

襲撃の一報を聞いた彦根藩邸からは直ちに人数が出撃したが時既に遅く、やむなく人員を割いて死傷者や駕籠を収容、更には鮮血にまみれた多くの指や耳たぶ、数本の腕、落ちていた雪まで徹底的に回収した[209]。井伊の首は前述の遠藤邸に置かれていた[210]。所在を突き止めた井伊家の使者が返還を要請したが、遠藤家は「幕府の検視が済まない内は渡せない」[211]と5度までも断りその使者をすげなく追い返した[212]。そこで井伊家では表向きは闘死した藩士のうち、年齢と体格が直弼に似た加田九郎太の首と偽り[213]、貰い受ける体面案を練った[214][215]。最後にこの案を呑んだ遠藤家では自分から公式の使者を立て、事変同日の夕方ごろ直弼の首を井伊家へ送り届けた[212]。その後、井伊家では「主君は負傷し自宅療養中」と事実を秘した文章を幕閣へ提出、井伊の首は彦根藩邸で藩医・岡島玄建により胴体と縫い合わされた[194]

死傷者とその後の処分等

水戸藩・薩摩藩側

安政7年3月3日(1860年3月24日)、最初に駕籠目がけて斬り込んだ水戸浪士・稲田重蔵(48歳)は、彦根藩士の河西忠左衛門(30歳)から斬り倒され、襲撃者側でただ一人戦闘中討ち死にした[216][217]。その他の襲撃者らは井伊の首級を揚げたのを確認後、共に現場を去って日々谷門へ向かった。薩摩藩士・有村次左衛門(23歳)は戦闘で首級を取ったが深手を負い、井伊の首を手にし現場を去りがけに、米沢藩邸前の東角で追い縋ってきた彦根藩士・小河原秀之丞(30歳)より背後から斬りつけられた。水戸浪士・広岡子之次郎(20歳)らは井伊藩士と激しく斬り合った為重傷を負っていたが、助太刀に回ってこれを制し小河原に止めを刺した。有村は井伊の首級を手に、烈士最年少の広岡と共に和田倉御門を抜けたが、竜ノ口で力尽き若年寄遠藤胤統(遠藤但馬守)邸前で雪を口に含み自決した[218]。広岡は有村が首級を挙げたのを確認して後、日比谷門から八代洲の河岸を抜けて、竜ノ口を通り姫路藩・酒井家(酒井雅楽頭)の屋敷外まで辿り着いた所で力尽き、自刃し果てた[219]。この時、広岡の自刃を目撃した姫路藩士から彼は「潔き死にぶり、何れも感服致し候」と讃えられた[156]。また水戸浪士・山口辰之介(29歳)は果敢に井伊の行列へ斬り込んだ為、殆どの彦根行列士卒が恐怖の形相で遁走する中、辛うじて踏みとどまった数名の彦根藩士による必死の反撃で重傷を負っていた。襲撃者側で最高齢の水戸浪士・鯉渕要人(51 歳)は、井伊警護との激しい斬り合いでやはり重傷を負っていた。深手を負った山口は引き揚げ途中、八重洲橋の上で海後(当時32歳)へ介錯を頼んだが、後 から関が来ると海後は先を急いだ。その後、山口は鯉渕と連れ立って日比谷御門を過ぎ、馬場先門と和田倉門の間の濠沿いにある、増山河内守屋敷の角を右へ曲 がり、八代洲の川岸に辿り着くが、鯉渕と共にこれ以上の逃亡は不可能と見、年長の鯉渕が織田兵部少輔邸の塀際で山口を介錯し、かつ自刃した[220][221]。水戸浪士・佐野竹之介(21歳)は奮戦の結果深手を負いながらも、老中・脇坂安宅脇坂家(脇沢中務大輔邸)[222]へ計画通りに『斬奸趣意書』を手渡し自訴したが、事件当日の夕刻に絶命した。水戸浪士・黒澤忠三郎(31歳)は襲撃隊として参加し、肩と耳、脇の下を負傷したが現場を脱し趣意書を脇坂家へ提出し自訴した。黒澤は幕府に取り調べられ、三田藩・九鬼家へ移されそこで病死した[223]。水戸浪士・蓮田一五郎(29歳)は井伊襲撃の戦闘により負傷後、同様に脇坂家へ趣意書を提出し自訴した。蓮田はその夜、細川家へ預けかえられた[224][225]。水戸浪士・斎藤監物(39歳)は当日、一同を率い趣意書提出の役割であったが戦闘に参加(前述)し負傷、佐野と黒澤、蓮田を率い脇坂家へ趣意書提出により自訴。また斉藤は5日後の同年同月8日、落命した。水戸浪士・森五六郎(24歳)は戦闘で負傷しながらも現場を脱出、熊本藩主・細川斉護邸へ趣意書提出により自訴した。また水戸浪士・杉山弥一郎(38歳)も戦闘で負傷したが、同細川家へ趣意書提出で自訴。水戸浪士・森山繁之介(27歳)は戦闘に参加したが無傷で現場から復帰し、やはり細川家へ趣意書提出で自訴した。細川家はかつて赤穂浪士を扱った際の待遇が良かった由か、森・杉山・森山らも武士の礼節を重んじて温かく出迎えられた。やがて森は臼杵藩・稲葉家へ預けられ、稲葉家家臣らへ語った記録(『森五六三郎物語』)を残した。森山は同年同月9日、一ノ関藩田村家へ預けられ、また同年4月21日に足利藩・戸田家へ移された。森・杉山・森山らは幕吏からの取調べを受けてから、江戸・伝馬町の獄舎へ送られた(後述)。[226]

大坂で薩摩藩との連絡役であった水戸浪士・川崎孫四郎は幕府に探知され自刃した(35歳)。弟による首取りの勝ち鬨をうけた薩摩藩士・有村雄助と共に、御所防衛の途上にあった水戸浪士・金子孫二郎は、伏見で捕らえられ江戸へ送られた。幕府によって郷里組藩士が捕えられる事を恐れた薩摩藩は、雄助を追尾していた。安政7年(1860年)3月9日夜半、薩摩藩の捕り手は道中の伊勢四日市の旅籠に雄助が投宿中との情報を探知し、彼を捕縛した。薩摩藩は彼を一時大坂藩邸に移したが、そこも危ないと判断して直ぐに薩摩国へ護送した。万延元年3月24日(1860年4月14日)、雄助は幕府の探索が薩摩に迫ると薩摩藩命によって自刃させられた(26歳)[227]

襲撃総裁役は金子、現場指揮役は関へ任せ、京都義挙役の水戸藩士・高橋多一郎と同藩士・庄左衛門親子は安政7年(1860年)2月20日に水戸を発ち、中山道木曽路を経て同年3月6日に大坂着、水戸郷士・黒澤覚蔵[228]を 伴い、薩摩藩兵上京を待っていた。又彼らは前に大坂で状況を探らせていた山崎猟造らと落ち合った。井伊を討ち取り初段の目的は果たしたものの、薩摩藩から の挙兵が期待できない事を知った高橋親子らは善後策を考えねばならなくなった。万延元年3月24日(1860年4月14日)、高橋親子は幕吏の追捕を受け たが、包囲網を突破して四天王寺境内へ逃げ込んだ。高橋親子は寺人へ事情を告げその一室にて自刃した(父・多一郎47歳、子・庄左衛門19歳)[229]。またこれは有村雄助が薩摩藩郷里組の元で切腹を遂げたのと同じ日だった。[230]

水戸浪士・広木松之介は井伊行列隊と激烈な戦闘をしたが無傷だった為、予ての定め通り、一人現場を脱して御所防衛へ向かうが北陸加賀国より先は幕府の厳重な警戒で叶わなかった。広木は帰郷後、事情を水戸藩士の父に説明したが京都義挙計画を打ち明けられず[231]、 武士かたぎの物堅い父から「一旦死を決して同志と共に大事に与った以上、今更おめおめと帰ってくる法はあるまい。武士の出陣はその日が命日、命惜しさにそ の場へも臨まなかったのだろう、汚い、早く立ち去れ。性根があるならどこへなりと行き同志と共にせよ」と言ったので広木は励まされ[232]、数日後に彼は京都義挙計画の志を強くして再び故郷を発ち御所防衛へ向かった[231]。しかし追手側の詮索が厳しく、彼は能登国本住寺を辿り、航海して越後国佐渡島、再び本州へ帰り越中国を経た[231][233]。 彼は越中のある寺で同志の処刑を聞き、今日逃げるのは明日の義挙の為なのに自ら世の中の事を何もできないと嘆息、独り生をぬすむべきではないとある日、同 寺の主僧へあらゆる物語りをした。広木は人生朝露の如く、今日無事でも明日はどうあるべきか、自分にもし万一の事があれば後世よきにはからって賜れかしと の言葉を残して立ち去った[231]。広木が繰り返し京都義挙を試みていたこの時、越後国新潟で偶々居合わせた水戸藩士・後藤哲之介は越後・新潟に知己が多かった為、広木を助け旅費を用意した上で広木を逃がした。後藤は広木の印形を預かっていたが、文久元年(1861年)常陸国訛りの為幕吏に捕らわれ、かつ所持品から広木の印が見つかったので牢屋へ送られた[234]。役人が取り調べ時に後藤の持った広木印を見て小躍りし「その方は広木松之介であろうがな」と尋ねると、後藤は「拙者はいかにも広木松之介で御座る。昨年3月3日、桜田において井伊掃部頭殿を討ち取ったる浪士の一人で御座る」と言った[235]。後藤と牢で同席した小山春山による[234]と、後藤哲之介輝は広木と同じく常陸国水戸藩・久慈郡和久村の郷士で、勅書返納問題に慷慨し[236][237]国をあちこち駆けていたが、新潟で捕らわれ幕吏より姓名を問われるや広木松之介と答えた。広木は井伊暗殺者と知れていた為、後藤は厳重に警護され文久2年(1862年)5月3日[238]江戸へ送られ、伝馬町の監獄に繋がれた。しかし広木松之介を名乗った後藤へ幕府から尋問もなく、絶食した後藤は文久2年(1862年)9月13日に息絶えた(32歳)[239][240]。後藤は広木から事件の話を聴いていた[241][242]。一方、広木はやがて相模国鎌倉・上行寺へ赴き剃髪したが、先駆義士の3回忌である文久2年(1862年)3月3日に同寺の墓地で切腹していた(25歳)[243][244][245]

安政7年(1860年)3月5日、義挙後の水戸浪士・関鉄之介は江戸を出発し、計画通り天皇護衛へ向かった。彼は商人に変装して中山道から大坂へ入った。この途中で関らは神奈川妓楼岩亀楼に潜伏した[246]。ここには芸妓最高位の太夫喜遊がいたが、彼女の父は攘夷論[247]、同年7月17日に喜遊は外国人貞操を汚されるのを恥辱とし露をだに厭うやまとの女郎花と詠じ自刃した[248][249]。大坂へ辿り着いた関は高橋親子の最期と、薩摩藩側からの上京の約が果たされていなかった事を知った。以後、彼は海路などを利用し西国各地を旅する事になった。鳥取藩で幕政改革派を頼るがかつての遊説中に得られていた筈の賛同の意は鳥取側になくなっており、山陰山陽四国九州と西国各地を転々とした。彼は薩摩藩からの率兵計画の望みを捨てきれず、長州藩を経て肥後藩・三太郎の居た山を越えて、水俣駅から薩摩へ入国しようとした。しかし既に薩摩藩主の実父・島津久光の命で薩摩の全関所が閉ざされていたため関は薩摩入りできなかった。関はやがて東帰を決め[250]奥州街道草加に至りそこで書道の教授をしながら密かに天下の状勢を伺っていた。彼は故郷を忘れがたく常陸へ帰国[251]、安政7年(1860年)7月初旬、水戸藩久慈郡大子町袋田の豪農で関と予てから懇意の郷士格・桜岡源次衛門の納屋に匿われた。桜岡は、かつて藩命で関が担当したこんにゃく会所の裏部屋などを、彼の隠れ処に提供した[252]。ここで関ははからずも、水戸藩士・野村、岡部、木村ら同志と再開した。関は同地・田谷村の田尻新助の家などに隠れて同志と再挙を計った[253]。文久元年(1861年)7月1日の夜、関は棲み処を忍び出て水戸・五軒町の水戸浪士・高橋多一郎の家を訪ねた。高橋の遺族は冥途からの帰還者と逢ったように感じ「まあどうして」と関へ言い、一同は膝を突き寄せ昔語り、夜明けに気づかなかった[254]。関は水戸滞在中息子と会いたくなり高橋家族にその旨を相談したが高橋家から「貴君は大事な体であるので止すのが宜しい」といわれた。しかし関は同年同月7日の晩に、密かに息子へ会いに行った。当時関の遺族は関の妻・ふさの父のいた水戸近郊の中原村[255]・矢矧庄左衛門のもとへ引き取られていた。こうして同年同月8日未明に関は再び高橋家に戻った。なお関は同年同月10日まで高橋家に居たが、その間、水戸浪士・山口辰之介の甥・徳之進(のち男爵山口正定)が高橋家を尋ねてきて、種々の打ち合わせ後、余り一ヶ所にいるのは危険と一同は判断、関は山口家へ2晩ほど泊まった[256]。関は同年同月10日の晩に再び袋田へ向かったが、これを期に水戸から隠密による探索の足が着いた。病をわずらった彼は、療養を兼ねて越後国上関村・雲母温泉の湯治場へ逗留しに行った。執拗な捕史が迫った為、同年10月、彼は水戸藩士・安藤龍介によって越後湯沢温泉[257]で捕縛された。その故郷へ護送される中途に、関は次の歌を詠んだ。

すててかひあるかなきかは白雪の積る思ひの消えぬ身にして

彼は同年11月に水戸へ護送され水戸の赤沼牢に投獄された[258]。文久2年(1862年)4月5日、彼は江戸伝馬町へ転送された。関は幕府の目付、神保某の係りにより数度の尋問を受けたが、獄吏が口供書を作りその下へ花押をせよと関に命じた所、関は筆を執り「死休」の二字を書したので、獄吏は「よくよく死にたいものかな」と言った[259]。関は獄中でも意気が少しも衰えなかった[259]。彼の残した複数の書が残っている[260]。関は獄中諸氏[261]から甚だ尊敬された。又、襲撃前の潜伏時に関が身を寄せた芸妓・滝本は幕吏に捕らわれ、尋問された。滝本は「妾の身を鉄之助君に托したのは、彼が攘夷の志を懐き、真に一個の神州武士に恥じないから」と言い、また「彼の企てた所は何も知らず、大丈夫国家の ため大事を謀るになぜ婢妾に告げん」と何も語らなかった。滝本は幕吏の鞭打ちで肌を傷つけられ、かつ幕吏から膝の上に石を堆積されたが沈黙、幕吏が彼女の 義烈に感じ、拷問をやめ監獄に繋いでおいたところやがて滝本は牢死した。関は監獄でこれを知った。伝場獄には他に、高橋の京都義挙計画に伴って大阪で捕縛 され、江戸へ転送されていた水戸藩士・内藤文七郎がいた。関は内藤へ滝本の忌日を尋ね来て、書中で細かに滝本の墓碑を建て遣わしたい旨を述べた[262]。関が処刑場へ送られ行く時、内藤の監房前を通った。関は内藤を顧み、「おい文七、貴様はまだ生きているか」と言った[263]。同年5月11日、ここに関は斬首された(39歳)[230]

水戸浪士・岡部三十郎は江戸勤めの長い父の元で育ったため主要な裏方で宿の手配等に働き、井伊の討ち取り検視見届役として変にも参加していたが、事変後、関や野村と大坂へ向かった。が岡部は薩摩率兵が不可能と知って中仙道木曽路から信州甲州を経て江戸より水戸へ帰還、久慈郡袋田や水戸城下辺へ潜伏していた。追手を逃れ再び江戸へ出たが、文久元年(1861年)2月江戸吉原で捕まった。[264]

また安政7年(1860年)3月5日、自訴した面々への尋問が幕府から始まっていた。のち、幕吏により伏見で捕縛され京から護送されてきた水戸藩 士・金子孫次郎へのそれが最後となった。この尋問中、森山は幕吏からの尋問を何度も受けたが、同志に誘われ挙に加わったが誰が計画したか分からないと言い 張った[265]。また同じ期間、蓮田は幕吏方の池田から「狼藉は如何なる趣旨か」と問われると、委細を尽くしてある『斬奸趣意書[1]でご承知ありたい旨、申し述べた。井伊による嫌疑を受け、前水戸藩主・斉昭冤罪に陥れるつもりの幕吏方では「主君を立てる御三家の御家来なら尚更、前殿(斉昭)の思し召しと述べたら名義が立つであろう」等と誘導尋問を繰り返したが、それに悟っていた蓮田は「もし前君(斉昭)の内命にて井伊家を討つなら水戸藩に立場がある武士が喜んで罷り出で、且つ討ち方もあるべき、なぜ軽輩の我々が出ずる事を得ましょう」と答えた[266]。蓮田は母や姉へ宛てた遺書を残し、同士と共に伝馬町獄舎へ送られ幕吏により斬首された[267][268]。文久元年(1861年)7月26日、江戸自訴組も、御所警護組の金子・岡部も全員斬首刑となった(金子58歳、大関26歳、蓮田29歳、森山27歳、杉山38歳、森24歳、岡部44歳)[269][230]

他の関与者も多くは自首したり捕縛された後に刑死、獄死した。

水戸浪士・増子金八海後磋磯之介は潜伏して明治期 まで生き延びた。増子は襲撃中、左翼(杵築藩邸側)から剣の腕を発揮して奮戦し腕や肩に傷を負ったが浅手だった為、現場を脱して御所警護を目指し西へ向 かった。しかし、周囲の警戒が厳重で叶わず、帰郷。増子は商人と偽り捕吏の手を逃れ水戸藩中央から北の各地に潜伏した。増子は明治時代となってから石塚村[270]へ 戻るが、事変後の同士らの処分を知り自分の生存に後ろめたさを感じながら、天下の趨勢を見極めて身を処するよう決心。増子は事変について沈黙、語ろうとし なかった。増子は晩年に体調を崩したが、同志の冥福を祈りながら読書と狩猟の余生を過ごし、明治14年(1881年)に病没した(59歳)[271]。海後は右翼(濠側)から襲撃に参加、中指[272]を切り落とされながらも[273]現場を脱し、水戸藩領の小田野村[274]にある親戚の高野家へ隠れた。岩代国郡山[275]へ逃れたとき高橋親子の自刃や金子捕縛を聴き自責の念から自首を考えたが、小野田村を出る海後へ兄・粂之介が「飽くまで生き延びろよ、世の中は必ず良い方へ変わってくる」と涙ながらに励ましてくれた事を思い出し、思い留めた。その後、海後は御所警護のため越後国へ向かった。文久3年(1863年)自宅へ戻り、元治元年(1864年)の天狗党の乱には変名で天狗党へ参加、関宿藩に預けられたがここも無事脱出した。明治維新後、旧水戸藩士身分に復帰、茨城県庁や警視庁・水戸警察署[276]へ勤務、退職後の明治36年(1903)自宅で没した(76歳)[277][278]

彦根藩側

襲撃により、藩主である直弼以外に8名が死亡し(即死者4名、後に死亡した者4名)、13名が負傷した。藩邸では水戸藩に仇討ちをかけるべきとの声もあったが、家老・岡本半介が叱責して阻止した。死亡者の家には跡目相続が認められたが、事変から2年後の1862年(文久2年)に、直弼の護衛に失敗し家名を辱めたとして、生存者に対する処分が下された。草刈鍬五郎など重傷者は減知の上、藩領だった下野国佐野(栃木県佐野市)へ流され揚屋に幽閉された。軽傷者は全員切腹が命じられ、無疵の士卒は全員が斬首・家名断絶となった。処分は本人のみならず親族に及び、江戸定府の家臣を国許が抑制する事となった。

影響

老中・阿部正弘や前水戸藩主・斉昭、薩摩藩主・斉彬らが主導した雄藩協調体制を否定、幕閣絶対主義を反対者の粛清により維持しつつ、朝廷からの政治介入をも阻止するという大老・井伊の専制政策路線は、自身の死によって決定的に破綻した。そればかりか、江戸定府・徳川姓の親藩副将軍と称される水戸徳川家と、譜代大名筆頭の井伊家が鋭く対峙、長年持続した江戸幕府の権威も大きく失墜した。参政権が限られたはず雄藩に比べ、それまで確固不動のものと思われていた江戸幕府の武備が意外と脆い事もごく象徴的に露見された為、幕政の実体性も損なわれ、文久期以降に尊王攘夷運動が激化する端緒となった。ここからわずか7年と7ヶ月後の慶応3年10月14日(1867年11月9日)、奇しくもかつて井伊と争議した第15代将軍・徳川慶喜によって大政奉還が成され、同年の江戸開城により急転直下で成る明治維新への、直接的ではっきりした記念碑起点がこの桜田門外の変であった。

水戸藩士は万延元年7月(1860年9月)に長州藩との間で結ばれた成破の盟約背景に、文久元年(1861年)から元治元年(1864年)にかけ第一次東禅寺事件坂下門外の変天狗党の乱などの尊王攘夷運動を先駆けた[279]。天狗党の乱の際に、彦根藩士は直弼公の敵討ちと戦意を高揚させ、中山道を封鎖して筑波山から京都へ向かった水戸藩士を迎撃しようとした。この為やむなく天狗党一行は美濃から飛騨を経て越前へ入り、敦賀に至った。やがて降伏した天狗党首領武田耕雲斎など水戸藩士ら352人はここで彦根藩士の手により斬首された[280]。なお、彦根藩士が水戸藩士を処刑した刑場は越前国福井藩来迎寺の境内[281]であった。

水戸徳川家のその後

慶応3年(1867年)、征夷大将軍時代の徳川慶喜

変後

事変を見届けた水戸藩士・畑は品川の旅籠に待った金子へ結果報告後直ちに水戸城へ急ぎ、事の経緯を藩庁へ伝えた。その為、事件翌日の安政7年3月4日1860年3月25日)には、国許で永蟄居中の前水戸藩主・斉昭の元へ、変の詳細が伝わった[282][283]。水戸藩側では畑の急報で事態を知り驚愕、江戸の水戸藩邸では幕府へ「浪士らは脱藩者ゆえ大法に即し処置されたい、関係者は水戸藩でも探索し召捕るつもりである」旨を上申した[284]。その後、脱藩関係者らは捕縛され、事なきを得た水戸藩では残された尊攘急進派による天狗党の乱が生じ、幕府の命に動いた諸生党によりその鎮圧へ転じた。天狗党は攘夷不決行での幕政権威失墜を先んじて憂い[285]、前水戸藩主の子・一橋慶喜主君に擁立しての攘夷決行を目的として京都へ向かったが、彦根藩による街道封鎖措置もあったので中山道を北に迂回して敦賀へ辿り着いていた。慶喜は新体制の下で将軍後見職となり京都へ出向いていた処、自ら鎮圧軍の長として出陣した事で天狗党を慶喜側へ不戦投降させた[286][287][288]。その後、第2次長州征伐中に起きた第14代将軍・家茂の薨去(21歳没)に伴って、将軍家徳川宗家)を継いだ徳川慶喜は天皇の宣下を受け第15代征夷大将軍へ就任した。また慶喜は慶応3年10月14日(1867年11月9日)大政奉還を表し、その後、欧米列強からの内政干渉を避けるべく[289]江戸開城によって自ら江戸幕府の歴史に幕を閉じた[290]

維新前後

嘉永6年(1853年)に生まれた前水戸藩主・斉昭の18男で清水徳川家第6代当主・徳川昭武[291]は実兄の将軍・慶喜の名代として慶応3年1月(1867年2月)パリ万国博覧会へ赴き、フランス皇帝ナポレオン3世に謁見していた。その後、昭武は江戸幕府代表としてスイスオランダベルギーイタリアイギリスなどヨーロッパ各国を歴訪、オランダ王ウィレム3世ベルギー王レオポルド2世イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世イギリス女王ヴィクトリアらに謁見した[292]常陸水戸藩領では同藩郷里組から成る諸生党奥羽越列藩同盟側に加勢し同藩出陣、越後北越戦争を経て会津戦争に於いて会津藩内の婦女子救済を行う等、各地を転戦していた[293]。一方、慶喜の実兄で第10代水戸藩主・徳川慶篤は、慶喜からの同藩状是正の助言により同藩在京組から成る天狗党皇軍復帰させた上で率い、諸生党出陣中にて空いていた水戸城へ入った[294]明治元年(1868年)、諸生党は藩の主導権再奪還を期し水戸へ舞い戻った為、弘道館戦争が起きた。諸生党は続く下総松山戦争で劣勢へ転じた末、天狗党の手により壊滅した。帰国した昭武は、弘道館戦争中に薨去した慶篤の後を継ぎ、明治2年(1869年)最後の水戸藩主かつ水戸徳川家第11代当主となった。昭武は新政府よりフィラデルフィア万国博覧会御用係を命じられアメリカフィラデルフィアへ派遣されてのちフランスパリ再留学を希望し再渡仏、ヨーロッパでの再留学から帰国後に麝香間祗候として明治天皇へ奉仕した[295][296]

なお、桜田烈士天狗党志士らは共に靖国神社へ合祀されている[297][298][299]

井伊家のその後

井伊直弼(彦根城博物館所蔵)

変の直後

当時の公式記録としては、「井伊直弼は急病を発し暫く闘病、急遽相続願いを提出、受理されたのちに病死した」となっている。これは譜代筆頭井伊家御家断絶と、それによる水戸藩への敵討ちを防ぎ、また、暗殺された井伊自身によってすでに重い処分を受けていた水戸藩へさらに制裁(御家断絶など)を加える事への水戸藩士の反発、といった争乱の激化を防ぐための、老中・安藤信正ら残された幕府首脳による破格の配慮であった。井伊家の菩提寺・豪徳寺にある墓碑に、命日が「三月二十八日」と刻まれているのはこのためである。これによって直弼の子・愛麿(井伊直憲)による跡目相続が認められ、井伊家は取り潰しを免れた。

直弼の死を秘匿するため、存命を装って直弼の名で桜田門外で負傷した旨の届けが幕府へ提出され、将軍家・(家茂)からは直弼への見舞品として大量の薬用・御種人蔘等が藩邸へ届けられている[300]。これに倣い、諸大名からも続々と見舞いの使者が訪れたが、その中には藩主・徳川慶篤の使者として当の水戸藩の者もおり重役の応接を受けた。井伊家の飛び地領であった世田谷(東京都世田谷区)の代官を務めた大場家の記録によると、表向きは闘病中とされていた直弼のために、大場家では家人が病気平癒祈願を行なっている。その後約2ヶ月間、幕府側は井伊の死を公表しなかった[301]

しかし、襲撃後の現場には尾張徳川家など後続の大名駕籠が続々と通りかかり、鮮血にまみれた雪は多くの人々に目撃されており、大老暗殺はただちに江戸市中へ知れ渡った。斬り合いは既に終わったにも関わらず、天気の回復した事変当日の午後から夕方には物見高い江戸っ子達が桜田門付近のぬかるみの道にまるでお祭り見物のよう群れを成した[302]赤備の 武勇はすっかり弱体化していたが、井伊の強権と、襲撃を受けた際の彦根藩士の狼狽ぶりは好対照で、井伊掃部頭をもじって「いい鴨を網でとらずに駕籠でと り」などと市井に揶揄された。また、首を取られたにもかかわらず病臥と言い繕うことを皮肉った「倹約で枕いらずの御病人」「遺言は尻でなさるや御大病」 「人蔘で首をつげとの御沙汰かな」などの川柳も相次いだ。

幕臣福地源一郎の回顧録によれば、事件当日、彼の友人を含め幕吏内の開国進歩派の皆が「愉快愉快」と言い、誰一人としてこの変を憂い悲しむ者はなかった様子だった。また同じく福地が青年仲間や低い身分の者以外はどうだろうと事件当日の夕方頃、雪を冒して幕府の通訳方・森山栄之助を尋ねた所、森山は「井伊大老の変死は開国の気運を旺盛にする兆候」と得意気だった。更に、福地が事件翌日の夕方、幕臣・水野忠徳を訪ねた所、水野は「赤穂義士水戸義士を比較すれば17人で井伊刺殺の技量はより勝っている。また薬用人参を見舞いに遣った幕府との共謀、井伊家の体面繕いは、既に井伊の死を事知った天下への詐欺に過ぎないゆえ、事件の趣旨を公示すればよかったものの大いに不利で必ずや幕政批難の原因となり児戯に値する。私は普段から井伊に感心しなかったが今後、京都水戸、そのほか尊攘党といい、一大変動が思わぬ辺りから起こり来るに際し豪傑でもあった井伊のような宰相は限られる。幕閣一新が必要だが望みは薄い」と言った。こうして水野は一橋慶喜を戴き、永井尚志川路聖謨岩瀬忠震らと共に責任ある地位に就こうと思っていたという。そして福地は、江戸市井の民が訳も分からず井伊の横死で天下革まり、幕府の権威はより強固になるだろうと徒に思ったのは浅はかな事だったと書き残している[303]。更に、天領備中倉敷代官所お蔵元[304]であった山川均の父は代官所関係書類を多く扱っていたが、その中には事変当時に江戸の旗本からの私信か、倉敷配属中の旗本による悪戯かは不明だが、皮肉な駄洒落で井伊の遭難を野次ったものが沢山あったという[305]。評論家・山川菊栄はこれらの内容から、将軍と運命を共にするはず旗本までも幕閣最高権力者であった井伊大老の無残な死を憤るどころか面白がって茶化し、逆に政治の腐敗、自分たち役人の無責任さを風刺している所に、急転直下で没落へ急ぐ幕府の姿が窺えなくもない、等と断じている[305]

文久から維新期

桜田門外の変の襲撃者らが幕吏から大方処分されるのを見届けた薩摩藩側では、薩摩藩主・島津久光の陰謀[306]で見送った京都義挙計画から2年後の1862年(文久2年)3月16日[307]に大軍を率いて鹿児島を発し、同年4月13日[307]入京した。更に久光は勅使の公家大原重徳を擁して同年6月7日[307]薩摩藩兵1000人と共に江戸へ入り、幕政刷新を要求した。これを受けて幕府は御三卿一橋慶喜を将軍後見職、福井藩主・松平慶永を政事総裁職へ任命、この2名が中心となって井伊政権の清算を図った(文久の改革[308]。末期の井伊政権を支え、井伊の死後に幕閣をまとめた老中・安藤信正は、同年初めの坂下門外の変にて水戸浪士の襲撃から難を逃れたものの、この改革で久世広周と共に老中を罷免された。また、井伊家は直弼の失政を理由に、幕府より石高を35万石から25万石に減らされると共に京都守護の家職を剥奪され、会津藩主・松平容保が代わりに京都守護職へ充てられた。これに先立って、彦根藩は直弼の腹心だった彦根藩士・長野主膳と同藩士・宇津木景福切腹より重い重罰であった斬首・打ち捨てに処したが、結局のところ減封を免れることはできなかった。

慶応2年(1866年)6月7日、第二次長州征伐で彦根藩士510名は赤備えを率い、幕府方で出陣した。彼らは鎧が夜間でも目立つことが却って仇となり長州方の遊撃隊から狙撃され、鎧を脱ぎ捨てて壊走するほどの大敗を喫した[309]

慶応4年1月3日から6日(1868年1月27日から30日)、鳥羽・伏見の戦いでは徳川譜代大名筆頭として彦根藩は幕府軍の先鋒を勤めていたが[310]、直弼の次男で彦根藩主・井伊直憲が自ら徳川方へ初発の大砲を打ち込んだ[311]。慶応4年・明治元年から明治2年(1868年から1869年)、こうして直憲の手ずから起きた戊辰戦争で、井伊隊に属していた兵の全員が、井伊氏の象徴とも言える赤備えの兜や鎧を始めとする全ての装備品を脱ぎ捨てた[312]。彦根藩はその後も薩摩藩兵と共に東寺大津を守備するなど、徳川倒幕の姿勢を示した。

明治維新後

1884年(明治17年)の華族令施行に伴い、旧藩主・井伊直憲伯爵に叙されたが、この爵位は「減封後の石高」を基準としたものであった。が草高35万石で近江半国領主という国持大名に準ずる旧幕府の格式に沿うならば、1階級上の侯爵と なるはずとの思惑が井伊家の周辺にあった。そのため「安政の大獄の恨みで新政府に冷遇され、伯爵に落とされた」との説が井伊家周辺に流れた。しかし、減封 後の彦根藩・現石は9万石程度であったし、更には仮に減封がなかったとしても国持大名で現石15万石を基準とする侯爵の基準は満たしていない。そもそも爵 位は版籍奉還時の現石が基準であり、安政の大獄の恨み等というのは全くの俗説である。彦根藩主・直憲は既に鳥羽・伏見の戦い時点で薩摩藩兵とともに東寺大津を守備するなど討幕もしくは勤王の姿勢を示していた[311]。かつ彦根藩士は流山で元新選組近藤勇を逮捕等、戊辰戦功で賞典禄2万石を新政府軍側から与えられていた。また直憲は有栖川宮家(慶喜の母の実家)から夫人を迎えた。直憲は廃藩置県後に留学、貴族院議員へ選出され、また帰国後は旧彦根藩領の教育に尽くした為、地元では郷土の恩人と評価され敬愛されている[311][313][314]

戦後

和解

桜田門外の変で敵対した両藩の城下町である水戸彦根が和解して親善都市提携を結んだのは、事件発生から約109年後の1968年(昭和43年)10月29日であった。水戸市から彦根市へは偕楽園、彦根市から水戸市へは彦根城堀の白鳥がそれぞれに贈られた。当時の彦根市長は、直弼の曾孫にあたる井伊家の当主で殿様市長として知られた井伊直愛だった[315]。水戸と彦根を和解させたのは敦賀市[316]だったが、敦賀は水戸天狗党が彦根藩士から処刑された土地だった。

その後の1974年(昭和49年)4月13日、水戸市と高松市[317]が、今度は彦根市[318]の仲介で親善都市を提携した。

戦後の彦根市での出来事

市長選挙での争点化

2013年4月の彦根市長選挙において、当時現職の市長であった獅山向洋は、対立候補の一人の有村国知が有村次左衛門の弟の子孫であることを指摘し、そのような人物が市長選挙に出馬することは容認出来ないと主張するビラを支持団体に配布させた上、選挙の争点として訴え続けた。この行動に対しては有村だけでなく、もう一人の対立候補で次期市長に当選した大久保貴からも批判を浴びている[319]

関連人物

水戸藩・薩摩藩側

襲撃者達(桜田十八士)

襲撃関与者達

彦根藩側

その他の者達

辞世など

願兮借君三尺剣 輕々掃盡奸人頭

精忠豪氣貫千秋 百鬼魂寒風雨愁

吹く風にこの村雲をはらわせてさやけき月をいつか見ましや

井伊襲撃の出発に際し、大関和七郎邸の白張の屏風へ書付、山口辰之介[89][323]

夜やふかく堀の篠原むら立ちて矢比やごろにみゆる弓張の月

佐野竹之介[324]

かりならぬたび宿やどりに今日けふはまたおもひていづ敷島しきしまみち

うきことはいやつもるとも劍太刀つるぎたちあだなす人をはらきよめむ

桜田義挙のため水戸からの出発に際し郷里の友へ送った訣別書の奥付け、佐野竹之介[325]

決然けつぜん國を去って天涯てんがいに向ふ

生別せいべつ死別しべつの時
弟妹ていまいは知らず阿兄あけいの志

慇懃いんぎんに袖を歸期ききを問ふ

『訣別』 佐野竹之介[326]

敷島のにしきの旗をもちささげ皇御軍すめらみいくささきがけとせん

さくら田に花とかばねはさらすともなにたゆむべき大和魂

辞世、佐野竹之介[327]

爲狂爲賊任他評 幾歳妖雲一旦晴
正是櫻花好時節 櫻田門外血如櫻

『走筆作詞』 黒澤忠三郎[328]

国のためなに惜むべき武士もののふの身は武蔵野の露と消ゆとも

辞世、黒澤忠三郎[329]

ともすれば月の影のみ恋しくて心は雲になりませりけり

広岡子之次郎[330]

河鹿かじか鳴く山川みつのうきふしにあわれは春の夜半にもぞしる

袋田潜伏中に、関鉄之介[331]

あれにけりあるじも住まぬ草のいほなよな虫のわぶるばかりに

忍びつつ君にあう蚊遣火かやりびのくゆるおもひをひと筋にして
なかなかに逢はで深山みやまにありしなば物の思ひも少なからまし
長らふる世にしあらぬをながらへて君が情けにあふぞ嬉しき

斬賊帰来君不見、神風曷日拂胡氛、誰知幽竹山窓底、泣執殘觥對老君 辛酉秋夜、訪幽竹先生舊廬、自奉別忽已一期餘、慨然而賦。錦堆潜夫。

変後隠遁中に常陸水戸・五軒町高橋多一郎家で、関鉄之介[332]

鎖鑰窓間夢始閑、南州嶺海豈難攀、請看古今忠烈迹、前文山又後椒山

文久2年(1862年)4月5日江戸・伝馬町の獄にて、関鉄之介[333]

たらちねにまたも逢瀬おうせせきなればねるまもゆめに恋はぬ夜ぞなき

あはれなりひるはひねもす夜もすがらむねにたえせぬ母のおもかげ

かはく間もあらでたもとのしぐるゝは母をこひしの涙なりけり

死を決し江戸へ向かう旅の途中、蓮田一五郎[334]

豹死留皮豈偶然 功名夙欽定遠賢 羊夷未駆身先死 一片丹心好奏天

事後囚中で、蓮田一五郎[335]

くろがねもとほらざらめやますらをが國のためとて思ひ切る太刀

君が爲め盡す心は武蔵野の野邊の草葉の露と散るとも

辞世、有村次左衛門[336]

國の爲思ひを張りし梓弓ひきてゆるべし日本やまと

一筋に國の御爲みためと思ひ立つ東路あずまじの露と消ゆとも

辞世、鯉渕要人[337]

踏破千山萬嶽煙 鸞輿今日到何邊 單蓑直入虎狼窟 一匕深探鮫鰐淵 報國丹心嗟獨力 回天事業奈空拳 數行紅涙兩行字 附與櫻花奏九天

『題兒島高徳書櫻樹圖』、斎藤監物[338][339]

君がためつもる思いも天つ日にとけてうれしきけさの淡雪

咲きいでて散るてふものは武夫もののふのみちに匂へる花にぞありける

辞世、斎藤監物[340]

國のため思ひかへさむことのはにきゆるもうれしつゆの玉の緒

海後磋磯之介[341]

鉾とりて月見るたびに思ふかないつか屍のうへにてるとや

いたづらに散る櫻とや言ひなまし花の心を人は知らずて

一筋に思ひそめけん大和ほこ打ちてくだくる名のみなりけり

武蔵野の原に生ひぬる醜草を今日を限りに絶やすとぞ思ふ

畏くもすめらみためと益荒雄が思ひつめては言の葉もなし

露の身とおもへば軽き花のゆきちるべきときはやまとだましひ

辞世、森五六郎[342]

武蔵野へいつか咲きなんやま櫻今日のあらしにちるか武夫

名にし負ふ手筒のやまの手筒もてしこの夷をうち攘はばや

雪しもをいとはず来ぬる旅頃もみこと待つまぞいとど寂しき

思ひきやいたく日数をふる年の深雪ながらに春来ぬるとは

春来れば猶消えやらぬ雪のまに聞かまくおもふ鶯の声

杉山弥一郎[343]

君がため思ひをのこす武夫のなき人数に入るぞうれしき

辞世、森山繁之介[344]

萬曽鏡まそかがみ清き心はたまの緒の絶えてし後そ世に知らるべき

君の為め世の為め盡す眞心は二荒ふたらの神もみそなわすらん

水戸出発に際し、金子孫次郎[345]

鳥さへも今朝の別れは知られつゝ引留め顔に鶯の鳴く

出ていなは誰かは告ん我宿のにほふ櫻の朝のけしきは

京都義挙計画への出発に際し老父母らの保養と家計の将来を記した遺言状に添えて、高橋多一郎[346]

天下方今累卵日 宸廷誓把櫻花筆 君寃未洗海東濤 攘虜何時護王室

『述懐詩史』、高橋庄左衛門[347]

碑・塚・墓

伝聞

首級水戸携行説

脚注

  1. ^ a b c d e f g 『斬奸趣意書』、桜田烈士、2014年4月閲覧。
  2. ^ a b c d e f 太田p182-194。
  3. ^ 櫻田事變 5、2014年5月閲覧。
  4. ^ a b c d 『読売新聞 関西版』、広島・県立歴史博物館「井伊大老警護の武士逃げ散った」…桜田門外の変 奉公人証言録、2010年7月11日付。
  5. ^ a b c d e f g 岡村p125-127。
  6. ^ 太田p182。
  7. ^ 『十八烈士桜田快挙録』高橋筑峰、春江堂、1910年。
  8. ^ 国立国会図書館 近代デジタルライブラリー、福地1894、「井伊大老の横死」、2014年5月閲覧。
  9. ^ 国立国会図書館デジタルライブラリー 『桜田義挙録』岩崎英重、吉川弘文館、1911年、p1、2014年5月閲覧。
  10. ^ 『桜田義挙録』岩崎英重、吉川弘文館、1911年がある。
  11. ^ 水戸浪士・蓮田一五郎が事変後に細川邸で残した『桜田事変図』。水戸藩開藩四百年記念「桜田門外ノ変」映画化支援の会、蓮田市五郎、2014年5月閲覧。
  12. ^ 文化4年(1807年)に初めて常陸国水戸藩近海に異国船が出現、出没は次第に増え、文政6年(1823年)6月9日から12日にかけ那珂湊沖合に国籍不明の異国船が何度も接近し水戸城下は緊張、藩は海岸の防備を固めた。文政7年(1824年)5月28日には大津浜異人上陸事件が起きた。こうして文政8年(1825年)、江戸幕府異国船打払令を発していた。大津浜異人上陸事件における異人取り調べに筆談役として参加した水戸学者・会沢正志斎は幕府が打払令を出したほぼ同時期の文政8年(1825年)『新論』を著し、これらの理由で水戸藩では尊王攘夷論が生じ、対外国危機意識が特別高まっていた。
  13. ^ 黒船来航の原因となったアメリカイギリス人他の殖民地で、中国)では既に阿片戦争が1840年から2年後まで行われ不平等条約を欧米列強と結ばされていた。1842年8月29日、南京条約に調印し阿片戦争を終えた中国()とイギリスだったが、清はイギリスから多額の賠償金と香港の割譲、さらに広東、厦門、福州、寧波、上海の強制的開港を認めさせられた。又、翌年の虎門寨追加条約で清は治外法権関税自主権放棄、最恵国待遇条項承認等を余儀なくされた。この清とイギリスとの不平等条約に他の列強諸国も便乗する所となり、アメリカとの望厦条約、フランスとの黄埔条約等が結ばれていった。こうして清は欧米列強から実質的に植民地化されていた後だった。
  14. ^ 一橋派の前水戸藩主・徳川斉昭は幕閣の海防参与として自ら創設した石川島造船所で洋式巨大軍艦旭日丸を水戸藩に造らせ幕府へ献上、軍制改革参与として台場へ水戸藩に造らせた75挺の特別な巨大大砲を送り出してきた。更に、水戸藩内で追鳥狩と呼ぶ大規模軍事演習を行い、国民皆兵策を打ち出していた。
  15. ^ 水戸藩主・徳川斉昭は幼少から優秀さを示した七郎麿(後の慶喜)を水戸家の大事な世子ゆえ他家へ養子に出さず、長男徳川慶篤の控えとして手元に置いておくつもりだった。しかし、七郎麿が英明との評判が伝わった為、第12代将軍・徳川家慶は度々一橋邸を訪問するなど慶喜を将軍継嗣の有力な候補として考えていたが、老中阿部正弘から諫言を受けていた。将軍家及び幕府は継嗣の紀州家独占による建前を通そうとしたものとみえ1847年(弘化4年)8月1日、老中・阿部から水戸藩へ七郎麿を御三卿・一橋家の世嗣としたいとの家慶による意向が伝えられた。こうして水戸藩ではその将来の世子候補だった慶喜を他家の養子へと手放した(後の天狗党西行は慶喜の水戸藩主再就任要請を目的としたといわれる)。同年12月1日に家慶から偏諱を賜わり慶喜と名乗ることになった七郎麿は端から将軍家襲 封に乗り気ではなかったとされ、「骨が折れるので、天下を取ってから失敗するよりは取らないほうが大きく勝っている」という内容の手紙を父・斉昭へ送って いた(原文「骨折れ候故、(中略)天下を取り候て後、仕損じ候よりは、天下を取らざる方、大いに勝るかと存じ奉り候」(彰考館徳川博物館蔵))。また1866年(慶応2年)に家茂の死没後、老中の板倉勝静や小笠原長行が異論を抑えて慶喜を次期将軍に推した際にも慶喜はこれを頑なに固辞し、同年8月20日に将軍家徳川宗家)は相続したものの将軍職就任は拒み続け、同年12月5日に天皇の命で将軍宣下を受け漸く第15代将軍(江戸幕府最後の将軍)へ就任した。また、維新後に初代内閣総理大臣伊藤博文が 聞き及び渋沢栄一に伝えた慶喜の証言によると、父・斉昭は幼い慶喜(七郎麿)へ水戸家庭訓として「代々水戸家がそうであったよう尊皇の義を重んじ、朝廷と 幕府の間で万一戦あれば朝廷に着く様ゆめ忘るる勿れ」と戒めたという。(徳川1966、烈公(斉昭)の御教訓の事)。以上については南紀派徳川慶喜水戸徳川家の項を参照。
  16. ^ 南紀派とは、会津藩主・松平容保高松藩主・松平頼胤ら、溜間詰の大名を中心とした一派。一橋派とは、水戸藩主・徳川斉昭尾張藩主・徳川慶勝福井藩主・松平春嶽ら、大廊下や大広間の大名を中心とした一派。特に徳川姓を許された将軍家近親親族が属した大広間は格式南紀派に比べ上座であったが、南紀派は押し切った。
  17. ^ 但し、第12代将軍・徳川家慶は慶喜を次期将軍と考えていた。1847年(弘化4年)8月1日、老中・阿部正弘か ら水戸藩へ七郎麿(慶喜)を一橋家の世嗣としたいとの家慶による意向が伝えられた。家慶は家定ではなく、正室の甥にあたる慶喜を次期将軍にしたかったとい う。家慶は家定の持っていたとされる身体障害へリハビリをさせていたが、思わしい効果は得られなかった。第11代将軍・徳川家斉の死後、家斉派によって家慶の嫡子・家定排斥の動きがあった。この為、家慶は水野忠邦と共に家斉派を粛清していた。徳川家慶参照。また高尾善希によると、家定は病弱で夭逝、意志薄弱だが普通大名並、身体障害の不随意運動に苦しんだが家臣から言われた事は忠実に実行できる能力があった、精神は正常で将軍としての政治的意見を持っていた、という。(雑感)将軍徳川家定は「暗愚」か?、2008年5月20日、高尾善希、2014年5月閲覧。
  18. ^ 安政5年(1858年)当時、南紀派の推した徳川家茂は12歳であり、一橋派の推した徳川慶喜は21歳であった。かつ、徳川慶喜の生母はより皇室に血筋の近い皇族吉子女王であり、慶喜は前水戸藩主の父・徳川斉昭正室からの嫡男であったが、形式的に将軍家に請われた為、将軍の世継ぎが慣例となっていた御三卿一橋家養子に出されていた。
  19. ^ 但し、幕末当時にはこれらの条約の不平等性は問題とされていなかった、とする説もある。安政の五ヶ国条約の項目参照。
  20. ^ 事変当時は青年通訳官として幕府の外国係の末席に列していた幕臣・福地桜痴(福地源一郎)の『懐往事談』「井伊大老の不人望」項によれば、井伊は本より開国主義者ではなく、実は鎖国攘夷精神の保守家で、ただ外国からの圧力に屈して余儀なく談判に望み、後戻しできないため心で欲してはいないが英断により調印を許可したに過ぎない、そして条約以外の事について井伊は従来の幕府独裁を変えてはならないという考えだったと考察されるという。また井伊は永井尚志川路聖謨岩瀬忠震などの内外に信任が厚かった真に進歩的な人物を将軍継嗣問題により外国局から追放(水野忠徳のみ残留したがあたかも針の上に立つほどに不案内であったという)、さらに福地と縁故のあった平山謙次郎[1])や木村敬蔵[2])なども退けられ知遇者が殆どいなくなってしまい、外国局では井伊を快からず思っていた。それは外国局だけではなく、陸海軍でも同様で、阿部・堀田両老中時代に欧州化で進歩改良し始めていた制度が井伊大老時代には歩みを止めてしまった。更にオランダイギリスフランスの書による洋学も 衰微したが、こちらは寧ろ井伊大老の意思だったというより、井伊が西洋の政治・学術を好まないのを知った幕府有司が迎合した状勢であったろう、と福地はい う。こうして尊攘論者のみならず幕府の進歩論者からも共に、幕政改革を挫折させた大老として井伊は失望と反感を買った地位におり、事変により人々は井伊の 死を内治外交の一転機として歓迎した、と福地は述べている。また安政6年(1859年)ころ、水野は福地へ江戸で、「水野自身も堀も井伊から喜ばれておら ず、他に代わりがいないから残留しているだけで井伊にとって代役が見つかればすぐに排除され、岩瀬、永井、川路らと同様の災厄に陥るだろう」と語った。幕 末の情勢の中、森山栄之助は外交論をするたび常に福地へ阿部の人となりを賞賛し、「阿部老中が松平近直や、筒井政憲堀利煕、永井、川路、岩瀬らを途用して始めて調印がまとまったのであり、もし井伊大老が任に当たれば100人のハリスが来ても砲煙を見ずに平和の開国はできなかったろう」と語ったとされる。国立国会図書館 近代デジタルライブラリー、福地1894、「井伊大老の不人望」、2014年5月閲覧。山川p271。
  21. ^ 幕末の事情を記した福沢諭吉自伝によれば、大老・井伊直弼と徳川将軍家を含む全国諸藩そして日本国輿論はみな攘夷派だったが、井伊は外国折衝でやむなく条約調印したとされている。福沢p183。
  22. ^ 征夷大将軍朝廷より位を与えられた軍事指揮官であるため、孝明天皇尊皇攘夷論に見られるよう外敵からの祖国防衛を将軍へ命じた。
  23. ^ 井伊家2014年現在の当主・井伊達夫によると、直弼は責任感が強いだけに小心者で、開国も外圧によるもの、彼の真の魂胆は富国強兵後に祖法へ国を戻したかったのが本音という。『井伊直弼史記』井伊達夫、2012年1月、平成24年度特別展より、2014年5月閲覧。
  24. ^ 尊皇論水戸斉昭を含む一橋派は先の将軍継嗣問題で朝廷の意を軽んじた井伊へ反感を抱いていたことに加え、同じく一橋派の薩摩藩主・島津斉彬は諸侯会議論者でもある斉昭を支持、斉昭実子である一橋慶喜擁立を政局上の目標にしていた。
  25. ^ 安政5年(1858年)8月2日に登城した一橋慶喜にとって、その日が御三卿による将軍への公式な面会日だったため慣例規則通りの行いだったが、その翌日、安政5年(1858年)8月3日に御三家尾張藩主・徳川慶勝、御三家・前水戸藩主・徳川斉昭、御三家・水戸藩主・徳川慶篤親藩越前藩主・松平春嶽らが不時登城、計五候らが登城した。幕末ガイド、幕末の事件・出来事、一橋慶喜(徳川慶喜)井伊直弼に猛抗議、2014年4月閲覧幕末ガイド、幕末の事件・出来事、一橋派一斉に不時登城、2014年4月閲覧。山川p227。
  26. ^ 一橋慶喜の猛抗議に対して、井伊直弼は「恐れ入りました」の一点張りだったされる。幕末ガイド、幕末の事件・出来事、一橋慶喜(徳川慶喜)井伊直弼に猛抗議、2014年4月閲覧
  27. ^ 井伊は春嶽一人を身分が違うから、と別室に移して気勢を削ぎ、他の4諸侯へは平身低頭した。かつ井伊は額を畳に擦り付け「恐れ入り奉りまする」の一言を繰り返した。山川菊栄によれば、水戸の士らは御三家の権威を笠に大老を叱りつけた斉昭の英雄的な姿を思い描き、これに満足していたものだろうという。山川p228。
  28. ^ その処分は、徳川二家である尾張藩主・徳川慶勝水戸藩主・徳川慶篤を含め、慶喜春嶽らへ隠居・謹慎、更に前水戸藩主・徳川斉昭へ永蟄居などと重いものであった。
  29. ^ a b 安政5年(1858年)3月に一橋派の薩摩藩主・島津斉彬の命を受けた同藩士・西郷隆盛島津家養女で将軍徳川家定正室篤姫から左大臣公卿近衛忠煕への書簡を持って京へ向かい、月照らの協力により、慶喜継嗣へ向けて天皇からの内勅降下を謀った。同年8月、西郷は近衛家から託された孝明天皇の内勅を水戸藩尾張藩へ渡すため江戸に赴いたが、できずに京へ帰った。以後、西郷は9月中旬頃まで有馬新七有村俊斎伊地知正治、諸藩の有志らと共に大老・井伊直弼排斥による幕政改革を謀っていた。以上については、西郷隆盛の項目を参照。なお西郷が同じく島津の命で、同年8月ころ水戸藩家老安島帯刀に水戸への近衛による内勅を示しながら共謀密勅降下運動を打診をしたところ、安島は尊皇攘夷論主流の水戸藩の立場から遠慮(水戸学に於ける大義名分論の立場では幕府による天皇利用は主客転倒になってしまう為)、共同謀議を固辞していた。西郷が京へ帰った直後の同年同月16日深夜、京都留守居役の水戸藩士・鵜飼吉左衛門の子・鵜飼幸吉よりもたらされた天皇からの『戊午の密勅』拝受に安島は驚愕したという。以上については、戊午の密勅の項目を参照。水戸藩士の曽祖父を持つ評論家山川菊栄によると、西郷は安島に密勅降下の企ての有無を問い安島の無策動を確認後東海道へ向かい、『戊午の密勅』を伝える為江戸へ向かっていた水戸藩士・幸吉中仙道で行き違ったとされ、この論拠を『水戸史談』に求めている(山川p235)。他方で、同年同月7日深夜に武家伝奏公家万里小路正房より水戸藩士・吉左衛門へ渡された『戊午の密勅』はその子の水戸藩士・幸吉に渡され彼は東海道を潜行、副使の士・日下部伊三次中山道より進んだともされる(戊午の密勅を参照)。また、彦根藩主・井伊直弼の大老就任以前、安政4年(1857年)7月頃、前水戸藩主・徳川斉昭関白九条尚忠へ、幕政参与並びに海防参与という江戸幕府内での権力の限界から攘夷を思うように果たせない苦しい内面と朝廷への変わらぬ尊崇の念、そして水戸藩による自主的な皇居警護の志を吐露する書状を送っていた。井伊、1967。幕末物語、No76 幕末の副将軍? 水戸隠居徳川斉昭の攘夷論とは、2014年4月閲覧。
  30. ^ 薩摩藩士・西郷隆盛は薩摩藩主・島津斉彬からの密命を受け、島津の示した公武合体策と徳川慶喜擁立に向け福井藩士・橋本左内や僧侶・月照と共に朝廷工作へ奔走した(京都手入れ)。[3]
  31. ^ 小浜藩士・梅田雲浜も密勅降下の策動に加わっていた、とされる。山川p235。
  32. ^ 始め脱藩していた父の元で生まれ、水戸藩主に仕えていたが、やがて国元から許され薩摩藩主へ仕えた薩摩藩士・日下部伊三次の朝廷工作が背後にあった、とされる。岡村p119。
  33. ^ 前水戸藩主・徳川斉昭は尊皇攘夷者であった。
  34. ^ a b 皇室の教科書、vol.164 孝明天皇の御聖徳③―譲位の勅、竹田恒泰、2014年4月閲覧。
  35. ^ 『戊午の密勅』は水戸藩京都留守居役の水戸藩士・鵜飼吉左衛門とその子の同藩士・鵜飼幸吉へ下った。菊川235p。
  36. ^ また御所警護の期待を記した内容の書状『戊午南呂密勅』が議奏中山忠能三条実愛から、孝明天皇の内意を奉じたものとして長州藩へ送られた。但し、水戸藩へ送られた『戊午の密勅』と異なり、大臣らの奥付けがない為、孝明天皇自らは関与しておらず単に中山・三条らによる偽勅の可能性がある(後に天皇は八月十八日の政変によって御所近辺から長州藩を排除した)。なお、中山と三条は廷臣八十八卿列参事件に参加していた。毛利博物館蔵。山口県、維新史回廊トピックス〈Vol.7〉。2014年3月閲覧。
  37. ^ 関白を辞めさせるには幕府の了解が必要とされる。江戸時代の関白職は禁中並公家諸法度によった(「第4条、一 雖爲攝家、無其器用者、不可被任三公攝關。況其外乎。」)。
  38. ^ 内大臣三条実万は1859年(安政5年)に条約勅許問題で井伊の画策により調印容認派に転じさせられた関白九条尚忠と対立、同年3月7日には左大臣近衛忠煕と共に参内停止を命じられた。が天皇はその2日後に公家の慣習(関白を通す命令の順序)を破って右大臣鷹司輔煕内大臣二条斉敬を勅使として三条・近衛両邸へ派遣、三条と近衛に再参内を命じた。三条実万の項目を参照。
  39. ^ 関白九条尚忠は井伊の腹心である彦根藩士・長野主膳九条家の家士・島田左近に懐柔され、調印容認派に転じた。しかし攘夷派の天皇により九条が朝廷から排斥される報を島田から長野への書状で知った井伊は、これを水戸藩の謀略と捉えた。岡村p119。
  40. ^ 井伊は京都所司代小浜藩主・酒井忠義から調印容認派に転じさせた関白九条を擁護させ、且つ水戸藩へ断固たる処罰を加えよと命じた。安政5年(1858年)9月7日には密勅降下へ関わった小浜藩士・梅田雲浜が幕府により拘束され江戸へ護送された。翌安政6年(1859年)4月には水戸藩家老安島帯刀など、江戸在府の水戸藩重臣が次々逮捕拘禁されていった。又、『戊午の密勅』を受け取った京都留守居役水戸藩士・鵜飼吉左衛門、及び彼に代わって江戸の水戸藩邸へ勅状を護送した彼の息子の水戸藩士・鵜飼幸吉も逮捕された。岡村p119。
  41. ^ 井伊は皇族中川宮朝彦親王)や公卿一条忠香近衛忠煕近衛忠煕鷹司輔煕)、多数の志士(橋本左内吉田松陰頼三樹三郎安島帯刀など)らを粛清した。
  42. ^ 井伊は勅状を受け取ったものの、二条との面会は断った。二条斉敬を参照。
  43. ^ 安政6年(1859年)、左大臣近衛忠煕は井伊により左大臣から失脚させられ、落飾謹慎させられた。
  44. ^ 安政6年(1859年)、鷹司は井伊の内請により辞官を余儀なくされた。かれはやむを得ず同年5月落飾し随楽の法名を称した。
  45. ^ 1859年(安政6年)4月、三条は井伊から謹慎の処分を受け、出家して澹空と号した。同年、かれは病気危篤となり従一位に叙され、10月に謹慎していた一条寺村で薨去した。
  46. ^ 井伊直弼と開国150年祭公式サイト 幕末の政局と井伊直弼”. 井伊直弼と開国150年祭実行委員会. 2013年4月。閲覧。
  47. ^ 『戊午の密勅』の写し、第3章 井伊直弼と安政の大獄、2013年3月21日閲覧。
  48. ^ 井伊直弼と開国150年祭公式サイト 幕末の政局と井伊直弼”. 井伊直弼と開国150年祭実行委員会. 2014年4月。閲覧。
  49. ^ 井伊による粛清対象は男女を問わず皇族公家大臣僧侶藩主幕臣浪人画家漢詩人学者名主町人等々に及んでいき、最終的に安政の大獄へ連座した者は総勢100名以上にのぼった。
  50. ^ a b 水戸藩側では、水戸藩・家老安島が、薩摩藩主・島津斉彬の密命を受けた薩摩藩士・西郷隆盛からの『戊午の密勅』降下の共同謀議を固辞していた。戊午の密勅及び西郷隆盛の項を参照。
  51. ^ 2014年現在の茨城県東茨城郡茨城町長岡
  52. ^ 岡村p120。
  53. ^ 一説に、500人とも1000人とも云われる。山川p236。後述、大発勢時の増員を参照。
  54. ^ 神職の水戸藩士・野村は、水戸藩・北郡奉行・改革急進派で、関鉄之介の上司とされる。水戸藩開藩四百年記念「桜田門外ノ変」映画化支援の会、主要登場人物/配役、2014年4月閲覧。[4]
  55. ^ 矢野は、弓削(ゆげ)三之允の変名を用いて各地に天皇の勅旨を伝えた。[5]
  56. ^ その間の関による日記『西海轉蓬録』がある。その巻頭によると、安政5年(1858年)10月10日武蔵野を出発し、同年同月11日から上州信州、越三州(越後越中越前)、加州若州丹波丹後但馬因幡作州を経て、舟により備前に入り、ここから海路で備後安芸周防と回った。彼らは長門で新年を迎え、帰りは周防から海路で四国・九州の山々を見ながら播州に至り上陸、作州をへて再び山に入り帰途、4ヶ月間ほぼ100日に渡り18州を経歴、郷里を去って300里(約1178キロメートル)、遠遊の感を止む事ができなかったとある(岩崎p63)。また関は安政5年(1858年)12月28日に長門国の城下町へ至った。関は彼と同校の友、即ちかつて水戸弘道館会沢正志斎の門下で3年学び、帰国後、明倫館の助教となった萩藩士・佐久間左兵衛[6]と会って新年を迎えた(岩崎p64)。この時、吉田松陰は安政4年(1857年)年10月に間部暗殺計画で野山獄に幽囚中だった。関は安政5年(1858年)元旦梓弓春とやこゝにうぐいすの音をなつかしみ吾は来にしをの歌を佐久間に示し、また同年1月7日に佐久間らと別れる際にふる里の花を見捨てゝ迷ふ身は都の春を思ふばかりぞ(松下村塾蔵版『興風集』収録)を含む幾つかの和歌を残した、という(岩崎p65-66。)。
  57. ^ 関は西南雄藩との連合を目指し、安政5年(1858年)10月11日、江戸を出発したとされる(一説に矢野らと共に行動した。関鉄之介の項目を参照)。関は同年12月6日に鳥取藩で賛同を得、同年同月15日には長州藩へ向かったとされ、同年同月29日、15日の船移動等を経て長門国へ着き、長州藩と 接触したとされる。彼は翌年安政6年(1859年)1月7日、長州藩主の説得までには至らず、計画賛同を得るべく長州藩内へ出向いたとされる。彼は同年1 月25日、長州藩での成果を報告するべく再び鳥取藩へ出向いたとされる。彼は同年1月27日、江戸へ向け鳥取藩を出発したとされる。彼は同年2月23日、 江戸へ着き、同年同月27日、水戸へ帰ったとされる。金沢2010。
  58. ^ 彼らは北陸、山陰、南海の諸藩を経歴し頗る意気を互いに感じ、特に長州藩は義気堂々で天下の為に賀すべき事、と安政6年(1859年)2月高橋から斎藤監物宛書簡にある。岩崎p55。
  59. ^ 住谷は水戸藩士・大胡聿蔵([7])らと共に安政5年(1858年)11月17日、土佐国立川関に着き、奥宮猪惣次坂本龍馬に連絡を取り土佐入国の協力を求め、奥宮からは協力は難しいとの返事が来たが、同年同月23日、龍馬が立川の宿屋を訪れたとされる。住谷は龍馬と会談し、遊説の目的を論じて土佐入国の協力を要請、龍馬は協力を約して去ったがその後連絡無く、住谷らは宇和島藩へ向ったとされる。同年12月8日、宇和島藩に至り同藩士・金子孝太郎と面会、同藩主・伊達宗城は幕府から謹慎処分を受けており幕府を刺激する事を恐れた宇和島藩では協力を拒んだとされる。住谷らは時勢が不利に動いている事を悟り薩摩行きを断念、失意のうちに江戸へ戻ったとされる。住谷寅之介の項目を参照。
  60. ^ 彼らは又幕府から事前に探知されないよう、町人風に名を変えて潜行した。岡村p120。関は三好貫之助と称したという。岩崎p63。
  61. ^ a b 櫻田事變 12、2014年5月。
  62. ^ 岩崎p55。
  63. ^ 斎藤監物はかつて、水戸・東照宮の祭りで祝詞を詠む際に斉昭の名を誤読、その際、普通の者は声が震え淀む所が最後まで流暢に読み上げた。斉昭は却って斎藤の沈着な態度を喜び、『日蔭の蔓』という書に次の和歌を書き添えて賜った。常盤山祭れる神は久方の日蔭のかつら長くつたえへよ。一説に、斎藤は誤読の罪を斉昭に謝ったが、斉昭は「余の聞く所にては少しも違わず」と答えた。斎藤は大いに感涙、この公の為に死を以て尽くそうとの志を起こしたという。岩崎p50。
  64. ^ [8]
  65. ^ これ以前、斎藤は弘化元年(1844年)斉昭最初の幽閉時に斉昭雪冤のため弘化2年(1845年)密かに江戸へ向かっていた。斎藤は陳情書を捧げ斉昭の水戸藩に於ける徳政の事実、また斉昭に着せられた罪は無実である旨を老中・阿部邸に訴え出たが、逆に幕府から越訴の罪で轢川邸へ引渡され、次に水戸へ送られ仲町の廃舎で4年の禁固刑に処せられていた(櫻田事變 12、2014年5月)。この陳情書は凡そ、「天下公共に尽くしておられる前中納言殿(斉昭)による徳政文武両道教育弘道館偕楽園水戸学等を参照)は水戸藩へ行き届いており、彼ら士民は大変心を痛め前中納言殿への幕府からの冤罪を盛んに歎き且つ憂い、また前中納言殿への冤罪を何とか雪ごうと神輿を出してでも幕府へ強訴に出かねない。身分の高い士の善事を身分の低い藩民が慕うのは水戸家の公共的徳性を示しもとより政治家達の模範でもある筈だが、幕府から水戸藩への圧制や更なる水戸家への讒言は藩士民の激昂を買い、最早どうなるとも分からない為、阿部老中御三家一体の旨をどうか明察なされこれは前中納言殿への冤罪であると真実を 天下万民の為に知らしめて頂きたい」といった内容だった(岩崎p51-54)。斎藤はこの後、嘉永2年(1849年)の春、斉昭最初の冤罪が解けるに及ん で同年4月に許されたがなお自邸で蟄居させられ、且つ同年11月漸く蟄居を免ぜられていた(岩崎p55)。なおこの斉昭最初の冤罪とは、弘道館偕楽園設置始め、農村救済、追鳥狩(大規模軍事演習)、国民皆兵を目指した西洋近代兵器国産化等の、大胆な水戸藩政改革が幕政にとって不穏である、といった嫌疑であった。斉昭はこのときの鉄砲斉射や神仏習合の否定(神仏分離)等を幕府から罪に問われ、弘化元年(1844年)家督を嫡男・徳川慶篤へ譲った上での強制隠居と謹慎処分を受けた(徳川斉昭の項を参照)。
  66. ^ この頃20歳の佐野は元来、気象精悍で義に勇める性質(岩崎p85)、祖先は甲斐武田氏に仕え名のある武士、水戸17烈士中、森五六郎に次ぎ、山口辰之介と共に代々200石の高禄者だった。佐野は12、3歳の頃から気象鋭く、東照宮の祭礼の際に目付が「下にいろ」と佐野を一喝すると「無礼な奴なり」と言いざま脇差を抜打ちに斬りつけたので、水戸の古老・遠山虚船らは慌てて取り鎮めた。後の天狗党首領格・藤田小四郎は 幼少のころ腕白ではあっても佐野に一目置いており、「それ佐野が来たぞ」というとさすがの小四郎も悪戯をほしいままにできなかった。また幼少の佐野は往来 の子供にとって餓鬼大将となり戦の真似事をしたり、夜は他人の家の軒下の飼い犬を斬り殺したり、水戸城内の開かずの門を乗り越え門番から閉門されたりした 事があった。彼は16、7歳で斉昭の小姓に召しだされ剣術・砲術を習った。佐野の背は4尺7、8寸(約150cm)と小さかったが普段、3尺(約 90cm)余りの太刀を帯びていたので同僚が巧く抜けるか尋ねると、佐野からその場で抜き打たれた太刀筋が紫電一閃ヒューとその男の眉間を掠めたので、男 は平身低頭過言を謝し「もう佐野に冗談を言うのは懲り懲りだ」と震え怖れた。またその頃から佐野は学を志し、和漢の史書に親しみ、古の忠臣義士を以て自ら任じたという(岩崎p86-87)。安政5年(1858年)8月27日の夜7時過ぎ頃、佐野は斉昭永蟄居の命を江戸・小石川の水戸藩邸へ届けに来た上野吉井藩松平信発尾張藩附家老・成瀬正肥の 行列へ打って出た。幕府が斉昭へ自刃を命じるか紀州邸へ幽閉するという流言を受け佐野含む壮士は、上使を斬るつもりで門外に出ていた。佐野は「暫く御控え 下され」と鉄扇で上使の行く手を遮り、且つ撲りつけて押し問答をした為、辺りは群集となり一触即発となった。藩主・慶篤により派遣され水戸藩邸から出てき た同藩士・高橋、金子と三浦贇雄から、「上様の御思召し」と佐野は慰撫されたので漸く騒動は治められ、上使は入邸できた(岩崎p88-91)。
  67. ^ 岩崎p88。
  68. ^ 長岡屯集に参加していた天狗党・玉造組の頭で水戸浪士芹沢鴨はこれを期に御所警護へ向かい、壬生浪士組及び新撰組の初代筆頭局長となった。また同じく天狗党に参加していた水戸藩士・香川敬三(鯉沼伊織)も別個に御所警護へ向かい、東山道鎮撫総督府大軍艦、後に伯爵となった。
  69. ^ 安政7年(1860年)1月15日、井伊は磐城平藩主・安藤信正を老中に昇進させた。
  70. ^ 吉田p381。
  71. ^ 徳川1966、烈公(斉昭)の御教訓の事。
  72. ^ a b c d e f 岡村p125。
  73. ^ 2014年現在の、茨城県常陸太田市瑞竜町
  74. ^ 水戸藩士・青山延光の記述によれば、最後まで密勅を守り抜くつもりなら江戸駒込の水戸藩邸に置いても同じと青山は考えたが、同藩士・会沢正志斎や豊田(豊田天功豊田香窓か不明)も瑞龍山安置案へ賛成なので彼も多数に従って置いた。山川p237。
  75. ^ 武士日下部伊三治は文化11年(1814年)、元薩摩藩士・海江田訥斎連の子として誕生。彼は出生当時、父が脱藩し水戸藩にいたので常陸国多賀郡で生まれた。彼は初め水戸藩主・徳川斉昭に仕えたが、安政2年(1855年)、島津斉彬に目をかけられて江戸の藩邸に入り、薩摩藩へ復帰した。安政5年(1858年)、彼は将軍継嗣問題や条約勅許問題が起こると京都へ赴き、水戸・薩摩両藩に繋がりを持つ事から攘夷派志士と交流した。安政5年8月8日(1858年9月14日)『戊午の密勅』が孝明天皇から武家伝奏公家三条実万を通じて皇室縁戚の水戸藩らへ下された。水戸藩・京都留守居役だが病気の父で水戸藩士・鵜飼吉左衛門に代わった子の水戸藩士・鵜飼幸吉と共に、この写しをうけとった日下部は中山道木曽路(一説に東海道) を通って江戸の水戸藩邸へ届けた。そこで、日下部は子の裕之進とともに大老・井伊直弼の命をうけて上洛していた老中・間部詮勝から密勅降下の罪に問われ た。捕縛された日下部は、江戸の伝馬町の獄に拘留され、凄惨な拷問を受けた末、安政5年(1859年)に獄中で病死した。日下部伊三治の項を参照。
  76. ^ 一橋派に与する薩摩藩主・島津斉彬は、藩兵5000人を率いて上京することを企図していた。島津斉彬の項を参照。
  77. ^ 一説に3000人。岡村p122。
  78. ^ 岩崎p39。
  79. ^ 安政5年(1858年)7月16日、前薩摩藩主・島津斉彬は死去していた。
  80. ^ 久光は前薩摩藩主の弟で同藩主の実父でもあった。
  81. ^ 後にこの約の信義のもと上京した水戸浪士らは孤立、薩摩藩側から完全に欺かれた形となった。更に、事後の水戸浪士・関鉄之助が薩摩藩へ向かった折、薩摩入藩を拒否された為、水戸藩士側は薩摩藩(及び水戸浪士らに協働した有村家2名(有村次左衛門、有村雄助)を除く帰郷した薩摩藩士ら)より一方的に共謀の罪を着せられた。本文後述。
  82. ^ 薩摩藩は尊攘急進派の水戸藩士らへ二階に上らせその梯子を外し、有村兄弟を犠牲に尊攘急進派の水戸藩士側を裏切った形となった。薩摩藩・精忠組の一部は島津久光の命じたこの企てに一時反発した。後述。櫻田事變 9、2014年5月。
  83. ^ 高橋多一郎金子孫二郎久木直次郎は 水戸藩にて三羽ガラスといわれたが、久木のみが老公・斉昭の説得に応じて返還論を取り、他2名は職務を免ぜられ斉昭より帰国謹慎を命じられていた。斉昭は この高橋・金子の帰国措置について彼らを憎むからではなく惜しむからで、彼らを放置して無駄死にさせる代わり他日お国のため大いに役立つ働きをさせるべき と語っていたとされる。山川p238。
  84. ^ a b c d 岡村p121。
  85. ^ 安政7年(1860年)2月24日、斉藤は、水戸藩庁側が幕府への屈服による密勅返還を決定した際に抗議、返還を阻止する為、水戸城内で自決した。享年31。これにより密勅返還は延期され、その後、桜田門外の変(当事変)が起きて密勅は水戸藩領内に留まった。[9]
  86. ^ この水戸藩士単独決行の考えは、烈士全員の懐中が後に明らかにされた『斬奸趣意書』の中にも見られる。
  87. ^ 金子はかつて水戸藩・西部の民政に功があり、炎天下に笠も着けず担当の村落を巡回、農家の状況を視察し民に稼植を奨励していた。彼はそのとき歌に、「耕さぬ人に見せなば夏の日の汗にそぼつるせんたもと」と里に示し、これを聞き伝えた者は皆、金子の心に悦服したという。岩崎英重によると、桜田の領袖というと浅学の徒から過激な壮士のように見られるが、この領袖にしてこの民政があったという事は実に意外であるという。また岩崎は、これを見ても桜田門外の変というものは尋常一様の単なる暗殺者による襲撃ではなかったと判る、という。岩崎p34。
  88. ^ 水戸藩士・黒澤忠三郎と同藩士・大関和七郎は兄弟、同藩士・広岡子之次郎は甥。岩崎英重によれば、黒澤一家は赤穂義士小野寺十内・一家親類が小野寺秀富大高源吾岡野金右衛門間瀬正辰父子ら数士を出したのと同じく、長く誇りとするに足るという(岩崎p95-96)。十八士のうち、森五六郎300石、山口辰之介200石、佐野竹之介200石、大関和七郎150石、黒澤忠三郎100石、広岡子之次郎100石の順で身分が低く平士、しかも森や山口らは次男か4男だったが、佐野、大関、黒澤の3人は何れも一家の当主だった。黒澤は天性勇敢で背が高く声のさえた人、水泳術 の達人で牡丹絞りの水剣を揮った。また黒澤は安政5年(1858年)9月、潜行した江戸で密勅回達と斉昭雪冤に運動、同年12月2日、井伊より大関と共に 閉居を申しつけられた。その後の桜田義挙計画へ大関と共に加わり、大関家と一日何回も行き来し互いに激励していた。黒澤家は格はよいが家産に乏しく先の政 治運動でいよいよ困窮、大関が融通した事もあった。ここに黒澤は先発委員として佐野と共に江戸へ行く事になったが、黒澤は甲冑を抵当にして親類の木間某か ら金を借り、やっと旅費を拵えて出立した。後に木間は黒澤の烈に感じ、黒澤家再興の時その具足を返却してきたという(岩崎p96-97)。
  89. ^ 岡村p121。
  90. ^ a b c d e f g h 岡村p122。
  91. ^ 庄左衛門はの念が深かった。庄左衛門9歳のころ祖父・諸往もろゆきに 連れられ、成澤村温泉の帰途、金澤坂で休息中、一人の馬丁(馬の世話人)が通りかかった。馬丁は酔っ払っており、諸往の老衰を侮り無礼な事を言った。諸往 は度量が大きかったため別段気に留めずこれをいい加減にあしらっていたが、馬丁は益々つけあがり諸往へ悪口罵倒の限りを尽くした。庄左衛門は今まで黙って 見ていたが、差していた小刀を反りかえらせその馬丁へ歩み寄り、「おのれ爺様を辱めるか、もし無礼を加えれば真っ二つにするぞ」と言って睨みつけた。庄左 衛門の眼光鋭く今にも飛び掛りそうだったので馬丁は驚き、酔いを醒まして挨拶もそこそこに逃げてしまった。庄左衛門の師・茅根伊予之介はこの事を聞いて風神秀徹九歳童 欲以一刀殉乃翁 数尺小松倍養厚 願観異日凌蒼穹と いう詩を贈った。安政4年(1857年)3月に庄左衛門は16歳で斉昭藩政改革の際の床机隊戦士を特選で命じられた。庄左衛門は少年の身で長岡屯集に加わ り、また斉昭雪冤に際して藩主・慶篤の諭しがあったが水戸へ帰らず、斉昭警衛を命じられ小石川・水戸藩邸を守っていた。このとき、庄座衛門は同藩士・内藤貞之介中根藏太郎朝倉五郎衛門金子勇二郎らと刎頚の交わりをなし、彼ら親友と国家に尽くして斃れてのち止むとの誓いをなした。安政4年(1857年)6月、庄左衛門は『述懐詩史』を作って父・多一郎へ呈した(後述)。庄左衛門の叔父で同藩士・鮎澤伊太夫安政の大獄で井伊から伝馬獄へ繋がれた時、庄左衛門は鮎澤へ面会に行った。獄吏は庄左衛門を門内に入れなかった所、庄左衛門は憤然として華表柱頭千載後 旅魂依魂舊到家山朝・方孝友を朗吟して別れた。岩崎p21-23、p28-29。
  92. ^ その頃、長州藩士・伊藤博文は20歳程だったが、高橋の忠烈に感激したと見え、事変後の文久3年(1863年)5月、同藩士・井上馨らと洋行前に高橋のこの書を手写し同藩士・品川弥次郎へ送った。品川はその書の末尾へ朱で「辛酉5月、伊藤利輔、江戸より送致」と記した。この書は土佐藩士・古沢滋の家に珍蔵されていた。岩崎p15-17。
  93. ^ のち高橋家の跡を継ぎ、茨城県事務官となった高橋諸随。岩崎p41。
  94. ^ 金子孫次郎は、この後江戸へ行く途中、水戸藩士・佐藤鉄三郎へ「昔、西行法師が遁世のとき、子を足蹴にした事を読み心無い振る舞いと思っていたが、今はわが身に降ってきた村時雨で(その苦しい趣には)殆ど悶絶した」と語った。岩崎p41。
  95. ^ 岩崎p40-41。
  96. ^ 岩崎p41。
  97. ^ 水戸藩の下級武士・稲田は妻子と老母を養っており、身は貧しい農民の出、で知られた。稲田はこの義挙に参加したがったが、始め身分の軽いため許されなかった。それを聞いた稲田の母は書を残して自害、我が子の義挙を励ました。しかも稲田は自らによる養い扶持が失われるだろう2子を犠牲に刺し違えてでも心を顕そうとした為、それを聴いた金子ら同藩士は稲田がもつを感じ、稲田の義挙参加を許可したという。錦絵・『近世義勇伝』一英斎芳艶、1873年、稲田重蔵、2014年5月閲覧。
  98. ^ 岩崎p112。
  99. ^ 水戸藩開藩四百年記念「桜田門外ノ変」映画化支援の会、稲田重蔵、2014年5月閲覧。
  100. ^ [10]
  101. ^ 2014年現在の茨城県水戸市紺屋町
  102. ^ [11]
  103. ^ これら数名は桜田義挙へ後から出てくる手筈だった事もあり、また道路梗塞もあり江戸へやって来た者が少数となったという。岩崎p42。
  104. ^ 岩崎p42。
  105. ^ 正義家の安藤はこれに心を尽くした。岩崎p43。
  106. ^ 西村東右衛門とも。岩崎p43。
  107. ^ 岩 之進の父が売薬行商だった頃、ある日、大宮在住の悪漢に殺された。岩之進がこの仇討ちをした時、塚田は義侠な男だった為、岩之進の世話をし本望を遂げさせ た。孫次郎は常陸・西部の郡奉行だった頃、岩之進を褒章、塚田の志を奇特とし郡廰へ召し賞与した事があった。このため岩之進と塚田は孫次郎をとし、それぞれ、道案内と宿を買って出たという。岩崎p43-44。
  108. ^ 暗に同藩士で桜田烈士の一・佐野竹之介をさす、という。岩崎p45。
  109. ^ 岩崎p45-46。
  110. ^ 古河藩は当時、下総廃藩置県後、古河市印旛県新治県千葉県等を経て茨城県へ編入。下総国を参照。
  111. ^ 岩崎p46-47。
  112. ^ a b c d e f g h i 岡村p123。
  113. ^ 安政末期、要撃を決めた関は薩摩藩士・高崎五六と共に中山道を経て京都に入り、久邇宮朝彦親王近衛家へ井伊大老要撃を奏聞していた。高崎五六の項を参照。岩崎p67。
  114. ^ 関は斉昭雪冤運動の際に水戸藩重役の鈴木石見守・興津蔵人邸にてその不正を批判した為、不遜の罪で鉄之介の父・新兵衛は役禄を召し放され、且つ鉄之介も叱り押込めを命じられた事があった。関は嘉永6年(1853年)黒船来航の際、単身浦賀へ渡り偵察、安政元年(1854年)ペリー再来航時に水戸藩士・鮎澤伊太夫と共に横浜潜 行、目撃した事情書を前水戸藩主・斉昭の供覧へ捧げた。安政2年(1855年)3月、父の家督を相続、与力となり且つ安政3年(1856年)2月に米10 石3人扶持、歩行士列、郡方勤めを命じられ、金子孫次郎の部下として郷校設置、民政、民兵等の事務をつかさどっていた。関は安政5年(1858年)5月、 同藩主より蝦夷地開拓の御用を命じられ越後・水原村に至り新潟から船に乗ろうとしたが、同年9月に江戸・勘定奉行になっていた鮎澤から手紙で斉昭冤罪事件と密勅返納問題を知らされ、国難を救おうと会津の山道を経て江戸へ帰り、同年10月から高橋・金子の両領袖による計画で密勅回達の役に当たっていた。岩崎p61-63。
  115. ^ 滝本は別の男から一時貰い受けられていたがその男が死んだ為に独身となり江戸・日本橋辺りに独居していた(岩崎p307)。関は江戸へ行くと、滝本宅を宿代わりにしていた。岩崎p302。
  116. ^ 滝 本は美貌で清純に見え、且つ攘夷論を好む意気があり、江戸吉原・百歩楼の芸妓だった。ある夕方に関がその楼での酒席に際し、辺りは情緒ある雰囲気なのに 曇った顔で眉に愁いを湛えていると、滝本は酒を飲んでも楽しまないとは外国人の事で憤っているのかと尋ねた。関がそうだ、と答えると、滝本は膝を関へ近づ けて真に妾の知己、自分は芸妓だが大義とは何かをかつて聞いた事があるといい、また「今生に天子の詔を奉ぜざる者は大義を知らず、国家の賊なり」と却って 関に酒を勧めるのをやめ、自分は関に憂国の情があるのを悦ぶと言った。関はこれに驚き、芸妓もこのような言葉をいうのかと漸く酒を飲み交わした。それ以 後、関は滝本と情交を持つようになったという。蒲生重章の滝本伝による。岩崎305。
  117. ^ 岩崎302。
  118. ^ 斎藤は水戸学者・藤田東湖に学んだだけあって、その書風は殆ど東湖と見分けがつかないほど似ていたという。岩崎p58。
  119. ^ 岩崎p58。
  120. ^ 岩崎p109-110。
  121. ^ [12]
  122. ^ 岩崎p127。
  123. ^ 岩崎p128。
  124. ^ 岩崎p124。
  125. ^ 窪木新太郎。岩崎p129。
  126. ^ 岩崎p113。
  127. ^ 岡部三十郎は、書院番組・五郎衛門忠義の次男。三十郎は人柄が磊落かつ瀟洒な容姿、少しも粗暴でなかったが一点の真剣さがあって、早くから義挙に加わったという。岩崎p108。
  128. ^ 岩崎p108。
  129. ^ 岩崎p108。岩崎英重によると、岡部は赤穂義士中で前原宗房神崎則休がやった役をしたという(岩崎p108-109)
  130. ^ 安政7年(1860年)1月20日の昼過ぎ、大関和七郎の兄で水戸藩士・黒澤忠三郎が大関家へ来て、夜に常陸神官・海後磋磯之介も来た。そこに同藩士・佐野竹之介も加わり、4人で酒を飲んでいた。夜半に黒澤と佐野は江戸へ出発、そのとき大関の娘・お初が炬燵の側で寝ていたが、黒澤は佐野を顧み「おい佐野、もうできない子だから踏み潰さぬようにしてくれ」と笑いながら言った。岩崎p99-100。
  131. ^ 山口辰之介の父は頼母正則、地行200石、郡奉行、目付け等功績高かった。辰之介は幼年より父に別れ、母と兄に仕えの 道を尽くしたが兄にも早く別れた。安政6年(1859年)大発勢に殉じ山口が江戸で友人と酒を飲み交わし志を語っていると、友から今は虚勢を張っていて万 一の時心変わりする者もいるだろうと言われた。すると山口は「それがし、国をいずるとき母がそれがしに向かい、汝は誓って君公(斉昭・慶篤)の冤を雪ぎ参 らせ、且つ密勅の趣きも貫徹せよ、もしそうでなければ再び生きてこの母に対面あるな、と申された。されば誰もさることながら、それがしは家をいずる時より 最早この身はないものと心得ておる」と言った為、友人はこの母にしてこの子あり、まこと世に希なる事よと嘆称した。山口は密勅返納問題に際し藩吏・幕吏と 同士討ちしても無益、正義の人々が様々申し上げてもその言いまの幕府では用いられず、目指すは原因となっている井伊直弼を除く他ないと決心した為、桜田義挙に加わり家を立ち出でた。岩崎p104-106。
  132. ^ 水戸藩開藩四百年記念「桜田門外ノ変」映画化支援の会、大関和七郎、2014年5月閲覧。
  133. ^ 水戸藩開藩四百年記念「桜田門外ノ変」映画化支援の会、広木松之介、2014年5月閲覧。
  134. ^ 山口は四男。岩崎p102、p104。
  135. ^ 岩崎p100-102。
  136. ^ 水戸藩士・森五六郎は第8代水戸藩主・徳川斉脩の生母・常性院に由緒ある家、幼少から腕白で大将分、群童の部下に圧迫を加えるのであだ名を「森の大坊」、水戸藩士・佐野竹之介の略称「佐野竹」と共に喧嘩でこの名を聞かない事はなかった。森は20歳で非行に悟り、先輩の士に交わって学問を修め、を執り国家に殉じようとの志を抱いた。藩主の命を受け水戸藩士・戸田忠太夫の子で同藩側用人・戸田銀次郎が長岡屯集へ解散説得に来た際、屯に加わっていた森は銀次郎へ「去年、安島帯刀先生は密勅返納の儀で命を捨てたまわったのではなかったか。先生は御身の叔父とぞ承るに、密勅遵法、それを回達しようとしている吾らを止め賜うはいかなる御考えで御座るぞ」と言った為、銀次郎はこれに答えられなかった。岩崎p106-107。
  137. ^ この時、森は兄たちに暫く会っておらず、暇乞いのため水戸へ帰ったのだが、家族の顔を見て決心が鈍るといけないと思い夜間に家の回りを巡っただけで江戸へ出発した。梅の季節だったが、いまだ開かない桜を想って森は一首詠んだという。水戸藩開藩四百年記念「桜田門外ノ変」映画化支援の会、森五六郎、2014年5月閲覧。
  138. ^ 岩崎p108。
  139. ^ 近世義勇伝、森五六郎、2014年5月閲覧。
  140. ^ 一五郎に姉は2人あったが、その次姉と3人で暮らしていた。水戸藩開藩四百年記念「桜田門外ノ変」映画化支援の会、蓮田市五郎、2014年5月閲覧。
  141. ^ 岩崎p114-118。蓮田一五郎を参照。
  142. ^ 櫻田事變 5、2014年5月閲覧。
  143. ^ 水戸藩開藩四百年記念「桜田門外ノ変」映画化支援の会、蓮田市五郎、2014年5月閲覧。
  144. ^ 岩崎p124。
  145. ^ 安藤は以前から井伊の側近として安政の大獄の片棒をかついでいたので、憂国志士は彼を奸賊と見做した。安藤は水戸藩士からのちに坂下門外の変で奇襲された。安藤信正の項を参照。
  146. ^ 高松松平家彦根井伊家と共に江戸城溜間詰の大名で、彦根第12代藩主・井伊直亮の正室は高松第8代藩主・松平頼儀の娘だった。一方で、高松松平家は水戸徳川家御連枝であり、加えて高松第9代藩主・松平頼恕水戸第9代藩主・徳川斉昭の異母兄で、弥千代(松平千代子 (井伊直弼の娘))の夫・頼聰は斉昭の実の甥、一橋慶喜の 従兄弟という関係があった。高松第10代藩主・頼胤(8代頼儀の子、頼聰の義父)は井伊直弼と思想的な親交及び同じ溜詰大名の立場があったため安政年間の 条約調印問題や将軍継嗣問題ではどちらも南紀派に着いた。頼胤の養嗣子・頼聰と井伊の娘・弥千代の縁組は、1857年(安政4年)10月に決まったが、井 伊による不平等条約無断調印の最中だった為、藩主同士が高松藩の遠戚になる水戸藩尊攘志士らの不評を買っていた。1858年(安政5年)4月21日、彼らの婚儀が行われ、弥千代は頼聰の正室となった。井伊の大老就任と時期が重なった為、この婚儀は花嫁の父が急欠席した。1858年(安政5年)4月23日、井伊は大老職に就いた。同年6月、井伊は日米修好通商条約へ独断調印、10月には徳川家茂が将軍位に就き、安政の大獄が始まった。また、大獄に及んで頼胤は井伊から本家(水戸家)を監督できなかったとして咎を受けていた。松平千代子 (井伊直弼の娘)を参照。
  147. ^ この戯画は次左衛門が義挙前に信書に添え郷里へ送ったため有村家にあった、という。岩崎p80。
  148. ^ この日は諸大名が総登城するので大老・井伊も必ず江戸城へ登る上、大名行列を見物するため見物客が詰め掛け、通りにある茶屋にも人が多く潜伏者らが人目につきにくいという利点があった、とされる。金沢2010、桜田門外ノ変事件簿。
  149. ^ 前述の様、同時期に江戸より郷里へ戻った薩摩藩在府組の同藩士ら(精忠組)と、薩摩藩郷里組の元では、桜田烈士との協働による京都義挙計画は破綻していた。
  150. ^ 山川p264。
  151. ^ a b c 岡村p124。
  152. ^ 2014年現在の、憲政記念館辺り。
  153. ^ 広岡子之次郎の兄・忠左衛門は剣術の達人かつ人物も優れ桜田義挙に加わる訳だったが、水戸・紺屋町衝突の際に太腿を負傷、敵3人を斬って水中へ飛び込み危機を脱出したが、のち幕府に捕らえられ上総久留里藩で獄死した。広岡は水戸藩士・原市之進に学び、同藩士・藤田小四郎高橋庄左衛門金子勇二郎らは水戸弘道館の学友だった。広岡は渡辺清左衛門大胡聿蔵らの道場に入り、北辰一刀流を極めた。広岡は塾舎で眠りつくと、彼が普段思っている事を寝言に当然大声で士先氣識而後文藝(しはきしきをさきんじてぶんげいいをのちにす)と叫ぶ事があった。同学の士は広岡の精神の盛んな事に感じ入った。岩崎p103。
  154. ^ 水戸藩士・森山繁之介は父・五八の次男。森山は性格は物静かで心が広く、且つ自信に満ちていたが、また聡く、弁舌が爽やかでもあった。水戸藩士・蓮田一五郎と同学(蓮田は2歳年上)し、共に文武を玉川立蔵金子健四郎[13]に学び上達した。森山は安政始め頃、矢倉奉行をしていた同藩士・高橋多一郎の部下となり、のち密勅返納阻止のため長岡屯集に加わった。森山はこれ以来江戸へ出て、同志と義挙を共にした。岩崎p123。
  155. ^ a b 2014年現在の警視庁辺り。
  156. ^ a b ニコニコ大百科、広岡子之次郎、2014年5月閲覧。水戸藩開藩四百年記念「桜田門外ノ変」映画化支援の会、広岡子之次郎、2014年5月閲覧。
  157. ^ 広岡は烈士中の叔父・黒澤、大関両名に相談した。黒澤と大関は広岡の割腹しようとした精神が義挙に確実と見届け、これを金子と高橋の2人に告げた事で、広岡も烈士に加わった。岩崎p103-104。
  158. ^ 水戸藩士・畑が後にこれを水戸へもたらした。岩崎英重『桜田義挙録』(維新前史 月 中編)、1911年、吉川弘文館、扉。
  159. ^ 岩崎p83-84。
  160. ^ 桜田烈士に、水戸藩士・畑弥平を含む19名。但し一説に、金子、有村、増子は欠席したとされる。岡村p124。
  161. ^ 2014年現在の東京都品川区北品川。
  162. ^ 一説に、烈士は3日の朝に脱藩届を書いた。金沢2010、桜田門外ノ変事件簿。
  163. ^ 2014年現在の国道15号
  164. ^ 2014年現在の港区愛宕
  165. ^ 海後の述懐によれば、雪も早く消え、明治時代絵草紙で見るような大雪ではなかったと云う。山川p264。
  166. ^ 岡村p124-125。
  167. ^ 18名の他、水戸藩士・畑弥平も随行した。畑は烈士一行が当日朝に泊まった品川の旅籠に待機していた水戸藩士・金子孫次郎と国許の水戸藩庁へ現場の様子を事変後報せた。岡村p126-127。
  168. ^ 文化八年(1811年)には開運・勝利散というものが流行していた。これは小普請組の旗本・ 早見甚太郎という者が、春より自分の屋敷で「勝利散」なる黒焼散薬を一包五十文で売り出した処忽ち流行、「此節に至りては一日に三四十両程ヅヽ売候よし、 門前に市をなして夜の内より薬もとめに来る人夥しく、中々筆にも尽がたし、能書には服用するにあらず、守薬ニテ常に身を放さずして懐中し、万一事にのぞむ 時に呑薬也」(『街談文々集要』巻九)、即ち開運新たかな薬と称して武家が商品化した変わった事例だった。宮田97p。
  169. ^ 水戸藩開藩四百年記念「桜田門外ノ変」映画化支援の会、大関和七郎、2014年5月閲覧。
  170. ^ 岩崎p179。
  171. ^ 評論家・山川菊栄によれば、事件当日の朝、老中・脇坂安宅が特に井伊邸へ出向き警告を与えたという。山川p267。
  172. ^ この日の朝も彦根藩邸へは未明の内、水戸浪士らが襲撃を計画しているので注意するようにとの封書があり、また半月前にも井伊は水戸藩主・徳川慶篤から書簡を貰い、水戸藩士・高橋多一郎に不穏な動きがある為、彼が江戸へ出るようなら容赦なく召し捕らえる様と忠告があったとされる。金沢2010、桜田門外ノ変事件簿。
  173. ^ 漫画家みなもと太郎が『風雲児たち  幕末篇』で指摘しているように「刀の柄袋を外させる」「門前に見張りを立てる」位のことは批判されない範囲で可能であった為、大老・井伊直弼は警告を本気 にしてはいなかったものとされる。一方で、井伊の戒名は自ら生前考えていたもので(吉田1985)、井伊は既に死を覚悟していた可能性がある。
  174. ^ 事件当日の朝、老中・脇坂安宅が特に井伊邸へ出向き警告を与えた事、また当時の険悪な世相に於いて井伊家も幕府もスパイを多く放っていた事から、井伊方の不用意は争えないという。また、嘉永六年(1853年)ペリー来航時、沿岸を固めた諸藩のうち彦根藩はだらしないと熊本藩士が評していた為、当時の彦根藩は、軍事教練が不得手だったと推測されている。山川p267。
  175. ^ 2014年現在の憲政記念館付近。
  176. ^ 2014年現在の桜田門交差点
  177. ^ a b c d 岡村p126。
  178. ^ 黒澤は合図のみではなく、狙撃するつもりだったという。岩崎p317。
  179. ^ この時使用されたピストルは、ペリー艦隊が1854年、再度来航した際に幕府に贈呈した最新型コルトM1851を、前水戸藩主・徳川斉昭が入手して同藩内で模倣し製造させていた物。水戸浪士らの多くが襲撃時このピストルを携帯していた。2010年1月16日の報道によると、このピストルは現物が出現し、そこには高度な旋条線が刻まれていたという。コルトM1851の項を参照。
  180. ^ 大名行列には先御供・後御供がいて駕籠の先後に馬を曳いて行く習いだったが、この様な際、戦国武士道では殿様は駕籠を蹴って飛び出し、前か後かの馬に飛び乗って剣を抜き戦うか、走り去るかを期待されていたと云う。山川p266。
  181. ^ 後の井伊家当主・井伊正弘に よれば、好意的にみれば直弼は禅の悟りを開いていたぐらいなのでじたばたしても仕方がないと考えじっとしていた、そうでないなら銃創が腹を貫通し動けな かった、といった。正弘はその証拠に、直弼が当日朝、襲撃警告の投げ文を読んだにも関わらず無防備だった事を挙げられる、といった。また井伊家当主・井伊直愛の妻・井伊文子は、直弼は仏教徒であった為、安政の大獄での殺生の全責任が自分にあると思うと、殺される事も覚悟の上だったのだろう、といった。鼎談 井伊直弼を語る、井伊文子、井伊正弘、倉澤行洋、2014年5月閲覧。
  182. ^ 関は指揮の為、見物人の一員として傘を片手に現場を見つめていた。また斎藤は変後の一同統率による『斬奸趣意書』提出役の為、この時点では同様にしていた。後述。
  183. ^ 彦根藩側の武士は26名いたとされる。金沢2010、桜田門外ノ変事件簿。
  184. ^ a b 1860年(安政6年)3月末、福山城下に一人で泊まっていた安芸国出身の中間が、 不審者として奉行所の取り調べを受けた際に語った事によれば、中間は彦根藩の大名行列60名の駕籠後方で馬を引いていたが、「殿様の駕籠へ何者かが、刀を 抜き数人斬りかかって、その勢いの烈しく怖ろしい事は言い様もない。駕籠の内か外かは分からないが大音声が一声して、警護の者は八方へさっと逃げ去って、 抜き合う士もいないように見えた」為、馬を引いて井伊邸へ戻ったとされる。福山藩儒学者・菅茶山の弟子、門田朴斎の五男による『骨董録』に記述があった。『読売新聞 関西版』、広島・県立歴史博物館「井伊大老警護の武士逃げ散った」…桜田門外の変 奉公人証言録、2010年7月11日付。
  185. ^ 評論家山川菊栄に よると、井伊側も幕府も険悪な世相を知りスパイも送っていた上、脇坂侯による当日朝の井伊家への直接の警告があったのに不用意であり、また井伊の行列は 50~60名で水戸側の3倍なのに、雪で柄袋をして刀が直ぐ抜けず馬に気をとられて主人を忘れたとかは申し訳にならない、という。山川p267。
  186. ^ この真剣による乱戦は、互いに鍔元で競り合い、力任せに刀を押し付け合う凄まじさであった。杵築藩藩邸留守居役の証言による、とされる。金沢2010、桜田門外ノ変事件簿。
  187. ^ 斎藤は斉昭への恩義の念が深く、嘗て斉昭雪冤運動の訴えを繰り返し幕吏から蟄居の責めを受けていた(前述)。また斎藤は水戸学者・藤田東湖の志を最も強く受け継ごうとした人物であるとも言われている。櫻田事變 12、2014年5月閲覧。
  188. ^ 宮澤1993。
  189. ^ その時の永田の刀が、子孫の永田茂鈴木貫太郎の末弟)によって彦根城博物館に、赤備え甲冑等と共に寄贈されている。斬りこみ傷が多数あり、激しい戦闘の生々しさを物語っている。河西忠左衛門の刃こぼれした刀も同博物館に保存されている。
  190. ^ 水戸浪士・黒澤の刀は奮闘の為に鋸状になった為その記録を自訴後にとったが(岩崎p270)、岩崎英重によると、黒澤が先に発砲していた為、特に彦根藩士から狙われ悪戦した為ではないか、という。岩崎p317。
  191. ^ a b c 山川p266。
  192. ^ 評論家・山川菊栄がいうには、井伊が駕籠中で虚しく死を待つことになったのは、機敏な動作が期待された戦国時代の武士道が昇平の250年で忘れ去られていた為だろうという。山川p266。
  193. ^ 水戸藩開藩四百年記念「桜田門外ノ変」映画化支援の会、稲田重蔵、2014年4月閲覧。
  194. ^ a b 金沢2010、桜田門外ノ変事件簿。
  195. ^ 杵築藩邸内の目撃者証言によれば、この時、鞠を蹴るような音が三度ばかり聞こえたという。金沢2010、桜田門外ノ変事件簿
  196. ^ 岡村p126-127。
  197. ^ 一連の事件の経過と克明な様子は、伝狩野芳崖作『桜田事変絵巻』(彦根城博物館蔵)に描かれている。
  198. ^ a b 岡村p127。
  199. ^ 2014年現在の警視庁辺り。
  200. ^ 金沢2010。
  201. ^ 辰の口、龍ノ口とも。
  202. ^ 『史談会速記録』石沢源四郎、大正5年(1916年)10月15日。井伊直弼の首、2014年4月閲覧。
  203. ^ これにより、井伊の首は遠藤家に収容されることになった。但し、水戸首級携行説がある(後述)。
  204. ^ 現 場での彦根藩側の即死者4名、重傷で翌日以降に亡くなった者4人(一説に5名。井伊大老の名義で、井伊藩から幕府へ提出された事後の届出の別紙によるとい う。山川p266)、負傷者13名(一説に12名。上述の井伊名義の事後届出別紙より。山川p266)だったとされる。なお桜田烈士側は現場での即死者1 名、現場離脱後重傷により自決者4名、脇坂家へ自首者4名、細川家へ自首者4者名、逃亡者5名だったとされる。金沢2010、桜田門外ノ変事件簿。
  205. ^ 何者か不明。
  206. ^ 山川p264。
  207. ^ 海後の筆記による。櫻田事變 9、2014年5月閲覧。
  208. ^ 金沢2010、桜田門外ノ変事件簿。
  209. ^ 城門のすぐそばを血で汚したままにはできない上に、登城のため通過待ちをしている大名家がいた為。
  210. ^ 但し、首級水戸携行説がある。後述。
  211. ^ 久野勝弥『井伊大老首級始末異聞』による。大老井伊掃部頭直弼台霊塔について、2014年5月閲覧。
  212. ^ a b 評論家・山川菊栄によれば、この遠藤家の皮肉な仕打ちは平生から癪に障っていた譜代大名筆頭25万石の大老が道端で首をかかれた醜態に溜飲を下げ、旗本8万旗の誇りを全うしたつもりだったろう、という。山川p265。
  213. ^ 2014年現在、首級水戸携行説によれば実際に、この首級は井伊のものではない可能性が残っている。後述。
  214. ^ この時点では公式には「井伊直弼は負傷して治療中で且つ存命」ということになっており、首を渡すとなると「直弼は既に死んでいる」ということになってしまう為。
  215. ^ 遠藤胤統は現役の幕閣であり、彦根の近隣の藩主でもあることから有名な井伊の顔を家中もよく知っており、実際には気付いていた可能性が高い。
  216. ^ 宮澤1993。
  217. ^ 水戸藩開藩四百年記念「桜田門外ノ変」映画化支援の会、稲田重蔵、2014年4月閲覧。
  218. ^ 2014年現在の和田倉濠(和田倉噴水記念公園)辺り。
  219. ^ 2014年現在の皇居(旧江戸城)・大手門交差点辺り。金沢2010。
  220. ^ 2014年現在の東京都千代田区丸の内2-4-1・東京都千代田区丸の内2丁目5-1の間にある通りの、丸の内二丁目ビル際辺り。金沢2010。
  221. ^ 織田家からの届けによると、山口は「左の後ろから首が落ちかかり、左腕も切れかかり、二の腕も落ちかかり、そのほか数か所の傷」があった。水戸藩開藩四百年記念「桜田門外ノ変」映画化支援の会、主要登場人物/配役、2014年5月閲覧。
  222. ^ 2014年現在の東京都千代田区丸の内1丁目3辺り。金沢2010。
  223. ^ 2014年現在の東京都千代田区永田町1丁目辺り。金沢2010。すみだあれこれ/すみだの大名屋敷/摂津三田藩下屋敷、安政三年時のデータ、2014年4月閲覧。
  224. ^ 蓮田には絵を描く才能があった為、細川邸にて事変の詳細を『桜田事変図』として描いた。水戸藩開藩四百年記念「桜田門外ノ変」映画化支援の会、蓮田市五郎、2014年5月閲覧。
  225. ^ 一説に、蓮田はその後、膳所藩三日市藩に預けられた。ニコニコ大百科、蓮田市五郎、2014年5月閲覧。
  226. ^ 宮澤1993。
  227. ^ 薩摩藩士・大久保利通らは島津久光の意図を汲み、有村へ自殺さ せた。しかし水戸藩士・金子が有村へ託していた薩摩の志士へ寄せた遺書は少なからず薩摩藩士らを奮起させ、大久保は久光にまみえ率兵上京と江戸入りを要請 した。久光は有村兄弟の桜田門外の変参加を深慮し、「有村兄弟の襲撃参加がなければ直ちに率兵しても敢えて恐れるに足らないが後難を慮るべきで、もし水戸老公(斉昭)が 正々堂々義兵により出馬もしくは関東大乱の報があれば元から躊躇の必要はないが、関東の報知を待ってから動くほか仕方ない」と、容易に応じなかった。久光 は関東大乱の機に乗じて勤王兵を出すべきと予期していたという。この後、大久保は藩内で脱藩激派を抑制した。岩崎p299、p423。
  228. ^ 水戸郷士・黒澤覚蔵は海後磋磯之介と従兄弟関係で、磋磯之介の母親と覚蔵の父親は兄妹関係とされる。桜田門外の変「情念の炎」のススメ、鯉渕義文、2014年4月閲覧。
  229. ^ 大坂町奉行・一色山城守の明治時代半ばの回顧によれば、当時、江戸から桜田の党類を厳密探索し召し捕るよう、手に余ったら打ち捨てても苦しくないと命じられた。が与力らが言うには浪人を下手に召捕ろうとすると飛んだ事を仕出かすかも知れないので、なるべく大坂を追い出すようにしたかった。事大主義で、表向き召捕り令の実は大坂から追い出してやるつもりが、高橋親子では逃れられぬ運命と早合点し自殺してしまった、という。『水戸史談』による。山川p262。
  230. ^ a b c 岡村p128。
  231. ^ a b c d 『広木松之介伝』による。『広木松之介伝』、2014年5月閲覧。
  232. ^ 岩崎p318。
  233. ^ 佐渡から能登へ、後に越後ともいう。岩崎p322。
  234. ^ a b 小山が後に記した哲之介略伝による。『広木松之介伝』、2014年5月閲覧。
  235. ^ 岩崎p323。
  236. ^ 維新の礎、文久二年、2014年5月閲覧。
  237. ^ 後藤哲之介は、水戸藩領・北郡和久村(久慈郡水府村和久。現・常陸太田市)出身の郷士で、安政年間に作られた町田郷校と も深く関わっていた。後藤は改革派郷士で、同士と共に斉昭雪冤運動へ積極的に参加していた。桜田門外の変の際に後藤は、地元の富豪達からの活動資金調達 役・中心者として動いた、という(後藤家の子孫の談)。また後藤本家は、永いこと庄屋を務めていた。後藤家の子孫によれば、『水府村史』(1971年)に詳しい資料があるとされる。桜田門外の変「情念の炎」のススメ、約50年ぶり(高校卒業後)の友との対面、鯉渕義文、2014年5月閲覧。
  238. ^ 水戸から見た関連年表#7、2014年5月閲覧。
  239. ^ 後に、広木松之介の父・三蔵が遺骸引取りとして水戸より江戸・伝馬町へ検視に行ったところ死刑となった遺体は彼の子の容貌骨相と異なった。やがて三蔵の知人が後藤哲之介の遺体である事を発見し、三蔵は空振りに終わり帰国したという。『広木松之介伝』、2014年5月閲覧。
  240. ^ 後藤の墓所は東京都荒川区・回向院にある。浄土宗 豊国山 回向院、回向院にご縁のある方々、2014年5月閲覧。維新の礎、文久二年、2014年5月閲覧。
  241. ^ 広木が井伊直弼の首級を水戸へ持ち帰り老公・斉昭拝謁、老公より命ながらえるよう諭され、姉の花と共に水戸・袴塚町日蓮宗本行寺へ首を埋葬後、直弼供養のため水戸を離脱したという説がある(水戸首級携行説)。後述。水戸歴史探訪サイクリング~妙雲寺~大老の首級と広木松之助、2014年5月閲覧。
  242. ^ 一説に、広木の身代わりとなる事を決意した可能性がある。水戸歴史探訪サイクリング~妙雲寺~大老の首級と広木松之助、2014年5月閲覧。
  243. ^ 元治元年(1864年)11月に、水戸の広木家を行脚の僧侶が訪ね、僧は松之介形見の品を差し出して松之介最後の有様等を細々と語り出した。広木家では臨終の様子を聞き涙で袖を絞ったという。『広木松之介伝』、2014年5月閲覧。
  244. ^ 広木松之介
  245. ^ 岡村p128。
  246. ^ 神奈川に住んでいた戸部村の代官・小林藤之助の秘文による。岩亀楼で事変後の水戸浪士が遊んだとの情報で、盗賊火付改役・黒澤正助が組同心の注進に基づいて岩亀楼を検査したという。岩崎p309。
  247. ^ 喜遊は江戸・町医者の家に生まれ、本名・喜佐子。彼女の父は箕部周庵攘夷論者、水戸藩士による英国公使館焼き討ち事件に加担していたという。横浜遊郭の遊妓・喜遊、株式会社 親栄商事、2014年5月閲覧。
  248. ^ 岩崎英重によると、烈士の義挙に感奮したものではないか、という。岩崎p309。
  249. ^ 当時、喜遊は19歳だったという。横浜遊郭の遊妓・喜遊、株式会社 親栄商事、2014年5月閲覧。
  250. ^ 既に安政7年(1860年)3月3日に薩摩藩士・田中直之進が帰国し事を伝えていた為、同藩内の尊攘激派が挙兵準備中に、関がかつて約束をした事を信じて薩摩藩境へやってきた。尊攘急進派の薩摩藩士・大山綱良、美玉三平[14]有馬新七、毛利元真、田代義徳、是枝龍右衛門[15]らは桜田義挙について盟約を破ったのみか、関を薩摩入りさせないという仕打ちは水戸藩士との情義に背くものと協議、「進んで長崎を焼き、外国人を討ち払って即刻兵端を啓こう」と脱藩しようとした。しかし久光の内意を得た薩摩藩士・大久保利通が彼らを説諭した為、関は同志に面会できず、また目的を果たせずに東帰した。安政7年(1860年)10月、有馬と高橋某たちは誠忠派を称し、森清蔵や堀内正右衛門の名で中山家の諸大夫や中山家士・田中河内介へ手紙を送った。その内容は、「近衛家から有馬への上京の命を斡旋する」よう嘆願したものだった。岩崎p298-289、p425。
  251. ^ 同年同月26日、関は京都へ向かった。閏3月3日、彼は京で合流予定の金子、佐藤、有村雄助が捕えられた事を聞いて大坂を発ち、幕政改革賛同を確認すべく鳥取藩を目指した。閏3月23日、彼は四国金比羅宮を 詣で、鳥取藩へ向かった。同年4月7日、関は鳥取藩に至るも賛同を得られず薩摩藩へ赴いた。同年5月7日、彼は熊本城下に到着したが、既に薩摩国の全関所 が閉ざされ他藩者の出入りが禁じられていた。同年5月14日、彼は画策した薩摩入りを断念、水戸へ帰る事にした。同年6月13日、彼は兵庫に至った。その 後同年7月9日まで彼の足取りは途絶えた、とされる。金沢2010、関鉄之介、東奔西走の篇。*小説『桜田門外ノ変』吉村昭、1988年より。
  252. ^ 桜 岡は天保5年(1835年)藩主・斉昭が大子地方巡遊時に久慈川沿いの桜岡邸の離れ屋で休憩した際、離れ屋を斉昭より「清流亭」と名づられ感激した。桜岡 はこんにゃく製造を始め、蒟蒻の機械製造を発想・研究、日本で初めて蒟蒻の大量生産に成功し、全国流通と普及に貢献、一帯で屈指の富農となった。粉こん にゃくの販路拡大を目指した藩の指示で「こんにゃく会所」設立を関鉄之介が担当、桜岡は世話掛として敷地を提供した。また桜岡は安政5年(1858年)に 関鉄之介が藩命で蝦夷地開拓の足掛りに越後・水原村へ向かうとき別れの宴を開き、多額の餞別を贈っていた。桜岡は安政7年(1860年)3月1日、日本橋 西河岸の山崎楼に烈士一同が会した時200両、また事変後も桜岡の甥・石井重衛門から潜行中の関らへ資金を提供した。なお、桜岡は元治元年(1864年)天狗党の乱で首領・武田耕雲斎が袋田経過の際に家を出て、途中で天狗党と別れ越後国へ辿り着いた。桜丘は慶応元年(1865年)5月6日蒲原郡加茂上条村(2014年現在の新潟県加茂市)の松永朝七方へ寄寓中、病没した。明治2(1869)年7月、桜岡の亡骸は彼の実子・八郎が、袋田村へ帰葬した。水戸藩開藩四百年記念「桜田門外ノ変」映画化支援の会、桜岡源次衛門、2014年5月閲覧。櫻岡源次衛門直方、2014年5月閲覧。
  253. ^ 関のために奔走したのは、大藤雄之介、益子喜右衛門、石井重衛門、金沢惣七郎であった、とされる。櫻岡源次衛門直方、2014年5月閲覧。
  254. ^ その時、関の詠んだ詩歌が高橋家に蔵されていた、という。岩崎p300。
  255. ^ 2014年現在の茨城県水戸市内原。旧・東茨城郡
  256. ^ 岩崎p301。
  257. ^ 新潟県岩船郡関川村
  258. ^ 赤沼牢屋敷は2014年現在の茨城県水戸市東台2丁目にあった。
  259. ^ a b 岩崎p309。
  260. ^ 関の著書は、詩歌数十篇、日記数巻、『西海轉蓬録』『丁難日録』等のほか獄中の詩集『遣悶集』等がある。岩崎英重『桜田義挙録』下巻に『遣悶集』引用がある。岩崎p310-315。
  261. ^ 松本鉗太郎、多賀谷勇、以前から獄中にいた椎名惣兵衛、斎藤繁三郎ら。椎名と斎藤は菓子などを揃えて関を折々慰めた。また牢中の小山春山ともしばし文通、骨肉の仲となったという。関は憂いていたが、何不自由なく従容として安らかに刑に着いたという。小山の口話筆記による。岩崎p307。
  262. ^ 小山春山が在獄中の口話による。岩崎p307-308。
  263. ^ また関はその歩いていく途中、「家郷千載公論日、誰謂關東狂少年」と高唱、また刑の執行に際し斬り手を顧み「ちょっと待て」と言い、おやおやの片身なりにしたまの身を今日しも君にささげぬるかなと朗吟したという。岩崎英重はこの関の最期を書き記し、関の意気や態度はさすが桜田烈士の副領袖たるに恥じないものがあった、と讃えている。岩崎p309-310。
  264. ^ 岡部三十郎。2014年5月閲覧
  265. ^ 水戸藩開藩四百年記念「桜田門外ノ変」映画化支援の会、森山繁之介、2014年5月閲覧。
  266. ^ 『蓮田市五郎筆記』より。蓮田はこの筆記を残した意図について、自ら「幕府の横暴はいうまでもなく老公・斉昭へ冤罪を帰そうとする気炎があり、自分(蓮田)の偽口書きを自分の死後に認められてしまわないとも限らない為、幕府による取調べの大意を書にしたためた」と書き記した。櫻田事變 5、2014年5月閲覧。
  267. ^ 蓮田は同士6名と共に斬首された。水戸藩開藩四百年記念「桜田門外ノ変」映画化支援の会、蓮田市五郎、2014年5月閲覧。
  268. ^ ニコニコ大百科、蓮田市五郎、2014年5月閲覧。
  269. ^ 金子孫二郎、2014年5月閲覧。
  270. ^ 2014年現在の茨城県東茨城郡石塚町。
  271. ^ 昭和10年、増子の孫によって『桜田烈士増子金八事大畠誠三郎略伝』が出版された。
  272. ^ 一説には小指。海後磋磯之介、2014年4月閲覧。
  273. ^ 一説には無傷。金沢2010、桜田十八烈士事件後の行方。宮澤1993。
  274. ^ 2014年現在の常陸大宮市
  275. ^ 2014年現在の福島県郡山市
  276. ^ 山川p263。
  277. ^ 海後磋磯之介、2014年5月閲覧。
  278. ^ 海後は烈士らと事件前の色々な申し合わせは一切口外しないとの固い約束があったといい、一人の生き残りが語っては約束を破るようで申し訳ないからと生前、口を閉ざしていた。山川p263。海後遺稿に大老襲撃の一部始終を伝える『春雪偉談』や『潜居中覚書』がある。
  279. ^ 維新前後に尊王攘夷の功を立てた水戸藩出身者には東山道軍総督府大軍監・皇后宮大夫・皇太后宮大夫・枢密顧問官で伯爵香川敬三(鯉沼伊織)や、新撰組及び壬生浪士組初代筆頭局長・芹沢鴨、新選組九番隊組長・孝明天皇御陵衛士・警察官・官吏・鈴木三樹三郎赤報隊隊士・小室左門綿引富蔵(一説に綿貫富蔵)等がいたとされる。岡村p187。
  280. ^ 慶応元年(1865年)2月1日、若年寄田沼意尊により吟味が始まり同年2月4日に早くも水戸藩士・武田耕雲斎藤田小四郎山国兵部田丸稲之衛門竹内百太郎ら主要幹部24名が処刑され、同年同月23日までに合計352名が斬首刑に処された。この他、同藩士・武田金次郎ら130名余りが流罪、約300名が追放となった。岡村p159。
  281. ^ 2014年現在の福井県敦賀市にある。
  282. ^ 岡村p127。
  283. ^ 一説に、安政7年3月5日1860年3 月5日)の午前2時ごろ、前水戸藩主・斉昭は手紙を受け取った。その後、江戸の同藩邸にいる現同藩主・慶篤から同年同月6日に正式な使者の報告を得た。直 ちに斉昭は論書を下し、家臣は藩命によらず勝手に江戸へ出てはならないとした上で、直弼は病死扱いで家督も通常通り相続されるため井伊家も水戸に押し寄せ ないだろうが今後は仇侍という立場を弁え武術へ出精するよう藩士へ諭した、とされる。藩内には襲撃者らの行動に賛同する者も多かったらしいが、表向きは幕 府や彦根藩の体面を考え、水戸藩としては事件に関わりがないという立場を取った、とされる。金沢2010、桜田門外ノ変事件簿。
  284. ^ 金沢2010、桜田門外ノ変事件簿。
  285. ^ 時の将軍家茂は文久3年(1963年)5月10日に攘夷決行を孝明天皇へ誓ったが叶わず、翌年2月には既に開港済みの横浜を改めて鎖港した上で、海岸防御を強化するとして再び天皇へ攘夷を誓った。天狗党首領格の水戸藩士・藤田小四郎らは、攘夷決行不能による幕府権威の失墜を憂い、幕府による横浜鎖港を側面から応援するつもりで挙兵した。『茨城新聞』2014年(平成26年)4月30日水曜日、19頁、幕末動乱――開国から攘夷へ、土浦市博物館学芸員・野田礼子。
  286. ^ 元治元年(1864年)12月11日、水戸家出身の一橋慶喜を頼った天狗党828名一行は越前国新保宿(福井県敦賀市)で加賀藩監軍・永原甚七郎へ嘆願・始末書を提出、慶喜への取次ぎを請い投降した。加賀藩は彼らを厚遇したが、遠江相良藩主で若年寄田沼意尊は彼らを鰊倉へ入れ、20名以上の病死者を出した。更に、参加を欲した彦根藩士らの手により元治2年(1865年)3月20日(旧暦2月23日)までに福井敦賀来迎寺境内で水戸藩士・352名が斬首された。他の処刑者は遠島・追放された。天狗党の乱徳川慶喜を参照。
  287. ^ 島崎藤村の小説によると、一橋慶喜は水戸天狗党の隊士らを救おうとして陰ながら尽力した。慶喜は父・水戸斉昭の子にあたる浜田藩主・松平武聰島原藩主・松平忠和喜連川藩主・喜連川縄氏の3諸侯と共に、天狗党首領・武田耕雲斎らを救済する為、朝廷と幕府へ嘆願書を提出。また同じく斉昭の子で鳥取藩主・池田慶徳岡山藩主・池田茂政の2侯も天狗党らを寛典に処せられるよう、朝廷と幕府へ奏聞した。朝廷は相良藩主で若年寄田沼意尊の入京を差し止めていたが田沼が京都へやってきた。田沼は「朝廷が幕府を辱めること甚だしい、兵権・政権は幕府にある」と一橋慶喜など眼中にないかの如くその足で敦賀へ向かった。田沼は水戸藩士で諸生党市川弘美の進言から、慶喜が武田ら尊王攘夷急進派の死罪赦免を朝廷から沙汰あるよう尽力中と知り、俄かに天狗党処刑を急いだという。また加賀藩士・永原甚七郎金沢藩が投降した天狗党から武器と人員の引き渡しを終えた時、敦賀本勝寺の書院へ武田らを見に行って胸が塞がったという。田沼への世間の非難の声は高く、天狗党と戦い負傷までした諏訪藩用人の塩原彦七すら、「幕府の若年寄ともあろう人がを愛する事を知らず、武士道が 立たないこと久しい」と歎いたという。諏訪藩では田沼を評して、天狗党が盛んな時は怖れて20里(約78.5キロメートル)離れ肝も据わらなかったのに、 一旦彼らが金沢藩へ投降したら幕府の虎の衣を借り処刑殺戮を恣にするとは何という卑怯さだ、田沼はそんな思い切った事をできる性質ではなく周囲が敢えてさ せたのだと言う者もいたという。島崎藤村夜明け前』第十一章、三。
  288. ^ なお、慶喜はのち自ら、実兄で水戸藩主・徳川慶篤に助言し天狗党を皇軍復帰させ、慶篤は天狗党生存者を同藩の直属部隊にした。後述。
  289. ^ サトウ1960、付録・当時の日本の政情。
  290. ^ 江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜の勤皇行動は、幼少より与えられた水戸学の尊皇思想が彼の根底にあったためとされる。慶喜は皇軍へ決して反撃せず、恭順に徹した。維新後の明治34年(1901年)ある宴席での公爵徳川慶喜自身の述懐を明治新政府の初代内閣総理大臣伊藤博文が感慨したところによれば、慶喜は彼の大政奉還の理由と思われるが「義公(徳川光圀)以来の水戸家訓である尊皇の義を遵守したに過ぎない」、また具体的に江戸開城に至った原因と思われるが「父(徳川斉昭)から水戸家が先祖代々そうであったよう公儀を助けるのは当然ながら、時節柄万一徳川宗家朝廷の間に戦が起きても、例えどんな仕儀に至ろうと朝廷へ弓を引く事があってはならない、よくよく父祖の遺訓を忘れるな、と諭されていた」旨を語ったとされる。渋沢1918、p456-468。水戸学の項目を参照。
  291. ^ 嘉永6年(1853年)前水戸藩主・斉昭の18男で同藩士余八麿が水戸で生まれ育ち、文久3年(1863年)幕末動乱を処するべく江戸入りしていた。また実兄の慶喜を補佐するべく上京中、病にかかり卒去した実兄・松平昭訓を看護する目的で、余八麿も文久3年(1863年)に上京していた。余八麿は当時10歳の幼年ながら一軍の将として敦賀に於ける天狗党鎮圧や禁門の変へ出陣、皇室より従五位下侍従民部大輔を叙任されていた。第14代将軍・家茂が薨去し昭武と諱を代えた余八麿は、昭武は慶応2年(1867年)御三卿清水徳川家の養子として清水家第6代当主となり、徳川昭武となっていた。徳川昭武の項を参照。
  292. ^ 昭武は以後フランスパリを中心に留学生活を送った。この間、昭武は慶応4年(1868年)1月慶喜の大政奉還を知ったが同年4月ヨーロッパに居た昭武へ慶喜からこのまま滞在し勉学するようにとの手紙が届けられた。昭武は同国ノルマンディーカーンシェルブールを巡りロワール河口のナントまで旅したが、パリへ帰ると、長兄で水戸藩主・慶篤薨去の報が届いており、政情安定のため次期藩主に指名された。昭武は同年5月15日(同年8月)新政府より帰国命令書が届いたため、同年9月4日(10月18日)フランス・マルセイユを出航、慶応4年11月3日(1868年12月6日)神奈川へ到着した。徳川昭武の項を参照。
  293. ^ 市川三左衛門率いる水戸藩・諸生党約500名は慶応4年(1868年)3月に奥羽越列藩同盟側に加勢するべく水戸を出発、北越戦争で善戦後、会津へ戻り1868年会津戦争中の篭城戦に於いて会津藩内の婦女子を救済、その後も各地で奥羽越列同盟藩兵らと共に新政府軍に対して奮戦した。福島県会津若松市一箕町の白虎隊記念館敷地内に、会津で命を落とした水戸藩諸生党士らの「諸生党鎮魂碑」がある。『茨城新聞』2014年(平成26年)5月2日金曜日、17頁、福島会津若松、殉難志士の冥福祈る。
  294. ^ 慶応4年(1868年)1月19日在京の水戸藩士・本圀寺勢(上洛中の水戸藩主・徳川慶篤とその実弟・昭武らへ侍った在京の水戸藩士ら)へ「除奸反正の勅書(諸生党らを討伐し藩政を正常化せよという内容の勅状)を速やかに天皇より受諾しその通りに藩政を刷新せよ」と謹慎直前の弟・徳川慶喜から助言され、同年2月10日慶篤はその通りに勅命受諾した。これ以後、慶喜出陣により投降後、敦賀での死刑を免れた尊攘急進派の同藩士・天狗党生存者らが本圀寺勢と合流、江戸小石川・水戸藩邸側の実権を握った。徳川慶篤の項を参照。
  295. ^ 昭武は隠居後、千葉県松戸に邸宅を設け茨城県多賀郡に牧場を開いた。昭武の子・徳川武定松戸徳川家として別家を持ち、子爵位となった。慶篤の長男・徳川篤敬は前藩主・昭武の養嗣子として水戸家第12代目の家督相続後、1884年(明治17年)侯爵位、かつ宮内省式部職次官等となった。その後の水戸家第13代当主・徳川圀順は完成した『大日本史』を昭和天皇へ献上後、斉昭含む旧水戸藩主の勤皇功績について皇室より顕彰され公爵へ陞った。尊皇攘夷を是とした水戸徳川当主・圀順は原爆投下及び第二次世界大戦敗戦時に貴族院議長を務め、天皇を守護し奉った。水戸・徳川圀順の貴族院議長期間は昭和19年(1944年)10月11日から昭和21年(1946年)6月19日までで、その後、貴族院議長はポツダム宣言受諾後の1946年6月19日徳川宗家へ引き継がれ、貴族院が廃止された。水戸家当主は初代同藩主・徳川頼房から直系で第14代徳川圀斉、第15代徳川斉正、第16代徳川斉礼と続いている。千田p76。
  296. ^ 千田p76。
  297. ^ 茨城県水戸市回天神社には祭神として、水戸勤皇義士、1785柱が安置されている。回天神社の項を参照。
  298. ^ 靖国神社には幕末維新に関係した祭神約4200柱が祀られているが、このうち1420柱、即ち約3割を水戸藩のものが占めている。この事からも水戸藩は勤皇副将軍として名実共に、宿命的なまでに大きな犠牲を払いながら来るべき新時代へ先鞭をつけた存在といえる。彦根藩士らにより福井県敦賀市来迎寺で処刑された天狗党411名は明治22年(1889年)靖国神社へ合祀され、名誉回復措置が為された。岡村2012、p159。
  299. ^ 2014年現在の靖国神社・宮司は、慶喜の九男・徳川康久である。スポニチ、2013年1月18日19:10、靖国神社宮司に徳川氏 15代将軍・慶喜のひ孫
  300. ^ この薬用人参は松江藩朝鮮から密輸入し同藩が専売していたものだろうという。松江藩では表向き少しの人参を栽培していたが足りず、大部分は密輸による収益で農民の年貢が軽く、農民は楽だったらしい。評論家山川菊栄はこれらの話を松江藩・名主の出のまたいとこから聴いたという。山川p267。
  301. ^ 2010年1月5日7時8分、読売新聞社「井伊直弼の墓、埋葬状況解明へレーダー探査」という題のウェブ上のニュース配信によるとされる。『ナオスケの首が ――この世にあってはならないこと――』阿部安成、p44、2014年5月閲覧。
  302. ^ 山川p265。
  303. ^ 福地源一郎(福地桜痴)『懐往事談』「井伊大老の横死」項による。国立国会図書館 近代デジタルライブラリー、福地1894、「井伊大老の横死」、2014年5月閲覧。
  304. ^ お蔵元とは年貢の出納に責任を持つ役。
  305. ^ a b 山川p271。
  306. ^ 事変から約2ヵ月後の安政7年(1860年)5月7日に桜田烈士の一・関鉄之介が熊本城下に到着、京都義挙計画の率兵を促すべく薩摩入りしようとしたところ既に薩摩藩側では薩摩国の全関所を閉ざしており、薩摩藩へ他藩者の出入りが禁じられていた。同年5月14日、彼は薩摩入りを断念し、水戸へ帰郷を余儀なくされた。前述。
  307. ^ a b c 日付は旧暦。
  308. ^ なお、生麦事件がこの時の久光の帰途に起こっている。
  309. ^ 鹵獲した武具について長州藩士・石川小五郎に 「何分甲冑夥しき事数知れず、火砲も十余挺隊中へ奪ひ候、 中ニもアメリカホード拾弐封度弐挺此分ハ余程の名砲乍併ライフルニ而ハ無之候、小銃ハ少く、偶これ有り候もヤーグル又は倭筒にカンを付け候様の物にて無用 の品のみ、それ故戦争中にも小銃せり合は余程容易に候得共、大砲は思ひの外能く打ち候様相考えられ」と酷評されている。
  310. ^ 初代彦根藩主井伊直政徳川四天王徳川十六神将徳川三傑に数えられ、徳川家康の天下取りを全力で支えた功臣として、顕彰されてきた。その一例として、滋賀県彦根市では、直政が彦根市の発展の基礎を築いたということを顕彰して、「井伊直政公顕彰式」という祭典が毎年行われてきた。
  311. ^ a b c 千田p289。
  312. ^ 井伊直政の項を参照。
  313. ^ 直憲の息子(生母不明、長男、千田p289によれば次男)で井伊家第15代当主・井伊直忠彦根城彦根市へ寄贈した。その跡を継いだ同家第16代当主・直愛(直忠長男)は琵琶湖研究者を目指して、文部省資源科学研究所勤務となり、元琉球王家尚昌侯爵長女・文子と結婚、かつ滋賀県水産試験場へ勤め約50種のアミを発見した。直愛は彦根市長選に立候補し当選、のち9期(35年間)再選した長期市長となった。直愛は市制50周年記念事業として彦根城博物館を建設、井伊家重代家宝を展示し、死去後は彦根市名誉市民となった。次代は直愛の息子で第17代当主・井伊直豪が継いだ(千田p289-290)。また、第18代当主・井伊岳夫は入り婿、井伊家・第19代目当主は井伊達夫で養子縁組となった(井伊達夫氏所蔵井伊家文書随想、井伊岳夫、2014年5月閲覧。)。直愛の双子の弟・井伊直弘(別名正弘)が井伊直系の子孫という(井伊直愛の項を参照)。
  314. ^ 千田p289-290。
  315. ^ 井伊氏はその後伯爵に列し、直憲の孫である井伊家第17代当主・井伊直愛は1953年から9期に渡って彦根市長を務め殿様市長と呼ばれた後、彦根市名誉市民となった(千田p290)。井伊家第18代目当主・井伊岳夫彦根市彦根城博物館館長、19代目当主は井伊達夫(旧姓中村、井伊美術館長)で、2007年に婿養子となってあとを継いだ。
  316. ^ 水戸市と敦賀市が、天狗党の縁で姉妹都市提携を結んだのは、水戸と彦根の和解から約4年前の1965年(昭和40年)4月30日だった。水戸市、都市交流、2013年3月20日閲覧。水戸市と姉妹都市になったわけ、2013年3月20日閲覧。
  317. ^ 高松藩水戸徳川家御連枝だった為、常陸国水戸藩・初代水戸藩主・徳川頼房の長子で讃岐国高松藩・初代高松藩主・松平頼重はその藩祖を同じくした縁があった。水戸徳川家松平頼重の項を参照。
  318. ^ 第13代彦根藩主井伊直弼の二女・弥千代姫が第11代高松藩松平頼聡に輿入れした縁があったため、彦根市と高松市は、水戸と高松を仲介した日から約8年前の1966年(昭和41年)8月15日に親善都市提携があった。水戸市、都市交流、2013年3月20日閲覧。彦根市、彦根市について、2013年3月20日閲覧。
  319. ^ 桜田門外の変が争点?…襲撃の子孫が市長選に
  320. ^ 斉藤は代々、常陸国那珂郡静村(2014年現在・茨城県瓜連町)静神社の神職だったが、水戸弘道館内の鹿島神社の神官でもあった。[16]
  321. ^ 佐野竹之助ともいう。竹之助は通称。[17]
  322. ^ 市五郎は誤記とされる。岩崎p123。
  323. ^ 岩崎p101。
  324. ^ 櫻田事變 7、2014年5月閲覧。
  325. ^ 岩崎p93。
  326. ^ 佐野にはまだ幼い弟と妹がいた。櫻田事變 7、2014年5月閲覧。
  327. ^ 櫻田事變 7、2014年5月閲覧。
  328. ^ 櫻田事變 8、2014年5月閲覧。
  329. ^ [18]
  330. ^ 櫻田事變 9、2014年5月閲覧。
  331. ^ 櫻岡源次衛門直方、2014年5月閲覧。
  332. ^ 岩崎p300。
  333. ^ 岩崎p301。
  334. ^ 櫻田事變 5、2014年5月閲覧。
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  351. ^ 山本秋広『水戸徳川家と幕末の烈公』紀山文集 第三巻、1968年(昭和43年)2月1日発行。大老井伊掃部頭直弼台霊塔について、2014年5月閲覧。
  352. ^ 2014年現在の茨城県水戸市上水戸4丁目8-1。
  353. ^ 2014年現在の茨城県水戸市河和田1丁目。
  354. ^ 松之介の姉・花は、本行寺の僧と夫婦になり、山形県の大堂寺で亡くなったという。大老井伊掃部頭直弼台霊塔について、2014年5月閲覧。
  355. ^ 網代茂『水戸綺談』新いばらきタイムス社、1992年7月15日発行。大老井伊掃部頭直弼台霊塔について、2014年5月閲覧。
  356. ^ 広木は最初から井伊の首級を持ち帰る準備をしていたらしい、ともいわれる。水戸歴史探訪サイクリング~妙雲寺~大老の首級と広木松之助、2014年5月閲覧。
  357. ^ 『大老井伊掃部頭直弼台霊供養塔由来』三木啓次郎、1968年(昭和43年)3月3日、2014年5月閲覧。
  358. ^ 水戸歴史探訪サイクリング~妙雲寺~大老の首級と広木松之助、2014年5月閲覧。
  359. ^ 大老井伊掃部頭直弼台霊塔について、2014年5月閲覧。
  360. ^ 『これが水戸黄門だ!』日之出出版、2003年(平成15年)11月19日。『郷土文化』第45号、久野勝弥、「井伊大老首級始末異聞」、茨城県郷土文化研究会、2004年(平成16年)3月31日。大老井伊掃部頭直弼台霊塔について、2014年5月閲覧。
  361. ^ 滋賀彦根新聞、2012年6月8日金曜日付け、豪徳寺の墓に井伊直弼埋葬されず? 地下3㍍に石室なく、滋賀彦根新聞社、2014年5月閲覧。
  362. ^ 水戸歴史探訪サイクリング~妙雲寺~大老の首級と広木松之助、2014年5月閲覧。

参考文献