桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)は、安政7年3月3日(1860年3月24日)に江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)で水戸藩からの脱藩浪士17名と薩摩藩士1名が彦根藩の大名行列約60名[4][5]を襲撃、大老・井伊直弼を暗殺した事件。この襲撃者らを「桜田烈士」[6]や「(桜田)十八烈士」[7]、「水戸の義士」[8]、「桜田十八士」[9]等と云う。またこの事件自体を「桜田義挙」[10]や、単に「桜田事変」[11]とも云う。
安政5年(1858年)、大老に就任した彦根藩主・井伊直弼は、将軍継嗣問題と修好通商条約の締結という二つの課題に直面していた。
先ず、病弱で世子が見込めない江戸幕府第13代将軍・徳川家定の後継をめぐって、一橋派(幕閣上席の大広間や大廊下に列した親藩大名中心)と南紀派(幕閣下席の溜間詰に列した譜代大名中心)の議論していた将軍継嗣問題があった。去る事数年前の嘉永6年(1853年)に起きていた黒船来航など[12]対外危機[13]を慮った一橋派[14]は、孝明天皇から示された方針に沿って英明で知られた当時21歳の一橋慶喜を推挙していたが[15]、それに対する井伊は、南紀派の推す当時12歳の徳川慶福を養子とすることに決めた[16]。これは血縁を重視する慣例と現将軍・家定の内意[17]に沿い、井伊を大老に推した南紀派を満足させたが、「時節柄、次期将軍は年長の人が望ましい」とした朝廷の意に反するものであった[18]。
もう一つの懸案である修好通商条約の締結については、攘夷論者である天皇の勅許が得られず反対論が勢いを増していた。井伊は当初こそ無勅許条約調印に反対であったが、朝議は国体を損なわぬ為であるとの認識で止むを得ない場合の調印を、下田奉行・井上清直と目付・岩瀬忠震へ命じた。そこで、駐日米公使タウンゼント・ハリスからの早期締結要求も強まる中、井伊は同年6月19日、勅許を得ずに日米修好通商条約をはじめとする不平等条約[19]・安政の五ヶ国条約の調印に踏み切った[20][21][22][23]。尊皇攘夷論者の前水戸藩主・徳川斉昭をはじめ、幼君を擁し独裁色を強めた井伊へ不信を抱いた徳川二家と福井藩主・松平春嶽は一橋派であったため[24]、条約締結へ抗議すべく登城時[25]に違勅行為を改めるよう慶喜と共に井伊を説得したが[26][27]、「大政関東御委任」(政治は幕府に委任されている)の立場を固めた井伊から逆に処罰され、発言は封じられた[28]。
ここに一橋派は弾圧され江戸城内での活動を制限されたが、一橋派を支持していた薩摩藩主・島津斉彬の密命により薩摩藩士・西郷隆盛が京都における内勅降下運動を行ったため[29][30][31][32]、朝廷にて違勅抗議として廷臣八十八卿列参事件が生じた。こうして井伊による勅許を得ない条約調印と斉昭[33]ら排斥の業は攘夷論の強かった公家たちに喧伝され、かつ天皇も幕府の要を得ない行いへ悲憤した。天皇は『譲位の勅諚』を記し一時は帝位を降りようとしたが周囲の強い説得で踏みとどまり[34]、幕政の刷新と大名の結束を説く『戊午の密勅』を水戸藩へ伝え[34][35][36]、幕府寄りとされた関白・九条尚忠の内覧を解いて朝政から遠ざけた[37][38]。水戸藩は密勅に記された朝廷の意に従い、密勅の写しを雄藩へ送って賛同を求めた(後述)。一方、朝廷が大名へ直接指令するという事態は江戸幕府始まって以来前代未聞であったため、幕閣は大いに狼狽した。密勅が天皇の意思ではなく水戸藩の陰謀と誤認した井伊は[29][39]、反論者への徹底弾圧を決心した[40]。まず、老中に再任させた鯖江藩主・間部詮勝を京へ送り、新たに京都所司代に任命した小浜藩主・酒井忠義からこれを補佐させた。「天下分け目の御奉公」と井伊へ表明した間部は、着京後、態度不鮮明のまま病臥と称して参内を延期し、長野や九条家家士の島田左近と連日協議した。やがて間部は井伊の指示を受け、一橋派と関係を深めていた公卿の家人らを次々と捕縛断罪、また全国でも民間の志士を手始めに、幕政を批判する政治運動に関わった人々を死罪等で処刑していった[41]。いわゆる安政の大獄の始まりである。
こうした中、安政5年7月6日(1858年8月14日)家定が没し、12歳の慶福は第14代将軍となり家茂を名乗った。
天皇は無断での条約調印について幕府の釈明を求める沙汰書を発し、それは家茂が将軍になった同日、勅使の権大納言・二条斉敬から江戸城にいた井伊の手元へ届いた[42]。沙汰書は御三家並びに大老へ、 釈明のため早々に上京するよう天皇自ら命じていた。しかし井伊は「三家は処分中であり自分は政務多忙で、何れも上京できない」と拒絶、「そのうち使いの者 が上京し説明する予定である」旨の返事を、2日後の安政5年(1858年)7月8日に朝廷へ送った。また井伊は間部を通じて、幕府の否応なかった対外調印 の意図を朝廷へ繰り返し説明させた。他方で井伊は賄賂を使って関白・九条尚忠を徒党に引き入れさせた[1][2]。そして井伊は、禁裏付の岩村田藩主・内藤正縄に命じ天皇へ譲位を要請した[1][2]。しかし井伊の朝敵行為は太政大臣・鷹司政通や左大臣・近衛忠煕、右大臣・鷹司輔煕らが天皇を輔弼した為、頓挫した[1][2]。対して井伊は、近衛や輔煕、内大臣・三条実万らを辞職させた[43][44][45]。更に井伊は諸大夫らを公職から追い落として江戸へ送り、それぞれに処罰した[1][2]。また井伊は皇族・久邇宮朝彦親王へ不徳と称し寺務を取り消させ、幽閉した[1][2]。
この事態を重く見た天皇は、いずれ鎖国に復帰するという条件のもと、条約調印が切羽詰まった措置であったという井伊の弁明に一通りの理解を内々に示 した。朝廷内も公武一和のため幕府の行いを渋々認めたことで、幕府へ批判的な一派は勢いを挫かれた。しかしこの時、朝廷との折衝に当たった間部は再攘夷の 準備段階と説明した故[46]、南紀派で占められていた幕閣はこの内容を尊皇攘夷論者含む一橋派[47]へ公表し辛くなった[48]。他方、井伊による粛清対象は日を追うごとに加増し総勢100名以上へ上って行った[49]。
水戸では、密勅への対応をめぐって藩論は紛糾し始めた。前水戸藩主・斉昭は永蟄居処分、同藩主・徳川慶篤も隠居・謹慎させられ、且つ同藩家老・安島帯刀らも切腹等重い冤罪[50]を受けていた。そこに、水戸藩は大老・井伊の仕切る幕政から『戊午の密勅』の朝廷への返還を求められた。水戸藩側の密勅降下謀議という嫌疑は無実の罪にも関わらず[50]、同藩士らは主君の処分解除のため幕府へ恭順を示さねばならなくなった。同時に密勅返納を断固認めない尊皇論者の抵抗があり、同藩内の膠着状態は続いた。これを見た幕府は、自ら返還を促す勅命の草案を作って天皇の同意を得る方針に転換した。水戸藩論は二派に別れ、将軍(実権的には大老・井伊)からの密勅返還要請にも容認姿勢の大義名分保守派・諸生党と、称・副将軍先行を主張する尊皇攘夷急進派・天狗党の間で、与野党化されつつあった。水戸藩庁では斉昭・慶篤間での協議により返納論が主流となりつつあったが、密勅返納阻止と斉昭ら大獄処刑者雪冤(斉昭雪冤)の運動は却って激化した。有志は密かに返納されることを警戒、藩境の長岡宿[51]でたむろし水戸街道を封鎖した(長岡屯集)。小金宿には槍と鉄砲で武装した農民部隊まで加わり、水戸藩士らおよそ3000人が結集した[52][53]。水戸藩庁は同藩士・野村彝之介[54]、金子孫二郎らをこの長岡屯集の解散説得に派遣したが、金子は途中で水戸藩士・高橋多一郎と計り同藩士・関鉄之助、矢野長九郎[55]、住谷寅之介らを西へ向かわせ、天皇から示された密勅の内容通り、その写しを諸藩へ回達させようとした。直ちに行動を開始した彼らは西南雄藩との連合を目指し、安政5年(1858年)10月10日、関・矢野らが北陸路から西に向かい越前藩・鳥取藩・長州藩等へ[56][57][58]、住谷らが中山道から南に向かい土佐藩・宇和島藩・薩摩藩等へ各々遊説に進んで行った[59][60]。また、水戸弘道館内の鹿島神社神官・斎藤監物も彼の部下で神官・宮田齋、雨宮鐵三郎、鈴木齋ら3名をひそかに北陸道から京都・大坂へ向かわせ、密勅にある「諸藩一同群議評定せよ」という天皇の内命通り諸国神官職の者達へその写しを回覧させた[61]。且つ宮田、雨宮、鈴木の3名も又彼らの部下たる有志らを仙台藩や山形地方へ向かわせ、密勅内容の回覧と共に斉昭雪冤に尽力した[62]。安政6年(1859年)3月、薩摩藩士・高崎五六が水戸藩を訪れ、斎藤らと会合して非常事態についての協議を行った[61]。斎藤はことさら前藩主・斉昭への恩義の念が深かった為[63]、安政6年(1859年)7月、高松藩主へ斉昭雪冤の嘆願を行った。又、斎藤は長岡屯集に際して神官140名連名書を水戸藩主・慶篤へ提出、密勅返納不可と幕府専横抑制を陳情したが回答は得られなかった[64][65]。
安政6年(1859年)5月、江戸の小石川・水戸藩邸及びその支藩の動因した大発勢が生じ、長岡屯集と一体になった兵士数は更に膨れ上がっていた。水戸藩士・佐野竹之介[66]はこの隊中に加わり、また金子と高橋の意見で下総・八幡宿に屯していたが、やがて江戸へ向かい小石川・水戸藩邸で密勅を奉じるのと同時に同藩邸を警護、斉昭雪冤運動を行った[67]。結局、長岡屯集は水戸藩上層部からの工作により懐柔されて失敗、一部の尊攘急進派・同藩士らは活動の中心を江戸へ移した。又残った一部の尊攘急進派・同藩士らはのち元治元年(1864)3月筑波山で挙兵、天狗党を結成する事になった[68]。
安政7年(1860年)1月15日、井伊はこの日[69]江戸城へ登った水戸藩主・慶篤に対し重ねて勅の返納を催促、同年1月25日を期限とし、もし遅延したら違勅の罪を老公・斉昭へ着せ、同藩を改易するとまで述べた[70]。このため、水戸藩の対応には寸刻の猶予もなくなった。水戸で永蟄居中の斉昭は事態を危惧し、「もし朝廷と幕府の間に戦があれば(将軍ではなく)天皇を奉れ」との水戸家訓[71]に従うべく家老・大場一真斎から、水戸城内の祖廟の元へ密勅を納めさせた[72]。また更に安全な場所にとの同藩士からの陳情により、密勅は水戸より六里(約23.56キロメートル)北で、歴代同藩主の墓のある瑞龍山[73]の廟へ移された[74]。
以前より尊攘急進派の水戸藩士・高橋多一郎や金子孫二郎らと、薩摩藩在府組の薩摩藩士・有村次左衛門らは、双方の藩に仕えた士・日下部伊三治[75]を介した結合を維持していた。江戸へ着いた尊攘急進派の水戸藩士は、薩摩藩在府組から薩摩藩主・島津斉彬による藩兵数千人規模の率兵上京計画を打診された[76][77]。そうして江戸での大老誅戮による義挙と同時並行的に、天皇の勅書を以て御所警護と幕政是正(即ち尊皇・攘夷)を行おうとする東西義挙計画が、彼らの間に持ち上がった[78]。他方で、帰国した薩摩藩在府組からこの目論見を聴いた薩摩藩郷里組は、江戸義挙を黙認しつつも自藩の直接関与を抑制する陰謀をとった。薩摩藩主・斉彬急死後[79]急速に実権を握った同藩主実父の同藩士・島津久光[80]は、息子である同藩主・島津茂久より直書で脱藩突出を計画した精忠組へ後日を期して思い留まるよう説諭させ、同藩内の尊攘急進派を沈静化させた。薩摩藩から尊攘急進派の水戸藩士らへこの事は知らされなかった[81][82]。
安政7年(1860年)2月夜半、返納容認論者の水戸藩士・久木直次郎[83]が江戸で、何者かに襲撃された[84]。また水戸城下の魂消橋で返納反対派を鎮圧しようとした藩屏が彼らへ発砲を加え、水戸市街は大騒ぎとなった[84]。安政7年(1860年)2月24日、密勅返納を命懸けで止めようとした水戸藩士・斎藤留次郎が次の辞世を書き残し、水戸城・大広間で割腹自殺したため返納は延期された[85][84]。
いたずらに朽ちぬ身をもいまはただ国の御ために数ならずとも[84]
一方、幕政是正の為には井伊への天誅が必要不可欠と考えた一部の尊攘急進派・水戸藩士達は、関東における義挙を単独でも実行する方針を固め、井伊暗殺計画の準備を進めていた[86]。
安政7年(1860年)、水戸藩士・高橋、金子[87]は水戸で『井伊誅戮計略書』をしたため、同藩士・黒澤忠三郎[88]、佐野竹之介らにそれを渡して薩摩との連携のため江戸へ向かわせた[89]。それは全10か条からなったとされる。[90]
一、斬奸期日は安政七年二月十日前後とする
一、薩摩より兵士三千名を率いて京師守護
一、斬奸の上首級は馬にて南品川まで運びそこから船路
一、浅草観音に夜五ツ頃百度参りし「かん」と問えば「おん」と答える
一、ぶら提灯の上に桜一輪つける
(以下5か条は不明)[90]
この他に江戸への出府者の潜伏場所や相互の連絡などを、この計略書は定めた。高橋は自らに捕史がまわる気配を察知して、嫡男で水戸藩士・庄左衛門[91]をともなって安政7年(1860年)2月18日朝、水戸の家を脱出した。この際、多一郎が有司へ送った一書に「老公(斉昭)らへの冤罪の痛憤で寝食安んぜず、同志と申し合わせ様々に雪冤の周旋をしたが幕吏の腸は一朝一夕で挽回できず、また老公を侮辱されたとあっておめおめ生を
水戸藩士・金子孫次郎は藩からの召喚こそ免れたが、決行期日が迫ったので藩庁へ脱藩状を届けた。安政7年(1860年)2月18日、金子は勝栗、銚子に土器で武家の嗜み通り門出を祝い、妻女へ「兼ねがね申す通り、われらこの度の旅立ちはひたすら尊王の大義と、また前様(斉昭)への冤罪を
雪辱し奉らんとするものである。生きて再びそのもとを見る事も叶わないと思うが、われ亡からん後は、子供を生い立て文武忠孝の道を励まし、われらの志を継
がしめられよ」と述べた。また金子は軸の太い筆で傍らの襖に、文字の跡が躍り出るばかりに大書した(後述)。先ほどからその様子をみていた11歳になる4
男・芳四郎[93]は「
帰るさの路や絶えなん白雪の故里をかく出でて行く身は[96]
同藩士・稲田[97]は 義挙の図りを打ち明ければ家族に引き留められるだろう事を鑑み、安政7年(1860年)2月18日、いよいよ出発の時に臨んでいつものよう家内と酒を酌み 交わして、何気ない体で「この度止むを得ない用事があってちょっと江戸まで行って来るが、少し手間がかかるかもしれない。しかし決して気遣いには及ばな い」と穏やかな顔つきで、何ら憂慮の顔色を表さずに妻子へ言った。このため稲田の妻子も、彼を怪しまなかったという[98][99]。安政7年(1860年)2月18日夜、金子孫次郎は嫡男・勇次郎や、稲田、同藩士・佐藤鉄三郎、飯村誠介[100]らを伴って江戸へ向かった[90]。金子らは那珂川を渡り、田谷村の田尻新介邸に憩い、やがて小塲村の安藤幾平邸に移った。この日、同藩の有司が金子と高橋を捕縛するという説があったので長岡屯集はこれを聞いて憤激し、孫次郎と高橋を擁して去ろうと20名程が一挙に水戸へ押し寄せた。藩の方でも兵士数百名を出していたので、水戸・紺屋町[101]で長岡勢と衝突、互いに斬り合いとなった。このとき同藩士・林忠左衛門[102]を初め、長岡勢にも2、3人の負傷者が出た[103]。長岡勢は藩屏を破り、安政7年(1860年)2月18日午後8時ごろ金子邸のあった中之町へ行ってみると、既に孫次郎も高橋も前日去った事が分かった為、一同は大いに安心したと見え門外に出て鬨の声を挙げ、また長岡へ引き返した[104]。同年同月19日、孫次郎が安藤邸に滞在していると、同志から昨夜の紺屋町衝突を告げられ油断できないと彼らは考え、同年同月20日未明、下國井村の岩之進という人物を道案内にして小塲村を出発[105]。この際、孫次郎は数人同行を失敗の元として勇次郎と飯村へ1日遅れで後からくるようそこに残らせ、且つ自らの名を西村東衛門[106]と変えた。風雨の烈しさを幸いと小荷駄に乗り、稲田と佐藤の2名を従えた孫次郎は、笠間を経て稲田村に着き、岩之進の懇意な真壁郡鬼怒川沿岸の薬屋・塚田清兵衛邸に泊まった[107]。この頃、関東八州(関東地方) の取締りが出張し同村辺りで強盗捜索をしていたが、取締り方は塚田宅に昨夜4名が泊まった事を聞いたので主人の塚田を呼び出し尋問した。塚田は「水戸様の 御家来」と保証したが役人はまだ疑っている様子だったので孫次郎一行が滞在を続けていると、同年同月22日の晩、そこへ勇次郎と飯村が到着した。勇次郎は 生死を共に孫次郎と同行するよう告げたが、孫次郎はこれを制した。且つ、孫次郎は「先に出て大事を遂げよ」と勇次郎へ命じた。勇次郎が容易に立ち去ろうと しなかったので、孫次郎は桜井の駅の故事を引き、楠木公が正行公を河内へ返したのは死ぬのみが忠義ではなく、生き残り、父に万一があればその志を継いで天朝と主君に尽くすよう忠孝両全の義理を話した所、涙を呑み勇次郎は御意とたち別れていった。夜間2名が出入りした所を更に怪しんだ取締り方は塚田邸を取り囲み、塚田から孫次郎に理由と行き先を尋ねさせた。孫次郎は水戸藩よりお尋ね者[108]の 行方捜索に来たと塚田から取締り方へ告げさせ、かつ役人側に疑いがあれば自ら面会・陳述する由を伝えさせた。このとき稲田は、万一孫次郎の身の上に禍があ れば天下の大事が敗れるので、稲田が孫次郎の名を騙り説明のため表に出て、取締り方の旅館へ取締り方らと共に集まった間に、佐藤は孫次郎を連れて塚田邸を 立ち退くよう佐藤へ計らった。佐藤もこれに賛成したが、孫次郎はこの話中の無言を破り、稲田案に任せると答えた。その後、塚田が返ってきて言うには御家来 自ら出て面談する旨を告げると役人の疑念は晴れたというので、一同は虎口を逃れた心地がしたという[109]。同年同月23日に同所を白昼に出、その晩、結城泊。同年同月24日、古河[110]で旅の疲れを癒すべく一同は酒を飲んで閑話中に臥した。同年同月25日、岩之進を下國井村へ帰し、孫次郎ら3人は宿駕籠に乗って草加駅より王子へ向かい、その日の日暮れ頃、先発委員の水戸藩士・木村権之衛門が旅の宿に手配していた、江戸・神田は佐久間町の岡田屋へ着いた。同年同月26日孫次郎らの所へ薩摩藩との連絡役でもあった木村がやってきて、諸々の打ち合わせ後、この日から薩摩藩士・有村雄助と有村次左衛門兄弟の計らいで三田・薩摩屋敷へ彼らは移った。[111]この屋敷は江戸にいたはず在府組が疾うに薩摩へ帰国していたので、がら空きだった。[112]
水戸藩士・関へ召喚状が水戸藩庁から届いた。しかし、関は既に脱藩の覚悟を決めていた[113]ので、早速旅装を調えて早朝、自宅を抜け出し江戸へ走った[90][114]。関は水戸に妻子があったが、好男子でもあったので江戸の芸妓・滝本いの[115]から恋慕されており、且つ情を通じていた[116]。関はこの滝本の家があった江戸の京橋・北槇町へ寄宿した[117]。
格式高い常陸二の宮神官・斎藤は安政7年(1860年)2月20日前後、桜田義挙のため佐々木馬之介と浪人風に名を変え[90]て家を出たが、家族愛の絆が断ち切れず一旦家を出たのに再び家へ立ち返り、次男・
増子は居合が家業、金子と高橋領袖の縁類でとうに相互理解、両領袖の意を受け江戸で偵察探聞へ奔走していた。増子は嘉七がた(後述)に投宿、同志の潜伏する家を用意していた。[124]
また安政5年(1858年)の前水戸藩主・斉昭幽閉時に幕吏から斉昭への嫉み甚だしく、幕吏が斉昭を殺害するとの風説が専らだった際に、鉄砲師の父 を持つ杉山は江戸・水戸藩邸警護を志願したが身分が低い為その選に漏れた。これを残念に思った彼は忍びやかに江戸入りし、夜な夜な水戸藩邸界隈を徘徊して 陰ながら同藩邸を守っていた。その時の歌に、
うばたまの夜はよもすがら忍びつゝ守るは君のためとこそ知れ
とある。その後、長岡屯集に加わって返納阻止運動をしていた杉山はやがて増子と一緒に江戸へ来て、下総国香取郡・津宮村、窪木縫殿衛門[125]と共に江戸・馬喰町2丁目井筒屋の嘉七のところへ潜伏、井伊家の動静を伺っていた。杉山は井伊大老の出仕時刻や供廻りの如何までも探知、悉くそれを同志へ報せた。[126]
水戸藩士・岡部三十郎は江戸在勤の父[127]の元で育ったため江戸っ子肌、結城の着物に唐桟の羽織、博多の帯に矢立をはさみ、前垂れをかけ雪駄を突っかけ歩いている様子などはどう見ても頑丈な水戸っぽ侍ではなく、日本橋辺りの商人だった[128]。この為、岡部はこの町人のいでたちで諸方へ立ち回り偵察探聞に勤めていたが、江戸では誰も彼が水戸人たるを知る者はいなかった[129]。
安政7年(1860年)2月23日夜、水戸藩士・大関和七郎の家[130]へ同士・山口辰之介[131]が
やってきて潜んだ。山口は自らの大小の刀が余り良くなかった為「どうか君の差し換えを一腰譲って貰いたい」と大関へ言った。大関は数本の刀を取り出し「こ
の内からどれなりと良いものを取り給え」と7、8腰みせた。山口は備前物か何かを取り出し「これを一腰願いたい」と大関へ告げ、また太刀を贈られた礼にか近くの白屏風へ辞世を書き付けた(後述)[132]。また水戸藩士・広木松之介は常に大関へ随従して行動した[133]。
大関家は裕福であった為、和七郎はこの時点から前後の運動時に古金の150両程を売って費やし、且つこの出発に際しても古金7枚を持って行った。同年同月
25日夜半、大関は山口と共に出発しようとしたが、使いの者に町木戸(関門)を見てもらいに行くとそこが閉ざしてあった為、産婦の薬を買いに行くとして使
いの者から町木戸を開けさせ、その後から2人が出て行った。大関は町人風に髪を剃り落とし、大小の柄も鞘も鍔も皆取り外し、萌黄色の風呂敷になるだけ小さく包んで、酒泉好吉と名を変えた。山口は見送りの大関家・妻女を顧み、「自分共は数にも足らない冷や飯の身分[134]であるが、大関君のような歴々一家の当主でこの始末は御心中察し入る、水戸の
君がため我が里いでて武蔵野に紫にはふ花とちらなん[137]
と詠んだ[138]。彼は国家の為に井伊を討つ決心をし単独で江戸入り、乞食を装っていた。ある日、彼は赤坂で井伊と喰い違って出合乗り物へ銃撃を試みたが、逆に大勢の追っ手から追い詰められ、堀へ飛び込んで難を逃れた。その後、彼は斎藤と出会った為、同士に編入した[139]。
水戸藩士・蓮田一五郎は、幼年のころ父が亡くなり、母により養育された[140]。また蓮田は篤学、貧しい下士の家で灯り代や筆、紙にも事欠く生活の中で自分の食事を減らしその分を勉学用のともし火代に当てるよう母に頼むほど向学心が強く、かつ幼い頃から孝養を尽くした[141]。蓮田は水戸藩・軍用方小吏、寺社方を経て、職務上に斎藤と知り合い、彼の思想に共鳴した為、母と姉にそれとなく別れを告げ、江戸へ出た。この江戸行きの旅間に蓮田が作った、故郷の母を想って詠んだとされる複数の和歌が残されている(後述)。[142][143]
増子と杉山、岡部は、桜花を描いた提灯を作り、浅草寺の百度参りを装って何度も江戸入りをしてくる面々を「かん」「おん」の合言葉で迎え[144]、安政7年(1860年)2月末までには要撃の面々があらかた出てきたのを見届けた。[112]
彼らは一か所に多数で泊まれば疑われるのを予想、海後は江戸到着の2日後、品川へ宿を移した。関は浅草、吉原、京橋へ転々とした。これらにも関わらず、同士らは一様に町奉行の目をかわすのに苦労していた。[112]
薩摩屋敷では金子孫次郎らと有村兄弟が談義をかさねた。先ず彼らは水戸・薩摩とも大量参加者は見込めない事を再確認し、当初予定の斬奸期日を同年2月28日に延期した[112]。斬奸者らは候補にあげていた井伊側近の老中で磐城平藩主・安藤信正[145]や井伊の娘千代子を正室へもらった高松藩主・松平頼胤[146]を外し、井伊一人に絞り込んだ[112]。また薩摩の有村次左衛門(23歳)と水戸の佐野竹之介(21歳)とは気象が似ており、2人は薩摩藩邸で仲良くなった。次左衛門と佐野どちらが井伊の首を取るか2人で言い合いになった折、佐野はどこからか硯箱を持って来て、佐野の右手に太刀、左手に井伊の首を抱いた図にあら楽し思ははれて敷島の大和の道の開けそめけむと添え描き付けた[147]。
期日が迫ったが金子はなお熟慮の粘りを見せ、斬奸絶対成功の為、烈士らへ軽率を避けさせた。[112]
安政7年(1860年)3月1日、金子は日本橋西河岸の山崎屋に関や斎藤、有村、稲田、佐藤そして薩摩藩との連絡役の水戸藩士・木村権之衛門を呼んだ上で、挙行は3月3日桃の節句とし[148]、要撃は登城中の井伊を桜田門外で襲うべし、と最終決断を下した[112]。この他に金子は、武鑑を携え四、五人を一組とし相互連携すべし、先ず先供を討つべし、駕籠脇が狼狽する隙に大老を討つべし、大老の首級を挙げるべし、負傷者は切腹か閣老へ自訴すべし、その他の者ただちに薩摩藩との次の義挙計画の約束[149]通り天皇警護に京へ趣くべしと定めた[112]。又、できるだけ生き延びて次の仕事の機会を待つ、という申し合わせも同志らは行った[150]。更にこの時、烈士は面々の役割と斬り込み隊の配置も定めた[151]。金子は全体統率、関は現場指揮、彼らは斬り込み隊へ加わらず皆の監督役とし、水戸藩士・岡部三十郎と同藩士・畑弥平は結末を見届けたのち、品川の川崎屋に待機した金子へ結果報告する事とした。斬り込み隊の配置は、井伊邸[152]へ向かって右翼即ち江戸城の堀に面した側へ常陸神官・海後や水戸藩士・広岡子之次郎[153]、森山繁之介[154]、稲田、佐野、大関。左翼即ち松平親良邸[155]側へ水戸藩士・山口辰之介、杉山、増子、黒澤、薩摩藩士・有村とした。後衛に常陸神官・鯉渕、水戸藩士・蓮田市五郎、広木を配し、前衛には水戸藩士・森を当てた[151]。また常陸神官・斎藤は襲撃に直接参加せず、事変後に一同を率い、烈士連名の『斬奸趣意書』を然るべき藩邸へ提出する役目とされた(後述)。広岡は20歳と烈士最年少ゆえ、生きて帰れない挙に打って出る事を思い留まるよう周囲から説得されたが、彼は「一国の大事を処するには、年齢は問題でない」と言い、且つ突如片肌を脱ぎ切腹しかけた為、襲撃隊参加を他烈士らより認められた[156][157]。この会合の際、山崎屋で水薩両藩士らは『烈士絶筆』を残した[158]。
また次左衛門は安政の大獄で刑死した士・日下部伊三次の一人娘との縁談を、伊三次の未亡人・静子より薦められていたが、「少々考える所が御座る」とかつて断っていた。安政7年(1860年)3月2日の義挙前日、次左衛門は日下部家へやってくると「水戸藩士・佐野、黒澤らと申し合わせ、天下の為、井伊掃部頭殿(井伊直弼) を討ち果たし申すべく計画が御座りましたので、どうせ長く持って半年、1年の命でどうして縁談をお請けできましょうや。その手筈は一致、いよいよ明日の御 登城を桜田門外に待ち受けて御首を申し受ける事と相成りました。ご令嬢によき婿、貴方様にも御長命の程を願い申し上げます」云々と言った為、静子は「それ はそれは御大望、どうぞ首尾よく御し遂げの程、神かけ願い申します」と答え、勝栗、熨斗昆布を整えた上で当の伊三次の娘も呼び入れて訣別の盃をあげ、共に 出陣の門出を祝った[159]。
安政7年(1860年)3月2日同日の夕刻、品川・相模屋の奥座敷にはすでに酒宴の膳が並び、早い者は座に着いていた。この夜列席したのは桜田十八士を含む19名だった[160]。面々が一堂に会するのはこれが最初で、しかも最後にもなった。斬奸期日が遂に明日と決まった中、面々は改めて義挙成就を誓い、酒盃を交わした[151]。又この日、面々は小石川・水戸藩邸の目安箱へ、脱藩届けを投げ入れて来た[72]。
安政7年3月3日(1860年3月24日)の早朝、烈士一行は決行前に訣別の宴を催して一晩過ごした東海道品川宿[161]の旅籠を出発した。又この朝までに、彼ら水戸藩士らは脱藩届けを出し、浪士となった[162]。この日いわゆる雛祭りのため、在府の諸侯は祝賀へ総登城することになっていた。水戸浪士一行は東海道[163]に沿って進み、愛宕神社[164]で薩摩藩士の有村と待ち合わせた上で、桜田門外へ向かった。生憎この日は明け方から雪模様でもあったため一時は大きな牡丹雪が盛んに降り、辺りは真っ白になった。しかし、斬り合いの時刻には雨混じりの小雪で、やがて薄日が射した[165]。[166]
十八士ら[167]が現地へ着いた所、既に沿道には物見高い江戸っ子が武鑑片手に、登城していく大名行列を見つめていた。襲撃者たちは同じく武鑑を手にして大名駕籠見物を装い、井伊の駕籠を待った。物見客相手によしず張りの燗酒屋が店を出していた為、面々のなかには調度いいと景気酒を一杯引っかける者もあった。海後は懐中からとりだした当時流行の気つけ薬・勝利散[168]を佐野と分けてのんだ。大関は懐から紙包みを取り出すや、包んであった人参をぽりぽりと食べ、皆に分け与えた。彼は甥の広岡と何やらひそひそ話し、くすくす笑って同士らの固くなった気持ちを和らげた[169]。堀に面した物見客の中には、傘を差し、半合羽姿の関が居た。彼も武鑑を開き如何にも見物人かの如く装った。[72]
午前8時、登城を告げる太皷が江戸城中から響いた。それを合図に諸侯が大名行列をなし桜田門をくぐって行った。尾張藩の行列が見物客らの目の前を過ぎた午前9時ころ、井伊家の赤門が八の字に開き、井伊の行列は門を出た[5]。井伊邸から桜田門まで三、四町(327から436メートル)、彦根藩の行列は総勢60人ばかりだった[4][5]。[72]
雪で視界は悪く、彦根藩護衛の供侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄、鞘ともに袋をかけていたので、それは襲撃側に有利な状況だった。また江戸幕府が開かれて以来、江戸市中で大名駕籠を襲った前例はなく、彦根藩行列の警護は薄かった。尤も井伊の元には以前より不穏者ありとの忠言が届いていた上、当日の未明にも直接の警告があったが[170][171][172]、護衛の強化は失政の誹りに動揺したとの批判を招くと井伊は判断し、敢えてそのままに捨て置いた[173][174]。井伊の乗り込んでいた駕籠は彦根藩邸上屋敷[175]の赤門を、刻み足で出た。彦根大名行列は内堀通り沿いを進み、江戸城外の桜田門外[176]へ差し掛かったとき、烈士からの襲撃を受けることになった。[72]
22歳の若い水戸浪士・佐野はこの行列が門を出るなり早くも羽織の紐を解き始め、「まだまだ」と年上の水戸浪士・大関から諫められた。先供が松平親良邸[155]に近づくと、突如前衛の水戸浪士・森が駕籠訴を装って、行列の供頭へ駆け寄った。森は「捧げますぅ、お願いの筋がござりまするー」と叫び[5]、懐中から書状を取り出して彦根藩の行列へ強訴に及んだ。こうして寸刻後、俄かに群衆がざわめきだした。[72][177]
この森の大芝居に、取り押さえに出た彦根藩士・日下部三郎右衛門は「何者かっ、無礼者」と制止しにきた[5]が、森は即座に斬りかかった為、日下部は面を割られ前のめりに突っ伏した。先供が惨殺されたのを見た彦根藩士は「狼藉者ぞぉ」と叫んだ[5]為、行列はすぐ総崩れとなった[4]。こうして護衛の注意を前方に引きつけた上で、水戸浪士・黒澤忠三郎[178]が合図のピストル[179]を駕籠めがけて発射した。[177]
発射された弾丸によって井伊は腰部から太腿にかけて銃創を負い、独自に修錬した居合を発揮すべくもなく、動かなくなった[180][181]。それを合図に、沿道の両側から抜刀した十五名の水戸浪士[182]と一名の薩摩藩士が一斉に行列へ襲い掛かった。突然の襲撃に驚いた丸腰の駕籠かきや草履取りは勿論、行列に群れていた彦根藩士ら[183]の多くも算を乱して遁走した[184]。残る数名の供侍たちが井伊の入った駕籠を動かそうと試みたものの、彼らも銃撃で怪我を負ったうえ次々襲撃側に斬りつけられ、駕籠は雪上に放置された。護衛の任にある彦根藩士らは、べた雪の水分が柄を濡らし刀身が湿るのを避けるため両刀に柄袋を掛けており、銃創と鞘袋が邪魔して咄嗟に抜刀できなかった[185]。このため鞘のままで抵抗したり、素手で刀を掴んで指や耳を切り落とされるなどしながら、彦根藩士らは早くも数名斃れた[186]。[177]
桜田門外はたちまち修羅場と化したため、当初は斬り込み隊に加わらず『斬奸趣意書』の提出役だった斎藤までもいつしか熱くなり[187]、遂に我慢できず乱闘の渦中へ駆け込んでいた[188][177]。
こうした防御者側に不利な形勢の中、彦根藩の目付で二刀流の 剣豪・河西忠左衛門は冷静に合羽を脱ぎ捨てて柄袋を外し、襷をかけて刀を抜きつつ駕籠脇を守って水戸浪士・稲田と争い、さらなる襲撃を防ごうとした。同じ く駕籠脇の若手剣豪・永田太郎兵衛も二刀流で大奮戦し、襲撃者に重傷を負わせた。しかし、河西は斬られ、永田も銃創が酷く闘死した[189][190]。
十八士側では予め計画、一部は先御供、他の一部は後御供に撲り込みをかけ、彦根側がそれに気を取られて駕籠を離れる隙を狙って井伊を斬る手筈だったが注文通りに事は進んだ。[191]
駕籠かきは早々と退散し、もはや護る者のいなくなった駕籠周りはがら空きだった[5][192]。そこを目がけて先ず稲田が刀を真っ直ぐにして一太刀、駕籠の扉に体当たりしながら井伊を刺し抜いた[193]。しかし広岡、海後が続けざまに駕籠を突き刺した。こうして次々と襲撃者の刀が駕籠へ突き立てられた。この間、稲田は河西による刃で討ち死に、河西も遂に斃れた。更に、有村が荒々しく駕籠の扉を開け放ち、中で虫の息となっていた裃姿の井伊の髷を掴み駕籠から引きずり出した[194]。井伊は既に血まみれで息も絶え絶えであったが[191]、無意識に地面を這おうとした。有村が発した薬丸自顕流の猿叫(「キャアーッ」という気合い)と共に、振り下ろした薩摩刀によって井伊は斬首された[195]。事変の一部始終をつぶさに見ていた水戸藩士・畑は、襲撃から井伊の首級をあげるまで「煙草二服ばかりの間」とのちに述懐した為、襲撃開始から井伊殺戮まで、僅か十数分の出来事だった。[191][196][197]
有村は刀の切先に井伊の首級を突き立てて引き揚げた。「よかよかー」と薩摩弁で大音声を発した有村の勝ち鬨の声[198]を聞いて水戸浪士らはみごと本懐を遂げた事を知った。が、急ぎ彼らが現場を立ち去ろうとしたとき、既に斬られて昏倒していた目付助役の彦根藩士・小河原秀之丞がその鬨によって蘇生し、主君の首を奪い返そうと有村に追いすがった。米沢藩邸前辺り[199]で、小河原は有村の後頭部に斬りつけた[200]。すぐさま有村の助太刀へまわった水戸浪士・広岡らによって小河原はその場で斬り倒されたが、現場に隣接する杵築藩邸の門の内側から目撃した人物の表現によると、小河原が朦朧と一人で立ちあがった直後、数名の浪士らから滅多微塵に斬り尽くされた有様は目を覆うほど壮絶無残だったという。一方、この一撃で有村も重傷を負って歩行困難となり、井伊の首を引きずっていった。また別の目撃者(会津藩士・石沢源四郎)の述懐によれば、有村は雪の積もった中に黒い死体が点々とある現場を脱出、やがて辿り着いた竜ノ口[201]の 滝がある場所を背景に胡坐をかき、短刀一本を持っていた。有村は腹を斬るため有村自らの着た稽古胴を斬ろうとするが力失われ斬れず、稽古胴を脱ごうとして も脱ぐに脱げずにもがき、やがて短刀を雪の中に突き入れ、自分がそれへ乗し掛って死のうとしたが死ねなかった。有村の近くに置かれた稽古胴の中に井伊の首 が入っており、有村はその髻を掴んで引き出し、眺め、また胴着に入れた。そして有村は短刀の上に再び乗って死のうとしたがやはり巧くいかず、最早精神尽き 果ててはいるが、己の希望を達した様子で井伊の首級を取ってそれを眺めていた。有村は周りに立っている者をしきりに拝み、首をやってくれという風をした が、誰もやる者がいなかった。有村はどうしても死ぬことが出来ないので前にある雪を取って口に入れた[202]。こうして、有村は若年寄・遠藤胤統邸の門前で自決した[203](後述)。小河原は救助され、藩邸にて治療を受けるが即日絶命した。現場跡には、水戸浪士で唯一その場にて討ち死にした稲田の他、数名の彦根藩供侍[204]と首のない井伊の死体が横たわり、雪は鮮血で赤に染まっていた。[198]
海後は事変後、現場を少し行くと後ろから声をかけてきた者がいた。顧みると井伊の首級を刀の切っ先に貫いたままの有村と広岡が歩いてきた。それから海後、有村、広岡で日々谷見附を通行していると、棒を持った者[205]が 3人ほど居たが、彼らを敢えて追って来なかった。広岡は歌詞を吟じながら歩いて行った。また海後は八重洲橋を渡って行くと、一人の男が橋の上に座って喉を 刀で突こうとしているのを見た。その男は重傷でよろけ、刀が逸れるのを自分の手が震えるからと思わず、刃こぼれの為と思う風でその切っ先を自らの喉へ当て ようとしてよろけていた。襲撃に参加した水戸浪士・山口だと気づいた海後は、声をかけ力をつけてやりたかったが、前々からの約束で「手負いに声をかけず手 もかさず、逃れるだけ逃れ次の計画のため働け」となっていたので、海後は山口を敢えて見捨てて先を急いだ(後述)[206]。竜ノ口に到った頃、有村と広岡は深手により歩行できなくなった。やむなく海後は2人と別れ、藩屋敷へ自訴しようとしたが門が閉じられており、それも叶わなかった。もう一度、竜ノ口へ戻ってみると、有村と広岡は既に前に突っ伏し、絶命していた。[207]
指揮者役の水戸浪士・関は傘を手に、これら変の一部始終を悠然と見届けていたとされる[208]。
襲撃の一報を聞いた彦根藩邸からは直ちに人数が出撃したが時既に遅く、やむなく人員を割いて死傷者や駕籠を収容、更には鮮血にまみれた多くの指や耳たぶ、数本の腕、落ちていた雪まで徹底的に回収した[209]。井伊の首は前述の遠藤邸に置かれていた[210]。所在を突き止めた井伊家の使者が返還を要請したが、遠藤家は「幕府の検視が済まない内は渡せない」[211]と5度までも断りその使者をすげなく追い返した[212]。そこで井伊家では表向きは闘死した藩士のうち、年齢と体格が直弼に似た加田九郎太の首と偽り[213]、貰い受ける体面案を練った[214][215]。最後にこの案を呑んだ遠藤家では自分から公式の使者を立て、事変同日の夕方ごろ直弼の首を井伊家へ送り届けた[212]。その後、井伊家では「主君は負傷し自宅療養中」と事実を秘した文章を幕閣へ提出、井伊の首は彦根藩邸で藩医・岡島玄建により胴体と縫い合わされた[194]。
安政7年3月3日(1860年3月24日)、最初に駕籠目がけて斬り込んだ水戸浪士・稲田重蔵(48歳)は、彦根藩士の河西忠左衛門(30歳)から斬り倒され、襲撃者側でただ一人戦闘中討ち死にした[216][217]。その他の襲撃者らは井伊の首級を揚げたのを確認後、共に現場を去って日々谷門へ向かった。薩摩藩士・有村次左衛門(23歳)は戦闘で首級を取ったが深手を負い、井伊の首を手にし現場を去りがけに、米沢藩邸前の東角で追い縋ってきた彦根藩士・小河原秀之丞(30歳)より背後から斬りつけられた。水戸浪士・広岡子之次郎(20歳)らは井伊藩士と激しく斬り合った為重傷を負っていたが、助太刀に回ってこれを制し小河原に止めを刺した。有村は井伊の首級を手に、烈士最年少の広岡と共に和田倉御門を抜けたが、竜ノ口で力尽き若年寄・遠藤胤統(遠藤但馬守)邸前で雪を口に含み自決した[218]。広岡は有村が首級を挙げたのを確認して後、日比谷門から八代洲の河岸を抜けて、竜ノ口を通り姫路藩・酒井家(酒井雅楽頭)の屋敷外まで辿り着いた所で力尽き、自刃し果てた[219]。この時、広岡の自刃を目撃した姫路藩士から彼は「潔き死にぶり、何れも感服致し候」と讃えられた[156]。また水戸浪士・山口辰之介(29歳)は果敢に井伊の行列へ斬り込んだ為、殆どの彦根行列士卒が恐怖の形相で遁走する中、辛うじて踏みとどまった数名の彦根藩士による必死の反撃で重傷を負っていた。襲撃者側で最高齢の水戸浪士・鯉渕要人(51 歳)は、井伊警護との激しい斬り合いでやはり重傷を負っていた。深手を負った山口は引き揚げ途中、八重洲橋の上で海後(当時32歳)へ介錯を頼んだが、後 から関が来ると海後は先を急いだ。その後、山口は鯉渕と連れ立って日比谷御門を過ぎ、馬場先門と和田倉門の間の濠沿いにある、増山河内守屋敷の角を右へ曲 がり、八代洲の川岸に辿り着くが、鯉渕と共にこれ以上の逃亡は不可能と見、年長の鯉渕が織田兵部少輔邸の塀際で山口を介錯し、かつ自刃した[220][221]。水戸浪士・佐野竹之介(21歳)は奮戦の結果深手を負いながらも、老中・脇坂安宅の脇坂家(脇沢中務大輔邸)[222]へ計画通りに『斬奸趣意書』を手渡し自訴したが、事件当日の夕刻に絶命した。水戸浪士・黒澤忠三郎(31歳)は襲撃隊として参加し、肩と耳、脇の下を負傷したが現場を脱し趣意書を脇坂家へ提出し自訴した。黒澤は幕府に取り調べられ、三田藩・九鬼家へ移されそこで病死した[223]。水戸浪士・蓮田一五郎(29歳)は井伊襲撃の戦闘により負傷後、同様に脇坂家へ趣意書を提出し自訴した。蓮田はその夜、細川家へ預けかえられた[224][225]。水戸浪士・斎藤監物(39歳)は当日、一同を率い趣意書提出の役割であったが戦闘に参加(前述)し負傷、佐野と黒澤、蓮田を率い脇坂家へ趣意書提出により自訴。また斉藤は5日後の同年同月8日、落命した。水戸浪士・森五六郎(24歳)は戦闘で負傷しながらも現場を脱出、熊本藩主・細川斉護邸へ趣意書提出により自訴した。また水戸浪士・杉山弥一郎(38歳)も戦闘で負傷したが、同細川家へ趣意書提出で自訴。水戸浪士・森山繁之介(27歳)は戦闘に参加したが無傷で現場から復帰し、やはり細川家へ趣意書提出で自訴した。細川家はかつて赤穂浪士を扱った際の待遇が良かった由か、森・杉山・森山らも武士の礼節を重んじて温かく出迎えられた。やがて森は臼杵藩・稲葉家へ預けられ、稲葉家家臣らへ語った記録(『森五六三郎物語』)を残した。森山は同年同月9日、一ノ関藩・田村家へ預けられ、また同年4月21日に足利藩・戸田家へ移された。森・杉山・森山らは幕吏からの取調べを受けてから、江戸・伝馬町の獄舎へ送られた(後述)。[226]
大坂で薩摩藩との連絡役であった水戸浪士・川崎孫四郎は幕府に探知され自刃した(35歳)。弟による首取りの勝ち鬨をうけた薩摩藩士・有村雄助と共に、御所防衛の途上にあった水戸浪士・金子孫二郎は、伏見で捕らえられ江戸へ送られた。幕府によって郷里組藩士が捕えられる事を恐れた薩摩藩は、雄助を追尾していた。安政7年(1860年)3月9日夜半、薩摩藩の捕り手は道中の伊勢・四日市の旅籠に雄助が投宿中との情報を探知し、彼を捕縛した。薩摩藩は彼を一時大坂藩邸に移したが、そこも危ないと判断して直ぐに薩摩国へ護送した。万延元年3月24日(1860年4月14日)、雄助は幕府の探索が薩摩に迫ると薩摩藩命によって自刃させられた(26歳)[227]。
襲撃総裁役は金子、現場指揮役は関へ任せ、京都義挙役の水戸藩士・高橋多一郎と同藩士・庄左衛門親子は安政7年(1860年)2月20日に水戸を発ち、中山道・木曽路を経て同年3月6日に大坂着、水戸郷士・黒澤覚蔵[228]を 伴い、薩摩藩兵上京を待っていた。又彼らは前に大坂で状況を探らせていた山崎猟造らと落ち合った。井伊を討ち取り初段の目的は果たしたものの、薩摩藩から の挙兵が期待できない事を知った高橋親子らは善後策を考えねばならなくなった。万延元年3月24日(1860年4月14日)、高橋親子は幕吏の追捕を受け たが、包囲網を突破して四天王寺境内へ逃げ込んだ。高橋親子は寺人へ事情を告げその一室にて自刃した(父・多一郎47歳、子・庄左衛門19歳)[229]。またこれは有村雄助が薩摩藩郷里組の元で切腹を遂げたのと同じ日だった。[230]
水戸浪士・広木松之介は井伊行列隊と激烈な戦闘をしたが無傷だった為、予ての定め通り、一人現場を脱して御所防衛へ向かうが北陸・加賀国より先は幕府の厳重な警戒で叶わなかった。広木は帰郷後、事情を水戸藩士の父に説明したが京都義挙計画を打ち明けられず[231]、 武士かたぎの物堅い父から「一旦死を決して同志と共に大事に与った以上、今更おめおめと帰ってくる法はあるまい。武士の出陣はその日が命日、命惜しさにそ の場へも臨まなかったのだろう、汚い、早く立ち去れ。性根があるならどこへなりと行き同志と共にせよ」と言ったので広木は励まされ[232]、数日後に彼は京都義挙計画の志を強くして再び故郷を発ち御所防衛へ向かった[231]。しかし追手側の詮索が厳しく、彼は能登国本住寺を辿り、航海して越後国佐渡島、再び本州へ帰り越中国を経た[231][233]。 彼は越中のある寺で同志の処刑を聞き、今日逃げるのは明日の義挙の為なのに自ら世の中の事を何もできないと嘆息、独り生をぬすむべきではないとある日、同 寺の主僧へあらゆる物語りをした。広木は人生朝露の如く、今日無事でも明日はどうあるべきか、自分にもし万一の事があれば後世よきにはからって賜れかしと の言葉を残して立ち去った[231]。広木が繰り返し京都義挙を試みていたこの時、越後国新潟で偶々居合わせた水戸藩士・後藤哲之介は越後・新潟に知己が多かった為、広木を助け旅費を用意した上で広木を逃がした。後藤は広木の印形を預かっていたが、文久元年(1861年)常陸国訛りの為幕吏に捕らわれ、かつ所持品から広木の印が見つかったので牢屋へ送られた[234]。役人が取り調べ時に後藤の持った広木印を見て小躍りし「その方は広木松之介であろうがな」と尋ねると、後藤は「拙者はいかにも広木松之介で御座る。昨年3月3日、桜田において井伊掃部頭殿を討ち取ったる浪士の一人で御座る」と言った[235]。後藤と牢で同席した小山春山による[234]と、後藤哲之介輝は広木と同じく常陸国水戸藩・久慈郡和久村の郷士で、勅書返納問題に慷慨し[236][237]国をあちこち駆けていたが、新潟で捕らわれ幕吏より姓名を問われるや広木松之介と答えた。広木は井伊暗殺者と知れていた為、後藤は厳重に警護され文久2年(1862年)5月3日[238]江戸へ送られ、伝馬町の監獄に繋がれた。しかし広木松之介を名乗った後藤へ幕府から尋問もなく、絶食した後藤は文久2年(1862年)9月13日に息絶えた(32歳)[239][240]。後藤は広木から事件の話を聴いていた[241][242]。一方、広木はやがて相模国鎌倉・上行寺へ赴き剃髪したが、先駆義士の3回忌である文久2年(1862年)3月3日に同寺の墓地で切腹していた(25歳)[243]。[244][245]
安政7年(1860年)3月5日、義挙後の水戸浪士・関鉄之介は江戸を出発し、計画通り天皇護衛へ向かった。彼は商人に変装して中山道から大坂へ入った。この途中で関らは神奈川の妓楼・岩亀楼に潜伏した[246]。ここには芸妓最高位の太夫・喜遊がいたが、彼女の父は攘夷論者[247]、同年7月17日に喜遊は外国人に貞操を汚されるのを恥辱とし露をだに厭うやまとの女郎花と詠じ自刃した[248][249]。大坂へ辿り着いた関は高橋親子の最期と、薩摩藩側からの上京の約が果たされていなかった事を知った。以後、彼は海路などを利用し西国各地を旅する事になった。鳥取藩で幕政改革派を頼るがかつての遊説中に得られていた筈の賛同の意は鳥取側になくなっており、山陰、山陽、四国、九州と西国各地を転々とした。彼は薩摩藩からの率兵計画の望みを捨てきれず、長州藩を経て肥後藩・三太郎の居た山を越えて、水俣駅から薩摩へ入国しようとした。しかし既に薩摩藩主の実父・島津久光の命で薩摩の全関所が閉ざされていたため関は薩摩入りできなかった。関はやがて東帰を決め[250]、奥州街道の草加に至りそこで書道の教授をしながら密かに天下の状勢を伺っていた。彼は故郷を忘れがたく常陸へ帰国[251]、安政7年(1860年)7月初旬、水戸藩久慈郡大子町袋田の豪農で関と予てから懇意の郷士格・桜岡源次衛門の納屋に匿われた。桜岡は、かつて藩命で関が担当したこんにゃく会所の裏部屋などを、彼の隠れ処に提供した[252]。ここで関ははからずも、水戸藩士・野村、岡部、木村ら同志と再開した。関は同地・田谷村の田尻新助の家などに隠れて同志と再挙を計った[253]。文久元年(1861年)7月1日の夜、関は棲み処を忍び出て水戸・五軒町の水戸浪士・高橋多一郎の家を訪ねた。高橋の遺族は冥途からの帰還者と逢ったように感じ「まあどうして」と関へ言い、一同は膝を突き寄せ昔語り、夜明けに気づかなかった[254]。関は水戸滞在中息子と会いたくなり高橋家族にその旨を相談したが高橋家から「貴君は大事な体であるので止すのが宜しい」といわれた。しかし関は同年同月7日の晩に、密かに息子へ会いに行った。当時関の遺族は関の妻・ふさの父のいた水戸近郊の中原村[255]・矢矧庄左衛門のもとへ引き取られていた。こうして同年同月8日未明に関は再び高橋家に戻った。なお関は同年同月10日まで高橋家に居たが、その間、水戸浪士・山口辰之介の甥・徳之進(のち男爵・山口正定)が高橋家を尋ねてきて、種々の打ち合わせ後、余り一ヶ所にいるのは危険と一同は判断、関は山口家へ2晩ほど泊まった[256]。関は同年同月10日の晩に再び袋田へ向かったが、これを期に水戸から隠密による探索の足が着いた。病をわずらった彼は、療養を兼ねて越後国上関村・雲母温泉の湯治場へ逗留しに行った。執拗な捕史が迫った為、同年10月、彼は水戸藩士・安藤龍介によって越後湯沢温泉[257]で捕縛された。その故郷へ護送される中途に、関は次の歌を詠んだ。
すててかひあるか
かは白雪の積る思ひの消えぬ身にして 無
彼は同年11月に水戸へ護送され水戸の赤沼牢に投獄された[258]。文久2年(1862年)4月5日、彼は江戸伝馬町へ転送された。関は幕府の目付、神保某の係りにより数度の尋問を受けたが、獄吏が口供書を作りその下へ花押をせよと関に命じた所、関は筆を執り「死休」の二字を書したので、獄吏は「よくよく死にたいものかな」と言った[259]。関は獄中でも意気が少しも衰えなかった[259]。彼の残した複数の書が残っている[260]。関は獄中諸氏[261]から甚だ尊敬された。又、襲撃前の潜伏時に関が身を寄せた芸妓・滝本は幕吏に捕らわれ、尋問された。滝本は「妾の身を鉄之助君に托したのは、彼が攘夷の志を懐き、真に一個の神州武士に恥じないから」と言い、また「彼の企てた所は何も知らず、大丈夫が国家の ため大事を謀るになぜ婢妾に告げん」と何も語らなかった。滝本は幕吏の鞭打ちで肌を傷つけられ、かつ幕吏から膝の上に石を堆積されたが沈黙、幕吏が彼女の 義烈に感じ、拷問をやめ監獄に繋いでおいたところやがて滝本は牢死した。関は監獄でこれを知った。伝場獄には他に、高橋の京都義挙計画に伴って大阪で捕縛 され、江戸へ転送されていた水戸藩士・内藤文七郎がいた。関は内藤へ滝本の忌日を尋ね来て、書中で細かに滝本の墓碑を建て遣わしたい旨を述べた[262]。関が処刑場へ送られ行く時、内藤の監房前を通った。関は内藤を顧み、「おい文七、貴様はまだ生きているか」と言った[263]。同年5月11日、ここに関は斬首された(39歳)[230]。
水戸浪士・岡部三十郎は江戸勤めの長い父の元で育ったため主要な裏方で宿の手配等に働き、井伊の討ち取り検視見届役として変にも参加していたが、事変後、関や野村と大坂へ向かった。が岡部は薩摩率兵が不可能と知って中仙道・木曽路から信州、甲州を経て江戸より水戸へ帰還、久慈郡袋田や水戸城下辺へ潜伏していた。追手を逃れ再び江戸へ出たが、文久元年(1861年)2月江戸吉原で捕まった。[264]
また安政7年(1860年)3月5日、自訴した面々への尋問が幕府から始まっていた。のち、幕吏により伏見で捕縛され京から護送されてきた水戸藩 士・金子孫次郎へのそれが最後となった。この尋問中、森山は幕吏からの尋問を何度も受けたが、同志に誘われ挙に加わったが誰が計画したか分からないと言い 張った[265]。また同じ期間、蓮田は幕吏方の池田から「狼藉は如何なる趣旨か」と問われると、委細を尽くしてある『斬奸趣意書』[1]でご承知ありたい旨、申し述べた。井伊による嫌疑を受け、前水戸藩主・斉昭を冤罪に陥れるつもりの幕吏方では「主君を立てる侍、御三家の御家来なら尚更、前殿(斉昭)の思し召しと述べたら名義が立つであろう」等と誘導尋問を繰り返したが、それに悟っていた蓮田は「もし前君(斉昭)の内命にて井伊家を討つなら水戸藩に立場がある武士が喜んで罷り出で、且つ討ち方もあるべき、なぜ軽輩の我々が出ずる事を得ましょう」と答えた[266]。蓮田は母や姉へ宛てた遺書を残し、同士と共に伝馬町獄舎へ送られ幕吏により斬首された[267][268]。文久元年(1861年)7月26日、江戸自訴組も、御所警護組の金子・岡部も全員斬首刑となった(金子58歳、大関26歳、蓮田29歳、森山27歳、杉山38歳、森24歳、岡部44歳)[269]。[230]
他の関与者も多くは自首したり捕縛された後に刑死、獄死した。
水戸浪士・増子金八と海後磋磯之介は潜伏して明治期 まで生き延びた。増子は襲撃中、左翼(杵築藩邸側)から剣の腕を発揮して奮戦し腕や肩に傷を負ったが浅手だった為、現場を脱して御所警護を目指し西へ向 かった。しかし、周囲の警戒が厳重で叶わず、帰郷。増子は商人と偽り捕吏の手を逃れ水戸藩中央から北の各地に潜伏した。増子は明治時代となってから石塚村[270]へ 戻るが、事変後の同士らの処分を知り自分の生存に後ろめたさを感じながら、天下の趨勢を見極めて身を処するよう決心。増子は事変について沈黙、語ろうとし なかった。増子は晩年に体調を崩したが、同志の冥福を祈りながら読書と狩猟の余生を過ごし、明治14年(1881年)に病没した(59歳)[271]。海後は右翼(濠側)から襲撃に参加、中指[272]を切り落とされながらも[273]現場を脱し、水戸藩領の小田野村[274]にある親戚の高野家へ隠れた。岩代国・郡山[275]へ逃れたとき高橋親子の自刃や金子捕縛を聴き自責の念から自首を考えたが、小野田村を出る海後へ兄・粂之介が「飽くまで生き延びろよ、世の中は必ず良い方へ変わってくる」と涙ながらに励ましてくれた事を思い出し、思い留めた。その後、海後は御所警護のため越後国へ向かった。文久3年(1863年)自宅へ戻り、元治元年(1864年)の天狗党の乱には変名で天狗党へ参加、関宿藩に預けられたがここも無事脱出した。明治維新後、旧水戸藩士身分に復帰、茨城県庁や警視庁・水戸警察署[276]へ勤務、退職後の明治36年(1903)自宅で没した(76歳)[277][278]。
襲撃により、藩主である直弼以外に8名が死亡し(即死者4名、後に死亡した者4名)、13名が負傷した。藩邸では水戸藩に仇討ちをかけるべきとの声もあったが、家老・岡本半介が叱責して阻止した。死亡者の家には跡目相続が認められたが、事変から2年後の1862年(文久2年)に、直弼の護衛に失敗し家名を辱めたとして、生存者に対する処分が下された。草刈鍬五郎など重傷者は減知の上、藩領だった下野国佐野(栃木県佐野市)へ流され揚屋に幽閉された。軽傷者は全員切腹が命じられ、無疵の士卒は全員が斬首・家名断絶となった。処分は本人のみならず親族に及び、江戸定府の家臣を国許が抑制する事となった。
老中・阿部正弘や前水戸藩主・斉昭、薩摩藩主・斉彬らが主導した雄藩協調体制を否定、幕閣絶対主義を反対者の粛清により維持しつつ、朝廷からの政治介入をも阻止するという大老・井伊の専制政策路線は、自身の死によって決定的に破綻した。そればかりか、江戸定府・徳川姓の親藩で副将軍と称される水戸徳川家と、譜代大名筆頭の井伊家が鋭く対峙、長年持続した江戸幕府の権威も大きく失墜した。参政権が限られたはず雄藩に比べ、それまで確固不動のものと思われていた江戸幕府の武備が意外と脆い事もごく象徴的に露見された為、幕政の実体性も損なわれ、文久期以降に尊王攘夷運動が激化する端緒となった。ここからわずか7年と7ヶ月後の慶応3年10月14日(1867年11月9日)、奇しくもかつて井伊と争議した第15代将軍・徳川慶喜によって大政奉還が成され、同年の江戸開城により急転直下で成る明治維新への、直接的ではっきりした記念碑的起点がこの桜田門外の変であった。
水戸藩士は万延元年7月(1860年9月)に長州藩との間で結ばれた成破の盟約を背景に、文久元年(1861年)から元治元年(1864年)にかけ第一次東禅寺事件や坂下門外の変、天狗党の乱などの尊王攘夷運動を先駆けた[279]。天狗党の乱の際に、彦根藩士は直弼公の敵討ちと戦意を高揚させ、中山道を封鎖して筑波山から京都へ向かった水戸藩士を迎撃しようとした。この為やむなく天狗党一行は美濃から飛騨を経て越前へ入り、敦賀に至った。やがて降伏した天狗党首領・武田耕雲斎など水戸藩士ら352人はここで彦根藩士の手により斬首された[280]。なお、彦根藩士が水戸藩士を処刑した刑場は越前国福井藩・来迎寺の境内[281]であった。
事変を見届けた水戸藩士・畑は品川の旅籠に待った金子へ結果報告後直ちに水戸城へ急ぎ、事の経緯を藩庁へ伝えた。その為、事件翌日の安政7年3月4日(1860年3月25日)には、国許で永蟄居中の前水戸藩主・斉昭の元へ、変の詳細が伝わった[282][283]。水戸藩側では畑の急報で事態を知り驚愕、江戸の水戸藩邸では幕府へ「浪士らは脱藩者ゆえ大法に即し処置されたい、関係者は水戸藩でも探索し召捕るつもりである」旨を上申した[284]。その後、脱藩関係者らは捕縛され、事なきを得た水戸藩では残された尊攘急進派による天狗党の乱が生じ、幕府の命に動いた諸生党によりその鎮圧へ転じた。天狗党は攘夷不決行での幕政権威失墜を先んじて憂い[285]、前水戸藩主の子・一橋慶喜を主君に擁立しての攘夷決行を目的として京都へ向かったが、彦根藩による街道封鎖措置もあったので中山道を北に迂回して敦賀へ辿り着いていた。慶喜は新体制の下で将軍後見職となり京都へ出向いていた処、自ら鎮圧軍の長として出陣した事で天狗党を慶喜側へ不戦投降させた[286][287][288]。その後、第2次長州征伐中に起きた第14代将軍・家茂の薨去(21歳没)に伴って、将軍家(徳川宗家)を継いだ徳川慶喜は天皇の宣下を受け第15代征夷大将軍へ就任した。また慶喜は慶応3年10月14日(1867年11月9日)大政奉還を表し、その後、欧米列強からの内政干渉を避けるべく[289]江戸開城によって自ら江戸幕府の歴史に幕を閉じた[290]。
嘉永6年(1853年)に生まれた前水戸藩主・斉昭の18男で清水徳川家第6代当主・徳川昭武[291]は実兄の将軍・慶喜の名代として慶応3年1月(1867年2月)パリ万国博覧会へ赴き、フランス皇帝ナポレオン3世に謁見していた。その後、昭武は江戸幕府代表としてスイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスなどヨーロッパ各国を歴訪、オランダ王ウィレム3世、ベルギー王レオポルド2世、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世、イギリス女王ヴィクトリアらに謁見した[292]。常陸・水戸藩領では同藩郷里組から成る諸生党が奥羽越列藩同盟側に加勢し同藩出陣、越後・北越戦争を経て会津戦争に於いて会津藩内の婦女子救済を行う等、各地を転戦していた[293]。一方、慶喜の実兄で第10代水戸藩主・徳川慶篤は、慶喜からの同藩状是正の助言により同藩在京組から成る天狗党を皇軍復帰させた上で率い、諸生党出陣中にて空いていた水戸城へ入った[294]。明治元年(1868年)、諸生党は藩の主導権再奪還を期し水戸へ舞い戻った為、弘道館戦争が起きた。諸生党は続く下総・松山戦争で劣勢へ転じた末、天狗党の手により壊滅した。帰国した昭武は、弘道館戦争中に薨去した慶篤の後を継ぎ、明治2年(1869年)最後の水戸藩主かつ水戸徳川家第11代当主となった。昭武は新政府よりフィラデルフィア万国博覧会御用係を命じられアメリカ・フィラデルフィアへ派遣されてのちフランス・パリ再留学を希望し再渡仏、ヨーロッパでの再留学から帰国後に麝香間祗候として明治天皇へ奉仕した[295]。[296]
なお、桜田烈士と天狗党志士らは共に靖国神社へ合祀されている[297][298][299]。
当時の公式記録としては、「井伊直弼は急病を発し暫く闘病、急遽相続願いを提出、受理されたのちに病死した」となっている。これは譜代筆頭井伊家の御家断絶と、それによる水戸藩への敵討ちを防ぎ、また、暗殺された井伊自身によってすでに重い処分を受けていた水戸藩へさらに制裁(御家断絶など)を加える事への水戸藩士の反発、といった争乱の激化を防ぐための、老中・安藤信正ら残された幕府首脳による破格の配慮であった。井伊家の菩提寺・豪徳寺にある墓碑に、命日が「三月二十八日」と刻まれているのはこのためである。これによって直弼の子・愛麿(井伊直憲)による跡目相続が認められ、井伊家は取り潰しを免れた。
直弼の死を秘匿するため、存命を装って直弼の名で桜田門外で負傷した旨の届けが幕府へ提出され、将軍家・(家茂)からは直弼への見舞品として大量の薬用・御種人蔘等が藩邸へ届けられている[300]。これに倣い、諸大名からも続々と見舞いの使者が訪れたが、その中には藩主・徳川慶篤の使者として当の水戸藩の者もおり重役の応接を受けた。井伊家の飛び地領であった世田谷(東京都世田谷区)の代官を務めた大場家の記録によると、表向きは闘病中とされていた直弼のために、大場家では家人が病気平癒祈願を行なっている。その後約2ヶ月間、幕府側は井伊の死を公表しなかった[301]。
しかし、襲撃後の現場には尾張徳川家など後続の大名駕籠が続々と通りかかり、鮮血にまみれた雪は多くの人々に目撃されており、大老暗殺はただちに江戸市中へ知れ渡った。斬り合いは既に終わったにも関わらず、天気の回復した事変当日の午後から夕方には物見高い江戸っ子達が桜田門付近のぬかるみの道にまるでお祭り見物のよう群れを成した[302]。赤備の 武勇はすっかり弱体化していたが、井伊の強権と、襲撃を受けた際の彦根藩士の狼狽ぶりは好対照で、井伊掃部頭をもじって「いい鴨を網でとらずに駕籠でと り」などと市井に揶揄された。また、首を取られたにもかかわらず病臥と言い繕うことを皮肉った「倹約で枕いらずの御病人」「遺言は尻でなさるや御大病」 「人蔘で首をつげとの御沙汰かな」などの川柳も相次いだ。
幕臣・福地源一郎の回顧録によれば、事件当日、彼の友人を含め幕吏内の開国進歩派の皆が「愉快愉快」と言い、誰一人としてこの変を憂い悲しむ者はなかった様子だった。また同じく福地が青年仲間や低い身分の者以外はどうだろうと事件当日の夕方頃、雪を冒して幕府の通訳方・森山栄之助を尋ねた所、森山は「井伊大老の変死は開国の気運を旺盛にする兆候」と得意気だった。更に、福地が事件翌日の夕方、幕臣・水野忠徳を訪ねた所、水野は「赤穂義士と水戸義士を比較すれば17人で井伊刺殺の技量はより勝っている。また薬用人参を見舞いに遣った幕府との共謀、井伊家の体面繕いは、既に井伊の死を事知った天下への詐欺に過ぎないゆえ、事件の趣旨を公示すればよかったものの大いに不利で必ずや幕政批難の原因となり児戯に値する。私は普段から井伊に感心しなかったが今後、京都や水戸、そのほか尊攘党といい、一大変動が思わぬ辺りから起こり来るに際し豪傑でもあった井伊のような宰相は限られる。幕閣一新が必要だが望みは薄い」と言った。こうして水野は一橋慶喜を戴き、永井尚志、川路聖謨、岩瀬忠震らと共に責任ある地位に就こうと思っていたという。そして福地は、江戸市井の民が訳も分からず井伊の横死で天下革まり、幕府の権威はより強固になるだろうと徒に思ったのは浅はかな事だったと書き残している[303]。更に、天領備中・倉敷代官所お蔵元[304]であった山川均の父は代官所関係書類を多く扱っていたが、その中には事変当時に江戸の旗本からの私信か、倉敷配属中の旗本による悪戯かは不明だが、皮肉な駄洒落で井伊の遭難を野次ったものが沢山あったという[305]。評論家・山川菊栄はこれらの内容から、将軍と運命を共にするはず旗本までも幕閣最高権力者であった井伊大老の無残な死を憤るどころか面白がって茶化し、逆に政治の腐敗、自分たち役人の無責任さを風刺している所に、急転直下で没落へ急ぐ幕府の姿が窺えなくもない、等と断じている[305]。
桜田門外の変の襲撃者らが幕吏から大方処分されるのを見届けた薩摩藩側では、薩摩藩主・島津久光の陰謀[306]で見送った京都義挙計画から2年後の1862年(文久2年)3月16日[307]に大軍を率いて鹿児島を発し、同年4月13日[307]入京した。更に久光は勅使の公家・大原重徳を擁して同年6月7日[307]薩摩藩兵1000人と共に江戸へ入り、幕政刷新を要求した。これを受けて幕府は御三卿・一橋慶喜を将軍後見職、福井藩主・松平慶永を政事総裁職へ任命、この2名が中心となって井伊政権の清算を図った(文久の改革)[308]。末期の井伊政権を支え、井伊の死後に幕閣をまとめた老中・安藤信正は、同年初めの坂下門外の変にて水戸浪士の襲撃から難を逃れたものの、この改革で久世広周と共に老中を罷免された。また、井伊家は直弼の失政を理由に、幕府より石高を35万石から25万石に減らされると共に京都守護の家職を剥奪され、会津藩主・松平容保が代わりに京都守護職へ充てられた。これに先立って、彦根藩は直弼の腹心だった彦根藩士・長野主膳と同藩士・宇津木景福を切腹より重い重罰であった斬首・打ち捨てに処したが、結局のところ減封を免れることはできなかった。
慶応2年(1866年)6月7日、第二次長州征伐で彦根藩士510名は赤備えを率い、幕府方で出陣した。彼らは鎧が夜間でも目立つことが却って仇となり長州方の遊撃隊から狙撃され、鎧を脱ぎ捨てて壊走するほどの大敗を喫した[309]。
慶応4年1月3日から6日(1868年1月27日から30日)、鳥羽・伏見の戦いでは徳川譜代大名筆頭として彦根藩は幕府軍の先鋒を勤めていたが[310]、直弼の次男で彦根藩主・井伊直憲が自ら徳川方へ初発の大砲を打ち込んだ[311]。慶応4年・明治元年から明治2年(1868年から1869年)、こうして直憲の手ずから起きた戊辰戦争で、井伊隊に属していた兵の全員が、井伊氏の象徴とも言える赤備えの兜や鎧を始めとする全ての装備品を脱ぎ捨てた[312]。彦根藩はその後も薩摩藩兵と共に東寺や大津を守備するなど、徳川倒幕の姿勢を示した。
1884年(明治17年)の華族令施行に伴い、旧藩主・井伊直憲は伯爵に叙されたが、この爵位は「減封後の石高」を基準としたものであった。が草高35万石で近江半国領主という国持大名に準ずる旧幕府の格式に沿うならば、1階級上の侯爵と なるはずとの思惑が井伊家の周辺にあった。そのため「安政の大獄の恨みで新政府に冷遇され、伯爵に落とされた」との説が井伊家周辺に流れた。しかし、減封 後の彦根藩・現石は9万石程度であったし、更には仮に減封がなかったとしても国持大名で現石15万石を基準とする侯爵の基準は満たしていない。そもそも爵 位は版籍奉還時の現石が基準であり、安政の大獄の恨み等というのは全くの俗説である。彦根藩主・直憲は既に鳥羽・伏見の戦い時点で薩摩藩兵とともに東寺や大津を守備するなど討幕もしくは勤王の姿勢を示していた[311]。かつ彦根藩士は流山で元新選組・近藤勇を逮捕等、戊辰戦功で賞典禄2万石を新政府軍側から与えられていた。また直憲は有栖川宮家(慶喜の母の実家)から夫人を迎えた。直憲は廃藩置県後に米英留学、貴族院議員へ選出され、また帰国後は旧彦根藩領の教育に尽くした為、地元では郷土の恩人と評価され敬愛されている[311][313]。[314]
桜田門外の変で敵対した両藩の城下町である水戸と彦根が和解して親善都市提携を結んだのは、事件発生から約109年後の1968年(昭和43年)10月29日であった。水戸市から彦根市へは偕楽園の梅、彦根市から水戸市へは彦根城堀の白鳥がそれぞれに贈られた。当時の彦根市長は、直弼の曾孫にあたる井伊家の当主で殿様市長として知られた井伊直愛だった[315]。水戸と彦根を和解させたのは敦賀市[316]だったが、敦賀は水戸天狗党が彦根藩士から処刑された土地だった。
その後の1974年(昭和49年)4月13日、水戸市と高松市[317]が、今度は彦根市[318]の仲介で親善都市を提携した。
2013年4月の彦根市長選挙において、当時現職の市長であった獅山向洋は、対立候補の一人の有村国知が有村次左衛門の弟の子孫であることを指摘し、そのような人物が市長選挙に出馬することは容認出来ないと主張するビラを支持団体に配布させた上、選挙の争点として訴え続けた。この行動に対しては有村だけでなく、もう一人の対立候補で次期市長に当選した大久保貴からも批判を浴びている[319]。
願兮借君三尺剣 輕々掃盡奸人頭
精忠豪氣貫千秋 百鬼魂寒風雨愁
吹く風にこの村雲を
わせてさやけき月をいつか見ましや 掃
井伊襲撃の出発に際し、大関和七郎邸の白張の屏風へ書付、山口辰之介[89][323]
夜やふかく堀の篠原むら立ちて
にみゆる弓張の月 矢比
かりならぬ
の 旅 りに 宿 はまた 今日 ひて 思 る 出 の 敷島 道
うきことはいや
るとも 積 劍太刀 なす人を 仇 ひ 拂 めむ 清
桜田義挙のため水戸からの出発に際し郷里の友へ送った訣別書の奥付け、佐野竹之介[325]
國を去って 決然 に向ふ 天涯
叉 生別 ぬ 兼 の時 死別
は知らず 弟妹 の志 阿兄 に袖を 慇懃 き 牽 を問ふ 歸期
敷島のにしきの旗をもちささげ
の 皇御軍 とせん 魁
さくら田に花とかばねはさらすともなにたゆむべき大和魂
爲狂爲賊任他評 幾歳妖雲一旦晴
正是櫻花好時節 櫻田門外血如櫻
国のためなに惜むべき
の身は武蔵野の露と消ゆとも 武士
ともすれば月の影のみ恋しくて心は雲になりませりけり
鳴く山川みつのうきふしにあわれは春の夜半にもぞしる 河鹿
にけりあるじも住まぬ草の 荒 庵 なよな虫のわぶるばかりに 夜 忍びつつ君にあう
斬賊帰来君不見、神風曷日拂胡氛、誰知幽竹山窓底、泣執殘觥對老君 辛酉秋夜、訪幽竹先生舊廬、自奉別忽已一期餘、慨然而賦。錦堆潜夫。は 夜 のくゆるおもひをひと筋にして 蚊遣火
なかなかに逢はでにありしなば物の思ひも少なからまし 深山
長らふる世にしあらぬをながらへて君が情けにあふぞ嬉しき
変後隠遁中に常陸水戸・五軒町高橋多一郎家で、関鉄之介[332]
鎖鑰窓間夢始閑、南州嶺海豈難攀、請看古今忠烈迹、前文山又後椒山
文久2年(1862年)4月5日江戸・伝馬町の獄にて、関鉄之介[333]
たらちねにまたも
の 逢瀬 なればねるまもゆめに恋はぬ夜ぞなき 關
あはれなりひるはひねもす夜もすがらむねにたえせぬ母のおもかげ
かはく間もあらでたもとのしぐるゝは母をこひしの涙なりけり
豹死留皮豈偶然 功名夙欽定遠賢 羊夷未駆身先死 一片丹心好奏天
くろがねもとほらざらめやますらをが國のためとて思ひ切る太刀
君が爲め盡す心は武蔵野の野邊の草葉の露と散るとも
國の爲思ひを張りし梓弓ひきてゆるべし
魂 日本
一筋に國の
と思ひ立つ 御爲 は 躬 の露と消ゆとも 東路
踏破千山萬嶽煙 鸞輿今日到何邊 單蓑直入虎狼窟 一匕深探鮫鰐淵 報國丹心嗟獨力 回天事業奈空拳 數行紅涙兩行字 附與櫻花奏九天
君がためつもる思いも天つ日にとけてうれしきけさの淡雪
咲きいでて散るてふものは
のみちに匂へる花にぞありける 武夫
國のため思ひかへさむことのはにきゆるもうれしつゆの玉の緒
鉾とりて月見るたびに思ふかないつか屍のうへにてるとや
いたづらに散る櫻とや言ひなまし花の心を人は知らずて
一筋に思ひそめけん大和ほこ打ちてくだくる名のみなりけり
武蔵野の原に生ひぬる醜草を今日を限りに絶やすとぞ思ふ
畏くもすめらみためと益荒雄が思ひつめては言の葉もなし
露の身とおもへば軽き花のゆきちるべきときはやまとだましひ
武蔵野へいつか咲きなんやま櫻今日のあらしにちるか武夫
名にし負ふ手筒のやまの手筒もてしこの夷をうち攘はばや
雪しもをいとはず来ぬる旅頃もみこと待つまぞいとど寂しき
思ひきやいたく日数をふる年の深雪ながらに春来ぬるとは
春来れば猶消えやらぬ雪のまに聞かまくおもふ鶯の声
君がため思ひをのこす武夫のなき人数に入るぞうれしき
清き心はたまの緒の絶えてし後そ世に知らるべき 萬曽鏡
君の為め世の為め盡す眞心は
の神もみそなわすらん 二荒
鳥さへも今朝の別れは知られつゝ引留め顔に鶯の鳴く
出ていなは誰かは告ん我宿のにほふ櫻の朝のけしきは
京都義挙計画への出発に際し老父母らの保養と家計の将来を記した遺言状に添えて、高橋多一郎[346]
天下方今累卵日 宸廷誓把櫻花筆 君寃未洗海東濤 攘虜何時護王室