茨城県

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いばらきけん
茨城県
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茨城県旗
茨城県旗
日本の旗 日本
地方 関東地方
団体コード 08000-4
ISO 3166-2:JP JP-08
面積 6,095.84km²
総人口 2,922,869
推計人口、2014年5月1日)
人口密度 479人/km²
隣接都道府県 福島県栃木県埼玉県千葉県
県の木 ウメ
県の花 バラ
県の鳥 ヒバリ
県の魚
県民の歌
県民体操
ヒラメ
茨城県民の歌
茨城県民体操
茨城県庁
知事 橋本昌
所在地

310-8555
茨城県水戸市笠原町978番地6
北緯36度20分30.2秒東経140度26分48.6秒

茨城県庁舎
外部リンク 茨城県庁
茨城県の位置

茨城県行政区画図

― 市 / ― 町 / ― 村

ウィキポータル 日本の都道府県/茨城県
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茨城県(いばらきけん)は、日本の一つ。関東地方の北東に位置し、東は太平洋に面する。県庁所在地は水戸市

茨城県は日本全国にある研究機関の3分の1が集積[1][2]しており、人口あたりの研究機関数が日本一である[3][4]。また、茨城県の農業産出額は本州一かつ、北海道に次いで全国第2位である[5]。茨城県の都道府県人口は全国第11位、面積は全国第24位である。

茨城県は旧・常陸国ひたちのくにの全域と旧・下総国しもうさのくにの北部[6]から構成されている。茨城県名の由来は、朝廷が当地にいばらの城を築いたという『常陸国風土記』の中で当県の古老から語られた伝説である。

目次

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概要[編集]

筑波山から茨城県北部を見渡す

茨城県は、関東地方の北東部に位置する県で、もとの常陸国全域と下総国北部にあたる。茨城県は首都圏[7]に属し、その一部が東京圏[8]に含まれる。茨城県の都道府県人口は2,922,869人(2014年5月1日)で全国第11位[9]。茨城県は政令指定都市を持たない県で最も人口が多いが、その人口は分散されており、人口30万人以上の都市は存在しない。茨城県の面積は6,094km²で全国第24位[10][11]。茨城県は平地が多いため、人の住むことのできる面積は全国第4位である[12][13][13]。茨城県内の市町村数は44あり、市は32、そのもとに10の町と2の村がある。又、これらのほかに7つの郡もある。

筑波研究学園都市

茨城県の県北部は五浦海岸袋田の滝などの自然景勝地を持ち、総延長190キロメートルに及ぶ海岸線[14]に沿って多賀山地を望む豊かな田園地帯が続くと、日立製作所発祥地の日立市周辺には日立グループ関連工場が林立している。当県の県央部は県内最大水戸市日本三名園の一つ偕楽園や日本最大の藩校弘道館があり、かつ、那珂湊茨城港国営ひたち海浜公園等の海岸施設を有し、東海村J-PARC等の世界最高性能科学技術装置がある他、小美玉市には北関東唯一の空港茨城空港がある。当県の県東部は全国第2位の大きさである霞ヶ浦涸沼牛久沼などの巨大なを持ち、広大なの中に鹿嶋市神栖市鹿島臨海工業地帯を群れなし日本最大の工業化[15]が進んでいる。当県の県西部は関東平野のちょうど中央部にあたり、利根川水戸線を巡る、本州一の農業[16]を中心とした長閑な内陸の地域となっている。当県の県南部では連歌の起源とされる紫峰しほう筑波山[17]のふもとに、全国の3分の1が集積した日本最大の研究所集積地・筑波研究学園都市[18]とそこへ繋がる首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスが整備され、都心ベッドタウンとしても開発が進められている。

2012年の茨城県内総生産は11兆6,862億円[19]で全国第11位。一方、2010年度の一人あたり県民所得は297万8千円で東京に次ぎ首都圏第2位[20]、実質経済成長率は首都圏一だった[21]。2010年度の茨城県単独での経済規模はハンガリーニュージーランドの間に位置し、世界の諸国家と比較しておおよそ第47位から第48位の順位であった[22][23]

特徴[編集]

筑波山から茨城県南部を見渡す

茨城県は、農業産出額が本州一と日本最大の農業である[24][25]。このため茨城県は農家人口[26]や農業就業人口[27]耕地面積割合[13]日本一[27]、且つ多数の農作物水産物畜産物で共に日本一の産出額を持つ(後述)。この事は古代から同じだったようで、713年茨城県内で編纂された『常陸国風土記』の中にも「茨城県は土地が広く、も肥え、産物もよくとれ、人々は豊かに暮らしており、まるで天国常世)のようだ」と記されている。また、茨城県は人口あたり研究機関[3]中学生全国体力運動能力[28]、1住宅あたり敷地面積[13]工場立地面積[13]国民宿舎宿泊利用[29]、県内ロケ地での映画ドラマ撮影作品[30]なども日本一である。茨城県は上述のよう住宅敷地が日本で最も広い[13][31][32]事に加え、道路の実延長は全国第2位[13]であり、しかも農地と工場の面積も日本最大[13]と、極めて広大な県といえる。茨城県は温暖湿潤気候に属し[33]、年間を通して比較的暖かくてその住宅の日当たりもよく[34]、ほぼ降雪もない上、全季節に渡り屋外運動に適した巨大公園を幾つも保有している。茨城県は高い経済成長率を保っており[21]、1人あたりの県民所得も向上してきたが[20]、県内の所得格差は全国平均を下回っているため[35]所得が比較的公平に分配されている望ましい社会状態にあるとされる[36]。こうした豊かさに加え、茨城県は日本最大かつ世界有数の学術研究都市である筑波研究学園都市を持ち、日本最大の総合電機メーカー・日立製作所の創業地となり、J-PARC等の実験物理学研究施設や鹿島臨海工業地帯を有するなど地球の諸国家に於ける物理科学化学工業の最先端地という顔もある[37]。平成25年(2013年)10月実施の茨城県政世論調査によると、茨城県に愛着を持つ同県民は約9割、茨城県に誇りを持つ同県民は7割を超えている[38]。茨城県に愛着を持っていると回答した県民が愛着を感じる所は、住みやすさ(約6割)に豊富な農林水産物(44.7%)、海・山・川・湖などの自然(44.6%)が続いている[39]。なおかつ、茨城県民は約8割が現在の暮らし向きに満足しており[40]、しかもその割合は年々少しずつ増えている[41]

国営ひたち海浜公園グラスガーデンから見た太平洋

他方、民間調査機関・ブランド総合研究所(代表・田中章雄)の実施した都道府県魅力度調査で、茨城県は2009年以来3年連続第47位(全国最下位)となった[42]。この原因について茨城県知事橋本昌は、「茨城県民は遠慮がちで、周りにある(素晴らしい)ものを宣伝したがらない」とした[43]。且つ知事は東洋経済新報社「住みよさランキング2013」で全国第3位だがブランド総合研究所「地域ブランド調査2013」で第853位の茨城県守谷市や、逆に観光には魅力的だが住むには困難を伴う大雪の降る地域の例を挙げて、(活力ある)住みよい県と旅行に行きたい県とは違うとし、茨城県民みんなで茨城を宣伝していくことが必要になってくる、とした[44]。また、茨城県を応援・PRするいばらき大使へ選ばれた歌舞伎役者俳優中村獅童茨城新聞のインタビューで、「(茨城県の好感度が)都道府県で最下位というのは1位以上に素晴らしい。私は負けてたまるかという言葉が大好き。最下位だからこそ湧き起こってくる底力が茨城にはある」とし、「茨城の人たちは震災(東日本大震災)にめげず前向きであり、最下位を話題にしても嫌な顔せず笑ってくれる底抜けの明るさがある」「最下位の茨城を多くの人たちに愛してもらい、そこから上り詰めるのは素晴らしいこと」と語った[45]。また、中村は映画作品の撮影で訪れた茨城県北茨城市にて東日本大震災のため残された傷痕を見て何かの役に立ちたいと思い、2014年5月18日同県水戸市内で同県副知事からいばらき大使の委嘱状を受け取ると、同県内で数々の作品を撮影してきた事から、「茨城は思い入れのある地」と同県への愛着を語り、「こんなにやりがいのある仕事はない」「(最下位を逆手にとって)売りにしましょう。観光にこないでと言った方がいいのでは。映画も見ないでと言うと見たくなる」と語った[46]

名称[編集]

由来[編集]

茨城県の名は廃藩置県後、間もなくに行われた県の統合の際、茨城郡[47]水戸へ県庁が置かれたためその名が採用された。

常陸国風土記ひたちのくにふどき[48]で茨城県の古老たちの物語った伝説によると、茨城という名は、大和朝廷における大臣族の黒坂命くろさかのみことが、悪者を討つため当地に茨の城を築いたことに由来する[a 1]。また同書の同じ箇所には、「黒坂命が、穴ぐらに住んで人々をおびやかしていた山と野の佐伯を滅ぼすため、彼らの棲家である穴にをしかけた。黒坂命は騎馬に乗って彼らをそこへ追い込み、彼らの身を茨の棘で傷つけさせ死に散らせた」ともあり、2つの説が併記されている[49]

さかのぼれば、かつて常陸国国府があった石岡市あたりが県名発祥の地という解釈もある。というのも律令制の時代、茨城郡は近世の場所[50]よりも南まで広がっていた。このため石岡市は現在、茨城郡に属していないが、かつてはそこに所属していたのである。茨城という郡名自体が、もとは国府周辺の地名だった過去を示唆するものとして、石岡市に茨城ばらきという地名がある。逆に水戸の周辺は、律令制の時代には那珂郡に属していた。水戸市が茨城郡に属するようになったのは16世紀末以降のようである。

道の辺のうまらうれほ豆のからまる君をはかれか行かむ
丈部鳥『万葉集』巻二十 4352

という万葉和歌にあるよう、いばら(うまら、うばら、むばら)[51]とはバラ古名であり、又これらの故事から、茨城県の県の花はバラである。

茨城県の茨の字はかつて都道府県名として唯一表外漢字字体となっていたが[52][53]、2010年の常用漢字改訂により常用漢字となった。

読み[編集]

茨城の読みについては、日本語の持つ連濁現象によりいばらと読まれることも多いが、正式には廃藩置県以来いばらと読むことが正しいと定めている[54]。実際、茨城弁の発音はカ行音が濁音もしくは鼻濁音化する特徴があり、茨城弁を使える人がと言っていても、その発音を聞き取れない人の耳にはと言っているように聞こえるため、県の内外でいばらと理解されているという説も有る。どちらの説においても、茨城には現在、いばらといばらという2通りの読み方が並存しているようである。[55][56]

茨城を一文字で表す場合、茨城県内では茨(シ、ジ)の一文字でいばと読むことがある[57][58]

地理・地域[編集]

茨城県は関東平野に含まれ、且つ鹿島灘に面している。

気候[編集]

茨城県は太平洋側気候を呈し、夏季に多雨多湿、冬季に少雨乾燥となる。また、茨城県の太平洋沿岸部は海洋性気候、内陸部は内陸性気候となる。茨城県は全般に冬季の朝晩、沿岸部を除き放射冷却により気温が下がるが、夏季は埼玉県に近接する一部地域を除き北東気流の影響を受けやすく、比較的冷涼である。豪雪地帯へ指定されている地域は茨城県内に無いが、その南東部を除く地域、特に北西山間部については南岸低気圧や北東気流の影響で、局地的に大雪となることもある。なお、茨城県は豪雪地帯に指定されている地域を持たない県として最北端に位置する。

  • 北部沿岸部北茨城市日立市高萩市な どの沿岸部がここに該当し、海に面するため県内でも温暖な地域である。日立の冬季の冷え込みは北部にありながら南部に位置する鹿嶋と同じく緩やか、1月の 平均最低気温は0.1℃とプラス気温である。一方、この地域の夏季は県内で最も冷涼であり、特に北茨城は8月の平均気温が23.5℃と県内で最も涼しい。 この地域には年間を通して海洋性気候の特色が出ている。
  • 北部山間部常陸大宮市常陸太田市大子町などがここに該当する。沿岸部とは打って変わって、冬季の冷え込みは筑波山を除くと県内で最も厳しく、時に-10℃前後の冷え込みとなることもある。大子は1月の平均最低気温が-5.5℃となっており、-10℃近い冷え込みが続くと袋田の滝の全面が凍り付く。夏の日中は猛暑日になるほど暑くなるが、朝晩は涼しく、熱帯夜は稀である。この地域は、内陸性の気候となっている。
  • 南東端部鹿嶋市神栖市がここに該当し、海洋性気候のため冬の冷え込みも緩やかで、沿岸部は県内で最も温暖な地域である。特に銚子市に隣接している神栖市沿岸部は、県内はもとより、関東地方全体で見ても温暖な方である。この地域が積雪となることは非常に少ない一方、夏には比較的冷涼となる。
  • 南西端部古河市がここに該当し、夏の暑さが県内で最も厳しい地域であり、しばしば猛暑日を記録する。この地域は埼玉県群馬県の平野部に近い気候特性で、冬季にからっ風の影響を受けやすい。朝晩の冷え込みは県内他地域に比べると幾分弱く、1月の平均最低気温は-1.7℃と、北茨城、日立、鹿島の沿岸部を除くと、内陸では霞ヶ浦に隣接する土浦に次いで暖かくなっている。古河は夏季の最低気温も県内で最も高く、熱帯夜になることも珍しくない。
  • 中央部・南部平野部水戸市からつくば市竜ヶ崎市にかけて県内の大部分を占める地域は全般にほぼ似通った気候である。冬季の気温は関東平野部で最も低い部類に入り、1月の最低気温平年値はつくばで-3.2℃、鉾田で-3.1℃、最南部の竜ヶ崎でさえ-2.4℃などと低くなっており、過去にはつくばで-17.0℃(1952年2月5日)、竜ヶ崎で-15.5℃(1984年1月20日)を記録するなど平野部でも-10℃以下まで下がることがあった。21世紀に入ってからも下妻筑西、鉾田は-10℃以下を観測している。土浦はこの地域でも唯一、霞ヶ浦の影響により冬季の冷え込みが弱く、夏季も北東気流の影響を受けやすいため比較的冷涼、熱帯夜も少なく過ごしやすい。水戸周辺などの東部地域は時に、突発的なゲリラ降雪を北東風によりもたらされる。また、まれに竜巻が晩春から初秋にかけてこの地域では発生する。
茨城県内各地の平年値(統計期間:1971年 - 2000年、出典:気象庁・気象統計情報
平年値
(月単位)
北部沿岸部 北部内陸部 中部 西部 南部 南東部
北茨城 日立 大子 常陸大宮市
小瀬
水戸 笠間 下妻 古河 つくば 筑波山 土浦 龍ケ崎 鉾田 鹿嶋
平均
気温
()
最暖月 23.4
(8月)
24.6
(8月)
24.5
(8月)
24.3
(8月)
25.0
(8月)
24.9
(8月)
25.3
(8月)
26.1
(8月)
25.2
(8月)
20.7
(8月)
25.7
(8月)
25.4
(8月)
24.6
(8月)
25.1
(8月)
最寒月 3.5
(1月)
4.4
(1月)
0.3
(1月)
1.5
(2月)
2.8
(1月)
2.1
(1月)
2.6
(1月)
3.2
(1月)
2.3
(1月)
-0.5
(1月)
3.6
(1月)
2.9
(1月)
2.5
(1月)
4.4
(1月)
降水量
(mm)
最多月 206.7
(9月)
201.4
(9月)
214.9
(9月)
208.8
(9月)
193.9
(8月)
194.0
(9月)
190.4
(9月)
183.3
(9月)
186.6
(9月)
181.0
(9月)
168.2
(9月)
179.0
(9月)
196.6
(9月)
215.1
(9月)
最少月 30.0
(12月)
28.9
(12月)
29.3
(12月)
26.9
(12月)
33.1
(12月)
29.0
(12月)
27.5
(12月)
22.6
(12月)
34.6
(12月)
26.2
(1月)
30.9
(12月)
33.6
(12月)
34.8
(12月)
49.2
(12月)

自然公園[編集]

国定公園
県立自然公園
  • 奥久慈県立自然公園
  • 花園・花貫県立自然公園
  • 高鈴県立自然公園
  • 太田県立自然公園
  • 御前山県立自然公園
  • 大洗県立自然公園
  • 笠間県立自然公園
  • 吾国・愛宕県立自然公園
  • 水戸県立自然公園
ジオパーク

地域区分[編集]

茨城県 地域区分図

茨城県域は自然条件により県北、県央、鹿行、県南へ四分される。さらに社会・経済的特性、特に都市化を条件に加えると広義の県南は県南、県西へ二分される[60]

2014年5月の時点で、茨城県は平仮名表記の市が日本一多い。つくば市ひたちなか市かすみがうら市つくばみらい市である[a 2]。 当時点で平仮名表記の市をもつ都道府県は、漢字とのくみあわせも含めて全国で21あるが、そのうち2つある都道府県が5、1つある都道府県が15ある。茨 城県は4つある為、単独で第1位となっている。なお、2014年現在、日本で最も多い文字数の市名は6文字だが、このうち茨城県のかすみがうら市とつくば みらい市は鹿児島県のいちき串木野市とならび、最多文字数の日本一である[61]

県庁が定める地域区分[編集]

茨城県には32市7郡10町2村がある。町はちょうではなくすべてまちと読む。それらは、茨城県庁によって5つの地域に区分されている。以下に地域内人口と、都市圏等を記載する[62]

茨城県は全国47都道府県のうち11番目に人口の多い県である。総面積は全国24番目であるが、可住地面積で は全国第4位である。これらの統計で見ると、特定の都市に一極集中せず、全体に広く人口が分布しているとも言える。しかし地域圏でみると、人口約300万 人のうち1/3がつくば都市圏並びに東京圏へ含まれ、残りの200万人がそれぞれの地域で、農業や小規模な商工業を基盤とした地域圏を形成している。

県北地域[編集]

人口約64万人。日立都市圏(37.8万人)が地域内にある。県北はけんほく[63][64]けんぽく[65][66][67]、2通りの読みが見られる。

市部
郡部(町村部)


県央地域[編集]

人口約47万人。水戸都市圏(66.1万人)が地域内及び県北地域に渉ってある。県央はけんおうと読む。

市部
郡部(町村部)


鹿行地域[編集]

人口約28万人。鹿嶋都市圏(10.5万人)が地域内にある。鹿行ろっこうと読む[68]

市部
県南地域[編集]

人口約100万人。地域内はつくば都市圏(55.5万人)をもつほか、東京都市圏の一部(44.3万人)に含まれる。県南はけんなんと読む。

市部
郡部(町村部)


県西地域[編集]

人口約58万人。地域内は小山都市圏の一部(5.2万人)や東京都市圏の一部(5万人)に含まれるほか、下館都市圏(9.8万)、水海道都市圏(6.6万人)をもつ。県西はけんせいと読む。

市部
郡部(町村部)


その他の地域区分[編集]

水戸地方気象台が気象情報や注意報・警報などを発表する区分は、県北地域、県央地域、鹿行地域、県南地域、県西地域へ分けられている。これらに分類される市町村は県庁が定める地域区分と同じである。また、県北・県央地域を合わせて茨城県北部と表したり、鹿行・県南・県西地域を合わせて茨城県南部と表す場合もある[69]

  • 北部・南部
かつての気象予報区や、陸運事務所の管轄はこの区分法に近い。北部が茨城県(-1875年5月6日)、南部が旧印旛県北西部と旧新治県北部とされている。
  • 北部・南東部・南西部
茨城県全体の南部にあたる、旧新治県をさらに二分する方法。県南を国道51号沿線の南東部、すなわち鹿行地域と、国道6号沿線の南西部とに分ける。この場合、旧印旛県のうち現茨城県の部分は南西部となる。
  • 地方に市町村名などを冠していう方法
市町村の事務組合で使用されることがある。

地域的特徴[編集]

地域色が茨城県北部[70]と茨城県南部[71]では異なっており、北部の人口が減少、南部の人口が増加傾向にある状態を南北格差[72]か南北問題[73]と呼ぶことがある。また、旧新治県の範囲でも、国道51号沿線と国道6号(常磐線)沿線とでは、それぞれ経済基盤が異なっている。かつ旧印旛県の範囲でも、国道6号(常磐線)沿線とつくばエクスプレス沿線、県西地域とはそれぞれ、経済基盤が異なっている。それらについて以下に詳しく叙述する。

北部(県北・県央地域)
南部(県南地域)
東部(鹿行地域)
西部(県西地域)
  • かつては土浦ナンバーだったが、全域でご当地ナンバーにより新たに作られたつくばナンバーへと変わった。
  • 古河筑西を始めとする地域である。主に、旧猿島郡(一部西葛飾郡)や旧真壁郡、旧結城郡に相当する。
  • 古河は宇都宮線の沿線にあるため、埼玉県栃木県の一部だと誤認されることも多い。
  • 結城新4号国道が通っているため、埼玉県や栃木県、群馬県(両毛)との繋がりが深いのに対して、県内他地域との繋がりは浅い。
  • 国や県の出先機関が集中する筑西も栃木県との境にあり、県庁所在地である水戸方面との繋がりは薄い。自動車と鉄道による移動も、栃木県の県庁所在地である宇都宮市へ行く方が水戸へ行くより遥かに近い。
  • 古河市や五霞町境町および坂東市の一部はNTT東日本栃木支店の管轄地域であり、電気通信上、栃木県扱いとなっている。同地域では、2010年1月をもってフレッツ光の全面供用が開始されたが、他の県西地域では現在も一部の市街地での提供に留まる。このため例えば、坂東市の旧猿島町域において栃木支店管轄あつかいで利用できるフレッツ光が、茨城支店管轄の沓掛市街地では利用できないなど、同じ地域内や市内で情報格差が生じている。

茨城県の今後は、都心へ近く人口増加傾向の南西部に発展が続くと予想されている。逆に北部は過疎地域が増加する傾向にあるため、衰退の可能性も孕んでいる。

茨城県は地域格差を解消するための施策として、2006年から2010年度までの5ヶ年計画で北部圏[79]と南部圏[80]の2つに分けた県政展開を示唆してきた。南部圏は南関東との更なる連携を強め交通インフラに重点を置いた地域造り、北部圏は北関東における物流及び先端産業の拠点化とその為の広域的な交通基盤整備を目指してきた。 また県北地域振興を専門に行なう県北振興室が茨城県庁内に新設され、県北地域振興を担う財団法人グリーンふるさと振興機構と協調し、いばらきさとやま生活と名付けた主に団塊世代向けの移住二地域居住などを推進してきた。こうして茨城県は田舎暮らしグリーン・ツーリズム[81]による、県北の山間や海辺[82]での余裕ある生活様式を発信している[83]

また、茨城県大洗町2014年5月、家を買って同町内に住み始める新世帯へ、新生活スタート支援として最高で30万円を贈呈する定住促進奨励金制度を始めた。同町のまちづくり推進課は、保育所の待機児童がゼロ、かつ町内の中学校は専用教室を教科毎に設けているなど子育てや教育環境の充実を述べた上で、美しい海辺を持つ同町への移住を呼びかけた。[84]

歴史[編集]

先史略史[編集]

竜神大吊橋から峡谷を望む

今から5億1100万年前にあたる日本最古の地層は茨城県常陸太田市茂宮川最上流部にある[85]2008年茨城大学の研究チームが茨城県日立市小木津町で約5億600万年前にあたる、カンブリア紀の地層を発見した。2009年同チームはつづけて、茨城県常陸太田市長谷町、茂宮川最上流部の地層が、約5億1100万年前のものだと発見した。この研究チームのリーダーである茨城大学名誉教授の田切美智雄は、古生代地層が約30平方キロメートルも県内に分布している事をあげながら、「これほど広範囲なものは日本でほかになく、(地球科学的に)日本列島のはじまりが茨城県だったといえるかもしれない」と語った。[a 3]

茨城県に人が住み始めたのは、今からおよそ2万4000年前に火山灰[86]が堆積した前後と考えられている。この層の下からナイフ形石器局部磨製石器、焼けた礫石群が見つかっているからだ。これらの石器群の後に、細石刃が北[87]と南[88]から共に伝播した。同県ひたちなか市後野B遺跡などがこの時期の遺跡として確認できる。又このサイトからは、細石刃核や細石刃、彫器掻器等が出土している。[89]

先史の茨城県では、縄文時代の気候温暖化、いわゆる縄文海進によって、海水に浸された霞ヶ浦の周辺が香取海や古鬼湾といわれる巨大な内海となっていた。この周りは生き物の恵み豊かで、しかも人々の生活に安全だったと考えられ、今までに300箇所をこえる遺跡が発見されている。茨城県稲敷郡美浦村にある陸平貝塚は、 縄文時代の早期である約7000年前から、縄文時代の晩期である約3000年前にかけての人々の生活跡である。その面積は約3万平方キロメートル、大きな 台地の上にあり、かつ大小8つの貝塚がこのサイト内に点在している。この貝塚は日本人が最初に発掘調査を行った遺跡としても有名で、アメリカ国籍の動物学 者エドワード・S・モースに学んだ東京帝国大学の学生・佐々木忠次郎飯島魁の2名が1879年(明治12年)にこの敷地を発見した。陸平貝塚は日本考古学の原点と呼ばれる。考古学史上も重要なこのサイトは、規模が日本最大級であるばかりか時代の変遷もわかるため、地域開発にさらされないよう茨城県民により保護され、その周辺環境はほぼ手付かずのまま保存されている。このことが評価され、陸平貝塚は日本国の史跡に指定された。現在、陸平貝塚の周辺は陸平貝塚公園として公開されており、この園内には三浦村文化センターが設けられ、土器や石器、貝類など出土物を管理し、且つ展示に努めている。

複数の古墳群が県内に、この他にも残されている。

古代略史[編集]

筑波郡の役所跡である平沢官衙遺跡
霞ヶ浦から望む筑波山

久自新治筑波茨城の6国が、古代の茨城県ではおのおの独立していた。それらは646年大化の改新で統合され、常陸国ひたちのくに令制国制度のもと、誕生した。常陸国の行政機関は常陸国衙こくが[90]といい、国衙都市域を常陸国府[91]といった。このとき常陸国府は今の石岡市大和朝廷により置かれ、その長官は常陸国司と名づけられた。郡家らが常陸国司のもと任命され、彼らは多珂郡久慈郡那珂郡新治郡白壁郡筑波郡河内郡信太郡茨城郡行方郡鹿島郡の11郡をそれぞれ管轄した。さらに郡は里長のもと、幾つかの里々に分けられていた。常陸国司は朝廷から派遣されたが、郡司と里長には茨城県現地の才ある者が選ばれた。今も郡家跡の付近には条里制遺構が残っているので、かつて班田収授法がその周囲で行われた歴史を理解できる。常陸国の正公廨は各郡あたり50万束、対して常陸国分寺領は6万束だった。租庸調も順調に実施されていたようで、朝廷へ常陸国から贈られた18点の調布が、正倉院法隆寺に今も保存されている。当時の常陸国の人口は20万7200人ほどと見積もられている[a 4]。やがて常陸から朝廷への駅道が整備され、かつ常陸国内にはいくつも駅家などが設けられた。こうして常陸国司や官人が足しげく朝廷と茨城県の間を行き交い、幾つもの壮麗な建築物群が常陸国を中心に県内には立ち並び、古代常陸文化が花開いた[a 5]。常陸国司・藤原宇合の部下で万葉歌人でもあった高橋虫麻呂筑波山へ登りいくつかの歌を詠んだ。

筑波嶺つくばね裾廻すそみの田井に秋田刈るいもがりらむ黄葉もみじ手折たおらな[92]

 現代語訳の一例:つくば山のすそ野あたりにある田んぼで、秋の稲穂を刈っているだろうあの子のもとへ、私もこの手で折った美しい紅葉を刈って、贈らなければな

今日の日にいかにかしかむ筑波嶺に昔の人の来けむその日も[93]
 現代語訳の一例:今日の日より素晴らしかったのだろうか、つくば山に昔の人が来たろうその日も

他に、霞ヶ浦に面した場所で歌われていたものに、

高浜に来寄きよするなみおきなみすとも寄らじ子らにし寄らば[94]

 現代語訳の一例:霞ヶ浦の高浜に寄せてきている波が、たとえどれほど寄せてきていてもあの子たちが寄ってこないのなら、自分からは寄らないのだ

高浜の下風したかぜさやぐいもを恋ひ妻と言はばやしこと召しつも[95]

 現代語訳の一例:霞ヶ浦の高浜の下にさわぐ風のよう、貴女に恋している私は貴女を妻と呼べればいいが、こんな無骨な自分と知っていながらに

と、豊かな自然の中で古代茨城の人達が寄せたとされる、いくつかの和歌などが残されている。その中には、常陸国司の藤原宇合へ 茨城県の女性が寄せた歌や(万葉歌番号521)、筑波山へ登り雁の鳴き声を聴き、霞ヶ浦に飛び交う鳥たちに秋風が立てた白波を眺め、長い年月に積り来た憂 いをなくしたという内容の歌もあり(万葉歌番号1757)、バラエティ豊かである。万葉歌番号1753の歌は、朝廷からやってきた貴人を筑波山で歓待した 高橋が、そこから一望できる茨城県の絶景を彼へ見せると、嬉しさのあまり着物の紐を解いて家の中にいるよう共に寛いで遊び、春の花見も夏草の茂る頃も楽し いがその日の楽しさはいいようもないと記している。

筑波山頂にいる男女2神が、天の沼矛を使って地上をかき混ぜ、始原の日本を筑波山神社内にある天の浮橋から作っている様子。右がイザナギ、左がイザナミ。小林永濯・画、明治時代の作
紫峰
筑波山を描いた浮世絵。歌川広重は、江戸の街から地平線を描くとき、西は富士山、東は筑波山を描くことが多かった。歌川『名所江戸百景』より

万葉和歌にも神話上の神々の山として歌われた筑波山は、西の富士に東の筑波と並び賞されてきた。その優雅な姿は古代日本から高貴な色とされる紫色をしているため、「紫峰」あるいは「むらさきの山」といわれてきた。712年(和銅5年)編纂された日本最古の史書『古事記』には、次のように書かれている。太古の神代、イザナギイザナミの2人が筑波山頂のあめ浮橋うきはしに立ち、玉で飾られた天の沼矛ぬぼこを手にしそれを大地の方へ下ろし、地上をかき回した。すると、塩しずくがその矛先からしたたり落ち、やがて重なって島を形作っていった。その後、2人はできあがった島に降り立ち、夫婦となってさらに多くの島々を生んだ。これらの列島が今の日本国になった。こうして日本神話では、夫婦和合や縁結びの象徴として、筑波山においてイザナギとイザナミという男女二人の神々が日本国土を創ったとされている。この天の浮橋は、筑波山の頂に鎮座した筑波山神社の中にあり、雲の中に浮かび天上と地上をつなぐ場所でもある。男体山と女体山と呼ばれ2峰に分かれた筑波山は、西峰・男体山に筑波山大神イザナギノミコト東峰・女体山に筑波山女大神イザナミノミコトを祀っている。神武天皇元年、筑波の両山頂に筑波山神社本殿が建立されたとされ、この社は人々に広く信じられ且つ、古代山岳信仰の形をもよく今に留めている。筑波山神社の建造物群は茨城県指定文化財になっており、また、2009年(平成21年)4月、神界と現世を結んでいる由緒あるその橋が約半年ぶりに架け替えられた[96]。筑波山のエピソードには次のようなものもある。祖神尊ミオヤノカミノミコトは国生みを終えたあと諸国の神々を巡って歩いた。祖神尊が静岡県富士山の神へ一夜の宿を頼むと、新嘗祭で 物忌みをしているというわけで断られた。祖神尊はうらみ、泣きながら言った。「我は汝の祖先であるのになぜ、宿を貸さぬのだ。汝が住む富士山は生涯ずっ と、冬は雪、夏は霜に覆われてしまい寒冷に重く襲われ、人民も登らず、飲み食いまつる者もいなかろう」しかし、さらに祖先尊が登った茨城県筑波山の神へ、 また同じ様に頼むと、筑波山の神はたとえ新嘗祭であれ祖先の神を断る事はできないとした。こうして祖神尊は、筑波山の神から食事を用意されもてなされ、厚 く敬われ、拝まれ、仕られた。祖神尊はこれをとても喜び、次の歌を詠んだ。

しきかも我がすえ 高きかも神つ宮

天地あめつち並びひとしく 日月と共に同じく 
人民集いよろこび 飲食富豊をしものゆたかに
代々絶ゆる事なく 日々に栄えて

千秋万歳よろづよ 遊楽たのしみ窮まらじ

こうして、富士山はいつも雪に覆われ登ることが臨めない山となった。一方、筑波山は往く人からつどってきて歌い踊り、神と共に飲みかつたべて、宴をする空間が今に至るまで絶えた事がない、と本にある[97][98]

奈良時代初期の713年元明天皇令制国ごとに風土記という地誌の編纂を命じた。茨城県では高度な漢文の素養が必要とされる四六駢儷体(四六文、駢文)による、民族叙事詩風のロマンスに満ちた地誌『常陸国風土記』を仕上げた。この華麗典雅な文章の修辞法は、漢籍へ使われる本格的表現対句の多用によっていて、六朝漢文学[99]に習った貴族的で荘重な文体において文人趣味的、と言える程のものであった[a 6]。古代茨城の時点ですでに高尚なまでの教養を有していた執筆者の知性と、その艶やかな文芸の才が偲ばれる[a 7][100]奈良県にあった朝廷からみて、東海道最果てのフロンティアであった茨城県を理想郷にみせようとする様子が、執筆者の意図としてこの書の内容には伺われる[a 8]。『常陸国風土記』において各郡の詳細な記述についての地理学あるいは経済学的な分析が行われるところにいたると、その語り口の壮麗さというものは単に文章表現の上だけではなく、執筆者が古老から聴きこんだ古代茨城の物語民話を込めてなお、情趣に満ちた民俗学的内容にまで及んでいる[a 9]。この風土記は単に古代茨城の地誌として、或いは律動を与えられた装飾的漢文による品位の高い文学作品として優れているだけではなく、現存する首都圏[101]唯一の風土記として、歴史学的にも貴重な書物となった。そこには様々な逸話が述べられているが、特に茨城県は地味豊かな「常世の国天国のような場所)」として、住民の幸福度が高く、かつ農林水産業にとっても理想郷と述べられている。常世の国とは、古代日本から信仰されてきた海のかなたにある異界を指し、不老不死などの理想が叶えられるユートピアである[a 10]

常陸という名の由来について2つの説が、茨城の時と同様やはり古老による物語形式のなかで、同書へ並び記されている。そのひとつは、倭武天皇やまとたける(漢字は『常陸国風土記』原文のまま)が関東を巡った際に、新治を過ぎたころ、国造毗那良珠命ひならすのみことへ新しい井戸を掘らせた。倭武天皇は新しい清く澄んだ泉が流れ出たので、ときに彼の乗った輿を留めその水を愛好した。彼がもてあそんだ水で手を洗うと、彼の衣の袖は垂れ、泉に浸され潤った。こうして倭武天皇が袖を浸したことからひたちが国名になった、とそこに記述されている。併記されているもう一つの由来は、「国を行き来するのに海を渡ることもなく、また郷里の境界も山河の形に沿って続いているので、まっすぐに行ける道、つまり近通ひたみちということから、ひたちの名がついた」というものである。後者の話は、ひたちが常陸と書かれる理由に沿っている。続けて同書には、筑波岳に黒雲かかり衣袖ころもでひたちの国、と茨城県の俗諺が紹介されている[102]。なお、同じ読みかたで、茨城県の日立市に残る日立という漢字は、のちの1695年常陸国領を治めた徳川光圀が同地の神峰神社を参拝した際、太平洋の水平線上から朝日立ち昇るさまを領内随一としたのが由来である[103]。『常陸国風土記』には、倭武天皇とその后が茨城県北でおのおの山と海に遊んで、獲れた幸を互いに比べて飽きるほど食べ、そこから地名を「秋田」と名づけた、という逸話[104]が ある。あるいは同県内の遠く離れた村で恋し合う男女が落ち逢った海岸で夜更けまで永遠の愛を親しく語り合ったが、太平洋から朝日が立ち上るとその様子を村 人らから見られる恥ずかしさのあまり、二人は松になってしまった、ここから当地を「おとめの松原」と呼ぶようになったという逸話[105]などがちりばめられている。後者の地は、童子女の松原公園となって今も茨城県神栖市にあり、2人の銅像が設けられている。他の風土記には見られない一つの特徴として、前述の同県北部にあったとされる秋田村には観世音菩薩という仏像が彫像されこの地は「仏の浜」とされたとあり、ではなくの記述がこの風土記にのみ確認される。当風土記はこうして現首都圏において、『古事記』『日本書紀』に見られる話や民間伝承を、倭武天皇すなわちヤマトタケルの話として巧みに定着させたといえる。単にフォークロアを語るのみならずそれを抜粋した上で当時の政治的状況に照らし、地誌の内容へ繋げた古代茨城人の特別な賢慮が、もと同県高萩市長草間吉夫から指摘されている[a 11]。また、『古事記』においてヤマトタケルが茨城県から山梨県へ進んだとき、「新治にいはり筑波つくばを過ぎて幾夜か寝つる」と言ったのに対して当地の翁が「かがなべて夜には九夜日には十日を」と律動のある語数で返答した所から、連歌筑波の道という。

鹿島神宮参道にある鹿島アントラーズ記念碑。そのチームエンブレムには鹿島の神の使いとされる雄鹿と、茨の角がデザインされている

7世紀後半から8世紀後半ころ(600年代後半から700年代後半ころ)成立した日本最古の和歌集『万葉集』には、朝廷の命で西国へ仕事に出かけた関東地方の防人たちの歌がいくつも収録されているが、茨城県出身の人々は故郷を懐かしむ歌や、別れを言わずに出てきた当県出身の防人が地元に残してきた家族や恋人を想う歌を残している(歌番号4363~4369、4371~4372)。663年当時の倭国任那に日本府を置いていた為、白村江の戦いで任那に近い百済を援護、新羅の連合水軍と争っていた。際して茨城県からも祖国防衛者として防人が募集され、遠く九州筑紫国即ち、今の福岡県西部へ出かけたが、このとき武運を茨城県の鹿島神宮に祈ってからいくさに出かける、鹿島立ちという伝統が生まれた。現代日本語にとってこの言葉は旅立ちの意味を持つ雅語、としてその語彙に含まれている。茨城県鹿嶋市にあるJ1プロサッカークラブ鹿島アントラーズの 名は、武運の神の使いとして鹿島神宮にいる雄鹿の角に由来している。アントラー(antler)とは英語で雄鹿の角である。また、そのチーム・エンブレム に描かれた角へは、茨城県に由来した茨も付加されている。茨城県の防人によって詠まれた次の歌が、鹿島立ちの一つの起源として『万葉集』に、収録されてい る。

あられ降り鹿嶋かしまの神を祈りつつ皇御軍士すめらみくさに我は来にしを[106]

防人に応募した若者たちは鹿島神宮に集まり、国の武運長久と旅の安全無事を祈ってから任地へ赴いた[107]。また、鹿島香取の2神が国土を平定した故事からも鹿島立ち、といわれる[108]。防人らの鹿島立ち以後、茨城県鹿嶋市では剣術が盛んになり、のち1489年鹿島新当流を啓いた剣豪塚原卜伝が生まれた。

『常陸国風土記』が書かれて間もなくのころ平城京では疫病が蔓延、社会不安が広がったため741年聖武天皇は常陸を含む令制国らへ国分寺と国分尼寺の建設を命じた。こうして743年起工し、752年完成した石岡市の常陸国分寺常陸国分尼寺は、今日でも後継寺院ならびにその遺跡を留めている[109]

やがて朝廷は平安京へ移され、平安時代になった。強制による軍団制度が壊れはじめ、792年頃から志願による健児体制へ代わった[a 12]826年常陸国は朝廷の命で親王任国となったので、常陸国司の長である常陸守は茨城県へ赴任しなくなり、常陸守は親王皇族)が担うと共に、京へ留まる事になった。これを遙任という[110][111]。このため常陸守の現地赴任により本来担うべき役割を、国司制度上の次官である常陸介が代行するようになった[112]。この事は、平安時代に成立した『源氏物語』中に確認できる。物語中のヒロインである浮舟は、彼女の義理の父親が裕福な常陸介だったので、彼女自身も父親に着いて赴任先へ移り住み、茨城県で育った。彼女の素朴な育ちはやがて帰った大都会の風習と異なったが、それが却って他の皇族にとって魅力的だった、といった記述がその文中に確認される[113]。又、のちに常陸国が親王任国であった伝統を継ぎ、昭和天皇第二次世界大戦後最初の宮家として常陸宮を儲けた。

905年醍醐天皇の命ではじめられ、927年完成、967年に施行されたした律令の施行規則・『延喜式』の国力区分において、常陸国は大国という最高の格式になった[114]。『延喜式』は次のように記している。茨城県は建児を現首都圏最大の200人配された。当県の諸国牧信太郡に信太馬牧としてあった。当県は甲6領や横刀16口、弓60張、征箭60具、胡簶60具を配された。当県内の各府へ駅馬を榛谷と曽祢に5匹、安侯と河内、田後、小田、雄薩にそれぞれ2匹が配され、且つ河内郡に伝馬を5匹配された[115]

939年12月茨城県豊田郡猿島郡出身の豪族であり、初めて現首都圏統一を果たした平将門は自ら新皇と 称した。将門の支配した首都圏はあたかも坂東王国として独立国家の様相を呈した。この際、将門は関東諸国へ国司を独自に任命したが、今日の茨城県にあたる 常陸国と、千葉県中部にあたる上総国の両国には、親王任国の遙任と同様に長官としての常陸守や上総守を任命せず、次官にあたる介のみ任命した。940年1月中旬、将門は兵5000名を率い常陸国内へ出陣、彼の親族であった平貞盛と、常陸介であった藤原維幾の子・藤原為憲の行方を捜索した。その結果、貞盛の妻と、将門が兼ねて恩をかけてきた源護の長男・源扶の妻を捕らえた。これらの大規模捜索にも関わらず貞盛の行方は知れなかった。また、将門は捕らえた彼女らを哀れみ着物を与え国許へ帰した。これから将門は下総国に置いた本拠へ帰り、兵は各々の本国へ帰還させた。しかし貞盛は以後、朝廷へ通じた下野国押領使藤原秀郷と共に兵を集め[116]940年承平天慶の乱が起こって将門は皇軍により倒された。同時にこれらの結果として、中央集権的な律令国家の体制も事実上破綻していたのが明らかとなり、武士の勢力の大きさを天下に知らしめ、公家中心だった平安時代も終わりを告げた[a 13]。なお、将門がこのとき領内へ野生馬を放し、敵兵に見立て軍事訓練をした事に始まった祭り相馬野馬追は、のちその神事に関して国の重要無形民俗文化財へ指定された。将門の自主的行動は彼の250年後に鎌倉幕府が成立する前の日本史上に初めて武士の発生を示し、首都圏の各国府を占領してまで彼が旗幟を鮮明にした背景には、山城国にあった公家政権への首都圏側の強い反対ムードがあった[a 14]。彼は合戦においては所領から産出される豊富な馬を利用した騎馬隊を駆使、反りを持った最初の日本刀を作らせた。なお、彼に因んだ将門煎餅が、将門の出身にして終焉の地である茨城県坂東市で作られている[117]

中世略史[編集]

鎌倉幕府以降、武家の世がやってくると、後白河法皇は軍事指揮官・守護と土地管理官・地頭の設置、及びその任免権を征夷大将軍源頼朝へ国ごとに認めた。武将八田知家こと小田氏が鎌倉幕府より常陸守護を任せられ、1185年彼は小田城筑波山麓へ構えた。常陸平氏が県南部、常陸源氏が県北部に栄え12世紀半ば頃にはすでに茨城県では、平将門の乱で知行を得た将門の父・平国香を祖とする両武士団が並び立った[a 15]。ところで大国である常陸には、かみすけに継ぐ3等官として大じょうと少掾が置かれたが、このうち大掾を代々世襲した一族は大掾氏だいじょうしと自称した。1190年から1198年ころ、大掾氏のひとり、馬場資幹水戸市馬場城、即ちのちの水戸城を築いた。1214年、さらに馬場は常陸地頭も鎌倉幕府から任せられた為、石岡市にも石岡城を築いた。[a 16]

伊達宗家の初代当主・伊達朝宗は、茨城県平安時代から鎌倉時代間の当県における代表的出身者の一人である。彼は常陸入道念西として茨城県筑西市伊佐城に根を張った常陸伊佐氏であり、やがて戦国時代を通じて東北地方の一大大名へのしあがっていった。彼は鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝より陸奥国伊達郡を拝領してのち、その郡名をとって伊達氏と名乗った。その後、伊達氏は宮城県仙台市に根を張った[118]

1214年仏教親鸞後鳥羽上皇から流されていた越後国を発ち、関東地方で布教をするため茨城県へやってきた。同年かれは茨城県下妻市小島の草庵をつくり、1216年茨城県城里町大山の草庵をつくった。こののち彼は、茨城県笠間市稲田の領主・稲田頼重にまねかれ、同地の吹雪谷に稲田の草庵を42歳でつくった。親鸞はここを拠点に20年間、茨城県内14箇所をめぐり仏教を広めた。こうして茨城県笠間市稲田は浄土真宗発祥の地となった。1224年、親鸞の主著『教行信証』は茨城県で出版された。また、茨城県時代の彼の弟子たちはのち関東二十四輩と呼ばれた[119][a 17]。 当県水戸市に在住していた僧・河和田の唯円は関東二十四輩として親鸞の直弟子の一人であり、師の死後に『歎異抄』を当県で著しその仏教思想を分かり易く広めた[a 18]。他に、当県那珂市に在住していた関東二十四輩の一人の僧・鳥喰の唯円は当県の常陸太田市西光寺を建立した[120]

やがて鎌倉幕府に対抗する勢力が現れ、鎌倉幕府は滅び、南北朝の時代となった。室町幕府の初代征夷大将軍・足利尊氏は、かれ自らが支持した光明天皇の北朝を擁立、後醍醐天皇の南朝は勢力を弱めていた。1339年、南朝方の公卿北畠親房三重県伊勢市から船にのって茨城県稲敷市桜川地区の東条浦へたどりついた。北畠はここから茨城県の南朝方・小田治久に迎え入れられ、桜川市の神宮寺城へ入った。1339年、北畠は南朝勢力の復興の為、茨城県つくば市小田城で『神皇正統記』や『職源鈔』を書いた。小田城は茨城県内における北朝方と南朝方の間で起きた常陸合戦のため、北朝方により落城した。北畠は茨城県筑西市関城や、同県下妻市大宝城、再び筑西市の伊佐城を転々としながら抗戦を試みたが、みな北朝方の前に陥落した。5年にわたる戦いの末、茨城県内の南朝方は一掃され、駆逐された北畠は現首都圏を脱出し奈良県吉野郡へ逃げ帰った。[a 19]

南北朝は結局、南朝が北朝へ三種の神器を返して合一された。この後の200年間を室町時代と呼ぶ。この間、群雄割拠が茨城県では続いた。甲斐源氏武田氏の祖・源義清が茨城県室町時代の代表的な出身者の一人である。義清は茨城県ひたちなか市武田を本貫として姓を武田氏と名乗ってのち、武田氏は山梨県に根を張った。[121]

古河城の全体図

1455年(享徳4年)、第5代鎌倉公方・足利成氏が本拠を鎌倉から茨城県古河市へ移し、初代古河公方となった。御所は主に古河城とされ、こうして同市は新たな都となった。ここは東北への古い街道が古河城内を縦断し、観音寺曲輪や桜町曲輪の場所に宿場町が展開していた。桜町曲輪には連歌師の猪苗代兼載が居を構え、その屋敷には多くの桜が植えられていた。『松陰私語』は、1469年から1486年頃の文明年間に上野国の大名・岩松尚純が古河公方へ出仕したときの様子として、彼の居城であった金山城から古河まで利根川を舟で往来した事、御所に大きな四足御門があった事、御所の周辺に宿所と呼ばれた家臣団の集落があった事、座頭や舞々、猿楽等の芸能集団が古河公方周囲で活動していた事などを記録している。また、古河公方第2代・足利政氏の治世、連歌師・猪苗代兼載が公方家の侍医・田代三喜か ら治療を受けるため古河公方へ滞在し、その際に御所の殿中で句会を開催した。多数の奉公衆や家臣団、僧侶、文化人らが古河へ鎌倉から移住してきた。廻船業 や陸運業、倉庫業、金融業などを営む特権商人や、馬具作り等を行った職人集団が古河城を中心に展開した城下町に住んでおり、古河市は経済や医療、技術、宗 教、文化面でも首都圏の最先端地へ成長した。古河公方は鎌倉の持っていた政治や経済、文化面の機能を受け継ぎ、中でも鎌倉府から継承された政治権力組織を古河府と呼ぶ。首都圏における政治や文化上の中心地となったこの都は、その後も第3代古河公方・足利高基、第4代同公方・足利晴氏、第5代同公方・足利義氏へと約130年間引き継がれた[a 20]。1569年(永禄12年)、武将・武田信玄の動向を警戒した武将・上杉謙信北条氏政との間に越相同盟が成立した。こうして後北条氏の関東支配が確定的になった為、1583年(天正11年)義氏が男子を残さず没したのち何ら対策が取られないまま、古河公方は自然に消滅した[122]。古河時代、第5代古河公方・義氏の娘によって勧請され作られた子安地蔵像が、古河の都の栄華を今に伝えている[a 21]

佐竹家紋

やがて甲斐源氏の同属である常陸源氏の武将・佐竹氏が茨城県北部より興り、1573年、小田城を占拠した。佐竹氏の由来は茨城県常陸太田市佐竹村に本拠を構えたことによる。佐竹氏は茨城県西部の結城氏と同盟を結び、戦国武将たちの天下統一へ応じる態度を示した[a 22]1572年室町幕府が滅びると、茨城県北部にある常陸太田市太田城に拠った佐竹氏は1590年頃までに県内の他の城をほぼ全滅させ、更に県央の水戸城へ進出し茨城県の覇権を握った。佐竹氏は豊臣秀吉から朱印状をうけ、54万石の戦国大名となった。しかし徳川家康へ政権が交代すると、関が原の戦いにおいてかつて佐竹氏を救った石田三成の盟友・上杉氏との義理[a 23]を重んじ中立姿勢[a 24]だった佐竹義宣は、秋田県20万石へ徳川氏により国替えされた。[a 25]

各地から神奈川県へ向かう鎌倉街道がこの時代、茨城県にも開通した。開拓が進められの飼育、養蚕織物業も盛んになって、鹿島市製塩なども広く茨城県の内外に知られた。当県内の各地に市場がひらかれ、鹿島市鹿島神宮行方市西蓮寺などは特に賑わった。[a 26]

近世略史[編集]

関ヶ原の戦いから2年後の1602年、家康の9男である武将・武田信吉が水戸城主へ15万石で封じられたが、信吉は翌年に病没した。次いで翌1603年、家康の10男で、まだ2歳の武将・徳川頼宣が水戸城主へ徳川家康により封じられ、20万石を得た。翌1604年、頼宣は25万石へ石高を加増された。1606年、頼宣は元服の際に常陸介を朝廷より叙任された。しかし頼宣は一度も水戸城へ入らなかった上、1609年静岡県へ家康により国替えされた。頼宣はこののち、1619年和歌山県へ封じられて初代紀州藩主となったが、紀州徳川家は最初、茨城県へ封じられ常陸介に叙任されたため徳川常陸介家といわれていた[123]。但し、実際に茨城県を治めたのは、頼宣のあと水戸城主へ家康により封じられた水戸徳川家だった。1606年9月23日、家康の11男である武将・徳川頼房は茨城県下妻市10万石を家康より与えられた。さらに1609年12月、頼房は7歳で水戸城主を家康により任せられ、石高は25万石に加増された[a 27]。また、秋田県へ行った佐竹氏の代わりに、1602年武将・戸沢政盛が茨城県高萩市下手綱の龍子山へ4万石で、秋田県から入った。戸沢氏は室町時代ころすでに築かれていた龍子山城の麓に城郭を整備、平山城とし、その名を松岡城にした。戸沢氏は暫く一帯を治めていたが、1622年再び、山形県新庄藩へ江戸幕府により移封された。その後の1646年水戸徳川家御附家老中山信政が松岡城へ入って一帯を治めた。

この間の1607年[124]秋、役人が茨城県大子町小 生瀬に年貢の取立てへやってきて、小生瀬の農民たちは通常通りそれを収めた。ところが別の役人が再びやってきて、新たな年貢を強要した。小生瀬の農民たち は今度来た者が偽物と考え、その一人を殺害してしまった。しかし、最初の役人の方が偽物だった為、同年10月、かつて武田信吉の部下だった武士蘆沢信重らが水戸城より出兵、小生瀬の農民を皆殺しにした(生瀬騒動)。

頼房は1622年、初代水戸藩主として20歳ではじめて茨城県の水戸城へ入った。家康は茨城県に徳川家門譜代大名を配し、当県内の外様大名麻生藩1万石の新庄氏谷田部藩細川氏のみだった。こうした家康による手堅い配置から、茨城県は江戸幕府にとってその外郭を固めた最重要拠点の一つだった、と現代の目からも判断される。[a 28]

通称・水戸黄門こと徳川光圀
水戸市の彰考館跡

1628年(寛永5年)6月10日、水戸家初代当主・徳川頼房(威公)の3男として茨城県水戸市宮町で生まれた、後の第2代水戸藩主徳川光圀義公、通称・水戸黄門)は若いころから意気軒昂だった。まだ青少年だった義公は戦国の世が過ぎた時代に生まれ、彼の血気のやりどころに悩んでいた。そのうえ義公は彼の兄で、父・頼房の長男である松平頼重をさしおいて、自らが水戸徳川家(水戸家)の家督を継いでしまった負い目があった。水戸家の祖・頼房は、頼房の兄で尾張徳川家(尾張家)の祖・徳川義直や同じく頼房の次兄で紀伊徳川家(紀伊家)の祖・徳川頼宣に子がいなかったのをはばかって、頼房最初の子・頼重を認知していなかった。それ以後、尾張家や紀伊家には子ができたが、義公はこのような徳川将軍家(徳川宗家)や徳川御三家各々の家庭事情のため、父から公に認知されていなかったが本来長男として家督を継ぐはずだった頼重の立場を慮っていた。やがて義公は平和な世にも熱中できるものとして学問を知り、18歳のある時、書物を積み上げ読んでいた中国の歴史書『史記』の中で王朝の後継者である伯夷はくい叔斉しゅくせいの兄弟が、自分の境遇と似通っていた記述を発見した[125]。兄である伯夷は有徳な弟へ自分の地位を譲ろうとしたが、弟は兄を想って互いに譲り合い、結局ともに国を出た。さらに、伯夷と叔斉の兄弟は王朝へ赴いた。そこで、周の武王が彼の父にとって主君筋にあたる殷の暴君・紂王を征伐しようとした時に、伯夷と叔斉の兄弟は「部下が主君を殺すのは僭越だ」と武王を諫めたが、武王にその忠告は聞き入れられなかった。やがて武王は殷を滅ぼし新王朝・周を築いたが、そのような不の暴政あるいは簒奪で造られた周で生活していくのを恥とした伯夷と叔斉の兄弟は首陽山へ隠棲し、山菜を採って質素に暮らしていたが、やがて餓死した。この教訓に満ちた話を読んだ義公はかれら伯夷・叔斉兄弟の高い義務意識を慕って、この本を撫でながら次のように歎いた。もし後世の人がひでりの夏にこのような書籍を見る事ができなかったら、なにを以て感動できるのだろう[125]。そして義公は日本全国のみならず当時の先進国であったの遺臣・朱舜水ら全世界の学者を集め、1657年歴史学研究所彰考館しょうこうかんを自らの水戸藩邸内に造って、後生のため歴史研究を行おうと志した[125]。また、義公は水戸家の家督を自主的に、彼の兄・頼重の子であった徳川綱方と、綱方の弟・徳川綱條へ譲った。義公の子・松平頼常は逆に兄・頼重が封じられていた高松松平家養子となり、頼重の任せられた土地であった香川県高松藩主の地位を継いだ。彰考館は初め江戸の水戸藩邸にあったが、1715年茨城県水戸市へ移された。のち、この歴史研究所は皇室から保護され、1906年明治天皇昭憲皇太后は史書草稿に使った資料保存の費用を水戸家へ分け与え、それ専用の私立図書館・彰考館文庫が当時の水戸家第13代当主・徳川圀順(明公)によって水戸市に建造された。且つ1977年、明公はこの文庫を敷地に含んだ彰考館博物館を同市に建造した。また、この水戸藩によった学者達の研究は、水戸学といわれた。ここで義公が執筆を開始した『大日本史』は、1683年この歴史書全体の約4分の1である新撰紀伝104巻部分のみ仕上がった。義公の生前に立てられた彼自身の自叙伝『梅里先生碑』によれば、この修史事業の目的は「皇統を正閏し人臣を是非す」と、皇国史観に基づいた正統な歴史観の確立だった。義公は研究者を増強した上で、1690年晩年の隠居所とした茨城県常陸太田市西山荘にまで書籍や原稿を持ち込み、更なる研究を続けた。1697年この本の全体のうち百王本紀の部分までが仕上がった。結局この歴史書は内容が詳細かつ膨大なため、書籍全体が彼の生前には完成しなかった。彼はこの本の中で、将軍ではなく天皇を擁護した武士・楠木正成を称揚した。これに伴って、1692年4月義公は学者・佐々宗淳を楠木正成が自刃したとされる摂津国大阪府から兵庫県に至る国)の湊川へ派遣し、佐々から義公の名を以て楠木正成を讃える墓を当地へ建造させ、かつ『嗚呼忠臣楠子之墓』の石碑をも当地へ建立させた。義公が楠木正成の墓を建立した場所には、1872年(明治5年)湊川神社明治天皇により建立され、1955年(昭和30年)7月11日平櫛田中・作になる義公銅像と徳富蘇峰の文による頌徳碑も当地へ建設された。義公は彼の歴史観の中で南朝を正統と見なし、皇室への忠義こそが真の武士道と考えようとした[126]。義公は副将軍と自称した[127]。水戸藩において義公の志を継いだ代々の茨城県の藩主や、学者らは、その後の江戸時代全期間にわたり倦まず弛まずこの本全冊の完成を目指し研究を続けた。明治維新後の1906年、全402巻の大著『大日本史』は義公が学問を志してから260年の歳月をかけ、水戸学者達によって完成された[128]。義公はほかに農業をことさら奨励し、今日における本州一の茨城県農業にとっての基礎をつくった。さらに彼は1662年、全長約10kmの距離にあたる茨城県の水戸市笠原町から同県の石岡市細谷まで地に埋設した岩樋でつなぐ笠原水道を整えさせ、茨城県の民衆のため安定した飲料水を確保させた。かつ彼は神仏分離によって宗教を簡素化し、茨城県民衆を高めようとした。[a 29]

水戸弘道館。玄関前の左近の桜は烈公と吉子女王が婚姻した際に、苗木をその記念に第120代仁孝天皇から貰って植えた由緒を持つ
好文亭
烈公の肖像

1800年(寛政12年)4月4日第7代藩主・徳川治紀(武公)の3男として生まれた、後の第9代水戸藩主徳川斉昭烈公)は実兄で第8代水戸藩主・徳川斉脩(哀公)の控えとして、30歳まで部屋住みであった。哀公の薨去に伴って藩主となった烈公は、水戸学者の藤田東湖会沢正志斎ら進取の人材を登用し、斉昭の改革を断行した。1841年烈公は茨城県における彼の藩政のなかで、日本最大の藩校・弘道館を造り、たちへ選良教育を施した。ここで教育を受けた者のなかには、烈公の7男で皇族吉子女王を母にもった徳川慶喜がいた。徳川慶喜は長じてのち第15代征夷大将軍となり、且つ茨城県における烈公の水戸学に基づいた勤皇教育や水戸家の庭訓によって、大政奉還を実行した日本史最後の将軍となり、江戸幕府に有終の美を表した[129]1833年烈公は壮大な都市庭園偕楽園を茨城県水戸市に構想、弘道館を開いて1年後の1842年それは開園した。日本三名園の一つに数え上げられるこの大名庭園は、2014年現在ではニューヨークセントラルパークに次ぎ都市庭園として世界第2位の広さを持ち、日本国史跡かつ名勝となっている。好文亭という茶室つきの別荘偕楽園には烈公により設けられたが、好文とは当時の先進文明中国国花でもあるの雅名である。この雅名は、武帝が学問に親しむと梅の花が開き、学問をやめるとその花が開かなかったという故事に基づいている。即ち好文亭というその別荘の命名は、学問を好んだ水戸家の気風をよく示しているといえる。偕楽園だけではなく、弘道館もの名所として知られている。烈公はこの実を非常食としても重要視したため実用を兼ね、水戸の梅という水戸市の銘菓の起源ともなって今日でも仄かなそのの香は、茨城県を訪れる人達の感動を誘っている。初春に先駆けて咲く梅というものは、天下へ率先垂範を期した水戸学の精神にも通じており、烈公はそのいわれを漢詩弘道館に梅花を賞す』へ凝縮し表現している。

弘道館中千樹梅
清香馥郁十文開
好文豈謂無威武
雪裡占春天下魁
――景山[130]
 訓読の一例:弘道館中千樹の梅
 清香馥郁として十文開く
 好文豈に威武無しと謂わんや
 雪裡春を占む天下の魁
  現代語訳の一例:弘道館の中には千本の梅の木々がある
  その清らかな香りは心地よく漂って水戸学の文章のよう十分に開かれ
  どうしてわが藩の探究心に武道の威儀も欠けているといえようか
  雪はそのうちに春を占めて天下のさきがけとなるのだ

なお偕楽園とは民とともに楽しむ園にしたいという烈公の愛民思想を示す命名であり、この庭は本来水戸家の私的な大名庭園にも関わらず、当初から三と八が付く日には無料で茨城県民にも開放されていた。当伝統を受け継ぎ、現在でも偕楽園は無償で諸国民に公開されている[131]。又、これらの由緒もあって、茨城県の県の木はウメである。烈公は他にも、義公の農本思想を引き継ぎ天保の飢饉にあえぐ農民救済のためを設置、且つ200年間続けられた三雑石切返しの法という重税を撤廃した上で[132]農人形をつくらせた。この人形は、食事ごとに御飯を供えるための彫刻作品であり、烈公は毎食の御膳に自らの食べる御飯の一つまみをこの人形の手もとへ供え、茨城県の農民たちへ必ず感謝を捧げた。烈公による農民感謝の念を告げる和歌が残されている。

ちゝに思ふ一つ報いもあらぬかな三十年民に恵まれし身の

朝な夕な飯くふ毎に忘れじな恵まぬ民に恵まるゝ身は[133]

茨城県かすみがうら市千代田町志筑藩の農民達は、「できれば水戸様の農民になりたい」と言った程、農民にとって烈公は有り難い君主であり、名君だった。茨城県の農家は後に、烈公の業績を伝える『仰景碑』を義烈両公を祭る水戸市の常磐神社境内に立て、彼の徳政の事実を後世へ伝え残した[134]

茨城県つくばみらい市小貝川のほとりに生まれた農民出身の探検家間宮林蔵は、1799年北海道へ渡りやがてその最北端に辿り着いた。さらに彼は北海道人を引き連れて海をわたり北上、1808年樺太からふとが離島である事を日本で最初に発見した。彼はこの間に『東韃紀行』『北蝦夷図説』を著し当地の詳細を本州へ伝え、かつ北海道女性との間に娘が生まれた。彼の子孫は現在でも北海道に在住している。間宮はアイヌ語をかなり理解できた。彼は鎖国をしていた幕府から死刑を受けることも覚悟の上で、樺太人より聴いたデレンの町を目指そうと試み、さらに海を渡って樺太からユーラシア大陸へ辿り着いた。このような彼の探検業績はドイツ人医師博物学者のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトによって、世界へ広く紹介された。間宮林蔵の渡った樺太・ユーラシア大陸間の海峡最狭部はのちに彼の名前から、「マミアノセト」とシーボルトにより名づけられた。この為、彼は日本人としてただひとり世界地図にその名を残している。さらに、この海峡はそこを最初に渡った彼の名から、間宮海峡と日本に於いていわれている[135]1980年、間宮の銅像が北海道宗谷岬にかれの生誕200年を記念して立てられたが、ここは彼が樺太探検へ船出した日本最北端の地でもある。彼の銅像は今もなお日本からさらに北を眺め、その地に鎮座している。[a 30]

茨城県高萩市赤浜出身の学者長久保赤水は諸学を修めたが特に地理学を好み、1760年代『日本図』や1768年改製日本扶桑分里図』、1773年日本輿地路程全図』、1779年改正日本輿地路程全図』等を出版した。これらの日本地図は、作成者名から通称・赤水図と呼ばれた。茨城県高萩市で作られた赤水図は日本初の緯度経度を使った先端的な日本地図であり、まことに広く出版されたためドイツ国立民族博物館シーボルト・コレクションや、イギリス議会図書館など海外の博物館等にも多く収蔵され、当時の欧米において日本を知る貴重資料として活用されていた。赤水図から42年後に伊能忠敬の地図ができたが、伊能の地図は国家機密とされ明治時代まで世へ出回らなかったのに対し、自費出版になった赤水図は一般の人たちにも沢山配られた。長久保はそれまで一部支配者のものでしかなかった精密な日本地図を、初めて庶民のものにしたのである。赤水図は明治時代までに8版を重ねるベストセラーとなった。なお、これらの長久保による地図は日本で初めて公式に、韓国との境界にあたる竹島も記載していた。幕臣ではない諸藩の幕末志士や庶民が日本国の全体像を把握するため使っていたのは、一般に供覧されていた赤水図だった[136]。それは外国人とて同じで、赤水図は先んじて日本の境界を知らせ、国家を諸外国から守り、明治維新を胎動させるのに大いに役立った[137]。彼の著作はそれらのほかに、江戸時代最大の中国図『大清広輿図』(1785年)や、東洋において最初に山河と境域へ着彩した歴史地図帳『唐土歴代州郡沿革地図』(1790年)、マテオ・リッチ卵形世界図『地球万国山海輿地全図説』(1788年頃)、同じく茨城県出身になる間宮林蔵の北海道探検を受けた北海道地図『蝦夷松前図』(1795年頃)、旅行記『長崎行役日記』『東奥紀行』、茨城県民の漂流について記した『安南国漂流記』等がある。このように長久保の地図作成能力は非常に高かったので、彼の地図刊行は諸国民の知識を啓発、後世へ重要な影響を与えた[138][136]

からくり伊賀七の和時計。1822年(文政5年)完成した。町の人に自動で時を知らせる日本初の巨大装置

飯塚伊賀七は茨城県つくば市谷田部町に生まれ育ち生活していた江戸時代後期の発明家である。1762年4月23日(宝暦12年3月29日)飯塚家第16代に生まれた彼は名主を務めつつ、建築和算蘭学等を学んで数理に明るく、からくり(いわゆるロボット)や、和時計地図多宝塔五角堂製作等を行い、かつ飛行実験まで行って村人を驚かせた。彼が発明しあるいは製作したものは、凶作を見越して作った1883年の脱穀機(打穀機、米搗き機とも)や、自動製粉機、自動精米機、縄縒り機、糸繰り機などの農業機械をはじめ、酒買い人形、トウフ買い人形、茶くみ人形、人力飛行機、木製自転車、大型のそろばん、目覚まし時計ほどの大きさの鉄製・懐中時計等々があった。彼の代表作に、当時に類を見なかった日本初の本格的な屋外オートメーション装置として自動で時を知らせる巨大和時計があったが、これは単に時を刻んでいただけではなく、太鼓や鐘を鳴らして飯塚生家の門扉を自動で開閉していた[a 31]。彼の生家の片隅にあるこの時計は、茨城県の史跡となっている。彼は他に自作の測量器具「十間輪」を用いて1788年2月『分間谷田部絵図』や、『谷田部付近地図』、1806年『分間中野畠絵図』と同年『分間山絵図』、『分間下総絵図』等の地図を製作した。あるいは彼の設計した建築物に飯塚家に残る唯一の有形物で茨城県の史跡五角堂や、千葉県柏市に残っている布施弁財天鐘楼挿籠さしこ造 の母屋などがあった。その彼自身が設計した自邸の母屋には、外部からは窺い知る事のできない巧妙な造りの上り口を持つ中2階の隠し部屋があったが、解体さ れるまで子孫は誰もその存在さえ知らなかった。また、彼が測量に使った大小の車輪がついた十間輪は五角堂内に眠っていて、使用法がそのうち小さい方の車輪 に書かれていた。彼はからくり伊賀七の異名を持ち、谷田部町の象徴的存在だったが1836年12月24日(天保7年11月17日)に、満74歳で死去した。のち、筑波研究学園都市が彼の生きていたつくば市へ建設され、2009年(平成21年)ロボットの街つくばという呼び名が同市から提唱されたが、この中で彼はロボットの原点と紹介された。2012年(平成24年)飯塚伊賀七生誕250周年記念展がつくばサイエンス・インフォメーションセンターで開かれた。同年、約50点の展示が「からくり伊賀 つくばが生んだ奇才のエンジニア」と題され同市役所で行われ、和時計の実演と解説が行われた。彼は生前はより評価が高まった現代では、つくばのダ・ヴィンチという呼び方もされる。なお一色次郎による1970年(昭和45年)の小説朔風の鐘』は伊賀七が主人公として伊賀七の娘による語り口で記され、かつ同県出身の間宮林蔵も登場している。なお、彼の作になる和時計は復元され、つくば市の谷田部郷土資料館水戸市茨城県立歴史館にその模型が展示されている。[139]

幕末略史[編集]

土井利位『雪華図説』1832年。国立科学博物館の展示

1822年(文政5年)茨城県古河市、旧・古河藩の第4代藩主となった土井利位は、奏者番寺社奉行を経て大阪城代となり、やがて京都所司代となった。1839年(天保10年)彼は老中になった。彼はやがて老中首座となって幕府財政を黒字へ好転させはじめた時、江戸城本丸が火災に遭って財政が悪化した為、老中を辞任した。1848年(嘉永元年)4月25日、土井は家督を養子の利亨へ譲って隠居した。これらの幕政の傍ら、土井は趣味であった雪氷学を探求した。彼は日本で初めて顕微鏡によって結晶を観察しこれを雪華と名づけ、20年にわたった観察成果を1832年『雪華図説』と1840年『続雪華図説』の2冊の本へまとめて発表した。これゆえ土井は氷雪学のパイオニアといわれている。これらの本には、14ヵ条の雪の効能が記され[140]、183種の雪の結晶図が描かれていた[a 32]。これらの本は私家版で出版数も少なかったが、掲載されている結晶図は織物デザインとして取り入れられ、雪華模様の衣装が流行した。そのため、土井は庶民から雪の殿様の愛称で親しまれた。雪華模様の別名である大炊模様おおいもようは、土井の官職名・大炊頭おおいのかみからとられている。

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1807年初めて茨城県の近海に異国船が出現後、出没は次第に増え1823年6月9日から12日にかけ同県那珂湊沖合へ国籍不明の異国船が何度も接近した。水戸城下は緊張し、かつ水戸藩側は海岸の防備を固めた。1824年5月28日イギリスの捕鯨船員がその船内にいた壊血病者へ新鮮な野菜をもとめ、茨城県北茨城市大津浜に上陸した。これを大津浜事件という。この船員らは侵略目的ではなく、単なる休憩を求めたとわかったため江戸幕府へ通報のうえで彼らは船に帰された。しかしこの事件における外国人取り調べに筆談役として参加した弘道館所属の水戸学者・会沢正志斎は、江戸幕府がこのとき朝廷から与えられた征夷大将軍の職務を十分に果たさなかった事を深く慮った。会沢は当事件の翌年にあたる1825年、外国対応を専守防衛に統一する国家論論文新論』を茨城県で著した。また、1841年水戸弘道館の開館に併せて、烈公『弘道館記』とその解説として、水戸学者・藤田東湖による『弘道館述記』が発表された。この弘道館述記の中で幕末を導く理念になった尊王攘夷の語彙が日本史上に於ける意味合いで、初めて援用された。この語の出典起源は紀元前770年から紀元前403年頃、中国の春秋時代にいた中国大陸の諸侯が対外危機に際して王朝を尊び、かつ桓公を中心に会盟という同盟を結んで周王朝を擁護、それによって異民族の侵入を防いだ故事だった。烈公や東湖ら水戸学者は、江戸時代末期の対外危機を皇室を中心に統一国家を形成する事で乗り越えようとした為、この古典的字義を温故知新として彼らの豊富な漢籍知識から引いて、当時の状況へ照らしその意味内容を換骨奪胎したのである[141][142]。また、これらの著作の大きな影響もあって茨城県内では尊王攘夷論が生じ、対外国危機意識と対外防衛戦争への緊張度が特別に高まった。尊王の王の文字は、水戸学者・藤田幽谷1791年(寛政3年)に著した『正名論』に於ける大義名分論の立場から、皇に置き換えられて用いられる事もあった。会沢による『新論』発表と同じ年、江戸幕府異国船打払令を発した。また、この著作は密かに諸藩へ回し読みされ、諸藩では尊王攘夷を主張する草莽の志士層が生じていった。

1853年マシュー・ペリー代将率いたアメリカ合衆国海軍東インド艦隊蒸気船2隻を含む艦船4隻が、神奈川県久里浜および浦賀沖へ来航した[143]。烈公は水戸藩領内で追鳥狩と呼んだ大規模な軍事教練を行い、国民皆兵策を打ち出し、さらに手に入れた西洋近代兵器の国産化を行った。1854年ペリー艦隊が再び日本に来航したとき、最新型の拳銃・コルトM1851を幕府へ贈呈した。烈公はコルトM1851を入手し、茨城県内で模倣し製造させた。この銃を携帯していた者が水戸藩士の中には複数いた事が分かっている[144]1853年6月烈公は老中阿部正弘の信任を受け、国防の指導役にあたる幕閣の海防参与となった。1854年烈公は『建議書』を幕府へ出し、日の丸を国旗にするよう建言した。烈公は水戸藩によって石川島造船所を江戸隅田川河口の石川島[145]へ作らせた。烈公は江戸幕府最初の洋式軍艦・旭日丸をこの造船所にて茨城県のらから造らせ、幕府の国防力を近代化しようとした。なお、この造船所は現代の重工業系のメーカーIHIの起源である。烈公は旭日丸の進水を記念して次の和歌を詠んだ。

人皆の心も空もうち晴れていづるはふねあさひなりけり[146]

1857年烈公は大型の金属溶解炉である那珂湊反射炉2基を水戸藩営大砲鋳造所として茨城県ひたちなか市に、茨城県の人々によって建設させた。ここで造られた大砲のうち75挺は江戸の町を守るため、江戸幕府が設けた台場へ送られた。

伯爵香川家の初代当主・香川敬三。のち宮内官僚を歴任した

孝明天皇はかれの遠戚にあたる当時21歳の徳川慶喜(慶喜公)を次期将軍へ望んだが、江戸幕府の大老井伊直弼はこれを否定し、第13代将軍徳川家定により血筋が近い当時12歳の徳川家茂を第14代将軍とした。井伊は当時の幕閣らの多くがそうだったよう、政治は幕府が独裁できるという大政委任論の立場を執った。かつ井伊は、対外防衛戦争を求める天皇の許可をとらずに、日米修好通商条約をはじめとする安政の五ヶ国条約へ幕府の役人らから調印させた。これらは今日の目からみても不平等条約であるが、既に同様の条約が清と欧米列強の間で結ばれ、清は実質的に殖民地化されていた。慶喜公を擁護した烈公ら一橋派は、これらの対応が天皇の意を軽んじるものであるとして、尊王攘夷論のもと、井伊の説得にあたった。しかし、井伊は逆に一橋派を政権から排除するため、永蟄居隠居謹慎などの処分を彼らへ与えた。将軍家に対外戦争を一任していた天皇は井伊にこれらの対応への釈明を求めたが、却って井伊から皇位を退くよう要請された[147]。しかも天皇を支持した皇族や公卿らも、井伊に命じられた幕府の役人により逮捕された。対して、烈公を支持した薩摩藩主・島津斉彬が謀り、薩摩藩士・西郷隆盛を通して皇室界隈へ入れ知恵をした為に、朝廷では廷臣八十八卿列参事件が生じた。そこで天皇は秘密裏に幕政改革と諸大名の団結を求める手紙『戊午の密勅』を、前水戸藩主・烈公と現水戸藩主・徳川慶篤順公)へ送った。義公以来の尊皇哲学伝統があった水戸藩側ではこの手紙を大事に奉ろうとしたが、井伊はこの手紙を天皇へ書かせたのは水戸藩士らと誤認し[148][149][150][151]、水戸藩への冤罪によって次々同藩士ら関係したと疑われる人達を死刑などにしていった。これは安政の大獄と呼ばれる。やがて水戸藩士は大義名分論に立つ保守派の諸生党と、尊皇攘夷論に立つ急進派の天狗党へ、与野党化されていった。ここから大政奉還が成るまで、水戸藩の与党は諸生党が担った。井伊は密勅を天皇へ返納させようと謀ったが、これを防ごうとした初期の尊攘急進派は3000人規模の長岡屯集を藩境であった茨城県東茨城郡茨城町に造って、水戸の藩庁から江戸へ向かう街道を封鎖した。そこに属した玉造組の頭で水戸藩郷士の芹沢鴨はこれを期に御所警護へ向かい、壬生浪士組及び新撰組の初代筆頭局長となった。また同じく長岡屯集に参加していた水戸藩士・香川敬三[152]も別個に御所警護へ向かい、大政奉還後に東山道鎮撫総督府大軍艦を務め、のち宮内官僚として伯爵となった。1860年(安政7年)1月15日、井伊は天皇の勅書を朝廷へ返納するよう、この日江戸城へ登った順公へ重ねて催促し、かつ、同年1月25日をその期限としてもしそれへ遅延したら天皇に逆らった罪を烈公へ着せ、水戸藩を改易すると述べた[a 33]。改易とは主を交代させることである。水戸で永蟄居中の烈公は勤皇の水戸家訓[126]に従い同家老・大場一真斎から、水戸城内の祖廟の元へ密勅を納めさせた[a 34]。更に安全な場所にとの同藩士からの陳情により、密勅は水戸から約23.56キロメートル北の茨城県常陸太田市瑞竜町、歴代同藩主の墓のある瑞龍山の廟へ移された[153]安政7年3月3日1860年3月24日)初期の尊攘急進派の一部であった17名は烈公らへの濡れ衣を晴らそうと水戸藩を脱藩し、薩摩藩士1名と共に江戸城近くの桜田門付近で桜田門外の変を起こし、井伊を暗殺した。このとき、水戸浪士・黒沢覚三は襲撃開始の合図にコルトM1851を使った。また、この変における襲撃者18名を桜田烈士や水戸義士などという。烈士の一人、佐野竹之介は辞世に次の歌を詠んだ。

敷島のにしきの旗をもちささげ皇御軍すめらみいくささきがけとせん

なおこの際、薩摩藩主の父・島津久光は、水戸藩の尊攘急進派との間で結んだ義挙計画の共同作戦を隠蔽し、この事件を水戸藩の脱藩浪士による単独計画と濡れ衣する陰謀をとった。彼ら烈士の多くはその後、切腹し或いは自訴した。彼ら自訴組は過酷な取り調べを幕府役人から受けたが頑として烈公を庇い、幕府役人たちの手により死刑になった。またこの変への関係者らの多くも幕府役人の手により捕らえられ、拷問を含む過酷な取調べを受けた末に死刑となった[154]。なおこのとき、幕府の役人は進歩主義者保守主義者も共に、幕政改革の支障となっていた井伊の死を歓迎したという[155][a 35]。桜田烈士の一人・山口辰之介を叔父にもつ水戸藩士・山口正定は、烈士連名の『斬奸趣意書』草稿を事変前に携行したり[a 36]、事変後も桜田烈士の一人・関鉄之介を匿ったり[a 37]等この変の下調べに働いた。正定は本圀寺勢と呼ばれる順公に侍った士の一員として戊辰戦争に天狗党側で出陣後、男爵となり、第2代茨城県知事(県令)となった。正定は明治天皇の側近として宮内官僚になり侍従長などを務め、天狗党出身の水戸士族・鈴木縫殿武田金次郎と共に茨城県の権大参事にもなった。平成時代、『桜田門外ノ変』映画支援の会は茨城県水戸市で、変を題材にした映画『桜田門外ノ変』を撮影し2010年10月16日公開した[156](後述)。

桜田門外の変から6ヵ月後の1860年9月水戸藩が腐敗幕府を破り長州藩が幕府改革を成す、という内容の成破の盟約が、水戸藩士・西丸帯刀らと長州藩士・木戸孝允らとの間で結ばれた。このとき彼らは差し迫った時局に対して、成(建設)と破(破壊)の問題が存在すると議論した。水戸藩の西丸は、長州藩がその2つの内どちらを選ぶかについて桂へ尋ねた。江戸幕府の体制に於いて外様大名の侍であった桂が破の方が難しいと思うと言った為、当体制で格式が上の御三家の侍であった西丸は「そう仰るなら、その難しい方を私たちに任せて下さい」と答え、且つ「貴方がたはその簡単な方を分担して下さい。大丈夫ですな」と念を押した[a 38]

東禅寺事件時の水戸浪士達。左が乗馬用の鞭で反撃したオリファント。襖の陰がモリソン。1861年10月12日イラストレイテド・ロンドン・ニュースにこのイラストは掲載された。これを描いたチャールズ・ワーグマンも事件に遭遇した

1861年5月イギリス公使ラザフォード・オールコック長崎から江戸へ向かう旅の合間、江戸幕府が国防上の問題から海路移動を勧めたのにも関わらず、条約で定めた国内旅行権を強硬に主張し、陸路を執って江戸へ向かった。同年同月27日こうしてオールコックはイギリス公使館が置かれていた江戸の高輪、東禅寺へ入った。この外国人の行動に対し、茨城県の尊攘派志士は「神州日本が汚された」と憤慨した。1861年5月28日午後10時頃、水戸藩を脱藩した浪士有賀半弥ら14名は、東禅寺のイギリス公使館内へ侵入、イギリス公使ラザフォード・オールコックらを襲撃した。これを東禅寺事件という。このとき外国奉行の配下で公使館警備に就いていた旗本や、郡山藩士・西尾藩士らが水戸浪士へ応戦した。公使館邸の内外で水戸浪士と戦闘が行われ、双方とも死傷者を出した。オールコックは逃亡し、イギリス書記官ローレンス・オリファントと長崎駐在の領事ジョージ・モリソンが負傷した。多数の同浪士は公使殺害に失敗したため現場を脱出した。他方、同浪士・有賀半弥小堀寅吉古川主馬之介の3名がその場で殺傷されたほか、同浪士・榊鉞三郎が現場で捕縛された。逃げた浪士も品川の旅館・虎屋で包囲され、同浪士・中村貞介山崎信之介の2名が幕府役人に捕らわれる前にその場で切腹した。また、その場では同浪士・石井金四郎が捕えられた。同浪士・前木新八郎も逃げ切れずやがて切腹した。同浪士らはいずれも『襲撃趣意書』を携行していたが、そこにはこの事件を尊攘の大義のため実行した旨が記されていた。逃走した同浪士・黒沢五郎高畑総次郎はその後に同浪士により起こされた、坂下門外の変へ参加しそこで闘死した。同浪士・岡見留次郎は西国へ向かい、天誅組の変に参加して尊攘の義を果たそうとしたが、敗走後捕えられ幕府の役人から斬首された。なお、オールコックは著書で「(江戸幕府の)警備兵は浪士と戦わなかった」と記している[157][158]

大老・井伊直弼が桜田烈士により誅戮されてのち、残された幕閣を主導した磐城平藩主・安藤信正は井伊の妥協的な開国方針[155][a 39][159][160]を継承し、且つ皇族和宮を第14代将軍・徳川家茂と政略結婚させようと計った。尊皇主義の水戸藩士は、この江戸幕府側による皇室への命令を、安藤による不敬行為すなわち君臣の分を弁えない越権、と捉え悲憤した。1862年2月13日江戸城坂下門の外で、水戸藩を脱藩した尊攘派水戸浪士6人が安藤を襲撃し、負傷させた。この事件を坂下門外の変という。[161]

義勇軍・天狗党

1864年5月2日茨城県の尊攘急進派62人の同志たちは茨城県の筑波山で挙兵し、義勇軍天狗党を結成した。水戸藩士・藤田小四郎は水戸学者・藤田東湖の4男で、安政の大地震で死去した父の果たせなかった志を継ごうとする心に発し、この党派を創始した[a 40]。しかも、小四郎の祖父・藤田幽谷彰考館総裁として『正名論』を残した水戸学者だっので、小四郎の孝心は先祖の遺訓を継ぐ行動となって現れた[a 41]。かつ、小四郎の脳裏には成破の盟約もあったと考えられている[a 42]。小四郎は23歳と若輩であった為、水戸の町奉行・田丸稲之衛門を説いて主将とした。その後、彼の志とこの義勇兵へ志願しに集った浪士農民らが続々と各地から集結していき、数日後には150人、やがてこの武装集団は最盛期に約1400人という大軍へと膨れ上がった。1864年5月8日天狗党一行は江戸幕府の初代将軍・徳川家康を祀った日光東照宮で対外防衛戦争の成功祈願をするため、栃木県日光市へ 進んだ。その時の小四郎らは檄文に「こいねがわくは諸国忠憤の士、早く進退去就を決し、心をあわせて力を尽くし、上は天皇の朝廷に報い奉り、下は幕府の片 方の翼として飽くまで彼らを助け、日本国の威厳を万国へ輝かしたく、われらの素願はまったくこの事にあり」と記した。ここには、従軍の目的が天皇とそのも とにある幕府への忠義に基づいた、彼ら義勇兵による率先した護国防衛行動として、即ち、愛国心に基づいた国威発揚の行動原理として示されている。彼らは祖 国の防衛者として天皇を守り、幕府を助けるつもりで自主的に義勇兵を作ったのである。

対して水戸弘道館に集った学生らは、単に尊皇攘夷の義のみに逸るのではなく、桜田門外の変の直後に薨去していた烈公や、現水戸藩主・順公の意思を立て、且つ将軍家の命令を待つ姿勢を見せた。彼らは天狗党側の逸る行動を批判する内容の存意書を、幕府へ建言した。

天狗党が最後の時を過ごした鰊倉は水戸市の回天神社内へ移築され、保存された。この倉は回天館と名づけられ、現存している

彼ら水戸学に含まれた大義名分論を忘れなかった国許の水戸藩士らは弘道館に属していた学生すなわち書生しょせいだったので、そこからとって諸生党しょせいとうと呼ばれた。ところで第14代将軍・徳川家茂1863年5月10日攘夷決行を天皇へ誓ったがそれは行われず、その翌年である1864年2月家茂は既に開港済みの横浜を改めて鎖港した上で、海岸防御を強化するとして再び天皇へ攘夷を誓っていた。天狗党首領格の小四郎らは、攘夷決行不能による幕府権威の失墜を憂い、幕府による横浜鎖港を側面から応援するつもりだった[162]。 義公以来の副将軍としての自負があった為、天狗党の面々は江戸幕府による弱腰の対応を、実質的な外国からの侵略に対して見過ごす事はできなかった。茨城県 の筑波山で結党された天狗党は、尊王攘夷を幕府側へ促すため決起されたのであり、尊攘が目的で倒幕が目的ではなかったが、将軍絶対主義を持つ江戸幕府は彼 らを単なる一揆に類した武装蜂起集団と見做した。こうして第14代将軍家茂の配下にある幕閣らは、順公や水戸藩庁の側へ天狗党鎮圧を命じた。始めに天狗党 と諸生党ら鎮圧藩屏の間に起きた1864年那珂湊の戦いで、天狗党は主に水戸藩・諸生党の藩屏からなった鎮圧軍との圧倒的な兵器力の差の前に敗れた。この際、天狗党の小四郎らは最後の一人までぶつかって斬り死にしようと玉砕主義を主張したが、同党で年長の武田耕雲斎らは一人でも多く生き残り、対外防衛戦争決行を朝廷へ訴える事を主張した[a 43]。水戸家の出だった慶喜公は将軍後見職として山城国にいたが、1864年禁裏御守衛総督摂海防禦指揮へ 転職した。武田はかつて慶喜公に侍った事がありその人物が英明な事を知っていた上、孝明天皇の陪食役を務めた経験もあり天皇が祖国防衛の成就を水戸藩含む 幕府へ期待する志を間近に感じていた為、尊王攘夷論を主張する天狗党をその理解がある慶喜公に取り次がせる事を考えていた[a 44]。この後、天狗党の800人を超える軍団は道がない道を歩み、雪と寒さのなか長野県岐阜県の 山々をこえ、御所へ近づいた。しかし彼らの前に布陣したのは、慶喜公の率いた皇室直属の軍隊だった。慶喜公は御所を守る役職の禁裏御守衛総督であった為、 皇居を武装集団から守り、且つ幕府から賊軍と見做されていた天狗党との内通の嫌疑を幕僚の前に晴らさなければならない立場だった[a 45]。また、慶喜公や、烈公14男・松平昭訓ら実兄に伴って山城国にいた徳川昭武節公)も当時12歳ながら、慶喜公軍を補佐するため出陣した。天狗党は滋賀県に展開した慶喜公軍との衝突を避け、中山道を北へ迂回、凍えながらも福井県敦賀へ辿り着いた頃には、疲労困憊していた。天狗党の長として武田は「主君に等しい二公へ敵するのは臣子の情、忍ぶべからず」と忠義を選択した[a 46]1865年1月14日天狗党は、朝廷の許可のもと慶喜公が率いた皇室直属の1万数千人に及ぶ鎮圧軍に対して争う事なく、不戦投降した。『天狗党檄文』に示されている通り、天狗党は急進的かつ自主的な義勇兵で、そのため保守的な江戸幕府側から疎まれ鎮圧かつ処刑されたが、その目的は倒幕運動ではなく、自らを犠牲にしてでも尊攘大義を幕府役人へ訴え防衛戦争完遂という将軍職の志を果たさせる佐幕運動の先駆けだった。天狗党の面々は彼らを厚遇した加賀藩士・永原甚七郎や、朝廷の懸命な訴えにも関わらず、処理を引き受けた静岡県相良藩主の若年寄田沼意尊から劣悪な環境の鰊倉へ閉じ込められ、ここで天狗党員828名のうち、352名が幕府役人としての彦根藩士らの手により斬首された。天狗党は自らノブレス・オブリージュを任じた義勇兵にもかかわらず、このような悲劇的結果になった。なお、彼らが最後を過ごした鰊蔵は幕末の水戸藩犠牲者らの墓碑と共に、茨城県水戸市にある常磐共同墓地内の回天神社回天館として移築保存されている。彼らの絶筆である「叶」の文字がこの館に残された現物の扉へ残っている。[a 47]

慶応3年(1867年)最後の将軍・慶喜公
水戸弘道館正門には弘道館戦争時の弾痕跡が残る。日本国の重要文化財

1866年8月20日慶喜公は徳川宗家を相続し、1866年12月5日江戸幕府第15代征夷大将軍となったのち、1867年10月14日大政奉還を示した。慶喜公はのち、日本の為に家康公が開いた幕府を日本の為に葬る任に当たるべし、と宗家相続の時点で覚悟を決めた、と語った[a 48][163]。同年12月25日、35歳の孝明天皇は崩御し、同年10月12日、16歳の明治天皇が即位した。その翌年である1868年1月3日(慶応3年12月9日)薩摩藩岩倉具視らがクーデターを起こし、慶喜公の持つ徳川宗家の領地を薩摩藩始めクーデター軍が盗み取り、かつ彼の前将軍としての政治家の地位を簒奪する内容の文書『討幕の密勅』を作り上げた。これらの慶喜公への命令を辞官納地という。慶喜公はこのような西軍の暴政に反発した徳川親兵らによって御所近辺で起こるだろう混乱を避ける[a 49]と同時に、配下の激昂を和らげる為[a 50]二条城から大坂城へ退いた。やがて天皇が慶喜公へ再び御所に来るよう命令したので、先駆けとして会津藩士と桑名藩士が御所へ向かった。会津・桑名両藩の兵士は薩摩藩らの包囲網に遭い[a 51]、やがて慶喜公方だった彦根藩主・井伊直憲が会津・桑名両藩の兵士へ発砲し戦争になった[a 52]。こうして1868年1月27日起きた鳥羽・伏見の戦いにおいて、慶喜公は皇軍への一貫した恭順を徳川宗家当主として、主張した[a 53]。慶喜公の意思を重んじた同年の江戸無血開城によって、江戸幕府は有終の美を示し幕を閉じた。慶喜公は、父である烈公から朝廷へ弓を引くなと諭されていたが[163]、これは水戸弘道館での教育を含め義公以来の水戸家の歴史哲学、即ち水戸学の理念に基づいた判断だったといえよう[164]。天狗党は慶喜公の助言により、順公のもとにいた水戸藩士・本圀寺党と合流し正式な藩屏へ復帰できた[165]。同時にこの頃、茨城県にいた諸生党は1868年3月水戸を出発し、西軍の侵略へ抗った奥羽越列藩同盟に加勢するべく同年6月21日新潟県北越戦争や同年6月10日から11月6日福島県会津戦争で婦女子を救済するなど、各地を転戦していた[166]。 同年、順公は天狗党ら藩屏を率いて藩状を治める為、諸生党出陣中で空いていた水戸城へ入った。しかし、会津戦争を終えてなお生き残る事のできた諸生党の 面々は、水戸藩の主導権を再奪還するべく茨城県の水戸市へ踵を返し弘道館に入った。こうして、水戸城と弘道館の間では交代した与野党のにらみ合いが続い た。1868年11月14日、500人から1000人あまりの諸生党[167]は、天狗党ら順公のもとの藩屏との間で弘道館戦争になったのち、数日後まで続けて転戦し、同年11月19日下総に及んだ松山戦争で壊滅した。ほぼ同時期の同年4月11日午前3時、慶喜公は江戸城や謹慎先だった江戸の寛永寺大慈院を去って、茨城県水戸市の弘道館の内にある至善堂へ篭り謹慎していたが、弘道館戦争に巻き込まれるのを避け同年7月23日徳川宗家が移された静岡県宝台院へ移って、再びそこで謹慎した。慶喜公は江戸城退去の約束の日から1日ずらして水戸へ隠棲にきていた。なお、弘道館戦争時の弾痕が弘道館の正門正庁に残っており、至善堂も含め2014年5月現在これらの歴史遺産は、日本国の重要文化財に指定されている。元の藩校敷地は開発から残された部分が弘道館公園となっており、その建物の敷地部分は日本国の特別史跡にも指定されている。

1889年(明治22年)5月、旧幕府によって処刑された天狗党の411名は新政府から名誉回復措置がなされ、靖国神社へ合祀された。茨城県出身の水戸藩士のものは、靖国神社における幕末と明治維新に関した祭神4200柱のうち、1420柱と約3分の1を占めている。このような事実から、来るべき新時代の先鞭をつけたのは水戸藩であり、その後継にあたる茨城県であったといえる[a 54]。幕末と明治維新に際して戦死した茨城県出身者らの祭神1865柱が、水戸殉難志士ノ墓として回天神社常磐共同墓地にある[168]。なお2014年現在の靖国神社・宮司は徳川康久だが、彼は慶喜公の9男で男爵徳川誠のひ孫である[169]

明治・大正及び昭和前期略史[編集]

明治時代の初め、水戸藩を筆頭に14藩と県域外諸大名の飛び地、幕領旗本領などが茨城県域には錯綜していた。1868年慶応4年、明治元年)旧幕領と旗本領は幕府の解体により新政府の直轄地とされ、同年6月に三上藩士・粥川満明常陸知県事へ、同年8月に肥後藩士・佐々府貞之丞下総知県事へ任命され、おのおの常総の民政を担当した。翌1869年(明治2年)1月に下総知県事の管轄地が葛飾県、同年2月に常陸知県事の管轄地が若森県になった。こうした動きの中で、同年6月に版籍奉還が行われ、1871年(明治4年)7月の廃藩置県を経て、同年11月、現在の茨城県域は茨城県や新治県印旛県のそれぞれ一部へ統合された。1875年(明治8年)5月に新治県が分割されそのうち常陸国分の6郡は茨城県と再合併し、同時に1873年(明治6年)印旛県と木更津県が合併してできた千葉県から概ね利根川以北に当たる区域が茨城県へ編入された。こうして、現在の茨城県域が成立した。

水戸城跡にある薬医門。茨城県の指定建造物。水戸城は日本100名城

これらの慌しい県域統廃合の背景には、薩長土肥に代表される明治新政府の外来者に指図される事を好まない、大きな藩や雄藩らの誇りがあった。明治政府は難儀な上意下達に一計を案じ、慶喜公からの書状を敵陣を貫いて持って行った逸話のある剣豪山岡鉄舟茨城県の初代県知事(初代参事)へ任命した。しかし初代茨城県知事の山岡は当県へやってこないまま、1872年(明治5年)7月、肥前国(佐賀県)出身の渡辺清が山岡知事の代行(県令心得)として現地へ赴任した。この時、よそ者が水戸城に入るのは許し難いと考えた水戸の士族は、渡辺の赴任から5日目に自らその城へ放火、城郭を消失させた。1872年(明治5年)11月の『郵便報知新聞』には「(茨城県の士族は)新政府の命令を蔑視、かつをはいて大小のを帯び詩歌を吟じていた」とあり、水戸城下の士気は水戸藩士らが大きな犠牲を払ったにもかかわらず、明治初期、依然として高いままであった[a 55]。この後、第2代茨城県知事は、桜田烈士の一人・山口辰之介を叔父にもち藤田東湖の妻を伯母にもつ旧水戸藩の士族・山口正定が受け継いだ。

ベルギー王国での節公(中央の左)

最後の水戸藩主で第11代水戸徳川家当主・徳川昭武(節公)は幕末、最後の将軍である実兄・慶喜公の名代としてフランス皇帝ナポレオン3世イギリス女王ヴィクトリアオランダ王ウィレム3世ベルギー王レオポルド2世イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世らへ謁見、フランスイギリスオランダスイスベルギーイタリアなどヨーロッパ各国を歴訪していた。さらに、節公は明治新政府の一員となりフィラデルフィア万国博覧会の御用係としてアメリカフィラデルフィアへ趣いてのち、フランスパリへ再留学した。また、彼は帰国後に麝香間祗候として明治天皇宮内へ仕え、1884年(明治17年)7月7日侯爵となった。節公は貴族院議員を勤め隠居後、千葉県松戸に邸宅を設けた[170]。かつ彼は義公によって造られていた茨城県高萩市(旧・多賀郡)にある大能牧場常陸太田市里美村の天竜院地区へも拡張し、再興した[171]。節公の子・徳川武定松戸徳川家として別家を持ち、子爵となった。順公の長男・徳川篤敬(定公)は、前藩主・節公の養嗣子として水戸家第12代の家督を相続し1884年(明治17年)侯爵、かつ宮内省式部職次官貴族院議員等となった[172]

1873年(明治6年)明治天皇は義烈両公を祀る神社を創祀するとき、当社を別格官幣社に列した上で、常磐神社の社号を贈った。また、天皇は両公へ神階最高位となる正一位神号を与え、義公は高譲味道根之命たかゆずるうましみちねのみこと、 烈公は押健男国之御楯命おしたけおくにのみたてのみことと追号された[173]1875年(明治8年)4月4日明治天皇は東京墨田区小梅村の水戸徳川邸にいた節公の元を訪れ、義烈両公の遺文や書画を見た。節公はじめ烈公の生母・瑛想院らは、水戸学の源流になった義公や、水戸弘道館を建設した烈公、彼らの勤皇の志を天皇から称えられ、かつ、先代の志を継ぐようにとの勅語を節公へ天皇から与えられた。このとき天皇は次の御製を詠んだ[174]

花ぐはし桜もあれどこのやどのよゝみこゝろを我はとひけり[175]

のち、この際の様子は茨城県出身の日本画家木村武山によって『徳川邸行幸』として描かれた(後述)。また、明治天皇御製碑と明治天皇行幸所の碑がこの邸宅跡には定公の子で水戸家第13代当主・徳川圀順(明公)により建てられた[176]1906年(明治39年)勤皇の家訓を守った明公は完成した『大日本史』を天皇へ献上した。1929年(昭和4年)義烈両公を含む水戸家の勤皇功績が皇室より顕彰され、同家は華族として最高位の公爵のぼった[a 56]

明治はじめ一般武士は士族身分とされ、家禄を支給されたがその額はわずか、生活は困窮を極めた。貧乏士族や士族の商法などの言葉が囁かれ、彼らの貧しさは社会問題化した。明治新政府は地租改正を断行、地租が全国一律で収益価格として地価の3%と定められた。この税は金銭で納めることとされ、近代的税法が実施されたが、付加税も加わって農民の負担は重く、各地に農民一揆が頻発した。自由民権運動も盛んとなって1884年栃木県の自由民権運動家・鯉沼九八郎が栃木県令・三島通庸らを暗殺する計画をたてた。九八郎はやがて爆弾製造中に誤爆、この策謀が政府に発覚した為、逃亡後、茨城県桜川市と同県石岡市との境にある加波山へ立てこもった。これを加波山事件という。彼ら一味は警察署豪商へ襲撃を行って、茨城県古河市の中田にあった文武館を中心に、栃木県小山市や茨城県結城市で再起計画を繰り返した。加波山へ立てこもった16人はのち起訴され、7名が死刑判決、3名が無期懲役となった。事件関係者の富松正安ら4名は茨城県筑西市の妙西寺に葬られ、加波山事件志士の墓として同市の指定文化財、史跡となっている。[a 57][177]

美術思想家・岡倉天心
日本画家・横山大観。第一回文化勲章受章者

坂下門外の変の翌年である1863年2月14日に、もと福井藩士の子として美術思想家岡倉天心が横浜の商館に生まれた。天心は維新後、東京大学(旧・東京開成所)の学生としてアーネスト・フェノロサに師事し、日本美術を愛する心を育てた。文部省図画取調係(現・東京藝術大学の一前身)に勤務していた天心は、1886年から1887年にかけ東京美術学校を設立するためフェノロサと共に欧米視察旅行を行った。天心は19世紀末のヨーロッパを旅行し、彫刻家ロダンなどにも会ったが却って日本の伝統文化における優位性を再発見、かつ日本美術の卓越性を確信して意気揚々と帰国した[a 58]1890年天心の尽力で無事創設された東京藝術大学(旧・東京美術学校)で3年にわたり『日本美術史』と題した有名な講義を行って、美術家の卵である学生らを鼓舞した。天心の指導を受けた者の中には、茨城県出身で旧・水戸藩士の父をもつ横山大観や、同じく同県出身で旧・笠間藩士の父を持つ木村武山、やはり同県北茨城市磯原町(旧・北中郷村)出身の飛田周山らもいた。天心は日本画を主眼にした伝統尊重の指導を行った。また、彼は男爵・九鬼隆一と親しかった。1898年明治31年)東京藝術大学長の天心や横山たち日本画科の教授らは、薩長藩閥の一角でもある薩摩藩士の父を持った洋画家黒田清輝の擁した西洋画科を残し、美術学校騒動によって一斉辞任した。この騒動は政府・同校に偏在した西洋化勢力の陰謀がひきがねだった。西洋化勢力は、明治新政府が九鬼を帝国博物館の館長から更迭するという噂を謀略に用い、九鬼留任とひきかえに同館の美術部長であった天心を犠牲に 仕立て更迭させようとした。彼を美術界の王座から追い落とそうとした執拗な陰謀勢力陣は、天心の伝統尊重方針が新政府の西洋化方針とそりが合わないとした 新政府の側に立つ官僚グループにも、洋画家グループにもいたが、この騒動を直接引き起こした原因となったのは同校の図案科教師・福地復一による学内での政治運動だった[a 59]。当時の九鬼は、天心と親密だった九鬼の妻・九鬼波津子を 巡ったいざこざについて、天心との関係が悪化していた。また、築地警醒会と名乗った正体不明の団体が、天心批判の怪文書を関係各方面へ送りつけていた、と いう状況背景もあった。結局、九鬼隆一はこの天心を犠牲に仕立てる西洋化勢力の運動を受け入れた。天心を庇うため日本画科教授ら24人は連名で文部省へ辞 表を出しすでに総辞職していたが、そのうち一部は、自ら当学長を辞めた天心が同教授陣へ留任運動を行った事もあって、当学内に留まった。彼ら留任を決めた 教授陣を軟派や準硬派などといい、一方、師である天心へ飽くまで侍った横山や木村、飛田ら茨城県出身者を含む教授陣を硬派という[178]。硬派は天心と共に、彼を指導者に仰ぐ日本美術院を東京谷中へ創設した。こうして彼らは日本美術を当学外で探求する事にした。このとき横山らは次の歌を詠んだ。

奇骨侠骨きこつきょうこつ 懲戒免官ちょうかいめんしょくなんのその 堂々男児は死んでもよい[a 60]

五浦海岸にある天心邸と六角堂。中央にある朱塗りの建物が六角堂。左手にあるのが天心邸。この敷地は現在、茨城大学五浦美術文化研究所が管理している。奥にあるのは五浦観光ホテル別館の大観荘

横山や木村、飛田らは日本美術院第一回研究生となった。その後、飛田は静寂の地を求めた天心のため、彼の地元であった茨城県北茨城市へ天心を案内した。1903年北茨城の五浦海岸を好適地とみなした天心は、ここへ日本美術院の絵画部を移転させ日本美術院研究所とした。天心は北茨城のこの地を近代日本美術を栄えさせる場所にしようと、近代絵画発祥の地の一つ、ミレーコローらが集まったフランス芸術家村バルビゾンになぞらえ、東洋のバルビゾンと呼んだ。天心は横山や木村らを北茨城へ呼び寄せ、彼らに邸宅を設けさせ、且つ彼らへアトリエを供出した。1906年天心は日本美術院自体を北茨城へ移転した。そこに横山や木村のほか、同じく日本画家の菱田春草下村観山ら の家族も引っ越してきた。彼らは五浦の敷地内に設けられた天心邸を中心に、南の高台へ横山邸、北の高台へ木村邸と下村邸、北の高台の裾に菱田邸を造った。 日本美術院研究所と呼ばれた共同アトリエは、そこから更に北にある蛇頭岬の突端へ作られた。新しい日本画表現を北茨城で追求した横山や木村らは天心の指導 のもと、ぼかしを用いて空気感の表現も可能な朦朧派もうろうはと呼ばれる、近代日本画の新流派を完成させた。この近代的なスタイルの 名前は、以前の日本画のようにはっきりとした装飾的な描き方ではなく、描かれた物が朦朧とし、あやふやになっているという意味の当時の人々からの揶揄に由 来していた。当時この表現方法は目新しく、他にも「化け物絵」などと酷評されていた。東京画壇でのこの反応を見た天心は横山らの展覧会を開くため地方巡回 を企て、先ず北へ宮城県仙台市から岩手県盛岡市秋田県秋田市、同県横手市、更に西へ広島県から福岡県、また本州へ戻り岐阜県新潟県岡山県香川県高松市へと美術院のメンバーらを引き連れ全国活動を展開した[a 61]。これにも関わらず、朦朧派の表現は斬新であった為、日本国内であまり受け入れられなかった。1904年天心は更に海外を目指し、横山ら朦朧派の作品展をアメリカ合衆国各地で開いて、漸く彼らは成功を収めた。1905年天心は旭の立ち上る太平洋の壮大な風景に包まれるような、五浦海岸における絶景の敷地に、書斎と瞑想所を兼ねた観瀾亭かんらんてい、通称・六角堂を自ら設計し、当地の地元大工から建築させた。この建物は中国詩人杜甫草堂である六角亭子構造をもち、朱塗りの外壁と屋根の上の如意宝珠で仏堂を装い、かつ内部に床の間と炉をしつらえ和風の茶室としての役割をもたせ、中国・インド日本といった東アジア文化多様性が、一つの建築全体で巧みに表現されている[179]。天心は波しぶきに潮騒の音が聴こえるこの場でよく思索に耽り、それに疲れると五浦の海へ北茨城の職人らが造った小舟・竜王丸を浮かべ釣りに遊んでいた。このような中で、天心は『茶の本』など思想家あるいは東洋文人としての英文著作を多数残した。それら彼の主著は、日本(薩長土肥明治新政府)と世界(欧米列強)の侵略戦争による文明化という矛盾を徹底して指摘している。またそれらの著は、東西の独創的な美術や芸術、生きるための技としての茶道の理解を通じた共感の輪によって、人々が互いに譲り合い、たとえ平和を信じて争わないゆえ野蛮とみなされ見下されていようと、その誤解が解けるまで優雅に過ごす事を最善[180]、とした彼の信念を伝えている。

明治新政府や欧米列強が大陸進出を行い東アジアに侵略していく中で、上述のような大きな矛盾をそれら自称文明化の勢力に対して指摘しながら、イギリス帝国に植民地化されていたインド始めアジア人の側に深く共感し、彼らの独立決起を促した天心[a 62]は次のように記した。

Asia is one. -- The ideals of the east, with special reference to the art of Japan(1903)
 訳文の一例:アジアは一つである。――『東洋の理想集、日本の芸術への特別招待と共に』、1903年

六角堂の外観
北茨城市五浦町へ最近の大津港駅は、天心の六角堂を模したデザインになっている

欧米列強や明治新政府から被害を受けてきた自らと同じアジア人の独立を励ます為のこの一句は、1902年(明治35年)頃、インドの革命青年らの間で合言葉のように伝えられていた。しかし、明治新政府が増徴した大日本帝国の側は天心自身を新政府から排除したのみならず、のち天心によるアジア人の独立解放運動を促したこの言葉をも濫用し、日本による大陸侵略正当化のイデオロギーへと断章取義で仕立てたのである[a 63]1942年(昭和17年)この言葉を刻んだ亜細亜ハ一なりの石碑が、天心邸の敷地内に横山や細川家第16代当主・細川護立資生堂社長・福原信三天心偉績顕彰会のメンバーによって建立され、今も北茨城市に残されている[179]。彼の著作は、西洋化に逸った明治新政府が仕切っていた日本国内を敢えて避け、イギリスロンドンアメリカニューヨークで発表された。1906年(明治39年)5月の発表当時、彼の著作はアメリカの読書界で大きな反響を呼び話題になったため、瞬く間にフランス語ドイツ語へ訳され、Okakuraの名を全ヨーロッパへ轟かせた。他方で、天心の著作を知らなかったのはひとり日本だけだったかもしれない、と哲学者三宅雪嶺が痛評している。The Book of Teaが日本語訳されたのは、1929年(昭和4年)になってからだった[a 64]。天心は1911年(明治44年)、アメリカハーバード大学からマスター・オブ・アーツen:Master of Arts)即ち文学修士号を贈られた。彼は朝の3時か4時頃には起き出して、北茨城市の五浦にある彼の邸宅の目の前に広がった波濤へ向かい、釣りに出かけることもよくあった[a 65]。横山ら天心を師と仰ぐ美術院メンバーは五浦時代、清貧に甘んじた。武帝の学友・子稜は宮仕えを嫌って、羊の皮衣をまとい釣三昧の余生を送ったが、天心は彼を模して道教の帽子を被り、毛皮のマントを肩に掛けて自らを五浦釣人と称した[181]。彼は海が荒れていないかぎり沖へ竜王丸を浮かべ、昼も夜もなく潮騒のなかで沈黙した海との対話をくりかえした[a 66]。ここへ学者や文人、記者らが方々から晴れやかに訪れ、またアメリカハーバード大学考古学を専攻していたラングドン・ウォーナーも北茨城へやってきて、天心邸で教えを受けた[a 67]。これ以後、ウォーナーは天心の薫陶を受け、日本美術を研究するようになった[179]日立製作所がウォーナー胸像建設の計画を興し、1970年(昭和45年)3月寄付を受けたウォーナー博士功績顕彰会ウォーナー像を北茨城市の茨城大学五浦美術文化研究所内に建立した。1907年天心や横山らは各界のセレブリティ美術愛好家を招待し盛大な観月会を五浦海岸で催した。この時代、横山は魚が安く買える同市・大津港の隣に一家で住みながら、それを買う金もなく、餓死寸前だったと回想している[a 68]1913年天心は亡くなったが、残った弟子らは弛まず日本画の研鑽を続け日本美術院、即ち今日の院展を再興し、のち横山は1937年昭和12年第一回文化勲章受章者となった。この間の1930年(昭和5年)、木村は明治天皇の水戸徳川邸への訪問を描いた『徳川邸行幸』(聖徳記念絵画館壁画)を残した。天心の墓は遺言により分骨され、五浦海岸の天心邸近くに残されている。1913年天心と親交していたインド詩聖ラビンドラナート・タゴールアジア人初のノーベル文学賞を受賞してのち、1916年(大正5年)8月に北茨城を訪れ、天心の墓前で彼の思想が国境を越え多くの若者へ受け継がれていることを報告した。タゴールは六角堂にて瞑想し、天心と五浦の海にまつわる詩を作った。茨城大学を訪れるインド人研究者は必ず、北茨城市の五浦海岸とそこにある六角堂を訪れている[182][183]1954年(昭和29年)横山はおなじく茨城県の筑西市出身で同学の陶芸家板谷波山と共に名誉県民となった。1997年(平成9年)11月8日茨城県天心記念五浦美術館が天心や横山ら五浦に集った朦朧派作家達の業績を顕彰し、且つ彼らのものを含め優れた作品の数々を鑑賞させるため、北茨城市五浦町に同県により開館した。この美術館内には岡倉天心記念室が設けられ、竜王丸や天心邸の書斎はじめ天心ゆかりの品々が展示されており、また、横山や木村ら朦朧派作家らの作品も同館に収蔵されている。一般観覧可能な同研究所敷地内にある天心邸長屋門は、日本国の登録有形文化財である。2011年(平成23年)3月11日北茨城市は東日本大震災で被災し、同地を襲った津波によって茨城県内で最大の死者数を出した。五浦海岸も同様に大津波へ襲われ、六角堂は海中へ流され消失、天心邸も地震と津波により一部破壊された。茨城県天心記念五浦美術館の管理課長・津久井稔は「地域のシンボルを失った」とコメントを出した。同年4月22日今上天皇皇后は北茨城市を慰問した。2012年(平成24年)1月21日「天心・六角堂復興パネル展」が水戸市千波町にあった桜田門外ノ変オープンロケセット展示館で始められた。2012年(平成24年)4月17日茨城大学を中心とした地元の有志は各地各国からの支援を受け六角堂を再建、天心が創始した東京芸術大学の第9代学長・宮田亮平も出席しこの起工式が行われた。同年10月この天心・六角堂復興プロジェクトが単なる六角堂復元に留まらず、建設時に天心の持っていた復興の精神まで汲み取ろうとした姿勢で被災者を力づけ、地域振興にも寄与した旨で同年のグッドデザイン賞を受賞した[183]。同地で撮影が企画されていた松村克也監督の映画『天心』は、茨城県復興支援映画を兼ねて地元人たちも協力のもと撮影が続けられ、天心生誕150年没後100年の2013年10月同県から先行公開された。この映画は順次全国及び世界へ回っている(後述)。なお、北茨城市内のマンホールは六角堂をそのデザインにしている[183]他、五浦に通じた同市の大津港駅は六角堂を模したデザインとなっており、且つ同市の磯原駅には六角堂をモチーフにした複数の意匠が施されている(後述)。

日本三大童謡詩人の一人・野口雨情
茨城県立磯原郷英高等学校

1882年(明治15年)5月29日、かつて成破の盟約を結んだ水戸藩士・西丸帯刀を祖父にもった詩人野口雨情が茨城県北茨城市磯原町に生まれた。野口家は回船問屋を営んでいて、江戸時代は義烈両公も含めた水戸藩主らが休息所として野口家を利用していた。義公は海が見える野口邸を観海亭と名づけ、この邸宅は他に磯原御殿とも称された[a 69]。烈公が観海亭に遊んだ際に詠んだ

四のとき咲きて変わらぬ波の華ながめ徒せぬ磯原の里

との歌碑が、野口家の目の前の海岸に残されている。雨情は茨城県の北茨城市立精華小学校[185]と同市の豊田高等小学校(現・北茨城市立磯原中学校茨城県立磯原郷英高等学校の前身)を卒業後、早稲田大学へ進学、文学者坪内逍遥へ師事した。雨情は父の死により19歳のとき大学を退学し帰郷、苦しい家計のなか悶々とした日々を送った。雨情は先生の坪内へ指導を仰いだところ、坪内から突如の帰郷を心配されつつ「作詞を続けるなら田舎いなかの言葉でいなかのよさを歌った詩を作るのはどうか」という忠告を得た。雨情はこの頃から詩作を始め1905年枯草』を水戸で出版したが思うような反響は得られなかった。1906年ころ雨情は北海道へ渡り新聞記者となった。この際、小樽小樽日報社歌人石川啄木と知り合った。啄木は当時の雨情について初対面の印象を、彼の日記の中で「温厚にして丁寧、色青くして髯黒く、見るから内気なる人」と記した。啄木は他に、雨情について「気障も厭味もない、言語ことばから挙動ものごしから、 穏和おとなしいづくめ、丁寧づくめ、謙遜づくめ」、「風采は余りあがっていなかった」が「これは面白い人だと思った」「自分は年が若いから、憤慨したり激語したりする雨情が好きなのだ」等と記している[186]。啄木が雨情と知り合って10日目の同日記に「野口君と予との交情は既に十年の友の如し」とある。啄木の記述によれば、雨情と石川は豚汁をつついては密議を凝らし、雨情は啄木へ経験談を話し、夜が更けて雨でも降れば、よく二人で同じ蒲団に雑魚寝をした[186]。 しかし石川はその2週間後の日記に「野口は愈々憎むべし」と記し、雨情との関係は複雑化していったようで、かつ彼との別離前には同日記に「見ると(雨情 が)着て居る着物はマルで垢だらけ、髯も生え次第になつて居る。自分は何とも云へぬ同情の念を起した。此人の一生も誠に哀れなものである」と記していた[187]。また、後に石川は「(石川の向こう見ずさへ)野口君はいつでもそれを穏かに制した」「(自分の新聞編集について持っている)多少の知識も、野口君より得た事が土台になっている。これは長く故人(雨情の事)に徳としなければならぬ事だ」と記している[186]。雨情と啄木が当社に所属していた頃、啄木への暴力事件が社内で起きた。1907年10月雨情は啄木と同盟を組んで当社の主筆を排斥する運動を起こしたが、そのため当社を首になった。1908年雨情の妻が出産した女児みどりが1週間ほどで亡くなった。当時として乳幼児が死ぬのはさほど珍しくなかったが、雨情はこれを非常に悔やんでいた。1909年雨情は帰郷後すぐ東京へ行き、1911年母の死を契機にまた帰郷と慌しい日々を送った。1914年雨情はいわき湯本温泉を湯治に訪れ、3年半をそこで過ごした。のち1922年(大正11年)、雨情は童謡『シャボン玉』を発表した。北茨城市にある常磐自動車道中郷サービスエリアには、この作品の歌碑が建てられている。この歌は、ある日、雨情が故郷である磯原町子どもシャボン玉を飛ばして遊んでいるのを見て、さきに亡くなったみどりがもし生きていれば今頃はこの子たちと一緒に遊んでいたろうと思いながら書いたという説がある[188][189]。この歌詞は著作権法の規定により、1995年著作権を失効している。

シャボン玉

シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ 屋根まで飛んで こわれて消えた
シャボン玉消えた 飛ばずに消えた 産まれてすぐに こわれて消えた
風 風 吹くな

シャボン玉飛ばそ
野口雨情生家
雨情や天心を讃えるデザインが施された北茨城市磯原駅

1919年(大正8年)雨情は詩集『都会と田園』で詩壇へ現れ、雑誌『金の船』から童謡を次々と発表した。坪内の忠告通り「田園の詩人」「土の詩人」となった雨情の代表作は『シャボン玉』の他、『七つの子』『赤い靴』『雨降りお月さん』『証城寺の狸囃子』『十五夜お月さん』『青い眼の人形』『こがね虫』『あの町この町』『兎のダンス』『俵はごろごろ』『キューピー・ピーちゃん』『波浮の港』『船頭小唄』など枚挙に暇がない。雨情は新民謡や校歌も作詞し、日本三大童謡詩人の一人といわれた。1935年(昭和10年)頃、雨情は東洋に軍靴の音が響き始めたなか栃木県宇都宮市鶴田町へ疎開、家族で農業に励みながら詩作を少しずつ減らしていった。1945年(昭和20年)雨情は63歳で疎開先の宇都宮市の近郊にて死去した[190]1966年(昭和41年)1月27日童謡『七つの子』の歌碑が雨情が出身した北茨城市立精華小学校に建立され[191]、 1967年(昭和42年)野口雨情生家は茨城県指定文化財になった。また、雨情が出身した北茨城市立精華小学校茨城県立磯原郷英高等学校では、雨情の命日である1月28日前後の毎年、彼の死後50年以上にわたり学校行事・雨情を偲ぶ会を催して全校生徒が共に彼の作になる童謡を合唱し、清らかな童心を貴んだ雨情の遺徳を奉じている[192][193]2002年(平成14年)11月2日、北茨城市立精華小学校は野口雨情生誕120周年記念精華祭を開いた[194]。また、野口雨情記念館が同町に造られた。磯原駅東口に作られた磯原からくり時計は、 雨情の童謡とそれにまつわる人形劇をからくり人形の芝居として、1日7回自動で演じている。この時計は天心の書斎・六角堂を模した姿でもあり、屋根のか かった六角の直方体の形をとっている。雨情の童謡『七つの子』が磯原駅発着メロディーに使われていたり、雨情の銅像が同駅構内にあったり、また、雨情の顕 彰プレートが同駅にあったりする。同駅は雨降りお月さんの灯篭雨情の童謡プレートなど、雨情の童謡世界をイメージしたデザインが随所に施されている。同駅前は雨情の童謡世界をイメージした同市出身の彫刻家蛭田二郎による雨情の世界 童心の銅像や、『船頭小唄』の歌詞碑をそれぞれ広場に設けている。雨情の童謡世界を描いたレリーフ舗装装飾が、同駅前のタイルや磯原町の通りにはめこまれている。

遠く朝日は海よりのぼり千里奥山夜が明ける

と彼の歌が記された雨情顕彰碑が、雨情生家近くの海岸にあり、同市の花園山・山頂付近、亀谷地湿原にも同様の歌が記された雨情の歌碑がある[195]。彼の名を冠した雨情の里牛雨情の里スポーツ広場雨情通りなど多数のものが同市には存在する。

松に松風 磯原は 磯の蔭にも波がうつ

との彼の民謡・磯原節を記した野口雨情磯原詩碑が、同市天妃山の近くの磯原海岸の荒磯の中に立っている。さらに、1960年(昭和35年)彼の童謡『通りゃんせ』を表現した通りゃんせ像が同町の二ッ島ふたつじま近くの国道沿いに、同年5月5日の国道開通を記念し立てられた。雨情の広場が前述の常磐自動車道中郷サービスエリアには、上下線とも存在する。[196]

茨城県生まれの武士・木村安兵衛が発明したあんパン

1817年(文化14年)茨城県牛久市武家に生まれた木村安兵衛は、水戸藩の番役をしていたが、明治維新を受け失業した。安兵衛は木村家本家の木村重義を頼って江戸に出た。安兵衛は江戸に出て来たばかりとき、最後の将軍・慶喜公のお供でしばしば水戸藩に出かけていた旧幕臣・山岡鉄舟と、剣術を通じて出会った。重義は東京府授産所所長だった為、安兵衛はここで事務職をした。授産所とは失業者に職業訓練をする公共施設である。このとき安兵衛は長崎オランダ人宅のコックを務めた人物と出会った。また、安兵衛はパンをいうものを知った。やがて彼は日本初のパン屋の開業を思い立った。実際にパン屋としての仕事をしたのは、安兵衛の次男で当時18歳ほどの英三郎だった。1869年(明治2年)、安兵衛は妻・ぶんのわずかな蓄えを元手として、パン屋・文英堂を今の東京・新橋駅付近に出店した。この店の名前は妻と息子の名から一文字ずつとったものだった。ところが数ヵ月後、その店は火事で焼失した。翌1870年(明治3年)、木村一家は再起をかけ木村屋と名を代え、銀座に再出店した[197]。木村親子は日本人の口にあうパンを研究し、小豆餅を 生地に包んだ。それだけでは飽きたらず、彼らは飯を盛った皿を持って筑波山へ行き、ふさわしい場所として選んだ同山・中腹の岩陰へそれを置いた。彼らが2 時間ほど待つと、この皿は澄んだ空気中で自然に降ってきた酒種の酵母菌を受けとめた。こうして彼らは澄んだ空気の中から自然採取を試みた酒種酵母を使っ て、前述のようパンに小豆餅を包んで焼き上げた[198]。ここに今日でいうあんパンが発明された。1871年(明治4年)7月13日から1871年(明治4年)12月9日まで、山岡は初代茨城県知事になった。1874年(明 治7年)木村親子ができたあんパンを山岡に試食をさせると、木村一家の努力を暖かい目で見守ってきた山岡はその味の良さに感心した。山岡は木村親子へ「陛 下に召し上がっていただこう」と申し出た。その日から木村親子は天皇の為、特別なあんパンを差し上げようと更に試行錯誤を重ねた。1875年(明治8 年)4月4日、明治天皇皇后が東京の向島にあった旧・水戸藩の下屋敷、いわゆる水戸徳川邸を訪れ、花見をした(前述の木村武山・画『徳川邸行幸』の際)。このとき侍従をした山岡が、事前の段取り通り木村屋のあんパンを茶菓子として天皇皇后へ献げた。この特製あんパンは英三郎のアイデアでパン中央部に桜の花びらの塩漬けをあしらったものだったが、天皇はそのパンをとても気に入り、ことのほか皇后の口に合った。以後、この桜あんパン皇室御用達となった[199]これらのゆえんで、天皇皇后が水戸徳川邸を訪問した4月4日があんパンの日となっている[a 70][200][201][202]

かつての水戸の梅娘らの写真

1889年(明治22年)2月11日明治憲法が発布され、同年4月、市町村制も施行された。茨城県はここに1市39町336村とされ、水戸市だ けが日本で最初のこの時に市制を執った。市町村長と議員が各地市町村で選挙権を与えられた一部住民により選挙された。この後の茨城県の発展は目覚ましかっ た。1876年(明治9年)の茨城県人口は85万7882人だったが、1970年(昭和45年)には214万3551人へ増加、市町村は18市74町村と なった。また、明治以降の交通の変化は著しく、嘗ての茨城県の面影を一変させた。1885年(明治18年)古河駅(旧・古河停車場)が大宮‐宇都宮間の鉄道敷設に伴ってつくられ、1889年(明治22年)水戸線が水戸‐小川を通った。更に1896年(明治29年)常磐線が水戸‐東京間を通り、翌1897年(明治30年)水戸‐平(いわき)間を通った。その後、鹿島参宮線筑波線常総線も開設された[a 71]1896年義公以来の梅の開花を祝う行事・水戸の梅まつりが水戸‐上野間の観梅列車の運行に併せてはじまった。1963年観光大使・水戸の梅娘が梅まつりPRのため選出されるようになり、2001年水戸の梅大使と名称を代えてこの伝統は続けられている。

茨城県で創業した日立製作所の旧ロゴマーク。1991年前半まで使われていた
日立駅前にある日立製作所製タービンのモニュメント。発電所用の大型タービン動翼である

常磐炭田の採掘が近代産業の先駆けとして、江戸時代の後期から始められた。1905年(明治38年)、山口県出身の久原房之助日立鉱山を茨城県日立市に開き、久原鉱業を始めた。1908年(明治41年)12月日立鉱山の工作課長だった栃木県出身の小平浪平はこの鉱山用の機械修理工場、即ち日立製作所を同市(旧・日立村大雄院)へ創業した。1910年(明治43年)小平は国産初の五馬力誘導電動機(5馬力モーターを第一号製品として3台、この窓にガラスさえない小屋のような茨城県の工場で完成させた。のち2002年(平成14年)1月25日このモーターは茨城県指定有形文化財になった。日立製作所の第一号製品である5馬力モーターは、日立市の小平記念館に今も、日本産業の宝として展示されている。1920年(大正9年)小平は株式会社日立製作所を設立し、久原鉱業から完全独立した[a 72]。他に、日立鉱山は銅や硫化鉄鉱を産む山だったが、この地を母体にした財閥・日産コンツェルンが久原の義兄で山口県出身の鮎川義介の手で生まれた。今日でもその名を冠している日産自動車も第二次大戦前、この財閥の一部だった。工都・日立のシンボルだった大煙突[203]は煙害防止を激減させたが、これは日本初の上層気流の調査を踏まえた繋留法により造られ、高さ155.7メートル、建設当時世界一の高さだった。大煙突は1993年(平成5年)に倒壊、翌年修復され高さが54メートルとなったが、JX日鉱日石金属日立事業所の設備として今も稼動している。また、大煙突の先端部(外直径8.17メートル、内径7.77メートル)を再現した円形ベンチと、日立鉱山にまつわる同市民の煙害克服の歴史を物語る、東京芸術大学学長を務めた彫刻家・宮田亮平制作になる2枚のレリーフ作品が、JR日立駅の中央口駅前に設置されている。日立鉱山の創業から80年目にあたる1985年(昭和60年)、日鉱記念館がかつての日立鉱山の中心地だった本山に建設された。日立鉱山やそこから発展していった日産コンツェルンと日立製作所の歴史、また、日鉱グループの事業などが当記念館では展示されている。1965年(昭和40年)日立鉱山で働く労働者の憩いの場だった共楽館は廃止となり、以後、日立市へ寄贈され日立市武道館となった。1999年(平成11年)この建物は日本国の登録有形文化財となった。1911年(明治44年)完成した石岡第一発電所は、日本に現存する最古の鉄筋コンクリート造建築物の一つである事に加え、日本の近代産業史に大きな役割を担った日立鉱山の代表的施設である事も評価され、2008年(平成20年)日本国の重要文化財へ指定された。また1913年(大正2年)日立鉱山で使用する電気をまかなうため建設された石岡第二発電所2006年(平成18年)同じく登録有形文化財になった。さらに日立鉱山は、鉱工業都市・日立の発展と共に京浜地区へ近い特性を生かして重工業発展に金属供給源として貢献した事が日本政府から評価され、2007年(平成19年)経済産業省が認定した、近代化産業遺産群33中の「京浜工業地帯の重工業化と地域の経済発展を支えた常磐地域の鉱工業の歩みを物語る近代化産業遺産群」に選定されている。

日立市平和通り

激しい煙害の為、日立鉱山付近の山林は完全な禿山となっていたが、同鉱山は植林事業によって煙害に強いオオシマザクラを茨城県日立市内へ大量に植えた。同鉱山は土砂崩壊防止のためヤシャブシ植樹も試み、同鉱山の所有林のみではなく国有林や、煙害を受けた山林所有者へも無償で苗木を配布した。日立市は昭和時代の初期に単一の植物を植えて大虫害が発生したため、多種の植物をバランスよく植える等の工夫を重ねた。やがてソメイヨシノが学校や社宅の近隣へ植えられ、日立市各地にが植えられるようになった。こうして日立市は桜の名所として有名になり、現在、桜が同市の花とされている[204]茨城県道293号日立停車場線、通称平和通りは、満開の桜のトンネルの下を開花期に車に乗ったまま通ることのできる名所として、日本さくら名所100選の一つに選ばれている。また、日立さくらまつりが毎年4月第2土曜日と日曜日に同市で開催されている他、観光大使日立さくらメイツが毎年選出されている。

茨城県水戸市堀原にある尼港殉難記念碑。同地は第14師団尼港守備隊水戸第2連隊の出身地であり、1920年に起きた尼港事件の殉死者を慰霊するもの

1918年(大正7年)、イギリスとフランス、イタリア、アメリカ、日本の各国はその前年のロシア革命に対してシベリアへ向け兵隊を送った。これをシベリア出兵という。同年5月にアメリカは日本に共同出兵を提案し、日本はこれに応え連合国と約束した1万2000人よりはるかに多い7万2000人の大軍を送り込み反革命勢力を支援した。一方、ソビエト連邦の政府が反革命勢力を鎮圧できたので、各国が撤兵するなか、日本のみシベリア居留民保護を理由に沿海州の各都市を占領していた。この時、アムール川の河口に近い尼港で尼港事件が起きたが、そこにあった日本領事館へ駐屯していたのが茨城県の水戸から派兵されていた陸軍第十四師団第二連隊すなわち水戸第二連隊の336名と、海軍無線電信隊の43名だった。1920年(大正9年)前半、水戸第二連隊の約10倍の数であるロシア革命勢力の非正規軍・パルチザン約 4000人が尼港を包囲し攻撃した。日本側は間宮海峡が凍結していて援軍を送れず、5月に入ってようやく救援隊が到着した頃には、孤立したなか数度のパル チザンとの苦戦を経た水戸第二連隊は捕虜となっていた。パルチザンは日本の援軍到着を知って投獄されていた捕虜をことごとく惨殺し、非協力的な当地の市民 をも虐殺した上で、尼港市街に火を放って逃亡した。この事件が報道されると、日本国内ではソビエトへの怨嗟の声が湧き起こり、かつ大日本帝国政府は新聞を 用いて同国民の反ソ連感情をあおった。こうして当政府はシベリア出兵にあたっての失政をごまかし、水戸出身の犠牲者らの戦死を戦意高揚のプロパガンダに利 用した[a 73]。犠牲者を弔う尼港殉難記念碑が水戸第二連隊の出身地である茨城県水戸市堀原に建設されている。

戦時中の1939年(昭和14年)から、空へ憧れる若者が茨城県稲敷郡阿見町にあった日本海軍予科練習生の訓練施設・霞ヶ浦海軍航空隊へ殺到し、全国各地の予科練航空隊のルーツといえる土浦海軍航空隊の指揮のもと1940年(昭和15年)11月に霞ヶ浦海軍航空隊予科練習部が独立した。戦闘機の搭乗員は体力や適性、高度な学識を要請された。厳しい訓練を経てここから出身した特攻隊員らは敢闘精神の強さゆえ、終戦までに1万9098人が皇国の義に殉死した。昭和17年公開の映画『ハワイ・マレー沖海戦』や、昭和18年公開の西条八十作詞になる主題歌・『若鷲の歌』と共に映画『決戦の大空へ』の大ヒットなど、当予科練を中心に据えた映画の影響で舞台となった土浦は、予科練の代名詞として知られるようになった[a 74]。茨城県稲敷郡阿見町にある阿見町予科練平和記念館は彼ら予科練志願兵の青春群像を紹介し、戦時の記憶と命の尊さ、平和への認識を後世へ伝えている。

風船爆弾

1944年(昭和19年)11月から1945年(昭和20年)4月の間、風船爆弾の発射基地福島県いわき市の勿来や千葉県一宮町と共に、茨城県北茨城市の大津町へ大日本帝国軍により置かれた。ふ号作戦と 呼ばれた極秘部隊の大本営直属司令部は大津に置かれ、1500名の隊員がここで働いていた。『大日本史』にも使われた茨城県製の伝統和紙・西ノ内和紙を用 いコンニャクのりで作られた直系10メートルの気球が、当地から約9000個放流され、350個前後がアメリカ本土へ到達した。これらはアメリカ・ワシントン州リッチランドにあったプルトニウム製造用・ハンフォード工場の送電線へ引っかかり、短い停電を引き起こし3日のあいだ原子爆弾の製造を遅らせたという説やそれは影響がなかったという説もあり、また、アメリカ本土で小規模の山火事を起こした。1945年5月5日、アメリカ・オレゴン州ブライで当風船の不発弾に触れたピクニック中の民間人6人、女性1人と子供5人が爆死したが、これが太平洋戦争中にアメリカ国内で日本側の攻撃によりアメリカ人が死亡した唯一の例となった[a 75][205]。同時に、日本人3名が風船製作中の事故により大津で殉死した。アメリカ・ワシントンスミソニアン博物館博物館は、不発で落下した当風船の気球部分を1つ、保管している。当風船の気圧計や、気球下部にあたる爆弾部分の実物は、同地の国立航空宇宙博物館に展示されている[206]。2014年現在、平成10年6月建立された風船爆弾犠牲者 鎮魂碑がこの風船放流地跡である大津町にあるほか、風船爆弾放流地跡わすれじ平和の碑が同町に建てられている。それは次のように結ばれている。

しかし戦争はむなしく はかないものです もう二度とくり返さないように努めましょう

この地で爆発事故のため 風船爆弾攻撃の日に 3人が戦死したことも銘記すべきでしょう
永遠の歴史の片隅で人目を偲び いぶし銀のようにささやかに光る夢の跡です

昭和59年11月25日建之

略年表[編集]

昭和後期略史[編集]

公爵・明公

第13代水戸徳川家当主・徳川圀順(明公)尊皇攘夷を是とした水戸徳川当主として、原爆投下及び第二次世界大戦敗戦時に貴族院議長を務め、天皇を守護し奉った。明公の貴族院議長期間は昭和19年(1944年)10月11日から昭和21年(1946年)6月19日迄であり、正式なポツダム宣言受諾まで継続された。これ以後の昭和21年(1946年)6月19日、当院議長の座は徳川宗家へ引き渡され、当院が廃止された。今も、水戸家当主は初代水戸藩主・徳川頼房から直系で第14代徳川圀斉、第15代徳川斉正、第16代徳川斉礼と続いている[a 76]

昭和天皇は人間宣言後の全国巡遊の際、1946年昭和21年11月18日から19日にかけ茨城県を訪れ、茨城県庁舎の屋上(旧茨城県庁舎であった三の丸庁舎の屋上)から水戸市街をみわたした[209]1945年(昭和20年)8月2日アメリカ軍無差別爆撃水戸空襲を当地へ行っていた。このため同市内の死者数は300人を超え、国宝水戸東照宮や、水戸城御三階櫓などの文化財をはじめ市街のほぼ全域が焼失、水戸の町は壊滅的状態になっていた。1947年昭和21年)昭和天皇は宮中行事である歌会始で、戦後最初の御製を次のように詠んだ。

たのもしくよはあけそめぬ水戸の町うつつちのおともたかくきこえて[210]

常陸宮家紋

1964年(昭和39年)9月30日正仁親王は節公を曽祖父にもつ津軽華子と婚姻した。彼らは、かつて親王が親王任国である常陸国司の長・常陸守へ遙任した伝統に習って、常陸宮と昭和天皇らの皇室により名づけられた。これは戦後初の宮家創設だった。2014年3月19日常陸宮宮妃は茨城の復興支援の為になれば、という気持ちから東京都美術館で行われた映画『天心』上映会へ訪れ、その映画作品を鑑賞した[211]

1967年(昭和42年)2月23日明公は水戸家に伝わった文化遺産の散逸を防ぎ、かつ水戸学の精神を普及させ公益へ役立てるため財団法人水府明徳会を設立した。また、1974年彼は義公以来の伝統を継ぎ、水戸学の始まりだった彰考館の名を冠した彰考館徳川博物館を茨城県水戸市へ建設した。私立図書館彰考館文庫が『大日本史』編纂資料を含み、事前予約制の学者向け施設としてこの敷地内に明公により置かれた。

1985年(昭和60年)3月17日から同年9月16日までの184日間をかけ国際科学技術博覧会(通称・つくば万博)が茨城県つくば市で開かれた。この国際博覧会は、「人間・居住・環境と科学技術」を主題として今上天皇を名誉総裁に据え、水戸藩が発祥のIHI社長などを歴任した土光敏夫会長のもと、日本を含む48国と37の国際機関が参加した。この万博の第二会場はのち再開発されつくばエキスポセンターとなり、メイン会場跡地は筑波西部工業団地へ転用され、Dブロック跡地に科学万博記念公園がつくられた。他、ソビエト連邦館は、筑波研究学園専門学校の2号館校舎である科学万博記念館へ転用された。芙蓉ロボットシアターのロボットの一部は、同市のショッピングセンターiiasつくば内に設けられたロボットミュージアムであるサイバーダインスタジオへ展示されている。テーマ館のWASUBOTは、同市つくばエキスポセンター内の科学万博‐つくば’85メモリアルコーナーへ展示されている

略年表[編集]

平成略史[編集]

水戸芸術館塔

茨城県水戸市の佐川一信市長は水戸芸術館を市制100周年記念施設として構想した。彼は文化による町興しを意図し、同市年間予算の1%を芸術館の活動資金にする制度を、日本で初めて市政へ導入した。1990年(平成2年)3月22日水戸芸術館は建設費103億5584万円をかけ、美術館・コンサートホール・劇場からなる現代芸術の複合施設として同市に完成した。この芸術館は、彫刻家ブランクーシの作品にインスパイアされた建築家磯崎新設計になるが特徴的であり、水戸市のあちこちから見渡せるため同市のランドマークともなっている。[212]

G1TOWER

日立製作所は1918年(大正7年)日立工場など主力工場や関連企業群を創業の地に残しながら本社を東京へ移転していたが、のち日本最大の総合電機メーカーへ成長、2011年(平成21年)米国フォーチュン誌のフォーチュン・グローバル500売上高ランキングでは世界第40位だった(後述)。2010年(平成22年)創業100周年の日立製作所はエレベータ研究塔として世界一の高さである213.5メートルのG1TOWERを茨城県ひたちなか市に建設した。G1とはグローバルナンバーワンをめざす決意を込めてつけられた名で、既に当地の日立製作所・水戸事業所内にあった旧塔はG1TOWER完成後も引き続き活用され、新旧合わせて地域のシンボルタワーとして社会に貢献する方針が日立から示された[213]2011年(平成23年)このタワーは第24回茨城建築文化賞県知事賞を受賞した。なお、世界最初のエレベーター1842年(天保13年)烈公が建築主となって造った好文亭の内にある為、茨城県内に既存している[214]

はやぶさカプセルのレプリカ

2010年8月1日今上天皇皇后は茨城県つくば市の筑波宇宙センターを訪れ、小惑星探査機はやぶさのカプセルを視察した。[215]

2010年(平成22年)10月16日同県民主体の『桜田門外ノ変』映画支援の会は、茨城県によるバックアップのもと水戸藩開藩四百年記念と銘打ち、同県民発の映画『桜田門外ノ変』[216]を公開した。彼らは茨城県の地域振興と郷土愛を目的に、時代劇として当映画を造った[217]。茨城県水戸市は、それに併せて桜田門外を再現した総工費2億5千万円の巨大な桜田門外ノ変オープンロケセットを同市の千波湖湖畔に建設した[218]。記念展示館もそこに付属された。このセットは当初1年間公開の予定だったがその時期が延長され、3年間に約31万人が訪れた末、2013年(平成25年)3月31日を以て閉館となり取り壊された。また、この映画製作に関わった茨城県民を描いたスピンオフ作品『桜田門内の変!?』が、映画『桜田門外ノ変』にも出演した水戸市出身の俳優渡辺裕之を監督として作られ、2012年(平成24年)6月公開された。

2011年(平成23年)3月11日茨城県は東日本大震災で被災し、同県各地で甚大な被害を出した。同県北茨城市は同地を襲った津波によって同県内で最大の死者数を出した。同年4月22日今上天皇皇后は同市を慰問した。東日本大震災で失われた岡倉天心ゆかりの六角堂や天心邸を復興する天心・六角堂復興プロジェクトの展示、「天心・六角堂復興パネル展」が2012年(平成24年)1月21日前述の映画『桜田門外ノ変』ロケセット内の記念展示館で始められた。同市五浦海岸にあった六角堂は津波で浚われ、土台を残し海中へ流出していたが、2012年(平成24年)4月17日茨城大学を中心とした地元の有志は各地からの支援を受け六角堂を再建した。同年10月この天心・六角堂復興プロジェクトが被災者を勇気付け地域復興のシンボルとなった由で同年度のグッドデザイン賞を受賞した[219]。同地で撮影が企画されていた松村克也監督による映画『天心』は、地元の協力のもと茨城県復興支援映画を兼ねた。この映画は撮影が続けられ完成、天心生誕150年没後100年の2013年10月同県から先行公開され、順次全国及び世界へ回っている。2014年3月19日この映画は、茨城の復興の為になればとの気持ちで東京都美術館における上映会を訪れた常陸宮宮妃にも鑑賞された[211]

1956年(昭和31年)建築家妹島和世は茨城県日立市に生まれ、やがて茨城県立水戸第一高等学校を卒業した。その後、彼女はプリツカー賞日本建築学会賞を得て、フランス・ルーヴル美術館別館であるルーヴル・ランス等を協働した建築家・西沢立衛と共に設計した。彼女は個人において故郷の日立駅も設計し、2011年(平成23年)4月7日同駅は改築された。[220]

略年表[編集]

人口・面積[編集]

1920年(大正9年)茨城県の人口は135万人と、首都圏で東京府(現在の東京都)に次ぐ人口だった。それ以後、茨城県の人口は緩やかに増加傾向が続き、1950年(昭和25年)に204万人、1999年(平成11年)に300万人となって以降は緩やかに減少傾向にある。また、当県2014年現在の人口は政令指定都市を持たない県で最大である。

2008年(平成20年)度における茨城県の合計特殊出生率は1.37人と全国平均の1.37人と同じである。当県の総人口はつくばエクスプレス沿線の開発が進む南部で増加が著しく、平野部のひたちなか市那珂市東海村を除き山間部が多い北部で減少が著しい。当県の全人口の3分の1は東京通勤圏に位置する南部へ集中している。当県の北部や西部などは定住者への奨励金交付を定住化促進制度によって図るなど、人口減少を食い止める施策を行なっている。

Demography08000.svg
茨城県と全国の年齢別人口分布(2005年) 茨城県の年齢・男女別人口分布(2005年)
紫色 ― 茨城県
緑色 ― 日本全国
青色 ― 男性
赤色 ― 女性
茨城県(に該当する地域)の人口の推移
1970年 2,143,551人
1975年 2,342,198人
1980年 2,558,007人
1985年 2,725,005人
1990年 2,845,382人
1995年 2,955,530人
2000年 2,985,676人
2005年 2,975,167人
2010年 2,968,865人
総務省統計局 国勢調査より
茨城県の市町村の人口、面積、人口密度(2014年5月1日)
  市町村 人口 面積 人口密度
1 水戸市 270,785人 217.43km² 1,245人/km²
2 日立市 186,070人 225.55km² 825人/km²
3 土浦市 142,003人 122.99km² 1,155人/km²
4 古河市 141,278人 123.58km² 1,143人/km²
5 石岡市 76,793人 215.62km² 356人/km²
6 結城市 51,605人 65.84km² 784人/km²
7 龍ケ崎市 78,995人 78.20km² 1,010人/km²
8 下妻市 43,576人 80.88km² 539人/km²
9 常総市 63,111人 123.52km² 511人/km²
10 常陸太田市 53,163人 372.01km² 143人/km²
11 高萩市 29,550人 193.65km² 153人/km²
12 北茨城市 44,418人 186.55km² 238人/km²
13 笠間市 77,381人 240.27km² 322人/km²
14 取手市 107,041人 69.96km² 1,530人/km²
15 牛久市 83,756人 58.88km² 1,422人/km²
16 つくば市 220,093人 284.07km² 775人/km²
17 ひたちなか市 156,480人 99.07km² 1,579人/km²
18 鹿嶋市 66,720人 106.09km² 629人/km²
19 潮来市 29,346人 71.41km² 411人/km²
20 守谷市 63,951人 35.63km² 1,795人/km²
21 常陸大宮市 43,161人 348.38km² 124人/km²
22 那珂市 53,783人 97.80km² 550人/km²
23 筑西市 105,136人 205.35km² 512人/km²
24 坂東市 54,941人 123.18km² 446人/km²
25 稲敷市 44,066人 205.78km² 214人/km²
26 かすみがうら市 42,263人 156.61km² 270人/km²
27 桜川市 43,329人 179.78km² 241人/km²
28 神栖市 94,090人 147.26km² 639人/km²
29 行方市 35,601人 222.38km² 160人/km²
30 鉾田市 48,033人 208.18km² 231人/km²
31 つくばみらい市 47,242人 79.14km² 597人/km²
32 小美玉市 51,406人 145.03km² 354人/km²
33 茨城町 33,283人 121.64km² 274人/km²
34 大洗町 17,179人 23.19km² 741人/km²
35 城里町 20,402人 161.73km² 126人/km²
36 東海村 37,846人 37.48km² 1,010人/km²
37 大子町 18,536人 325.78km² 57人/km²
38 美浦村 16,261人 66.57km² 244人/km²
39 阿見町 47,839人 71.39km² 670人/km²
40 河内町 9,386人 44.32km² 212人/km²
41 八千代町 22,331人 59.10km² 378人/km²
42 五霞町 8,990人 23.09km² 389人/km²
43 境町 24,876人 46.58km² 534人/km²
44 利根町 16,774人 24.90km² 674人/km²

政治・行政[編集]

行政府[編集]

一時期、増築されていた旧茨城県庁舎(三の丸庁舎)、茨城県水戸市、1930年置塩章設計。1954年に4階部分が増築されたが、2011年の耐震補強及び復元工事により撤去された。2010年撮影
現・茨城県庁舎。第41回BCS賞(2000年)、1999年松田平田設計

知事[編集]

  • 橋本昌1993年9月26日〜、公選 第13代〜第18代、6期目)
    • 戦後、橋本までの公選17代知事はわずか4人が務めている。これは石川県と並び、全国最少の知事数である。
    • 2014年現在、橋本は6期目で現役任期期間が全国最長の知事である。なお、石川県知事・谷本正憲も6期目である。

財政[編集]

平成19年度[編集]
  • 財政力指数 0.64
    • Iグループ(財政力指数0.5以上、1.0未満)17自治体中6位
平成18年度[編集]
  • 財政力指数 0.60
    • Iグループ(財政力指数0.5以上、1.0未満)16自治体中7位
平成17年度[編集]
  • 財政力指数 0.55
    • Iグループ(財政力指数0.5以上、1.0未満)10自治体中7位
平成16年度[編集]
  • 財政力指数 0.53
    • Iグループ(財政力指数0.5以上、1.0未満)8自治体中7位

姉妹提携都市[編集]

立法府[編集]

旧・茨城県議会議事堂。建物をコンバージョン(用途転用)し現在は茨城県立図書館として使われている

県議会[編集]

会派名 人数
自由民主党 47、公認36
民主党 6
公明党 4
自民県政クラブ 3
日本共産党 2
無所属 1
欠員 2

茨城県議会議員選挙は、統一地方選挙では実施されない数少ない都県の一つ(他は東京都沖縄県)である。これは1966年(昭和41年)、県議会議長ポストをめぐって汚職事件が発生したため同年12月21日に茨城県議会が解散したことによる。

茨城県議会は保守王国自民王国と言われるほど、自民党が長年に渡り県議会の圧倒的多数を占めている[221]。しかし、2006年12月10日に投票が行なわれた県議選で は、自民党候補の一部が落選(水戸市選挙区・土浦市選挙区)、民主党候補が水戸市選挙区・土浦市選挙区などで初の議席を獲得し日立市・水戸市両選挙区で トップ当選した上、共産党候補(つくば市選挙区)が1000票余の票を上乗せして再当選、つくば市選挙区で公明党候補がトップ当選したなど票の動向に少し 変化が起きた。

国会議員[編集]
衆議院[編集]

茨城県内にある衆議院選挙区が選出した国会議員は次の通り。

参議院[編集]

茨城県内にある参議院選挙区が選出した国会議員は次の通り。

茨城県は投票率国政選挙・県政選挙ともに全体として低い傾向を持ち、参議院議員通常選挙をとってみると、第16回参院選(36.62%)・第17回参院選(36.94%)・第18回参院選(50.99%)・第19回参院選(50.18%)・第20回参院選(50.07%)と、選挙区別の投票率が他都道府県と比べ3回連続全国第47位(最下位)や第46位となっている。この他、県知事選挙の投票率は1997年9月14日が31.87%、2001年9月16日が29.93%だった。投票率は衆議院議員総選挙でも年々下がり続け50%台で推移、県議選も2002年は40%台まで落ち込んだ。

茨城県選挙管理委員会は投票率を向上させる施策を県民から公募し、銀行コンビニATMに投票を呼びかける案などを実行したりしているが、そこに特に大きな変化は見られない。第21回参院選の投票率は、数々のキャンペーン――選挙区の投票率ぴったり当てると当県特産品のメロン常陸牛がもらえたり、県内の中学生からメッセージを募集しラジオCMで流したりする――を行ったにも関わらず、全国第46位であった。

一方、2014年5月の時点で茨城県における戦後の総知事数は全国最少であり[222]且つ現知事・橋本徹の現役在任期間は全国最長、2013年(平成25年)10月実施の茨城県政世論調査によれば当県民の過半数である約8割(77.1%)は今の生活に満足しており、しかもその割合は年々少しずつ増えている[223]。茨城県民の声はこの世論調査において2009年(平成21年)度から2013年(平成25年)まで継続的に、今の暮らし向きの変化について「変わらない」の割合が増え、「少し苦しくなった」の割合が減っている[39]。なお、茨城県域は1869年版籍奉還以前、水戸徳川家による一族支配が267年間余り続いていた。

司法府[編集]

警察[編集]

茨城県警と当県庁を取り違えた情報提供者へ当県警・県庁側は次のような対応をした。2008年茨城県筑西市北つくば農業協同組合の 元監事が実名を明かし、ある農協幹部による不正融資を訴える書を茨城県庁の県知事へ宛て送った。当県庁の農業経済課・担当者は秘書課を通じて受け取った知 事からの指導命令書の内にあった個人情報のコピーを、農協側へ渡した。農業経済課の掛札徹課長はこの件について、元監事へ謝罪した。茨城県警は、ある農協 幹部の不正融資に関するこの元監事による県知事あての情報提供を、刑事事件として受理していない。元監事によるある農協幹部についての情報提供は茨城県警 宛てではなく、県庁の県知事宛になっていた為、茨城県警はこの情報提供について刑事訴訟法に基づいた処理を行わなかった。[224]

自衛隊[編集]

航空自衛隊百里基地における第305飛行隊F-15運用20周年記念塗装機

茨城県小美玉市にある百里基地は、首都防空の要ともいわれる。これは、埼玉県入間基地は埼玉地域からの申し立てによりダイバートを除くアフターバーナー装備飛行機の運用が不可能な事から、茨城県の百里基地が航空自衛隊にとって離島を除き戦闘機の運用可能な首都圏で唯一の基地だからである。また、当基地は各国の首脳を招いた各種の行事も多数実施している。なお、当基地は茨城空港として民間共用化されている(後述)。

50音順で茨城県内の自衛隊基地を次に挙げる。

航空自衛隊
陸上自衛隊
第1師団

経済・産業[編集]

農業[編集]

茨城県は『常陸国風土記』に常世の国と謳われ、律令国大国と分類されたように、日本屈指の農業地帯である。2012年茨城県の農業産出額は4281億円であった。また、1975年~1993年・2008年~2013年に至るまで茨城県の農業産出額は本州一でありつづけ、これは北海道に次ぎ常に全国第2位[13]、日本国の農業産出額の約5%を占めてきた[225]。単に朝廷の編纂した古代の地誌にそう記されてきたのみならず公的統計に見られる通り少なくとも23年間以上、茨城県の生産農業所得は本州一かつ、北海道に次ぎ全国第2位であり続けてきた事からも、茨城県とは古代から現代に至るまで名実共に日本最大の農業県[226]であるといえよう。当県は、農業・水産王国とも言われている[a 77]。1998年から2011年に至るまで茨城県のカロリーベース食糧自給率は約70%で[227]、これはイギリス一国のカロリーベース食糧自給率を少し上回る位である[228]。なお、日本国全体の食糧自給率は39%と主要先進国の中で特筆して低い[228]。また、茨城県の生産額ベース食糧自給率は、1998年から2011年に至るまでほぼ120%から130%の間で推移しており、首都圏一である[227]。2004年度の市町村別農業産出額が首都圏一なのは茨城県鉾田市の525億円で、第2位の千葉県旭市が403億円、群馬県前橋市が319億円だった[229]

平成21年(2009年)茨城県は主要農産物畜産物の品目別産出額、水産物漁獲量において、メロンレンコンくり鶏卵みつばピーマンうなぎあゆ、が日本一。コシヒカリはくさいレタスマイワシしらうおわかさぎが全国第2位。かぼちゃしじみが全国第3位。[30]

平成23年(2011年)茨城県は主要農産物・畜産物の品目別産出額、平成24年度水産物漁獲量において、メロンレンコンくり鶏卵みつばピーマンほしいもみず菜チンゲンサイ切り枝マイワシエビ類(淡水)、コイ養殖)、サバ類が日本一。はくさいレタスかんしょ(サツマイモ)ナシごぼう落花生あゆはぜ類が全国第2位。かぼちゃねぎにらスイートコーンらっきょうパセリしそそらまめカリフラワーこんにゃくいもしらうお(淡水)が全国第3位。[13]

日本一(2011年度の品目別産出額、2012年度の漁獲量)


全国第2位(2011年度の品目別産出額、2012年度の漁獲量)


全国第3位(2011年度の品目別産出額、2012年度の漁獲量)


平成16年(2004年)から平成25年(2013年)まで、東京都中央卸売市場における茨城県産の青果物シェア(金額)は10年連続日本一でありつづけた。[13]

平成25年(2013年)7月15日茨城県は耕地面積割合において、28.4%と日本一である[13]。他方で、県土の大半が農地のため森林率では31%と大阪府に次いで全国で2番目に低い[230]

穀物

つくば市北条の北条米を生産している水田

茨城県の水稲は約78200ヘクタールに作付けされ、当県の農業産出額のうち約22パーセントを占める主力作物である。[231]

茨城県は関東一の米どころで2011年の生産量は39万3千トン、関東第2位の栃木県は35万トンだった[232]。また、食料品消費モニター調査結果によると、茨城県は人々の米購入先に決めている産地として、第1位の新潟県、第2位の秋田県、第3位の北海道に次ぎ、全国第4位に山形県と共に選ばれている[233]

大子産米(大子米)は2013年(平成25年)お米コンテストで日本一になったほか、第15回米・食味分析鑑定コンクール国際大会にて金賞、第3回大阪府民のいっちゃんうまい米コンテストにて総合最優秀賞、第1回東京粋なごはんグランプリにて優秀賞などを連覇した。

関東の米蔵である茨城県産のコシヒカリは食味ランキングで特Aとされている。[234]

茨城県オリジナル品種の米・ゆめひたちは当県育成の第一号水稲品種で、1997年(平成9年)当県の奨励品種になった。[231]

また、茨城県は陸稲栽培が盛んであり、県北部を中心に2007年(平成19年)度に2760ヘクタールが作付されている。茨城県の生物工学研究所・普通作育種研究室は陸稲生産を安定化するため、早生や多収、良食味を目標に新品種を開発した。このなかで2005年(平成17年)陸稲・ひたちはたもち(陸稲農林糯61号)が早生の品種として、茨城県オリジナルで育成された。[231]

10年をかけて交配や選抜を進めた茨城県オリジナル酒造好適米であるひたち錦は、2001年(平成13年)当県の奨励品種となった。[231]

なお、ミルキークイーン1985年茨城県つくば市にある農業・食品産業技術総合研究機構の稲育種法研究室で研究がはじまり、1998年水稲農林332号として品種登録された茨城県生まれの米である。茨城県におけるミルキークイーンの2008年(平成20年)度の生産量は4990トンで、県内水稲合計に占める作付比率は1.2%だった[235]

キヌヒカリは1988年(昭和63年)茨城県の奨励品種に指定された。[234]

常陸秋そばは1978年茨城県農業研究所が常陸太田市・赤土地区の在来ソバ種から改良した品種で、品質日本一と呼ばれ全国へ出荷されている。このソバは茨城県の奨励品種である[234]。特に常陸秋そばの発祥地である常陸太田市金砂郷町の品種はブランド化され金砂郷そばとして商標登録されている[236]

北条米はつくば市のつくば山麓で生成された特別栽培米で、昭和時代初期に皇室献上品だった。関連する筑波北条米は第4291267号、筑波北条米丸北(北 の文字を丸印で囲んだ「マル北」の印)は第4633770号、小田北条米は第5104597号で商標登録されている。北条米の流通価格は、一般的なコシヒ カリより5kgあたり500円以上高い高級品である。なお、この米を使ったオリジナル製品も茨城県つくば市の北条のみで製造されている(後述)。[237]

サツマイモ

サツマイモの茨城県オリジナル品種・ベニアズマフリー系88は作物が清浄である状態をさすウイルスフリーのサツマイモ種として開発され、2007年(平成19年)普及された。[231]

花豆ベニバナインゲンの茨城県オリジナル品種・常陸大黒ひたちおおぐろ2002年(平成14年)品種登録された。この豆は茨城県すなわち常陸国で初めて育成され、かつ日本一大きい国内初の黒一色花豆品種な事から、「西の丹波黒(大豆)、東の常陸大黒(花豆)」と賞される特産作物となるよう願いを込めて命名された。[231]

奥久慈茶は 日本国の最北限で採れる茶であり、約400年の伝統を持ち、古くから非常に有名でかつては保内茶と呼ばれていた。この起源には複数の説があり、15世紀半 ばに茨城県大子町の文珠院僧侶・常庵が宇治から持ち帰ったとも、大子の近隣にある雲巌寺の僧侶が広めたともいわれ、或いは16世紀の終わり頃、茨城県龍ヶ崎市の佐貫町にある西福寺の宥明や慶松、常庵らが茶の実を宇治から持ち帰ったといわれてきた。これらとは別に確証的な起源は、1601年同市佐貫町の石附兵次らの努力と水戸藩の奨励により、広く栽培されるようになった事である[a 78]。奥久慈茶は、手もみと いう昔ながらの伝統技法を用いて作られる。大子町茶手揉保存会に属している生産者・藤田良が平成14年の第10回全国手もみ茶品評会で日本一である農林水 産大臣賞受賞を得て、同生産者小室栄寿が平成19年度の第15回全国手もみ茶品評会で日本一である農林水産大臣賞受賞を得た他、同生産者の見越政広と清水 善重、小室栄寿らが平成15年の全国手もみ茶技術競技大会で最優秀賞受賞を得たなど数多く、日本一の栄冠に輝いてきた。特に藤田良と小室栄寿は、全国名人 の称号を与えられている[238]

さしま茶は13世紀初頭から、茨城県猿島郡付近 での空っ風と呼ばれる冬から春先にかけて吹く北西風から作物を守り、土壌浸食を防ぐため畑の境界に茶葉を植えたのが始まりである。さしま茶の産地はペリー の浦賀来航を機に、下田のアメリカ領事館へさしま茶の宣伝を行った結果、1859年(安政6年)開国後に初めて海外輸出を行なった地となった[239]

古内茶は1390年頃から、八溝山の鶏足山塊の丘陵で栽培され始め、長い歴史の末、今では首都圏一円へおよそ20の工場からこの茶が出荷され非常に強い人気を保持している[a 79]。第2代水戸藩主・徳川光圀(義公)へこの茶を献上したところ、義公がその美味しさに感動の余り詩を詠んだという伝承が伝わっており、そのときに初音と名乗らせた樹が現在も茨城県東茨城郡の城里町にある清音寺の境内に残っている[240]



野菜

レンコン
みつば
チンゲンサイ

農林水産省が2012年(平成24年)11月に発表した平成23年産野菜生産出荷統計によると、レンコンの日本全国4万8200トンの出荷量のうち、茨城県の出荷量は2万3900トンで日本一であり全国の出荷量の50%を占めている。第2位の徳島県が5530トンで第3位の愛知県が3300トンと、茨城県は単独で桁違いの出荷量を持っている[a 80]。この他、茨城県が日本一の出荷量を持つミズナチンゲンサイピーマンメロンの うち、ミズナのシェアは全国4万2200トンの出荷量のうち茨城は1万1000トンと4分の1を占め第2位の福岡は3960トンで茨城は桁違いに生産量が 多い。また、チンゲンサイは全国4万2200トンのうち茨城は1万1000トンとその4分の1を占め、第2位の静岡は7610トンに留まっている。ピーマ ンは全国12万2400トンのうち茨城は3万2400トンとトップシェアを占め、第2位の宮崎は2万4400トンである。メロンは全国16万3100トン のうち、茨城は4万500トンであり、第2位の熊本が2万6600トン、第3位の北海道が2万5400トンと茨城県の生産量は段違いに多い[a 81]

畜産物

たまご(鶏卵)

2012年(平成24年)日本の鶏卵(たまご)生産量は250万6768トンだったが、うち茨城県の生産量は19万7234トンで日本全体の7.9%を占め日本一だった。なお、茨城県は2010年(平成22年)から続けて日本一の生産量である。[a 82]

茨城県北の山間地で育てられる奥久慈軍鶏は日本三大地鳥の一つで、1988年(昭和63年)3月25日全国鶏肉消費促進協議会が主催した全国特殊鶏(地鶏)味品評会で、日本一を獲得した。奥久慈軍鶏は2011年の比内地鶏54万6000羽や名古屋コーチン90万3000羽と比べても、4万8500羽と、希少な銘柄となっている[242][a 83]

雨情の里牛は茨城県北茨城市にある牧場で育てられた牛で、同市出身の詩人・野口雨情に因んだ名前が冠されている。ほか、常陸牛は茨城県の古名・常陸国に由来し、当県におけるオリジナル高品質牛である。

ローズポークは茨城県オリジナル品種の厳しい条件によるブランド豚で、肉の色が淡いピンクのバラのような色をしており、かつ県の花・バラに因み輝かしい未来が開かれる事を望んで命名された。この豚は1979年(昭和54年)に系統豚第1号に認定された[243]

果実

メロン

茨城県オリジナル品種のメロン・イバラキングは日本一の生産量を誇る茨城メロンの王様として、茨城の顔になって欲しい、という願いを込めて命名された[231]。上述のよう、茨城県のメロン生産量は日本一である[a 84]

茨城県オリジナル品種のいちご・いばらキッスは2010年(平成22年)2月に品種登録出願を行ない、同年4月22日に出願公表された(出願番号24622)。おなじく茨城県オリジナル品種のいちごひたち姫は「とちおとめ」を母親に、収量性に優れ甘さに特徴がある「章姫」を父親にして交雑を行ない、形状が整った美しい形で糖度が高く甘みを感じられる品種として生まれ、2005年(平成17年)「ひたち姫」と命名し品種登録を出願した。 [231]

クリ

茨城県のクリの収穫量は日本一である。2011年度、茨城県の収穫量は4970トンだったがこれは日本全国の収穫量の約26%だっ た。2010年の収穫量において全国第2位は熊本県で、2360トンだった(後述・2011年度の日本国内のクリ収穫量)。2012年(平成24年)度の 同量は全国で1万5300トン、うち茨城は日本一の4130トン、第2位の熊本は3130トンだった[a 85]。なお、世界的に見ると2011年度の日本のクリ生産量は第7位である(後述・2009~2011年度の国別年間クリ生産量)。

茨城県は、ナシの銘柄・豊水の収穫量が日本一、和なしと幸水の収穫量は千葉県に次ぎ全国第2位である。[244]


林産物

その他の農産物
茨城県つくば市の作付け面積は日本一であり、新品種の開発も盛んである。[247]

水産業[編集]

うな丼
アユの塩焼き
濃厚な味わいから海のフォアグラといわれる、あんきも(アンコウの[a 86]
アンコウ鍋の素材

うなぎ屋が軒を連ねたうなぎ街道が茨城県龍ヶ崎市牛久沼の東、国道6号線沿いにあるが、茨城県人の大久保今助が江戸時代中期の1830年から1844年頃、牛久沼の渡し舟に乗る際、蒲焼を御飯に急いで載せた事がうな丼の発祥とされている[a 87]

茨城の冬といえばアンコウといわれるが、この魚は江戸時代には朝廷への水戸藩からの献上品であった。また、アンコウ鍋は今日でも北茨城市大洗町水戸市の代表的料理である。アンコウの水揚げ量では山口県の方が多いが、味は茨城県の方が上とされその取引価格も高い。山口県で同様に水揚げ量が多いフグと対比させ、茨城県で獲れる常磐物のアンコウは「西のフグに東のアンコウ」ともいう。[a 88]

茨城県は汀線ハマグリの最大産地である。また、茨城県の鹿島灘において、有名な貝塚は大串貝塚である。縄文時代から鹿島灘一帯がハマグリを含め貝の名産地だったことは、『常陸国風土記』那賀郡条に次のような記述で見られる。

平津駅家の西へ1、2里のところに、大櫛という名の岡がある。昔、大男がいて、岡の上に立ったまま手をのばし海辺の砂浜の大蛤をほじって食べた。その貝殻が積もって岡となった。大きくくじったことから、大櫛の岡の名がついた。

1943年(昭和18年)大串貝塚の発掘調査では、ヤマトシジミ、マシジミ、ハマグリ、アサリ、カキ、アワビ、サザエなど、淡水産と海産の貝が共に混在して見つかった事から、古代より鹿島灘は各種の貝類が豊富だったと分かっている[248]

養殖ウナギの原料、即ち養殖ウナギの稚魚となるシラスウナギの漁獲高は、1997年(平成9年)度から2012年(平成24年度)までの平均漁獲高において茨城県が日本一である。[249][30]

天然アユは全国で2557トン捕れるが、このうち、茨城県は日本一の産地で395トンの捕獲量がある。[a 89]

エビ類は全国で428トン獲れるが、このうち、茨城県は258トン収穫でき日本一の漁業生産量である。第2位の収穫量の北海道は41トンと、茨城県の収穫量は他都道府県を大きく引き離している。[a 90]

養殖コイは全国で2964トン殖やされているが、茨城県は日本一の養殖地で968トンの養殖高、第2位の福島県は679トンである。[a 91]

農業・漁業王国[a 92]としての茨城県は他にも、沖合いで親潮と黒潮がぶつかる好漁場である為にマイワシ、カタクチイワシ、サバ、サンマ、カツオ等々実に様々な魚が水揚げされている[a 93]


長年有名な霞ヶ浦の養殖は、2003年10月国際的に流行したKHV[251]の日本到来によって養殖が休業状態になっていた。5年後の2009年4月、茨城県は養殖自粛要請をKHVに耐性を持つコイの育成技術が開発された事から解除し、養殖は再開された[252]。安全を第一として当県は養殖鯉を生きた状態で霞ヶ浦と北浦流域以外へ移動する事を、防疫上禁じた。当県がKHV発生時に鯉の処分命令を下した業者数は58、再開後には30業者しか復活できなかった為、いけすの数は約半分に減った[253]。かすみがうら市の養殖業者には「鯉養殖は人生そのもの」と20年以上も鯉養殖を続けていた者もいた[254]

茨城県の農林水産業は、2010年3月11日の東日本大震災という自然災害に伴った世界最大の公害・福島第一原子力発電所事故により、東京に本社のある東京電力株式会社が引き起こした人災被害を、偏に甚だしく受けた。同年4月22日、今上天皇皇后は茨城県の北茨城市を慰問し、津波で大きな被害を受けた同市の大津漁港で2度に渡り黙礼、当時、犠牲者が行方不明になっておりのち亡くなった太平洋と、津波で死者が出た同漁港の住宅に向け頭を下げた。同日、天皇皇后は地震・津波により避難民が集まっていた北茨城市民体育館を慰問してのち、同県知事・橋本昌や同市長・豊田稔らと同市役所にて同市の大津漁港平潟漁港を含む地元で前日に水揚げされたカレイ、ヒラメ、アナゴなどの魚料理を囲みながら、会食した。天皇は同事故での風評被害を心配しながら「(国民や関係者も)しっかりとした知識に基づいて行動して欲しいですね」と述べ[255]、「コウナゴは入っているんですか」と当県の応対者に尋ねた。事故当時、同漁港で水揚げされた旬の時期のコウナゴから暫定基準値を上回る放射性物質が検出され出漁を自粛していたが[256]、天皇は「頑張って復興してください」と当県の漁業関係者に声をかけた[257]2014年6月5日、同市は魚を傷つけないまま1時間で約900匹の魚介類[258]・農作物等の地場産品の放射性物質濃度を検査できる非破壊放射能検査施設を、同市の大津漁港に完成させた。当施設の検査機器・連続個別非破壊放射能汚染検査システムは、東北大学教授・石井慶造の研究成果を活かし、同大が復興庁を通じて開発した。茨城県内水面漁業協同組合連合会は自主基準として定めた魚介類1キログラムあたり50ベクレルを超えた場合に当県の検査機関に報告し、ゲルマニウム検査機を用いて更に詳しく測定していく[259]。北茨城市の豊田稔同市長は検査した魚に安全シールを貼るなどを行い、単に緻密な科学技術学設備で検査するだけではなく更なる安全安心をもPRしたいと語った。同年同月4日、非破壊放射能検査施設完成式が同市の大津漁港で開かれ、小泉進次郎復興政務官石川昭衆議院議員はじめ、同教授や同市長ら150人が出席した。同漁港は2010年に 約6000トンの漁獲量を持っていたが、震災以後に激減し、2013年度にも1900トンとその量が大幅に減っていた。石井教授は「(茨城県北茨城市の) 大津漁港に活気がもどり、震災以前のよう賑やかな港になってくれればいい。今後とも技術的サポートをしていきたい」と語った。同年2月に訪れた北茨城市を 再び訪れた小泉復興政務官は「安心・安全な日本の海産物を世界へPRする大きな一助となる。消費者に安心して食べて貰えるよう、風評被害払拭に全力で取り 組んでいきたい」と語り、同教授の説明を受けながら同市の魚であるアンコウを検査機器に載せた[260]

その他生産品目[編集]

茨城県那珂市木内酒造が造る地ビール常陸野ネスト2000年ワールド ビア カップ; World Beer Cup[261]のHerb and Spice Beers部門で世界一になる金賞を得た[262]他、1886年からイギリスにて続く世界最古のビール国際品評会・ザ ブリューイング インダストリー インターナショナル アワーズ; The Brewing Industry International Awardsにて2002年International speciality beer with other speciality ingredienst部門で世界一の金メダルと、更に全部門が集ったInternational speciality beerで総合チャンピオンとして世界一の座を得、2004年に再びワールド・ビア・カップのHerb and Spice Beer部門で世界一になった[262]。また2011年ジャパン アジア ビアカップ2011で日本一である金メダルを得た。これ以外にも常陸野ネストの受賞歴は数え切れないほど多い[263]。木内酒造は2011年3月11日に発生した東日本大震災で被災したが、それから17日後の同年3月28日、ニューヨーク州ビー ル連盟に加盟しているBrooklyn Breweryをホストとしたビール会社9社のHeartland Brewery, Kelso of Brooklyn, Sixpoint crafy ales, Empior Brewring co., Lagunitas Brewing co., Shmaltz Brewing co., Victory Brewing co., New York State Brewers Assosiationらと、食事を用意したThe Meat Hook, Brooklyn Kitchen, Tanuki Tavern, SlantShack Jerky, Jimmy’s No. 43, Waterfront Ale Houseら、及びスポンサーのGood beer seal、Beer sessions radio、Chow ciao designら有志が、茨城県にある木内酒造のためのチャリティー・イベント、Brewers For Brewersをブルックリン・ブリュワリーで開催し収益の1万2千ドルを木内酒造のコミュニティ適用に寄付した[264]

アサヒビール麒麟麦酒などの大手ビールメーカーの工場が茨城県にはあり、茨城県のビール生 成量は日本一である。国税庁の酒税に関する年間統計によると、2011年(平成23年)度の日本全体のビール生産量は289万5187キロリットルだが、 そのうち茨城県は48万9737キロリットルで約2割を占めている。同年第2位は大阪府で、33万9289キロリットルだった。1970年(昭和45年) に操業開始した茨城県取手市キリンビール取手工場の面積は26万平方メートルで東京ドーム5個半ほどの大きさである。キリンのラガービールや一番搾り生ビール、ハートランド、発泡酒などを1日あたり350ミリリットル缶に換算して570万本分を茨城県で生産している。また、茨城県守谷市のアサビビール茨城工場は1991年(平成3年)操業開始しその敷地面積は38万8700平方メートルで東京ドーム8個分である。この工場はビール大瓶に換算して年に7億本を茨城県で作っている。ここでは、アサヒスーパードライや発泡酒の他、三ツ矢サイダーなどの清涼飲料も製造している。[a 94]

2008年明利酒類百年梅酒全国梅酒大会天満天神梅酒大会)で日本一を受賞した[265]

2012年2月北条米シフォンは第一回つくばコレクションでつくば市役所が高い品質を認定し、2012年4月29日つくばの食王座決定戦スイーツ部門で3位を受賞した[266]

茨城県牛久市にあるワイン醸造所シャトーカミヤは日本初の本格的ワイン醸造所である。1898年(明治31年)神谷伝兵衛神谷葡萄園を同県牛久市に拓き、1901年(明治34年)ワイン醸造所を当地に建設した。この年、牛久葡萄酒の赤と白が誕生した。これは神谷葡萄園で収穫されたブドウから作られる今日の牛久シャトーとして最初のワインだった[267]。神谷は1856年(安政3年)三河国(愛 知県東部)で生まれ、横浜のフレッツ商会という洋酒醸造所で働いていた17歳の頃、原因不明の病がワインで癒えた経験からその国内醸造を夢見、茨城県に日 本初となるその醸造所を実現した。2008年(平成20年)明治の面影を残しているシャトーカミヤの事務室と醗酵室、貯蔵庫は日本国の重要文化財に指定さ れた。[a 95]

1908年(明治41年)茨城県ひたちなか市の煎餅屋・湯浅藤七が県内生産を始めたほしいもは、2013年(平成25年)2月末の農林水産省統計によると、日本産のほしいもは全て茨城産であった[268]ほど、同県独自の特産品へ成長した。当年の当県によるほしいも産出額は53億円だったが、他県の記述はない。なお2007年(平成19年)の全国ほしいも生産高は70億円だったが、そのうち茨城県分は69億円、静岡が1億円だった。[a 96]

2014年(平成25年)2月18日総務省が発表した家計調査によると、茨城県水戸市の2013年度の1世帯あたり納豆購入額は日本一となった。水戸の納豆の歴史として、1083年武将源義家後三年の役陸奥国へ向かう途中、茨城県水戸市渡里町の一盛長者屋敷へ泊まったとき、馬の飼料に使った煮豆の残りを藁で包んでおいたところ、それが自然発酵して水戸納豆ができた、ともいわれている[269]。また、1657年(明暦3年)義公(徳川光圀)が有事の為の備蓄食糧として、ソバや梅干と共に納豆製造を始めた[270]。茨城県水戸市生まれの笹沼清左衛門は当時人気だった糸引き納豆を水戸でも売り出そうと宮城県で修行を重ね、やがて水戸市に納豆工場を設立、この食品の量産化に成功した。1889年(明治22年)笹沼は水戸駅の開業に合わせ、水戸産独自の小粒納豆を偕楽園への観梅列車運行の際、駅で立ち売りした。こうして笹沼が水戸の天狗党に因んで名づけた天狗納豆は水戸名物となり、いつの間にか納豆は水戸のブランドイメージが確立した[a 97]。無論、水戸市を含む茨城県は納豆の生産量において日本一である[85]

ネモフィラの風は茨城県ひたちなか市国営ひたち海浜公園内にあるネモフィラの丘がみごろの時期に合わせ、4月1日から5月24日まで期間限定で販売される当園オリジナル和菓子である[271]。甘さと酸味の爽やかな調和が特徴で、生地にある水色の模様はネモフィラの花弁を表現しており、当県水戸市にある明治5年創業の老舗和菓子屋・あさ川製菓の職人がみな一つ一つ手描きしている。この和菓子の包装紙は、当園にあるみはらしの丘をさやかにそよぐ風や、その一面に広がるネモフィラの花をイメージして和洋の表現を統一して作られている[272]。当和菓子は当園の来場者しか味わえないため幻の和スイーツといわれる。この和菓子は当限定販売期間中であった約2ヶ月の間に1万5千箱を売り上げた。また、当和菓子はゴールデンウィーク中は売り切れる日もある[273]

海浜公園のメロンパンはネモフィラの風と同じく、茨城県ひたちなか市にある国営ひたち海浜公園オリジナルの洋菓子である。このパンも4月4日から5月24日までの土曜日と日曜日、そして祝日のみ期間限定で販売され、メロン生産量が日本一である当県鉾田市産のメロン果汁で作られている[271]。また、当園のプレスリリースによると、このパンは黄緑色のパン生地でメロンの網を表現している愛らしい見た目の為、子供にも勧められている[272]

茨城県は米どころであると共に水系も多く、首都圏で最も多い47の蔵元を持ち、それぞれ特色ある日本酒を作っている。[85]

シャトーカミヤ本館。竣工1903年(明治36年)、日本国重要文化財
北条米シフォン
非食品系
ユネスコ無形文化遺産・結城紬の地機(いざり機)
淡水真珠

筑波嶺つくばね新桑繭にいぐわまゆきぬはあれど君が御衣みけししあやに着欲しも

という『万葉集』の和歌に示されているよう、結城地方の絹織物は古代から評判だった。1956年結城紬は国の重要無形文化財に指定され、2010年ユネスコ無形文化遺産に登録された(後述)。[a 98]

常陸三大銘石は稲田白御影石真壁石羽黒青糠目石である。稲田白御影石は日本橋東京国立博物館の表慶館、日々谷の第一生命館東京都電の敷石などに使われた。真壁石は迎賓館日本銀行旧本店、東京商工会議所などの建築物に使われたほか、福沢諭吉山本五十六川端康成菊池寛力道山らの墓石にも使われた。羽黒青糠目石は希少なため他の石材の数倍の価格で取引されるが、高級仏像彫刻や庭園装飾などに用いられ、三船敏郎の墓石にも使われた。[a 99]

西ノ内和紙は350年以上の伝統を持つ手作りの和紙である。当和紙はの皮を用いており強靭で、虫がつかないので保存に適し且つ水につけても破れにくい。従ってこの紙は古くから布代わりとなり、着物にも使われた。当和紙は江戸時代に水戸藩の専売品であり、義公の編纂した『大日本史』執筆にも使われたほか、商家が大福帳に使った。当和紙は明治時代から大正時代、衆議院議員選挙投票用紙へ指定された。また、当和紙は戦時中に風船爆弾の気球用紙へ使われた。いま当和紙は財布や手提げに使用されている。こうして、当和紙は日本国の無形文化財茨城県の無形文化財に指定されている。なお、当和紙の生産される茨城県常陸大宮市は技術習得に10年かかるといわれる紙漉きの技を継承するため、和紙作りが中学校のクラブ活動にもなっている。[234]

天心焼北茨城市五浦日本美術院研究所とした岡倉天心に因んで命名された。この焼き物は当市産の蛙目・軟質の粘土を使って制作される。[274]

淡水真珠は人工核を入れずに作られる国産品80トンのうち、69トンが茨城県で産まれており日本一の産地である。残りの11トンは滋賀県で産まれている。[a 100]

草花
小菊
小菊

茨城県はコギクのリーダー産地で、年間約3千万本が出荷されている。茨城県の生物工学研究所、果樹・花き育種研究室は2014年現在までに9種類の茨城県オリジナル品種を開発し品種登録した。[231]

茨城県のグラジオラスは球根生産と切花生産でそれぞれ日本一、全国第2位を占める重要な花き品目である。[231]

2008年(平成20年)3月18日グラジオラスの茨城県オリジナル品種である常陸あけぼのは、第16902号に品種登録された。[231]

2007年(平成19年)3月15日グラジオラスの茨城県オリジナル新品種であるプリンセスサマーイエローは、 特徴的な花型をもち、栽培上の作型適応性が広くかつ採花率が高いなどの優良特性が多かった為、生産者からの高い評価を受け品種登録(品種登録番号 第15211号)された。また、この品種は2006年(平成18年)度の当県内グラジオラス生産量の10%弱を占めていた。[231]

天然記念物
ほしざきゆきのした

ほしざきゆきのした(星咲雪ノ下)は茨城県つくば市筑波山にのみ生育する固有種の花であり、絶滅危惧IA類と極めて希少なユキノシタとなっている。絶滅危惧IA類とは、「ごく近い将来における野生での絶滅の危険性が極めて高いもの」。筑波山で発見されたこの花はつくば市の花に選ばれ、同市の天然記念物となっている。昭和天皇は、茨城大学名誉教授理学博士鈴木昌友の案内で筑波山を登山したときほしざきゆきのしたに強い興味を示した。また、2000年(平成12年)12月12日天皇皇后が茨城県坂東市にあるミュージアムパーク茨城県自然博物館を訪れたとき、その職員がほしざきゆきのしたの標本を紹介したところ、皇后は「星のような花でした」と感想を述べた[275]

茨城県日立市十王町にある伊師浜海岸は、鵜飼の伝統を守る為、日本全国でここ1ヵ所のみ鵜飼用のウミウ捕獲が公認されている。全国12ヵ所の鵜飼場はここで掴まえたウミウによって支えられている。[a 101]

工業[編集]

日立市中心部、海岸線沿いの空中写真。1980年

茨城県日立市が発祥で、同市に本拠を置く日立製作所日本最大の総合電機メーカーであり、日本国内の全製造業者の中でもトヨタ自動車に次ぐ規模の大企業でもある[276]2013年(平成25年)3月末の時点で、日立グループ企業も含めたその連結従業員数は32万6240人、資本金は4587億9000万円、連結売上高は9兆410億7100万円。なお、同時点で同業大手のパナソニックは連結従業員数が29万3742人、資本金は2587億円、連結売上高は7兆3030億円。同様に東芝は連結従業員数が20万6087人、資本金は4399億円、連結売上高は5兆8003億円であった。因みに、同時点のトヨタ自動車は連結従業員数が33万1876人、資本金3970億は5000万円、連結売上高は22兆641億円であった為、この時点の日立は連結従業員数でトヨタとほぼ同規模で、連結売上高は劣るものの、保有した資本金においては大きく勝っている[a 102]

茨城県日立市日立グループ企業城下町と して有名であり、同市の人口の約40%は日立製作所社員か、日立グループ会社の社員およびその家族から成っている。同市内は、日立製作所とその系列企業の 工場や社宅、社員寮を多数持つ。同市は東日本有数の工業集積地域として発展し、その事業所数はピーク時1000社を数え、現在は約700社ある。機械や電 機、輸送機に関連する中小企業が同市の製造業を支えている。1999年4月に開設された日立地区産業支援センター産業支援機関としてそれら中小企業の様々な事業活動をサポートしており、全国的に注目されるモデルケースとなっている。日立鉱山は、現在のJX日鉱日石エネルギーJX日鉱日石金属の元になっている。ここは日本鉱業発祥の地でもある。日立鉱山は1981年に閉鎖されたが、鉱石の精錬事業自体はJX日鉱日石金属の工場で今も続いている。日立グループ企業の工場は、特に日立市ひたちなか市へ数多くある。

日立港の第4及び第5埠頭

茨城港日立港区自動車の輸出入を盛んに行っており、ダイムラー社のメルセデス・ベンツ日産自動車ルノーらが主に利用している。特に、ダイムラー社のメルセデス・ベンツは茨城港を日本国内の一大輸入拠点としている。当社は新車を販売店へ配車する前に整備する同国内唯一の施設メルセデス・ベンツ日本日立新車整備センター (VPC)も、常磐自動車道の茨城県日立市にある常陸南太田インターチェンジ傍に設けている。車両はここで品質検査、納車整備などを経て日本全国へ出荷されている。また、2011年からダイムラーの100%子会社であるメルセデス・ベンツ日本株式会社(MBJ)は継続的に、同市で毎年開催されるランニング競技会の日立さくらロードレースへ 協賛し、先導車などのオフィシャルカーをこの会へ提供したり、参加記念Tシャツにベンツのロゴマークを提供したりしてきている。2014年度は欧州メー カーとして日本で初めて発売したベンツ製品のスマート電気自動車やスマートBRAUS電気自動車2台が先導車を、Vクラスが救護車を務めたほか、MBJ社 員がドライバーとして当会運営へ協力した[277][278]。なお2010年、同市は茨城港・日立港区PRのため、3500cc7人乗りであるメルセデス・ベンツ Vクラスのアンビエンテを公用車として約650万円で購入した[279]

鹿島臨海工業地帯を形成する鹿嶋市神栖市は鉄鋼、石油化学を中心に工場が置かれている。石岡市、鹿嶋市、かすみがうら市、つくば市、土浦市、日立市、ひたちなか市などに大手製造業の研究拠点が多く存在する。

J-PARC中心施設

2008年(平成20年)12月に稼動を開始した茨城県那珂郡東海村にある大強度陽子加速器施設・J-PARCは、世界最高性能の中性子線実験施設や、ニュートリノ振動実験施設等が揃った複合研究拠点であり、日本の国内外の多くの研究者が利用し国際的研究拠点となりつつある。既に国際的注目を集めているJ-PARCの名は、独立行政法人・日本原子力研究開発機構(JAEA)と大学共同利用機関法人高エネルギー加速器研究機構(KEK)の共同プロジェクトである大強度陽子加速器施設、Japan Proton Accelerator Research Complexの愛称である。ここは、ハドロン実験やニュートリノ実験、ミュオン科学研究、中性子科学研究などに用いられるほか、発生させたニュートリノを295㎞離れた岐阜県にあるスーパーカミオカンデ検出器へ照射し、ニュートリノの質量を測定する実験予定もある。茨城県は物質科学生命科学の研究で世界をリードしていく為、J-PARCの周辺地域に筑波研究学園都市と並ぶ新たな科学技術拠点の形成を目指し、サイエンスフロンティア21構想を推進している[280]2013年5月23日装置の誤作動とそれに伴ったKEKの人為的なミスによるJ-PARC放射性同位体漏洩事象が J-PARCの施設群の一つであるハドロン実験施設で起きた。ホール内にいた55人の研究者や作業員のうち33人に1.7mSvから0.1mSvの実効線 量を示す被曝が確認された。その他にハドロン実験施設管理区域には当時47人が入域していたが、1名に0.1mSvの被曝が認められた。なお、日本人の1 人あたりの自然界からの年間被曝量は1.48mSvであり、世界の1人あたりの自然界からの年間被曝量は2.4mSv[281]、東京とニューヨーク間の航空機での往復旅行による被曝量は約0.2mSvである[282][283]。KEKとJ-PARCセンター長はこの事象の通報が茨城県へ遅れた事について謝罪し、文部科学省丹羽秀樹政務官は、茨城県知事・橋本昌と当時の東海村村長・村上達也へ謝罪した。内閣官房長官菅義偉は、 事故の報告が遅れた事に遺憾の意を示し、状況の把握や原因の究明、再発防止策をJ-PARCへ求め、且つ厳正に対処すると述べた。同年5月25日当施設が 設置されている茨城県は通報が遅いとした上で、JAEAと原子力安全協定を結んでいる7つの市町村と共にJ-PARCへ立ち入り調査を行った。また、水戸労働基準監督署も同日にJ-PARCへ立ち入り調査を行った。同年同月27日原子力規制委員会は、原子力事故・故障の評価の尺度である国際原子力事象評価尺度を 暫定的にレベル1・逸脱と評価した。レベル1の場合は事故でなく事象に分類される。この事象は作業員の被曝線量から単純に考慮するとレベル0+(尺度以 下)に分類されるものの、KEKの作業員らが放射性同位体を外部に漏洩させたのが故意であり、かつその通報が大幅に遅れたことを考慮しレベルを原子力規制 委員会側は1段階上げた。原子力規制庁はJ-PARCへの対応を検討する一方、その運転再開に地元の理解も不可欠な事から、仮に運転停止が長引けばJ-PARCを利用した基礎物理研究や大学と民間の研究にも影響が生じる可能性があった[284]。 J-PARCが安全管理や職員への安全教育を徹底した結果、2013年12月茨城県から利用再開の許可を受けた。2014年1月、当施設は外国人研究者も 交えた事故対応訓練を行うなどして実験再開に準備を進め、2014年5月26日、約1年ぶりにニュートリノ実験施設の運転を再開した。この施設の実験再開 は同年2月の物質・生命科学実験施設に次ぎ2番目であった。これまでにも当施設は、ニュ-トリノが飛んでいる間に性質を変えるという新パターンを観測した など、世界初の実績を挙げてきた。当施設はニュートリノを当施設のある茨城県東海村から岐阜県飛騨市スーパーカミオカンデへ発射して観測、物質の起源に迫ろうとしている[285]文部科学省はJ-PARCの更なる高度化を行い、世界に誇る中性子科学などの最先端研究拠点の環境を整備する事を目標としている[286]

KEKと筑波山
KEKにある電子・陽電子衝突加速器であるKEKB

この事象にも関わった茨城県つくば市にある大学共同利用機関法人高エネルギー加速器研究機構(KEK)は、当機構で要職を歴任し、ノーベル物理学賞を得たKEK特別栄誉教授・小林誠を出した。またKEK前身の1つで茨城県つくば市にあった高エネルギー物理学研究所は、1992年9月30日日本で最初にWebサーバを公開した組織でもあった。この日、同市にあった文部省の高エネルギー加速器研究機構・計算科学センターの森田洋平博士が日本最初のホームページを発信した[287]。現在も当時のFTPサーバはKEK研究本館の入り口に保存され、且つ展示されている[288]。同市のKEK内にあるKEKBは世界一のビーム強度を誇り2008年の物理学者・小林誠と益川敏英両 氏のノーベル物理学賞受賞を決定づけた電子・陽電子衝突型加速器である。日本国が得意としている素粒子物理学の分野で世界一の知性を堅持している茨城県で の研究へは、2014年現在15ヶ国62機関から約400人の研究者が参加しておりそのうち約250人と過半は40歳以下の若手である。当県のKEKBは 今の標準理論で説明できない新物理法則の糸口を発見し、世界中から注目を集めている。また、電子や陽電子を用いたB中間子の実験をなしえるのは世界中で茨 城県にあるKEKBのみなので、その施設環境の高度化には世界中の研究者が期待を寄せている。文部科学省は、筑波研究学園都市のある茨城県に素粒子物理学の新潮流を目指す国内外の若手研究者を集め、世界最先端の研究環境を提供し続ける事で欧州の類比施設CERNと並んだ学問研究に於ける世界一大拠点の地位を確立し、かつ当県を中枢にした日米欧の各国と研究グループ間での流動的な頭脳循環を通して、アジア域内での素粒子物理学に於ける若手人材を育成する事をも目指している。[289]

茨城県に工場を有する企業の一部



電気[編集]

鹿島火力発電所

2014年5月時点で、茨城県神栖市鹿島火力発電所火力発電所として、日本一の発電力を持つ[290]

茨城県の主な発電設備の発電量は、鹿島火力発電所東海第二発電所鹿島共同発電所常陸那珂火力発電所パワーステーション茨城[291]を合わせて841.4万kWである。なお2014年現在停止中の東海第二発電所(110万kw)を除いても、茨城県の発電量は北関東一である。また、平成24年度の東京電力の設備のみに限って最大電力分の発電設備の割合をみると、茨城県は電力自給率が153%と千葉と神奈川に継ぐ首都圏第3位の電力供給源なのがわかる[292]

東海発電所。日本初の廃炉中(2019年解体予定)
日本最初の商用原子炉・東海発電所日本最古の同炉・東海第二発電所の空撮写真。1986年

2014年の時点で、茨城県は日本で最初に原子炉廃炉作業へ成功してきた経験を持つ、国内唯一の自治体である。また、本社が東京にある日本原子力発電株式会社(日本原電)による日本初の商業用黒鉛炉かつ日本初の商業用原子力発電所である東海発電所を導入し、日本で最初に核の平和利用へ成功したのも茨城県だった[293]。東京の当会社によって茨城県に造られた日本初の百万kW軽水炉である東海第二発電所は、1999年9月30日東海村JCO臨界事故において作業員が日本初の臨界事故を自力で止めた発電所かつ日本初の事故被曝による死者2名を出した発電所である。当発電所はそれらと共に、2011年(平成23年)3月11日東日本大震災時に稼動中だった宮城県女川原発福島県福島第二原子力発電所と同じく稼働中に被災しても過酷事故が起こらなかった日本初の原子力発電所となった[294]。なお、2000年10月16日に茨城労働局・水戸労働基準監督署株式会社ジェー・シー・オーと同社東海事業所所長を書類送検し、同年翌11月1日水戸地方検察庁が事故関係者を起訴して原子力事故による日本初の刑事事件を裁いたのも茨城県だった。東海第二発電所は福島第一原子力発電所事故と同じく津波に襲われたが、スマトラ島沖地震に伴った大津波を受けて、茨城県知事・橋本昌を始め茨城県庁側がこの発電所を持つ日本原電へその防波堤を事前に嵩上げさせていた為に、過酷事故に至らなかった[295]。もともと、東海第二原発での想定津波は2.35メートルで、2002年に4.86メートルへ見直されていた。しかし国土交通省がスマトラ沖地震を受け津波対策検討委員会を設置し各種提言を行い、それが各都道府県へ連絡された。茨城県庁側はこの通達を受けて2005年(平成17年)12月27日から2007年(平成19年)1月26日にかけ茨城沿岸津波浸水想定検討委員会を設けた。2007年(平成19年)10月茨城県庁は日本原子力発電株式会社に対しこの津波再評価の結果を伝え、かつ、防波堤のかさ上げを要請した。茨城県は、付近では津波の高さが6~7メートルになる、という予測値を日本原電へ示した[296]。日本原子力発電株式会社はこの茨城県庁からの要請に対して、独自に津波評価をやり直した。この結果、東海第二発電所は津波対策として、2009年(平成21年)7月か ら同原発の海水取水口付近で防波堤の役割をする護岸を従来の4.2メートルから6.1メートルへかさ上げする工事に着手した。日本原電はこのとき、 5.72メートルの津波を想定し、非常用設備の建物の壁(防波壁)の高さを6.1メートルへ設定していた。この工事へ取り掛かり、それが完了する前に 2011年3月11日の東日本大震災で現実にきた津波の高さは5.4メートルだった。だが、半ばできていた防波壁には工事用の穴があいており、そこから海 水が流入して海水ポンプと非常用ディーゼル発電機それぞれ1台ずつが停止した。既に工事が終わっていた部分は浸水しなかったため2台の非常用発電機で原子 炉の冷却を続けることができた。こうして当県の通達に基づいて日本原電が防波堤を嵩上げした部分は津波を防いだ[297]。一方、東京電力株式会社2009年(平 成21年)から津波の再評価を進めていたが、地震による揺れの対策を先に進め、津波対策は後回しにしていた。福島原子力発電所の1~4号機は津波で非常用 発電機がみな水没して使えなくなり、深刻な危機を招いた。東海第2原発を襲った津波高さは5.4メートルと、福島第一原発を襲った高さ14メートル~15 メートルの津波[298]から比べると約1/3の高さだった偶然も手伝って、茨城県は過酷事故に至らず結果の明暗を分けた[299]。なお、同じく被災した宮城県にある東北電力株式会社の女川原発は 海抜14.8メートルの高台にあり、東日本大震災まで防潮堤がなかった。2011年3月11日女川原発の地盤が地震で1メートル沈下したが、襲った津波は 13.8メートルだったため過酷事故にならなかった。その後の2014年5月14日、東北電力は全国最高である基準面から高さ29メートルの防波堤(防波 堤自体は15メートル)を女川原発に建設すると発表した[300]。なお1966年(昭和41年)から2011年(平成23年)度まで戦後45年間、日本国高度経済成長期を通じて茨城県にある東海発電所及び東海第二発電所の発電電力は、東京電力東北電力へ売電されてきた。また、東海第二発電所の売電割合は東京電力へ80%、東北電力へ20%となってきた[a 103]。2014年の時点で、東海第二発電所は営業運転開始から35年あまりを経過し、東日本大震災後に安全審査を申請された11原発18基の中において日本最古の原子力発電所である。原子炉等規制法は原発の運転可能な期間を原則40年としている。茨城県知事・橋本昌は毎日新聞からのインタビューへ「稼働(可能な)期間と経費のバランスという点で、(東海第二発電所の再稼動は)あまり経済的ではないと感じている」と答えており、毎日新聞はその社説で橋本知事の意見を「その通りだ」としている。またこの社説は東京に本社を置いた日本原子力発電株式会社について、既に茨城県にある国内初の東海発電所の廃炉経験を活かして廃炉専業会社への転換を図るべきだ、かつ政府も明確な方針を打ち出す必要があるとしている[301]。東海発電所と東海第二発電所という2つの日本史上に記念碑科学技術設備を有した茨城県東海村の前村長・村上達也は、社会福祉法人・愛信会運営の「幸の実園」設立30周年と「第二幸の実園」設立15周年を記念したさちのみフォーラムの一環として東海文化センターで作家・落合恵子と公開対談した。村上前村長はこの対談の中で、日本国や人類近代文明において都市経済の成長を支え続けてきた原子力発電所というものについて、「脱原発達成の為には、経済より命という価値判断が必要」「開発、発展という価値観からの転換期に来ている。不便を受け入れ、(生活の)スピードを落とす事を求めなければならない」と語った[302]

発電所[編集]

この他、水力発電所や風力発電所が茨城県内の各地にある。

商業[編集]

県内の主要企業[編集]

ケーズデンキの店舗例

茨城県水戸市に本社を置くケーズホールディングスの家電販売店・ケーズデンキは、『日経ビジネス』誌上のネットショッピングを除いた家電量販店部門のアフターサービス満足度において、2010年から4年連続で日本一になった[303]。また、ケーズホールディングスは法政大学日刊工業新聞社あさ出版の主催した第3回「日本でいちばん大切にしたい会社」大賞で実行委員長賞を受賞した[304]

茨城県内ローカル規模やそれに近い企業以外で本県に本社を有する企業を次に挙げる(※五十音順)。

小美玉市
北茨城市
古河市
常総市
東海村
つくば市
土浦市
日立市
ひたちなか市
常陸太田市
水戸市
結城郡八千代町


生活・交通[編集]

交通[編集]

空港[編集]

茨城空港は2011年3月11日、東日本大震災で被災したにも関わらず滑走路が無事に機能し続けて当日飛行中だった2機を受け入れ[305]、震災から3日後の同年同月14日には被災した当空港ロビーも通常の営業を再開した。[306]。首都圏における残りの空港であった東京羽田空港と千葉県成田空港は 震災当日の午後2時46分、震度6から5の地震と同時に全滑走路を閉鎖した。羽田・成田の両空港へ向かっていた86機の航空機は、成田空港行き70機の殆 どが羽田空港を、羽田空港行き16機の殆どが成田空港を、目的地へ着陸できない場合の代替空港に指定していたため、新たに着陸を決める必要ができた。空中 にあった86機は震災当日午後8時48分までに、関西空港へ21機、中部空港へ17機、新千歳空港へ14機など計13ヵ所へ着陸した。それらのうち、米国 系の11機は在日米軍の横田基地が受け入れ、上述のよう、茨城空港も2機を受け入れた[307]。且つこれらの不時着した航空機の内、14機が燃料不足で緊急事態宣言を出していた[308]2011年(平成23年)10月20日当空港はベスト ローコスト エアポート オブ ザ イヤー2011(The CAPA Low Cost Airport of the year 2011)を海外のシンクタンクであるセンター フォー アジア パシフィック アビエーション(Centre for Asia Pacific Aviation, CAPA)から受賞した。同日午後8時(現地時間)当空港を代表した茨城県知事の橋本昌は、シンガポールで開かれた授賞式へ出席した。当空港は航空会社へ適した環境を提供し、格安航空会社(LCC)運航へのサポートを通じ首都圏近郊への価値あるアクセスポイントとして機能している事からアジア・太平洋地域で最も革新的かつ影響力ある空港とされた。CAPAエグゼクティブ・チェアーマンのピーター・ハービンソン(Peter Harbinson)は「地震と津波の深刻な逆境にも関わらず、茨城は格安空港路線の産業努力を続け、傑出したサービスを提供し続けた」[309]「この授賞は、我々を確かにとてもよく勇気づけてくれるものだ」とした[310]。茨城空港は日本国で初めて、当国内の空港としてこの部門において外国から褒章された[311]2011年11月30日茨城空港は受賞祝賀会を開催し、航空会社や地元企業など230人が参加した。1937年(昭和12年)大日本帝国により設置された百里ヶ原海軍飛行場を前身とした航空自衛隊百里基地の敷地を、諸国民の平和のために民間共用化するコンセプトで2010年(平成22年)茨城空港は開港した[312]。既に海外から褒章されたよう、徹底した格安化に取り組んだ茨城空港を利用する事は首都圏と世界の間をアクセスする者にとって旅行運賃が約半分となり、大幅に利便性が向上した。このため、茨城空港は時代の最先端といわれている[a 104]。 なお当空港の駐車場は無料であり、着陸料は首都圏にありながら羽田空港や成田空港より3割以上割安となっている。海外の大都市圏は、基幹空港に加え中小の 空港がセカンダリー港として、立地している。これは都心から多少離れていても混雑していないという特徴を活かし、多様な航空需要の受け皿となっているから である。しかも、茨城空港の立地は1時間以内にアクセスできるエリア人口が北関東地域を中心に340万人おり、2時間以内にアクセスできるエリア人口にお いては、東京の羽田空港や千葉の成田空港、福島の各空港を経由するのに比べて遥かに利便性が高い人々が1200万人にも達している。これは2014年時点 の東京の総人口・1323万とほぼ同じ人数である。2007年の日本国国土交通省・交通政策審議会の航空分科会において、茨城空港は首都圏の航空需要の一翼を担うべき立地として、活用される事が適当と既に定められていた[313]。ところが2010年東京の報道各社は、日本国内閣の構想になり、防衛大臣が設置し、国土交通省が維持管理する国営軍民共用空港に、茨城県が茨城県税を使って自費で応援した最も経費がかからない形でのこの自衛隊基地の民用化を「(将来的な空港廃止後は国税の)無駄遣い」と酷評していた[314]。しかし、民間共用化の自衛隊・米軍用空港は全国に北海道丘珠空港青森県三沢空港石川県小松空港鳥取県米子空港徳島県徳島空港などが既存の上、茨城空港開港2年後の2012年に山口県岩国錦帯橋空港を山口県に同様の手順で開港したのにも関わらず、これら将来的に首都圏の茨城空港より航空需要の見込めているとは決していえない他の民間共用空港について東京の報道各社はなんら批判していなかった[312]。なお、茨城空港開港2年目の2012年(平成24年)度の当空港利用者数は、国際線において全国51空港中第15位、これら民間共用6港の中で小松空港に継ぎ国際線利用実績第2位、 且つ国内線・国際線をあわせて民間共用6港中第3位だった。また、同年の当空港国内路線利用者は30万8649人で、開港から2年目で全国90空港中第 43位と既に全国において中位以上の利用者数であった。開港2年目の国際線・国内線の空港乗降客数は、既に全国90空港中第41位だった[315]。2014年5月現在、当空港の路線は国内線において札幌空港那覇空港名古屋空港福岡空港神戸空港米子空港など全国へつながっており、かつ国外線において上海浦東国際空港仁川国際空港などアジアハブ空港とつながっている。当空港の旅客数は2010年(平成22年)20万3070人から、2011年(平成23年)29万3203人、2012年(平成24年)40万8139人と2年で倍増した[a 105]。2013年(平成25年)度1月末までの空港旅客者数は合計123万6451人を超えた[316]

鉄道[編集]

水戸駅南口
常磐線スーパーひたちフレッシュひたちに使われるE657系。県の花に因んだ梅色の帯が車体へデザインされている
つくばエクスプレス
筑波山ロープウェイ

バス[編集]

道路[編集]

高速道路
有料道路
国道


県道

(→茨城県の県道一覧

港湾[編集]

大洗港のマリンタワー

フェリー[編集]

商船三井フェリー・さんふらわあデッキからの眺め

医療・福祉[編集]

災害拠点病院
保育所

教育[編集]

2014年の段階で茨城県の大学及び研究機関は、受賞時に所属していた研究者のノーベル賞受賞数が3名と首都圏一であり、日本全体で見ると7名の京都府に継ぎ全国第2位である[320]

茨城県の中学生全国体力運動能力は2011年(平成23年)度から2012年(平成24年)度まで日本一であり、又、平成24年度の茨城県小学5年生は男女とも全国第2位、平成25年度の茨城県小学5年生は女子第2位、男子第3位である[28]。小中学生の学力・学習状況は、2012年(平成24年)度から2013年(平成25年)度まで首都圏で東京に次ぎ第2位である[321]

大学
短期大学
高等専門学校
高等学校

茨城県水戸市茨城県立水戸第一高等学校は最後の将軍・徳川慶喜揮毫になる至誠一貫の校是がある他、当県・当高出身のプリツカー賞建築家妹島和世設計の合宿所・江山閣がある。当校の敷地は旧・水戸城であるため茨城県指定史跡となっており、茨城県指定有形文化財薬医門がある。[322]

閑院宮載仁親王が植えた松の木(五葉松)が茨城県土浦市茨城県立土浦第一高等学校にある。1976年(昭和51年)、当校の旧土浦中学校本館は茨城県の旧制太田中学校講堂と共に、全国の旧制中学の建造物群のなかで日本国で初めて当国の重要文化財へ指定された。 当館の設計者は茨城県営繕技師でのちに県技師となった駒杵勤治であり、竣工は1904年(明治37年)12月7日で あった。当館は全体としてゴシック様式を基にしたドイツ風の建築で、正面は三連のアーチである。アーチを支える柱は、ギリシャ建築の三様式の一つであるコ リント風であり、アカンサスの葉をモチーフにした柱頭に特徴がある。当館は尖塔があり、玄関に三連アーチ、そして高い天井や手すきガラス大窓をもち、重厚 な扉も配されている。また、デザインは内装外装とも桜色と濃茶でまとめられており、且つ随所に優美なアカンサス意匠を施されている。[323]

茨城県立大洗高等学校は、普通科に音楽コースを設け文化活動が盛んである。音楽コースは全員マーチングバンド部、即ち楽団・BLUE HAWKSブルーホークスに所属している。吹奏楽部が開校2年目に発足し、開校10周年記念事業でブルーホークスが開設された。2008年度、普通科音楽コースは全国募集を開始し、茨城県の大洗町内に男女の学生寮を開設した。2009年8月、当校の有國淨光教諭が茨城県教育委員会のマイスターオブティーチャーズに初めて表彰された[324]。前述のブルーホークスは全国大会等で連続して日本一になるなど華々しい成績を挙げ、1992年からオーストラリアシドニー市長の招聘により3年に1度オーストラリアマレーシアシンガポール等へ海外遠征をしている。また、当楽団は地域で愛されることを目指し、年間100回前後の演奏会やイベントへも積極的に参加している。[325]

茨城県水戸市の水城高等学校は、ゴルフ部が全国屈指の強豪校である。茨城県筑西市出身の片山晋呉や、県外から入校した静岡県出身の宮本勝昌東京出身の横田真一神奈川県出身の市原建彦ら数多くのプロゴルファーが当校のゴルフ部OBから生まれている。[326]

茨城県立磯原郷英高等学校は、同高校の前身である豊田高等小学校を卒業し、同高校のある北茨城市磯原町で生まれ育った詩人・野口雨情の遺徳を讃える雨情を偲ぶ会を毎年開いている。この行事は、50年以上続く当校の伝統である。[192]

茨城県立取手第二高等学校は、1984年(昭和59年)夏の甲子園で全国制覇し、当校の木内監督が当県の常総学院高等学校へ移ったため、常総学院が強豪の時代となった。常総学院高等学校は1980年代に夏の甲子園(全国高等学校野球選手権大会)で準優勝し、1990年代に甲子園常連となり2001年(平成13年)選抜高等学校野球大会で優勝、2003年(平成15年)夏の甲子園で全国制覇した。また、茨城県立水戸商業高校は1999年(平成11年)選抜高等学校野球大会で準優勝した。[a 106]

霞ヶ浦高等学校男子バレーボールは2011年(平成23年)に全国高等学校総合体育大会の茨城県予選会で4年連続かつ8回目の優勝をした。土浦日本大学高等学校女子バレーボールは同年度同大会の茨城県予選会で4年連続11回目の優勝をした。[a 107]

中学校
  • 公立234校
  • 国立1校
  • 私立9校
中等教育学校
  • 公立1校
  • 私立2校
小学校

北茨城市立精華小学校[327]は、同市の茨城県立磯原郷英高等学校と共に、当校を卒業し当市の磯原町で生まれ育った詩人・野口雨情の清らかな童心を貴んだ遺徳を讃える伝統行事として50年以上、雨情をしのぶ会や雨情をしのぶ週間を雨情の命日である1月28日前後に、毎年開いている[193]1966年(昭和41年)1月27日童謡『七つの子』の歌碑が同小学校に建立され[328]、2002年(平成14年)11月2日、同小学校は野口雨情生誕120周年記念精華祭を開いた[329]

  • 公立582校
  • 国立1校
  • 私立3校
特別支援学校
  • 公立(19校、うち分校1校)
  • 市立(1校)
  • 国立(1校)
学校教育以外の施設

マスメディア[編集]

テレビ局[編集]

茨城県は全域がNHK放送センターのEテレ(NHK教育/JOAB-DTV)関東1都6県共通全民放キー局日本テレビテレビ朝日TBSテレビ東京フジテレビ)が視聴できるエリアとなっている。放送対象地域外ではあるが県南地域、県西地域はNHK東京総合テレビジョン(JOAK-DTV)がアンテナでの直接受信などで視聴できる場所も多い。県域民放テレビ局は県内に存在しない(後述)。

2004年10月1日から、地上デジタル放送による県域放送としてNHK水戸放送局(NHK水戸総合テレビジョン/JOEP-DTV)が地上波放送している。筑波中継局エリア外の南西部を除いてこのchが受信可能であったが、2011年9月5日に筑波中継局が無指向性化され、県内のほぼ全域で県域放送が受信可能となった[330]

また、チバテレテレ玉TOKYO MXとちぎテレビ群馬テレビを直接受信やCATVで視聴することが県内の地域によっては可能である。特に千葉県の県域独立局であるチバテレは地デジではほとんどの地域で高性能アンテナ利用を含めて直接視聴でき、チバテレも茨城県の視聴者に配慮した番組を組むことがある。実際東日本大震災発生当時も茨城県の視聴者に対する哀悼のコメントが放送されたことがあった。また茨城新聞常陽新聞の県域2紙をはじめ、茨城県向けの新聞の番組表にもチバテレの番組が収録されている。TOKYO MXは東京スカイツリーからの放送開始で公式サイトの受信エリアのめやすに茨城県南(つくば市)・県西(古河市)なども新たに追加された[331]

これらに加え、茨城県は2012年10月1日にインターネットテレビいばキラTVを開局した(後述)。

ラジオ局[編集]

AM
FM

NHK水戸放送局が存在する。当局はFM放送で県域放送を実施し、中波ラジオは関東広域圏放送として東京のNHK放送センターより配信している。テレビと同様、民放FM局は県内に存在しない(後述)。

コミュニティ放送

また、国際放送NHKワールド・ラジオ日本の送信所が県内にある。

AMラジオもほぼ全域がNHKラジオ第1第2TBSラジオ文化放送ニッポン放送の聴取エリアとなっている。

県域民放テレビ局・FM局[編集]

茨城県は首都圏に於けるキー局の全ラジオ民放(民間放送)が視聴・聴取できる。また、NHK水戸放送局は独自番組編成で地域情報を流している。しかし、かつて県内での民放テレビ局と民放FM局開局の動きもあったが、テレビ放送を計画していた茨城放送はテレビ放送を断念した。2014年現在、茨城県は徳島県と同じく、県内に本社を置く民放テレビ局と民放FM局は存在しない。2011年3月11日発生した東日本大震災で茨城県内の被災状况がなかなかテレビで報道されなかった理由は、当県内に民放テレビ局が存在しないことが理由だと指摘する著名人の訴えがあった[332][333][334][335]1979年10月7日から2011年3月27日まで茨城県の広報番組である『おはよう茨城』がフジテレビの放送枠を借りて放送されていた。

なお、茨城県内の情報を発信する民放に代わるものとして、2013年(平成25年)ネットテレビいばキラTVが当県により整備されている。

他に、テレビ朝日系列の番組「若大将のゆうゆう散歩」内で毎週金曜日10時25分頃から、「磯山さやかの旬刊!いばらき」が茨城県の情報を伝えるものとして放送されている。磯山さやかは茨城県鉾田市出身である。

ケーブルテレビ局[編集]

茨城県のケーブルテレビ局を参照)

新聞[編集]

常陽新聞旧本社屋
地方紙

かつては、新いばらき(水戸市)が存在した。

全国紙

文化・スポーツ[編集]

県民性[編集]

水戸黄門と助さん格さん。第2代水戸藩主・徳川光圀や、彼の家臣であった学者・佐々宗淳安積澹泊ら実在の茨城県人達が創作のモデルとなっている

水戸徳川家は、茨城県域で水戸っぽい人格を示す水戸っぽという言葉に代表される或る独創的な文化を形成した。第2代水戸藩主・徳川光圀(義公)は時代を超える修史事業『大日本史』編纂を創始し、その為の歴史研究所・彰考館を当県水戸市に設置した。ここへは世界中から学者が集まり、また多くの水戸家臣や学者を諸国へ派遣して資料収集に当たらせた。この茨城県内外に於ける歴史的事実を基礎として、義公一行が権力者の横暴に困っている庶民を救うため勧善懲悪による世直しの旅を行うという内容の、水戸黄門漫遊記としてよく知られた物語詩劇が作られたのは、あまりにも有名である。更に、第9代水戸藩主の徳川斉昭(烈公)は日本のみならず世界最大の藩校弘道館を同市に造った。この総合大学は独特かつ精神性の高い水戸藩社会を形成して、幕末期には爆発的な尊王攘夷運動すなわち対外的な国家防衛論を巻き起こし、当校出身の最後の将軍・徳川慶喜による王政復古を導いて、日本史上最大の革命を起こす原因となった。これら日本の伝統追求の学問体系は、水戸学として当県の中央から北部の領域で粛々と江戸時代の300年あまりに渡って形成され、非常な影響力を持って今日の皇室を中心とした統一国家の原型を提供した[336]。特にこの江戸時代の水戸藩政の歴史を根幹として、当県の常陸国としての水戸藩域には水戸の3ぽいと呼ばれる3つの気質が形成された。それは怒りっぽい・理屈っぽい・骨っぽいの3つの性格特性からなり、怒りっぽさは「正義感の強さ」、理屈っぽさは「ボキャブラリー豊かな文化の高さ[337]、骨っぽさは「思想的な筋や理想を貫く気性[338][339][340]を示している。[a 108]

これに加え、明治時代初頭に茨城県が下総国を含めて誕生したときそこにあった既存の要素が混ざり、茨城の3ぽいといわれる別の気質も化学反応的に生まれた。こちらは怒りっぽいが共通だが、他の2つは忘れっぽい・飽きっぽいから成っている。この為、正義感が強いと同時に、現実に対する切り替えが早い、また、過ぎた事をいつまでも引きずらない傾向も強くなっていった[a 109]。怒りっぽさは公益に関する自己主張のよさ、忘れっぽさは新しいもの好きに結びつき、飽きっぽさは要領のよさと表裏一体である。この県民性は、雪氷学のパイオニア・土井利位や探検家・間宮林蔵らを育んだ科学的な進取の精神を蓄積させ、筑波研究学園都市鹿島臨海工業地帯を生み出したと見立てられる[341]

文化人類学者祖父江孝男はこうした茨城県民性を次のよう解釈した。

確かに茨城県人は口下手でごますりができない。表現力が乏しい為に小さな誤解が生じる。分かってもらえないから怒り出す。そこで摩擦ができる。人付き合いに計算ができないのだ。しかも、怒りっぽい反面、すぐに忘れてケロッとしてしまうところがある。

祖父江は、茨城県の県民性が茨城県人の陽気さと単純さ、あまり物事にこだわらない性格に起因しているとし、

昨日喧嘩をした相手でも今日、自分を頼ってくれば「よし、おれに任せろ」とポンと胸を叩く。少なくともウジウジとした内向的なタイプではない。

としている。また、茨城県人が怒りっぽいと思われるのは、茨城県の方言である茨城弁の言葉遣いに原因がある、という説もある。この語はかつて多くの東国武士も使った言葉として雄々しく威勢のよい表現が好まれ語尾の上がる特徴を持ち、敬語も簡略化されぶっきら棒に響く為、茨城県の人は軽い気持ちで言っている事も他県の者はまるで叱られているように感じるという[a 110]。またこのような武士道気質に付随した一面として、室町時代に著された『人国記』の茨城県についての項に、当県に於いて「昨日の味方が今日の敵になるようなことは滅多にない」とあり、中世の頃から茨城県人は律儀な性格であると見られていた。

これら外部の人たちからの同県民性への解釈に加え、茨城県人自身は自分達をどう捉えているかについての公的資料として、1965年(昭和40年)に茨城県企画開発部が行った当県の県民性についての調査がある。当時の当県生まれの人たちは自分達の長所を「親切(35%)」「勤勉(32%)」「明朗(30%)」「粘り強い(27%)」「淡白(25%)」と捉えており、短所を「短気(70%)」「熱しやすく冷めにくい(42%)」「執念深い(13%)」「島国的(11%)」「傲慢(10%)」と考えていた。また、2010年(平成22年)の茨城県人はじゃらんリサーチセンターによる当県を対象としたご当地調査において、自らの県民性を

  • のんびりしているほうだ(63.6%)
  • 伝統を大事にするほうだ(62.6%)
  • まじめなほうだ(60.6%)
  • 家庭や家族を大事にするほうだ(57.6%)
  • 世話好きなほうだ(57.6%)

と考えている。こうして、首都圏に於いて唯一残る『常陸国風土記』の時代を含め、関東地方の極北にあったため日本国内で最長かつ独自の伝統が温存され、『大日本史』に代表される世界史的に見て独創的な文明を形成した歴史背景とその格式が分かりさえすれば、当県人は付き合い易い特徴をもった人々といえる[a 111]。茨城県東海村出身の茨城県知事・橋本昌も、茨城県人は人柄がよく、どんどん仲良くなれると語っている[342]

方言[編集]

牛久大仏。ブロンズ立像として世界最大であり、全高においてニューヨーク自由の女神像より大きい。1989年(昭和64年)創建

茨城県の伝統的方言は東京から程近い距離であれ、標準語とある程度異なる言葉である。茨城県は常陸国と下総国北西部によって形成され、歴史的に東関東方言地域に属する[343]。県南地域の一部や県西地域の大部分は旧下総国であったため明治時代に千葉県より移管された経緯もあるが、現在の茨城県内で使われる東関東方言を総称して茨城弁と呼ぶことがある。現在この言葉は首都圏に多く見られる流れとして共通語化にさらされており、県南部を中心に伝統的方言が衰退、首都圏方言が徐々に流通している[344]。また、このため県南部では伝統的な方言を解さなくなった住民も多い。茨城弁は東北語の影響も受け、関東圏の中で唯一古い東国語を残していると言える。

NHKが1996年(平成8年)6月から7月にかけ行った全国県民意識調査によると、自分の方言を嫌いだし恥ずかしいという意識が他県から群を抜き突出していたのが茨城県だった。茨城弁の語彙は標準語が部分集合として全て含まれているが、それだけではない独自の語彙もあり、かつ発音やアクセントが東北地方のそれらに近い。この言葉は平坦な発音のため橋と箸が似ている無形成アクセントや、濁音と鼻濁音の区別ができる特徴[a 112]、古語「べし」にルーツを持つ助動詞などで、他県の人々から愛着を持たれている[a 113]。なお平成25年の茨城県政世論調査によると、茨城県民の11.4%はこの言葉に愛着を感じている。茨城県の交通安全協会が毎年主催している茨城弁交通安全川柳コンテストへは老若男女から多数の応募が集まる[a 114]

例えば、『吾輩は猫である』の冒頭を現代の茨城弁ふうにすると、次のようになる。

茨城弁の一例:俺は猫だ。名前はまだねえ。どこで生まれたかまるっきし見当つかねえ。何でも薄暗えじめじめしたとこでニャーニャー泣いてたことだけ は記憶してる。俺はここで始めて人間っつうもんを見た。しかもあとで聞くとそら書生っつう人間中で一番獰悪な種族だったんだって。

茨城弁はアニメAxis powers ヘタリア』において、北欧の雄・デンマークの使うデンマーク語パロディとしてアニメ中の登場キャラクターへ擬人化され登場し、富山県出身の声優下崎紘史が当方言の模倣再現をこのアニメ作品上で試みている。[345]

食文化[編集]

郷土料理
どぶ汁

茨城県の北茨城市大洗町の郷土料理として知られるどぶ汁は、はじめ、当県北部の漁師達が船上で食べたアンコウ鍋から伝わっている。水を使わずアンコウの肝を炒りつけ、野菜と味噌のみで味付けしてあり、船上でも調理可能だった。日本経済史学者林玲子はあんこう鍋を食した感想について次の俳句を残している。

鮟鱇鍋あんこうなべなる程のあともだながき[a 115]

どぶ汁の名は、濁酒どぶろくのように汁がにごる事からついたという説がある。また、どぶは「全て」という意味をもつため、食べられないところがないといわれるアンコウの、骨を除く全てを鍋へ入れることからどぶ汁といわれたという説もある。[a 116]

水戸藩らーめんは、の遺臣・朱舜水を招いた第2代水戸藩徳川光圀が日本で初めて食べたとされるラーメンを再現したものである。


ご当地グルメ
うまい棒

うまい棒は茨城県常総市にあるリスカの工場で作られている。キャベツ太郎も同県常総市にある菓道の工場で作られている。その他、リスカや菓道は沢山の駄菓子を同工場で作っている。

行方バーガーはアメリカナマズや鯉を使ったもので、茨城県行方市で食べる事ができる。[85]

古河の七福カレーめんは7種類の具材が入ったカレーめんであり、うどんやラーメン、スパゲッティ等にする事ができ、茨城県古河市にある。[85]

笠間のいなり寿司ソバクルミ自然薯などの変わったネタが使われており、茨城県笠間市で食べる事ができる。[85]

納豆ケバブはピタと呼ばれるパンに納豆や豚肉、レタスなどを挟んだものである。[85]

行方バーガー

伝統工芸[編集]

結城紬の亀甲柄

結城紬室町時代に結城地方の豪族・結城氏が幕府へ献上し、江戸時代に光沢を抑えた渋みに人気が出て高級品となった。30をこえる工程はみな一貫して手作業である。

笠間焼

笠間焼は江戸時代の安永年間に始まり、2014年の時点で240年ほどの歴史を持つ。2014年の時点で茨城県笠間市を中心に200以上の窯元がある。1982年度から毎年4月29日~5月5日に200軒以上の陶芸家窯元、地元販売店などが、広大で緑豊かな笠間芸術の森公園イベント広場に集い、個性豊かな店作りと作品で客を迎える笠間の陶炎祭が同市で行われている。

西ノ内和紙は350年以上の伝統を持つの和紙であり、日本国無形文化財茨城県無形文化財へ指定されている。当和紙は強靭かつ保存に適し『大日本史』紙面や衆議院議員選挙投票用紙風船爆弾の気球用紙、衣服、商家の大福帳、財布や手提げ等々に使用されてきた。和紙作りが中学校のクラブ活動にもなっている茨城県常陸大宮市は修得に10年はかかる紙漉きの技を継承している。[234]

茨城県石岡市は古代に常陸国府が置かれた事から墓地が多く、かつ親鸞の影響もあって仏教が定着していて、原料の杉など自然条件にも恵まれたため水車を使った線香の産地となっている。昔ながらの伝統工法を守った線香製造業者は2軒、現在まで続いて石岡市小幡に存在している。この業者は江戸末期から明治初期に創業された。[347]

茨城県桜川市梵鐘づくりが初められたのは鎌倉幕府が開始された1190年から1199年(健久年間)頃である。現在37代目になる小田部鋳造所の先祖が河内国から桜川市真壁町へ移り住み、首都圏で唯一、梵鐘の製造を始めた。この茨城県産の梵鐘の特徴の一つは模様の中に天皇菊の御紋が入っている事であり、1個の製作に約3~4ヶ月かかる。[347]

茨城県北茨城市の手描き鯉のぼりは明治時代から製作が始められ、和紙製から布製品へ代々改良された。[347]

1504年、室町時代に茨城県常陸大宮市(旧・常陸国部垂)で生まれた雪村佐竹一族だったが出家し僧侶となった。雪村が茨城県常陸太田市瑞竜町の耕山寺に住んでいた時期に、雪村うちわが始められた。徳川光圀も愛用したといわれ全国から注文がある。しかし骨組みに地元の真竹を使い1年の間、天日干ししながら雨や雪にあたらないよう毎日とりこんだり、33の工程をすべて手作業で行うこともあり、年間2000本ほどしか作れない。[347]

南北朝時代(1338年頃。建武年間)から茨城県常陸太田市に伝わっている鋳物の製造によって、第2代水戸藩徳川光圀の家臣・前田介十郎が木彫りで作ったお面を原型として仮面光圀卿のおもかげが同地で作られている。[347]

第2代水戸藩徳川光圀の栽培を奨励したため、茨城県は竹の産地となっているが、1972年(昭和47年)福井県で越前竹人形の修行を経た柴田重光がその技法を受け継ぎながら独自技法でひたち竹人形を創始した。[347]

民芸品のあやめ笠はかつて利根川下流の茨城県潮来市の水稲作業で必需品だったもので、潮来の野に咲いた花であるアヤメから命名されたとも、あるいは笠の形がアヤメに似ていたから名づけられともされる。潮来では既に300年前の民謡に

潮来出島いたこでじま真菰まこもの中にあやめ咲くとはしおらしや

と歌われ、あやめ笠姿の農民がアヤメの野に田植えなどの農作業をしていた。歌手・橘幸夫が『潮来笠』で歌ったものがあやめ笠だった。[347]

各務鉱三岐阜県で生まれ、ドイツ留学後、1934年東京蒲田で日本初のクリスタルガラス専門工場を設立したが、1990年本社と工場を茨城県龍ケ崎市へ移転し、同時につくば工場の操業も開始した。この茨城県で造られているカガミクリスタルのガラス細工は茨城県郷土工芸品へ指定されかつ皇室御用達であり、東宮御所迎賓館、外務省の管轄である外国の在外日本国大使館へ納入され、現在も総理大臣官邸などへ調度化されている。[347][348]

経済産業大臣指定伝統的工芸品
無形文化財
伝統工芸品

芸術[編集]

茨城県立大洗高等学校

楽団BLUE HAWKSブルーホークス1985年4月に発足した茨城県立大洗高等学校マーチングバンドであり、全国大会の常連として幾度も金賞やグランプリを獲得してきた[a 117]。当楽団名のブルーは、太平洋を見下ろす優れた眺望のロケーションにある当校の海を連想させかつ校色でもある青であり、ホークスは鋭い動きをイメージし鷹を採用した。ブルーホークスの総合成績は、全日本マーチングフェスティバルのパレードコンテスト部門で受賞7回のうち日本一である金賞3回、銀賞3回、銅賞1回、フェスティバル部門で日本一である最優秀賞2回。当楽団は日本マーチングバンドバトントワーリング協会主催の全国大会で1985年(昭和60年)の初出場以来26回連続出場かつ日本一である金賞14回、銀賞11回、銅賞1回であり、1995年(平成7年)から3年連続で日本一である金賞受賞。また、当楽団は同全国大会で私立ではない県立高校として歴史上2校目となる1997年(平成9年)総合日本一の文部大臣賞を獲得していたが、さらに2005年(平成17年)編成別の日本一となる最優秀賞受賞、2010(平成22)年も日本一である金賞、中編成が第3位を受賞した。ブルーホークスは1992年からオーストラリアシドニー市長の招聘により3年に1度オーストラリアマレーシアシンガポール等へ海外遠征をしている。当楽団は2011年2月いばらきイメージアップ奨励賞を受賞、2011年11月茨城県特別功労賞も受賞した。また、当楽団は2011年12月、同全国大会で編成部門別で日本一の最優秀賞をみたび獲得した。ブルーホークスは地域で愛されるマーチングバンドを目指し、年間100回前後の演奏会やイベントへ積極的に参加している。その他の情報については後述する。[325]

水戸室内管弦楽団と劇団ACMのホーム・水戸芸術館

水戸室内管弦楽団(MCO)1990年以来、水戸芸術館に付属した楽団であり、指揮者で2014年現在の水戸芸術館館長・小澤征爾が総監督や指揮者としてその運営にあたっている。その構成メンバーはソリスト即ち独奏者や、オーケストラの首席奏者として、世界的活躍を続けている国内外の音楽家達が集っている。MCOは、水戸芸術館コンサートホールATMで定期演奏会を行っており、2013年7月現在の当演奏会は第87回目となっている。MCOは特徴的な注目すべき演奏会を行っている。それは入念なリハーサルの末に指揮者を置かないアンサンブルとしてのコンセプチュアルな試みであり、同時に個性的指揮者が彼らを新たな調和を作り出す主として導いた時の協演である。協演者らや日本の作曲家による作品の委嘱された初演は多数に上り[349]、かつ国内外で演奏をしている。1998年6月、当楽団はウィーン芸術週間やフィレンツェ5月音楽祭、ルートヴィヒスブルク城音楽祭らから招待を受け、ハンブルクチューリヒウィーンルートヴィヒスブルクフィレンツェの5都市をめぐって小澤征爾指揮によるMCO第1回ヨーロッパ公演を行い、西洋の聴衆から圧倒的賞賛を得た。2001年3月、当楽団はフィレンツェやミラノ、ウィーン、パリミュンヘンの西洋各地から招聘を受けMCO第2回ヨーロッパ公演を行い、世界有数の室内管弦楽団という評価を確立した。2008年6月、当楽団はミュンヘン、フィレンツェ、マドリードの3都市から招聘を受け、小澤征爾音楽顧問が急病のため指揮者なしで実行したMCO第3回ヨーロッパ公演は、小澤なしでもトップとその実力を絶賛された。[350]

劇団いばらき~水戸黄門~は、2011年夏、TBSパナソニックドラマシアターのTVドラマ水戸黄門 (第39-43部)完結を受けた水戸市民が水戸黄門の灯を絶やさないと署名を集め、独自劇団を水戸の象徴として立ち上げようと結成された。2012年2月2日、当市民らは市民劇団水戸黄門のメンバーを「桜田門外ノ変」映画化支援の会や常磐神社らの協力により一般公募し、みなボランティアでたちあげた。こうしてできた劇団は、月に何度も数多の公演を県内外でおこなってのち、2013年9月、劇団いばらき~水戸黄門~と名乗った。当劇団は施設慰問を中心に、地域の方々とふれあい茨城の良さを広く伝えていく事を主題・目標にし、且つ映画製作も進めている。[351]

楽団
劇団
民謡

磯原節は郷土の生んだ詩人・野口雨情が郷里を謡った叙情歌が始まりである。毎年12月、磯原節大会が彼の生まれた茨城県北茨城市で開かれ、彼の遺徳を顕彰しかつこの無形文化遺産を後世へ伝承している。多くの参加者らが、自慢の喉をこの大会で競っている。[352]なお、同県日立市出身の音楽家津軽三味線奏者・上妻宏光が、彼の作品アルバムCD『GEN-源-』の中で磯原節をカバーしている[353]

スポーツ[編集]

鹿島アントラーズのホーム・カシマサッカースタジアム
水戸ホーリーホックのホーム・ケーズデンキスタジアム水戸
つくばロボッツのホーム・サイバーダインアリーナ。1996年谷口吉生設計

2014年現在、鹿島アントラーズは国内3大タイトル(Jリーグナビスコカップ天皇杯)について、Jリーグクラブで史上最多の16冠かつそれぞれのタイトルに最多優勝回数を誇る。鹿島はA3チャンピオンズカップスルガ銀行チャンピオンシップスーパーカップを含めると24冠である。また、鹿島は1シーズンで国内3大タイトルを制覇する三冠(2000年)とJリーグ3連覇(2007年-2009年)を同時に達成している国内唯一のクラブでもある。アントラーは勇者が旅立つ事をいう「鹿島立ち」の伝統ある鹿島神宮における神の使い、即ち雄鹿の角の意味であり、茨城のをその角にデザインしたエンブレムを持つ。

水戸ホーリーホックの年間売上高はJ2平均の半分ほどの約5億円だが資本金はJ2最少の8000万円と最も経済的なチームだが、北関東ダービーで連続優勝(2009年-2010年、2012年-2013年)し、J2リーグ成績では22クラブ中で平均12位(2000年-2013年)と中位に入っている。水戸ホーリーホックは水戸市に座す徳川御三家の水戸家に因んだ名である。ホーリーホックとは英語でを意味し、チーム名とエンブレムは徳川家の葵の御家紋からとられた。なお、マスコットのホーリー君やエンブレムにあしらわれた竜は、水戸黄門こと義公の字・子龍からとられた。茨城県日立市出身の元日本代表サッカー選手・鈴木隆行は、2011年6月3日東日本大震災の直後に水戸ホーリーホックと契約する際、本人の強い希望により無報酬のアマチュア契約でシーズン終了までプレーした。

なお、アントラーズとホーリーホックが対戦する茨城ダービーが茨城県では毎年行われている。

Jリーグ
社会人野球
NBL

観光[編集]

旧跡・歴史施設等[編集]

偕楽園から眺める千波湖
懸造りで建てられた石岡市・西光院本堂。遠く霞ヶ浦や鹿島灘を望む日もある

茨城県水戸市の日本庭園・偕楽園は都市公園としてアメリカニューヨーク州セントラルパークに次ぎ世界第2位の面積を持つ[354][355][356][357][358]。偕楽園は日本国の史跡及び名勝に指定されており、かつ伝統的に、岡山県岡山市後楽園石川県金沢市兼六園と並んで日本三名園の一つに数えあげられてきた。

自然景勝[編集]

袋田の滝1990年(平成2年)行われた日本の滝百選の人気投票で日本一になった。この滝は日本三名瀑の一つに挙げられ、日本の滝百選に選定された。諸国を遍歴して袋田にやってきた西行法師は「この滝は四季に一度ずつ来なければ真の風趣は味わえない」と絶賛し、ここから袋田の滝を四度の滝とも呼んだ。次の過客らがここで歌を残した。

花もみち経緯たてよこにして山姫の錦織出す袋田の瀧 ――西行法師

いつの世につゝみこめけむ袋田の布引出すしら糸の瀧 ――徳川光圀
もみち葉を風にまかせて山姫のしみつをくゝるふくろ田の瀧 ――徳川斉昭
御空より巌を伝ひて飛落ちてすべりて散りて四度の大滝――大町桂月

2014年5月時点で、茨城県常陸太田市にある竜神大吊橋は、歩行者専用の橋として本州一の長さである[359]。毎年4月中旬から5月に子供の健やかな成長を願って竜神崎鯉のぼり祭りが、約1キロメートルに及ぶ壮大なワイヤーロープを使ってここで行われる。他、夏には500個の灯篭と100本の竹灯りが飾られ全国各地から集めた風鈴が音色を奏でる竜神崎灯ろうまつりが行われ、秋には常陸秋そばの新そばを味わえる竜神崎紅葉まつり、冬には厳冬期に熟成した日本一とも言われる美味しさの玄そばを参加加盟店が期間限定特別メニューで提供するすいふ蕎麦まつりがここで行われる[360]

公園[編集]

国営ひたち海浜公園、大草原の広場と観覧車「プリンセスフラワー」

茨城県ひたちなか市にある国営ひたち海浜公園は、季節の花々が咲き乱れる日本有数の大規模な花園として、他園では得がたい経験のできる名所となった。総入園者数は平成25年度に2000万人を超えた[361]。当園は特に丘一面に広がるネモフィラが有名となり、その鑑賞を目当てにしたバスツアーが開催され、かつ当園オリジナルの和菓子ネモフィラの風もその時期に合わせ限定販売されるなどブランド化した。他に先駆けて使われたこの花は、大規模な花園の修景に使うものとして一般的ではなかった。平成17年から毎年ネモフィラの丘を目当てにしたバスツアーによる来園者は増加している。ほかに、平成15年時点で252品種・約100万本のスイセンによる日本一のスイセンガーデン、平成19年度から独創的な花園の素材として紅葉の美しい当園オリジナル品種のコキアなどが導入されている[362]。この土地は民話・千々乱風の伝説に よれば、江戸時代の初期に70日以上北東からの大風が吹き続け、当地にあった集落が砂に埋まったとされている。今日この地は見目麗しい公園だが、かつては 昭和13年に日本軍が水戸東飛行場を建設して以来、昭和21年に連合国軍から接取され在日米軍の対地射爆撃場となっていた。茨城県の人々は周辺民家への模 擬爆弾の誤投下をこうむったり、機関砲不発弾の落下に伴う事故で罪のない者が死亡したりなど苦しい経験から同県民を挙げての返還運動を果たし、昭和48年 この土地が日本国へアメリカから返還された。この土地は戦争利用から平和利用へという各省庁への同県の地元からの要望書を受け、国民のレクリエーションや癒しの場となるよう公園へと国土交通省により作り変えられてきた歴史を持つ。当園内の不発弾処理を行うなどがその中途で行われた[363]。 当園の沖合いは暖流と寒流がぶつかるまれな自然環境であるため、当園内の敷地は生物の北限種と南限種が混在しており、かつ開発が及ばなかった歴史から手付 かずの自然が残ったので貴重な動植物が生息、生物多様性に寄与している。当園は同県ひたちなか市でみられる希少種の多くがみられ、環境省RDB(レッド データブック)絶滅危惧IB類・茨城県RDB稀少種ホトケドジョウや、環境省RDB絶滅危惧IA類・茨城県RDB絶滅危惧種ハナハタザオ、環境省RDB・茨城県RDB準絶滅危惧種のオオウメガメソサソウなどの絶滅危惧種が生息している。ひたちなか市の確認した稀少動物種54のうち37、稀少植物種48のうち20が当園で発見されている。当園は毎年、民間企業主催のROCK IN JAPAN FESTIVALや青年会議所主催のTEENS ROCK、各種協会主催のオータムフェスタJA茨城主催のメロン市場などを開いている。また当園は、ボランティアのガーデナーズ倶楽部やスイセンガイド、市民団体によるやんさ太鼓の演奏、平磯の杖術が行われる等、色々なイベントで様々な主体らにより活用されている。当園は2011年3月11日東日本大震災の際に、国民への井戸水による給水支援を行った。平成23年度の費用便益比(B/C)は総費用2926億円分の総便益5788億円で1.98と大幅な黒字である。同年度今後この園は東首都圏一円からの過剰利用客を見込んで、予定されていた自然を破壊しながら施設開発する事業部分を7億円分縮小し、北側に残る貴重な自然を保全し自然や生き物とふれあいながら来園者にそのなかの散策を楽しませる為の新計画へ切り替える予定とした。[364]

博物館・美術館など[編集]

茨城県にある水戸市は18世紀に水戸学を興し、19世紀に日本最大の藩校・弘道館を造り、且つ日本で1番早く市制を執った。20世紀、その水戸市長・佐川一信が今度は芸術館を造って、当市民の精神面を一層充実させようとした。こうして茨城県水戸市に築かれた水戸芸術館は、音楽・美術・演劇にわたる総合芸術の施設として、水戸市制100周年記念に生まれた伝統を持つ[365]

茨城県の北茨城市にある茨城県天心記念五浦美術館は、当地の五浦につどった日本美術院の作家達の業績を顕彰し、1997年(平成9年)11月8日に当地へ建設された。当美術館のある歴史的な景勝地五浦海岸における大小の入江と松林は日本の渚100選、その海岸の波音は日本の音風景100選に選ばれている[366]

ホール・コンベンション施設[編集]

大型スポーツ施設[編集]

美浦トレーニングセンター

茨城県稲敷郡美浦村JRA美浦トレーニングセンターは、日本一の設備と規模を持つ競走馬の調教拠点である。1972年(昭和47年)9月に敷地造成が始まり1977年(昭 和53年)4月に開場して以来、そこは一般の人も馬に親しむ事ができるため一つの観光スポットになっている。その敷地面積は224万平方メートル、東京 ドーム約48個分である。常に2000頭以上の競走馬が約120ある厩で訓練に励んでいる。美浦トレーニングセンターで働く人々は騎手70人、調教師 110人、調教助手650人、厩務員550人を超える。毎月第2日曜、予約制ウマシタイベントとして乗馬体験や厩舎見学が行え、土日にも予約制の施設建学ができる。また、施設内の乗馬苑広場は一般開放されており、乗用馬やポニーを間近で気軽に眺められる。[a 118]

祭り・イベント[編集]

ユネスコ無形文化遺産の日立風流物


茨城県を舞台とした作品[編集]

映画[編集]

映画『天心』に登場する六角堂岡倉天心設計
下妻物語の騰波ノ江駅

テレビドラマ[編集]

『水戸黄門』1969年8月4日にその放送をナショナル劇場枠で始め、2003年12月15日放送1000回を迎えた、世界に類を見ない長編時代劇である。水戸黄門シリーズ全1227回の平均視聴率は22.2%、最高視聴率は1979年2月5日に記録した43.7%[368]であり、積木くずし最終回の45.3%に次いで民放ドラマ史上2番目の高さだった[369]2012年、ザテレビジョンドラマアカデミー賞より本シリーズ42年の歴史へザテレビジョン特別賞が贈られた。水戸家の家老・三木之次は水戸黄門こと徳川光圀(義公)の育ての親であったが、彼の子孫・三木啓次郎1918年(大正7年)桜田烈士の慰霊に大阪の四天王寺境内を訪れ、そこで二股ソケットを販売していた松下幸之助と出会った。経済的に困窮していた松下の話を聴き、啓次郎は彼を援助した。ナショナル、即ち今日のパナソニックの創業者として松下が成功してのち、啓次郎の恩に応えるためパナソニックの提供でドラマ『水戸黄門』を始めた[370]。松下は他に、茨城県水戸市の常磐神社内に設けられた三木神社や、同県同市の常磐共同墓地内の回天神社にも寄進した[371]。なお2014年5月現在、水戸黄門劇そのものは、同市の劇団いばらき~水戸黄門~が継続している。

漫画・アニメ・小説[編集]

ゲーム[編集]

茨城県出身の人物[編集]

明治時代以降の茨城県文化において、当県出身者は学会に松村任三栗田寛市村さん次郎藤懸静也佐藤進沼知福三郎らがいた。また、当県出身者は美術界に横山大観板谷波山木村武山小川芋銭中村彝靉嘔山下りん熊岡美彦飛田周山らがいた。文学界野口雨情長塚節石河幹明横瀬夜雨ら、音楽界にベルトラメリ・能子吉田正らがいた[a 119]。当県高萩市出身の植物学者であった松村任三ハマギクの学名・Chrysanthemum nipponicum Matsumuraの名付け親で、牧野富太郎は彼の門下生である。また、茨城県の医者だった手塚光照は、手塚治虫の先祖である。

現代の当県出身者は建築界に妹島和世らがおり、音楽界に石井竜也上妻宏光フジファブリックNIKIIEらがいる。評論界立花隆映画監督界に小泉堯史栗山富夫深作欣二らがいる。

水戸駅前で行われた巨大オセロによるプロモーション「天下一オセロ大会」

ゲームクリエイター界の坂口博信ファイナルファンタジーシリーズの生みの親であり、薗部博之ダービースタリオンシリーズを生み出した。当県出身のゲームクリエイター長谷川五郎オセロを考案した。当県出身の都々逸坊扇歌都都逸の生みの親だった。

当県は教育家として黒沢登幾豊田芙雄渡辺嘉重黒沢酉蔵長谷川良信大矢敏行らを輩出した。豊田芙雄は水戸学者・藤田幽谷の次女で、文部省から御茶の水女子大学の付属幼稚園に於ける日本最初の保母へ任命され、日本の保母第一号と称された。

当県出身の芸能人は、梅宮辰夫柳生博渡辺篤史渡辺徹白石美帆永作博美栗山千明マギー司郎松居直美三浦春馬磯山さやか乾曜子来栖あつこ谷桃子綾部祐二渡辺直美黒沢かずこキタキマユ鈴木奈々渡部豪太吉川友らがいる。

当県出身者は実業界に江戸英雄小林孝三郎黒沢酉蔵川崎八右衛門内田信也磯部保次太田祐雄宮田栄助市川忍高杉晋一川又克二関浩二らがいた。堀義人海老沢勝二は茨城県出身である。

江戸時代の水戸学者として徳川斉昭藤田幽谷藤田東湖会沢正志斎豊田天功戸田忠太夫青山延寿らが有名である。新撰組初代筆頭局長芹沢鴨であり、新撰組最後の隊長相馬主計と当組の創設と廃止に当たる構成は当県出身者から成っている。御陵衛士盟主伊東甲子太郎も茨城県出身だった。華族は、最高位の公爵に水戸徳川家徳川慶喜家、伯爵に香川家、子爵に松戸徳川家石岡松平家土屋家土居家、男爵に中山家山口家らがいた。

なお、藤原氏の始祖・藤原鎌足は『大鏡』によれば茨城県出身となっている。平国香は茨城県筑西市真壁郡を本拠とし、常陸平氏越後平氏伊勢平氏の祖であり、のち秋田県知事となった佐竹氏親皇平将門らを輩出した。伊達氏こと伊達宗家の初代当主・伊達朝宗甲斐源氏武田氏の祖・源義清らが戦国大名として茨城県出身である。越前松平家宗家の初代当主・結城秀康は茨城県結城市を出自とした氏族であり、江戸幕府初代将軍徳川家康の子・秀康を養子として松平姓を名乗り福井県福井市へ移った一族である。赤穂浪士の討ち入りで有名な浅野氏の初代赤穂藩主・浅野長直も、当討ち入りの人数を占めた家臣団を含め、茨城県桜川市真壁町真壁藩及び茨城県笠間市笠間藩出身である。赤穂浪士のうち播磨国赤穂郡出身者は大石良雄を含め半数程度であり、それに次いで多いのが常陸国真壁郡茨城郡笠間の出身者である。これは、赤穂浅野氏の家臣団のうちその中心陣は、1645年(正保2年)浅野長矩の祖父にあたる浅野長直が赤穂へ転封される以前の真壁藩笠間藩時代に形成されている為である。吉田兼亮小野寺秀和堀部金丸など高齢者の浪士は茨城県の生まれが多い。そのため当県には今も赤穂浪士の出身した旧家が残り、浪士の遺品も当地に多く伝わっている。[372][373]。現在の徳川宗家第18代当主・徳川家広御三卿清水徳川家香川県高松松平家福島県会津松平家守山松平家、茨城県の宍戸松平家らは男系先祖が茨城県の水戸徳川家出身である。かつ、千葉県松戸徳川家は水戸徳川分家である。なお、尾張徳川家の第22代当主・徳川義崇も第17代当主・徳川慶勝や第18代当主・徳川義礼を通して水戸徳川家の女系子孫である。2014年現在、水戸徳川家徳川慶喜家[374][375]、そして一橋徳川家[376]と茨城県には3つの徳川家が在住している。

ほかに戦国時代の茨城県で佐竹氏に仕えた上記と別個の徳川氏がいたが、彼らは清和源氏新田氏の支流、得川義季の後裔と称し得川氏および世良田氏の始祖となった。この別個の常陸徳川氏は江戸時代に至って主君・佐竹氏に従って秋田県へ茨城県から移り、秋田藩に仕えた。この徳川氏は水戸徳川家や徳川宗家とは別系統の徳川氏である[377]

代表的な茨城県出身もしくは当県出身継嗣及び家門の氏族一覧
藤原氏(『大鏡』による) 
常陸・越後・伊勢平氏 
旧伯爵・伊達氏 
武田氏[378] 
旧侯爵・佐竹氏 
結城氏(越前松平家へ) 
旧侯爵・浅野氏 
旧公爵・徳川宗家 
旧公爵・水戸徳川家 
旧公爵・尾張徳川家 
旧公爵・徳川慶喜家 
旧侯爵・越前松平家[379] 
旧伯爵・一橋徳川家 
旧伯爵、男爵・清水徳川家 
旧伯爵・高松松平家 
旧子爵・守山徳川家 
旧子爵・宍戸松平家 
旧子爵・会津松平家 
旧子爵・松戸徳川家 

脚注[編集]

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出典
  1. ^ 草間p28。
  2. ^ 県民p72。
  3. ^ 県民p169。
  4. ^ 山本p31。
  5. ^ 茨城p2。
  6. ^ 草間pp39-40。
  7. ^ 草間pp39-40。
  8. ^ 県民p17。
  9. ^ 草間pp39-40。
  10. ^ 県民p17。
  11. ^ 草間p53。
  12. ^ 茨城p2。
  13. ^ 茨城p3。
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  16. ^ 茨城p3。
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  21. ^ 石塚p113。
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  24. ^ 渡部pp142-156。
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  117. ^ 石塚p191。
  118. ^ 県民p159。
  119. ^ 茨城p7。
注釈
  1. ^ 日立グループの研究所が集積した茨城県日立市や、日本国や独立行政法人・学校法人等の原子核物理学を始めとした物理学研究所が集積した茨城県東海村、日本国立の研究機関を初め多数の官民両方の研究所が集積した筑波研究学園都市など、茨城県内にある多数の研究所集積地を含む。総務省統計局、平成21年経済センサス‐基礎調査。2014年6月閲覧。
  2. ^ J-PARCなど世界最高性能の微科学研究機関の集積した茨城県東海村や、日立グループの研究所が集積している茨城県日立市、日本国立の研究機関が集積している茨城県つくば市などを含む。この内たとえば、平成23年度の茨城県つくば市に於ける博士号保持者数は8243人、研究者数は20258人であり、国や大手企業の研究拠点が多数存在、約300に及ぶ研究機関・企業を擁し、このうち日本人の博士号取得者は7215人に達する。また、外国からの研究者や留学生が多く、外国人登録者数は133カ国7565人である茨城の豆知識、茨城県、平成26年4月1日。2014年5月閲覧。総務省統計局、平成21年経済センサス‐基礎調査。2014年5月閲覧。つ くば市FactBook2011:10ページ。2012年8月10日閲覧)。([http://www.city.tsukuba.ibaraki.jp /dbps_data/_material_/localhost/GyouseiKeiei/ToukeiTsukuba_2011/ToukeiTsukuba2011.pdf 統計つくば2011:42ページ。2012年8月10日閲覧])。
  3. ^ a b 総務省統計局、平成21年経済センサス‐基礎調査。2014年5月閲覧。
  4. ^ 茨 城県の人口10万人あたりの研究機関数は11.59軒と、2位の東京都9.38件を大きく引き離している。茨城県の都道府県あたり研究機関数の偏差値は 82.96、2位の東京都は70.92と大差がある。但し、茨城県の研究機関の総数自体は343件と、全国5位である。データ出典:2010年度経済セン サス‐基礎調査。
  5. ^ 昭和50年から平成5年にかけて本州1位、平成20年度以降再び本州1位。茨城県ホームページ、「農業産出額」と「茨城の日本一!~農業編~」、平成21年8月掲載 平成22年2月一部更新、2014年5月閲覧。
  6. ^ 下総国北部は千葉県より移管された。
  7. ^ 首都圏整備法施行令第一条による。
  8. ^ 多極分散型国土形成促進法第二十二条と同法律施行令第五条により、茨城県土浦市つくば市稲敷郡阿見町新治郡出島村千代田町新治村稲敷郡茎崎町の区域が東京圏と定義されている。
  9. ^ 日本の総人口の約2.3%。
  10. ^ 霞ヶ浦北浦牛久沼涸沼などを含めない場合は5,874.20 km²。
  11. ^ 国土の約1.6%を占める。
  12. ^ 山・川・湖などを除く。
  13. ^ a b c d e f g h i j k l 茨城の豆知識、茨城県、平成26年4月1日。2014年5月閲覧。
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  16. ^ 平成24年度の農業産出高、本州1位。後述。茨城の豆知識、茨城県、平成26年4月1日。2014年5月閲覧。
  17. ^ 『万葉集』にも詠まれ、日本百名山日本百景の一つとされる。歌川広重は、江戸の街からの地平線を描く場合、北や北東なら筑波山を描くことが多かった。
  18. ^ 平成23年度のつくば市に於ける博士号保持者数は8243人、研究者数は20258人と、人口あたりそれぞれ日本最大。茨城の豆知識、茨城県、平成26年4月1日。2014年5月閲覧。総務省統計局、平成21年経済センサス‐基礎調査。2014年5月閲覧。
  19. ^ 茨城県、平成24年度 茨城県県内総生産速報(2次速報値)。2014年5月閲覧。
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  21. ^ a b 2011年度の実質経済成長率は首都圏一で全国第4位。内閣府、県民経済計算 平成22年度(2013年5月29日)、2014年5月閲覧
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  27. ^ a b 2005年農林業センサス、内閣府。2014年5月閲覧。
  28. ^ a b 平成23~24年度、全国体力・運動能力、運動習慣等調査で茨城県中学2年生が50メートル走や反復横跳びなど実技8種目の合計点で、2年連続男女とも全国第1位。又、平成24年度の茨城県小学5年生は男女とも全国第2位、平成25年度の茨城県小学5年生は女子第2位、男子第3位。文部科学省、平成25年度全国体力・運動能力、運動習慣等調査結果文部科学省、平成24年度全国体力・運動能力、運動習慣等調査結果。茨城県、平成25年度全国体力・運動能力、運動習慣等調査結果(茨城県)。
  29. ^ 茨 城県の国民宿舎は、全国に128箇所設置されている国民宿舎(2009年度現在)のうち、客室58室、宿泊定員204人の年間宿泊利用率は93.5%と、 通年ほぼ満室状態(2009年度)。他の施設を大きく引き離した宿泊利用率で、2013年(平成25年)度も24年連続第1位を達成。茨城県、2013年なめんなよ♡いばらき県ブック。2014年5月閲覧。
  30. ^ a b c 茨城県『輝く茨城の先人たち』「茨城県のすがた」
  31. ^ 平成17年度の1世帯あたりの住宅の述べ床面積は栃木県と並び首都圏1位である。同年度の1世帯あたりの住宅の述べ床面積が全国区で1位なのは富山県。総務省統計局、表4-11 一般世帯の持ち家率及び1世帯当たりの住宅の延べ面積。2014年5月閲覧。
  32. ^ 1998年(平成10年)8月14日の時点で、一戸建や長屋建住宅の1住宅当たりの敷地面積の平均は、全国が262㎡、茨城県が420㎡。この数値は47都道府県中の第1位。又、茨城県はこれらの住宅の3割以上が50㎡以上の庭をもっていた。茨城県、本県の住宅の特徴-日当たり良く,敷地広い-、平成10年8月14日紙上掲載、企画部統計課 普及情報グループ。2014年5月閲覧。
  33. ^ 但し、筑波山は西岸海洋性気候に属している。
  34. ^ 1998年(平成10年)8月14日の時点で、住宅の日照時間が1日当たり5時間以上の住宅の割合は全国で60.8%、3大都市圏で54.7%、茨城県で72.7%。他方、それが3時間未満の住宅の割合が全国で15.3%、3大都市圏で20.0%、当県で8.1%。茨城県、本県の住宅の特徴-日当たり良く,敷地広い-、平成10年8月14日紙上掲載、企画部統計課 普及情報グループ。2014年5月閲覧。
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  38. ^ 愛着を「持っている」(47.4%)と「どちらかといえば持っている」(40.1%)をあわせた、少なくとも愛着を持っている者の割合は87.5%。茨城県、県政世論調査、平成25年10月実施。2014年5月閲覧。
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  40. ^ 十分満足している(10.4%)と十分とはいえないが一応満足している(66.7%)をあわせた割合。茨城県、県政世論調査、平成25年10月実施。2014年5月閲覧。
  41. ^ 平成21年度から平成25年度の茨城県政世論調査まで継続的に、「十分満足している」と「十分とはいえないが一応満足している」が増え、「まだまだ不満だ」と「きわめて不満だ」が減っている。茨城県、県政世論調査、平成25年10月実施。2014年5月閲覧。
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  50. ^ 東茨城郡・西茨城郡。
  51. ^ 「うまら」と「いばら」は同じ語の異形同士で、「う-」形と「い-」形が併存していたものと考えられる。マ行とバ行の交替は現代語「淋しい」などにも見られる現象である。
  52. ^ 「茨」の左下の「冫」の字の部分が「二」の字の部分となる。
  53. ^ 但し、「愛媛県」の「媛」は1990年人名用漢字の前は旧字体となっている。
  54. ^ 「城」は「き」とも読む。「宮城」を「みやぎ」というように濁音になる理由は連濁の結果であり、「いばらき」のように必ずしも連濁が起こるとは限らない。
  55. ^ 「茨城はいつから『いばらき』になったのか!?」excite.ニュース 2005年3月24日
  56. ^ パソコンや携帯電話などの漢字変換機能では「いばらぎ」でも「茨城」と変換されるが、厳密には誤りである。なお、ATOKダイレクト for はてなは『地名の「茨城」「茨木」の誤読。実際は「いばらき」』と表示する。
  57. ^ 例:茨城大学→茨大(いばだい)、茨城交通→茨交(いばこう)、茨城急行→茨急(いばきゅう)など。
  58. ^ これを不適切な使い方とする向きも一部にあるが、略語で読みが変化するのは日本語では古より一般的にみられる用法である。また、47都道府県名の中で一文字の読みが3音節以上になるのは茨城の茨(いばら)のみ。
  59. ^ 公式には「霞ヶ浦」は西浦、北浦、外浪逆浦の3湖沼および常陸川、北利根川、鰐川の3河川の総称である。ただし、西浦だけを指して霞ヶ浦と呼ぶことも多い。西浦は日本で第2位の面積をもつ淡水湖である。
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  68. ^ 鹿行はかつての鹿島郡(現・鉾田、鹿嶋、神栖の3市)と行方郡(現・行方、潮来の2市)から1字ずつとった名称である。学校の部活動の地区名など「県東(けんとう)」と呼ばれることもある。
  69. ^ 水戸地方気象台が気象予報や注意報と警報などを発表する場合など。
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  74. ^ 但し、明治元年(1868年)1月常陸松岡藩高萩市周辺へ新政府により立藩され、明治2年(1869年)元来一帯を任されていた水戸家附家老中山信徴版籍奉還で常陸松岡藩知事となった。2年後の明治4年(1871年)廃藩置県で常陸松岡藩は廃され松岡県となった。また同年11月、松岡県は茨城県へ編入された。
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  79. ^ 北部広域連携圏は県北山間・県北臨海・県央。
  80. ^ 南部広域連携圏は鹿行・県南・県西。
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  82. ^ ひたちなか市・那珂市・東海村を除く。
  83. ^ イギリスにおける地方地主の貴族としてのジェントルマンジェントリも参照。
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  87. ^ 樺太・北海道・東北。
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  89. ^ 鴨志田篤二・星龍象「文化のあけぼのから兵の世へ 海と大地を開く」 長谷川伸三・糸賀茂男・今井雅晴・秋山高志・佐々木寛司『茨城県の歴史』山川出版社 1997年6月 10-12ページ
  90. ^ または常陸国庁。
  91. ^ または常陸府中。
  92. ^ 『万葉集』歌番号1758。
  93. ^ 『万葉集』歌番号1754。
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  98. ^ 筑波山神社筑波山の項を参照。
  99. ^ 四六駢儷体は、南朝の代に流行した。
  100. ^ 『常陸国風土記』執筆者は分かっていない。なお、719年に常陸国司になったのは、公卿藤原宇合とわかっている。県民p17。
  101. ^ 東国
  102. ^ 常陸国風土記の項を参照。国立国会図書館デジタルコレクション『常陸国風土記』。2014年5月閲覧。
  103. ^ 日立市の項を参照。
  104. ^ 多賀郡条。
  105. ^ 香島郡条。
  106. ^ 『万葉集』歌番号4370。
  107. ^ 鹿島神宮#鹿島立を参照。
  108. ^ 『デジタル大辞泉』鹿島立ち項等(コトバンク<朝日新聞社>より)。
  109. ^ 国分寺の項を参照。
  110. ^ 常陸国守の親王は常陸太守と称した。国司の項を参照。
  111. ^ 親王任国の項を参照。
  112. ^ 常陸介の項を参照。
  113. ^ 『源氏物語』の中で、常陸介の娘である皇族遠戚の浮舟は、皇子や、皇族の匂宮から盛んに求愛される。浮舟 (源氏物語)の項を参照。
  114. ^ 令制国の項を参照。
  115. ^ 『延喜式』巻二十八、兵部省。
  116. ^ 承平天慶の乱#親皇と称すの項を参照。
  117. ^ 商標登録687647。
  118. ^ 伊達朝宗常陸入道念西伊佐郡 (常陸国)の項を参照。
  119. ^ 親鸞の項を参照。
  120. ^ 唯円の項を参照。
  121. ^ 武田氏の項を参照。
  122. ^ 古河公方古河城の項を参照。
  123. ^ 紀州家水戸藩の項を参照。
  124. ^ 1602年、1615年ともされる。
  125. ^ a b c 源光圀 編『大日本史』第一巻、大日本史序。国立国会図書館 近代デジタルライブラリー、源光圀『大日本史』第1冊 巻1-11 本紀。2014年5月閲覧。
  126. ^ a b 明治維新後に初代内閣総理大臣伊藤博文が聞き及び渋沢栄一に伝えた、水戸家の生まれで最後の将軍・徳川慶喜の証言によると、かれの父で第9代水戸藩主・徳川斉昭は幼い慶喜へ水戸家の庭訓として「義公以来、代々水戸家がそうであったよう尊皇の義を重んじ、朝廷と幕府の間で万一いくさがあれば朝廷に着く様ゆめ忘るる勿れ」と戒めたという。徳川1966、烈公(斉昭)の御教訓の事。
  127. ^ 「常州水戸城主副将軍従三位権中納言」の記述が、義光の傳役だった小野言員(小野角右衛門)宛の義光による書簡に見られる。義公『小野言員宛書翰(付小野言員詞書)』常磐神社義烈館蔵。
  128. ^ 水戸徳川家第13代当主で侯爵徳川圀順明治天皇へ『大日本史』を献上した。この後、彼は『大日本史』完成を含む水戸家代々の勤皇功績を昭和天皇から顕彰され、華族最高位の公爵へのぼった。水戸学大日本史徳川光圀の項を参照
  129. ^ 第15代徳川宗家を継いだ最後の将軍・徳川慶喜は宗家を継いだ頃、初代徳川家康が日本のために開いた江戸幕府を、日本のために自分が葬るの任に当たるべしと覚悟を定めた、と後に語った。徳川1966、将軍職を襲ぎ給いし事。
  130. ^ 景山は烈公の号。
  131. ^ 好 文亭など有料部分を除く。偕楽園本園及び歴史館の区域は2/20~9/30の間午前6時から午後7時まで、10/1~2/19の間午前7時から午後6時ま で。また、有料公園施設の好文亭は2/20~9/30の間午前9時から午後5時まで、10/1~2/19の間午前9時から午後4時30分まで。
  132. ^ 烈公は三雑石切返しの法、砕代を廃止、殺生運の廃止、鷹場以外の村々に一率に課していた殺生に関する高掛物の廃止、などの農政改革に際して、「一度は水戸藩の損になっても、その結果、農民が肥えればまわりまわって藩の益になる事もあるから実施したい」といった、とされる。水戸藩天保の検地とその意義、大石慎三郎。2014年5月閲覧。
  133. ^ 常磐神社、御田と農人形像。2014年5月閲覧。
  134. ^ 常磐神社、改革の発端とその発想、仲田昭一。2014年5月閲覧。
  135. ^ 海外では、タタール海峡やダッタン海峡といわれる。県民p130。
  136. ^ a b 高萩市生涯学習推進本部編『生涯学習の先人 長久保赤水』1996年。郷土の先人、長久保赤水(ながくぼ せきすい)1717年~1801年。2014年5月閲覧。
  137. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp bq br bs bt bu bv bw bx by bz ca cb cc cd ce cf cg ch 高萩市。2014年5月閲覧。
  138. ^ 『デジタル大辞泉』《改正日本輿地路程全図》(コトバンク<朝日新聞社>より)。]
  139. ^ 飯塚伊賀七五角堂の項を参照。
  140. ^ 土井利位の項を参照。
  141. ^ 一方、茨城県や水戸弘道館を訪れ、東湖らと議論をして去った長州藩士・吉田松陰は始めは水戸学のこの理念に習い、やはり尊王攘夷を主義していた。しかし、広島県にいた盲目の僧侶・宇都宮黙霖はこの字義が、暴力を用いて政権を維持した覇者によるものに過ぎず、道徳を用いて政権を維持する王者の用いるべき語彙ではない、と『孟子』を引き山口県にいた吉田を説得した。このため、反幕府行為の罪で捕らわれていた吉田は1854年幽囚録』を著し、その中で尊王攘夷論を捨てて、倒幕論、さらに北海道沖縄および東アジアへの対外侵略を主張した。吉田松陰の項を参照。
  142. ^ 水 戸学に於ける尊皇攘夷論は、『史記』又は中国史に於ける斉の桓公を中心とした尊王攘夷の成功、即ち周王室への忠誠により諸侯が一致協調して異民族侵入を防 いだ会盟策からの援用であった。この同盟を率いた有力諸侯を中国に於いて覇者といったが、のちに出た孟子は覇者による武断政治である覇道を否定、徳による 王道政治を主張した事から、芸州の僧であった宇都宮黙霖は「水府(水戸藩)の人の尊王論とは徳川家による覇道の正当化に過ぎないため倒幕すべきである」と 主張し、この趣旨を長州藩士・吉田松陰へ往復書簡で伝えた(崎門学研究会、2014年3月閲覧)。しかし、実際の武力倒幕を行ったため明治新政府の覇者と なり幕末の会盟に類したのは、薩長同盟や薩土盟約を通じた長州藩そのものだった。このような覇者の逆転現象は、水戸弘道館を訪れた長州藩士・吉田や薩摩藩 士・西郷隆盛らへ水戸学者の東湖や会沢らが尊皇思想を先に伝えていた事から、大政奉還江戸開城によって、水戸学で教育された徳川慶喜による政権の禅譲が果たされたのに加え、幕末前半の武備が幕府方に有利だったのに対し、幕末後半は武器商人としての海援隊や薩長同盟を通じ薩長方へイギリス製の最新武備が行き渡った事もそれぞれその一因であろう。また維新後の明治7年1874年)黙霖は『十七條追考』を著し、その中で「西山(徳川光圀)、景山(徳川斉昭)の如きは半王幕の域を脱せず」と水戸学の趣旨を一君万民論の立場から否定的に解釈していた事から、薩長土肥ら西国諸藩や皇軍による覇道政治、即ち江戸薩摩藩邸の焼討事件に至る薩摩藩のテロ活動や戊辰戦争征韓論士族反乱鎮 圧などの一連の国内武力行使へは肯定的であった様である。つまり黙霖は、第一に幕政否定を是とし、覇者による倒幕の合理化に尊皇思想を用いていた。黙霖に とって皇軍による武断政治及び薩長土肥ら西国諸藩による覇道は戊辰戦争等への看過からみても明らかに否定されるものではなかった訳であり、いわば倒幕あり てのちに尊皇ありの考えだったともいえる。この点では、江戸時代中期の『柳子新論』等で別個に尊皇論を説いていた山県大弐も同様であった(明和事件)。しかし一方で水戸学は、日本の王道をしばし武力を持たない天皇への覇者からの忠義そのものに認めていた。鎌倉幕府から悪党とされた天皇擁護の武将・楠木正成はこうして、徳川光圀を初めとした水戸学派から盛んに称揚されてきた(南朝正統論)。また事実上すべての政権は武力を用いる為に、王道は水戸学に於いては弱者擁護(愛民)に見出された(『水戸藩改革の余光』薗部等、2014年5月閲覧)。即ち、水戸学は道徳を武力上の強者としての武士から庇われた武力上の弱者としての天皇擁護かつ愛民という、弱いもの虐めを行わない武士道の気骨に見出していた。水戸弘道館での学生からなった市川三左衛門率いる水戸藩・諸生党約500名は1868年3月奥羽越列藩同盟側に加勢するべく水戸を出発、北越戦争で善戦後、会津へ戻り同年である1868年会津戦争中の篭城戦に於いて会津藩内の婦女子を救済、その後も各地で奥羽越列同盟藩兵らと共に新政府軍に対して奮戦した。福島県会津若松市一箕町の白虎隊記念館敷地内に、会津で命を落とした水戸藩諸生党士らの「諸生党鎮魂碑」がある(『茨城新聞』2014年(平成26年)5月2日金曜日、17頁、福島会津若松、殉難志士の冥福祈る)。明治維新とは尊皇の観点からすると、徳川方からみれば禅譲であり薩長方からみれば簒奪、それに伴う天皇の江戸進軍であった。幕末のとき、薩長はそれぞれ別個に留学生をイギリスやアメリカへ密航させた為(薩摩藩第一次英国留学生薩摩藩第二次米国留学生長州五傑)、優勝劣敗適者生存の合理化を含む社会進化論をとりこんだ帝国主義者となった。ここに、吉田松陰が1854年『幽囚録』で主張した東アジア植民地化が、弱肉強食の侵略として明治以降の新政府から進められた。こうして尊皇論が国内に行き渡った一方で、江戸民衆による揶揄「勝てば官軍敗ければ賊よ命惜むな国のため」の狂歌にみられるとおり覇道を握った薩長藩閥か らは、水戸学に於ける他方の武士道上の徳、即ち愛民は殆ど省みられなくなった為、水戸学は単なる尊皇攘夷思想として皇室が自己権威の後光として利用した他 は、戦後の日本の教育において積極的には用いられなくなった。江戸幕府から明治政府へ至る事になった王政復古とは、薩長土肥を始めとした西国諸藩側にとっ ては天皇制度を利用した覇権の奪取による倒幕論として解釈されたが、水戸学及び水戸藩にとっては尊皇であるべき幕府を執政の将軍として担う自主的な徳治主義、 水戸藩出身の徳川慶喜を除く徳川宗家とその配下にとっては大政委任論の立場から将軍絶対主義の屋台骨を揺らがす弾圧対象であり危険思想でもあった。この三 者の超克が水戸学の正当解釈を是とした、江戸幕府第15代にして最後の将軍徳川慶喜による大政奉還に果たされた。慶喜は慶応の改革に みられる様、近代化による幕政改革を続けていた上、大政奉還後も諸侯に列し一大名として公に仕えるつもりだったので、徳川宗家を継ぎはしたが水戸学及び水 戸藩の自主徳治主義の方へ準じていた。結局、水戸学には大義名分論の趣旨が含まれていた為、それを持たないか打ち捨てていた吉田らの様に倒幕を主張する事 はなく、水戸学派に於いては幕政改革による敬幕論あるいは佐幕の立場が一貫していたのである。第14代将軍・徳川家茂1863年5月10日に攘夷決行を孝明天皇へ誓ったがそれは叶わず、翌年である1864年2月既に開港済みの横浜を改めて鎖港した上で、海岸防御を強化するとして再び天皇へ攘夷を誓った。天狗党首領格の水戸藩士・藤田小四郎らは、攘夷決行不能による幕府権威の失墜を憂い、幕府による横浜鎖港を側面から応援するつもりで挙兵した(『茨城新聞』2014年(平成26年)4月30日水曜日、19頁、幕末動乱――開国から攘夷へ、土浦市博物館学芸員野田礼子)。こうして幕府権威失墜を先んじて憂い、尊皇かつ佐幕を理由に茨城県から出陣した義勇兵とそれに呼応したによる天狗党は、尊王攘夷を幕府側へ促すため決起された。天狗党は尊攘が目的で倒幕が目的ではなかった為、那珂湊の戦いでは主に水戸藩・諸生党の藩屏からなる鎮圧軍と争い敗れたものの慶喜率いた皇室直属の幕府鎮圧軍とは争う事なく、不戦投降もできた。これは皇軍と最後まで抗戦した会津藩屏を始めとした、後の奥羽越列藩同盟軍とは対照的である。なお、上述のよう諸生党もこの同盟軍側に加勢した。
  143. ^ この黒船来航の原因となったアメリカイギリス人らの殖民地であった。阿片戦争が当時の中国にあったでは既に、1840年から2年後まで行われ、不平等条約をアメリカやイギリス含む欧米列強と結ばされていた。1842年8月29日清とイギリスは南京条約へ調印し阿片戦争を終えたが、清はイギリスから多額の賠償金と香港の割譲、さらに広東や厦門、福州、寧波、上海の強制的開港を認めさせられた。又、翌年の1843年虎門寨追加条約で清は治外法権関税自主権放棄、最恵国待遇条項承認等をイギリスから強要され、実質的な植民地化を余儀なくされていた。この清とイギリスとの不平等条約に他の列強諸国も便乗する所となり、清はアメリカとの望厦条約やフランスとの黄埔条約等をそれぞれの欧米諸国と結ばされていった。黒船来航の当時、こうして清は欧米列強から実質的に植民地化されていた後だったのである。
  144. ^ 桜田門外の変の項を参照。なお2010年1月16日の報道によると、このピストルは現物が出現し、そこには高度な旋条線が刻まれていたという。コルトM1851の項を参照。
  145. ^ 現在の東京都中央区佃二丁目。
  146. ^ 常磐神社義烈館蔵。
  147. ^ 桜田烈士『斬奸趣意書』1860年の記述による。
  148. ^ 現実には、薩摩藩主・島津斉彬の密命を受けた薩摩藩士・西郷隆盛の朝廷への密勅降下の策謀によるものだった。1858年3月に一橋派の薩摩藩主・島津斉彬の命を受けた同藩士・西郷隆盛島津家養女で将軍徳川家定正室篤姫から左大臣公卿近衛忠煕への書簡を持って京へ向かい、月照らの協力により、慶喜継嗣へ向けて天皇からの内勅降下を謀った。同年8月、西郷は近衛家から託された孝明天皇の内勅を水戸藩尾張藩へ渡すため江戸に赴いたが、できずに京へ帰った。以後、西郷は9月中旬頃まで薩摩藩士・有馬新七や薩摩藩士・有村俊斎、薩摩藩士・伊地知正治と共に大老・井伊直弼排斥による幕政改革を謀っていた。以上については、西郷隆盛の項目を参照。なお西郷が同じく島津の命で、同年8月ころ水戸藩家老安島帯刀に水戸への近衛による内勅を示しながら共謀密勅降下運動を打診をしたところ、安島は尊皇攘夷論主流の水戸藩の立場から遠慮(水戸学に於ける大義名分論の立場では幕府による天皇利用は主客転倒になってしまう為)、共同謀議を固辞していた。西郷が京へ帰った直後の同年同月16日深夜、京都留守居役の水戸藩士・鵜飼吉左衛門の子・鵜飼幸吉よりもたらされた天皇からの『戊午の密勅』拝受に安島は驚愕したという。以上については、戊午の密勅の項目を参照。水戸藩士の曽祖父を持つ評論家山川菊栄『覚書 幕末の水戸藩』によると、西郷は安島に密勅降下の企ての有無を問い安島の無策動を確認後東海道へ向かい、『戊午の密勅』を伝える為江戸へ向かっていた水戸藩士・幸吉中仙道で行き違ったとされ、この論拠を『水戸史談』に求めている(山川p235)。他方で、同年同月7日深夜に武家伝奏公家万里小路正房より水戸藩士・吉左衛門へ渡された『戊午の密勅』はその子の水戸藩士・幸吉に渡され彼は東海道を潜行、副使の士・日下部伊三次中山道より進んだともされる(戊午の密勅を参照)。また、彦根藩主・井伊直弼の大老就任以前、1857年7月頃、前水戸藩主・徳川斉昭関白九条尚忠へ、幕政参与並びに海防参与という江戸幕府内での権力の限界から攘夷を思うように果たせない苦しい内面と朝廷への変わらぬ尊崇の念、そして水戸藩による自主的な皇居警護の志を吐露する書状を送っていた(井伊、1967)。
  149. ^ 薩摩藩士・西郷隆盛は薩摩藩主・島津斉彬からの密命を受け、島津の示した公武合体策と徳川慶喜擁立に向け福井藩士・橋本左内や僧侶・月照と共に朝廷工作へ奔走した(京都手入れ)。
  150. ^ 小浜藩士・梅田雲浜も密勅降下の策動に加わっていた、とされる。山川p235。
  151. ^ 始め脱藩していた父の元で生まれ、水戸藩主に仕えていたが、やがて国元から許され薩摩藩主へ仕えた薩摩藩士・日下部伊三次の朝廷工作が背後にあった、とされる。岡村p119。
  152. ^ 当時の名は鯉沼伊織
  153. ^ 水戸藩士・青山延光の記述によれば、最後まで密勅を守り抜くつもりなら江戸駒込の水戸藩邸に置いても同じと青山は考えたが、同藩士・会沢正志斎や豊田(豊田天功か豊田香窓か不明)も瑞龍山安置案へ賛成なので彼も多数に従って置いた。山川p237。
  154. ^ 桜田門外の変の項を参照。
  155. ^ a b 桜田門外の変当時は青年通訳官として幕府の外国係の末席に列していた幕臣・福地桜痴(福地源一郎)『懐往事談』「井伊大老の不人望」項によれば、井伊は本より開国主義者ではなく、実は鎖国攘夷精神の保守家、ただ外国からの圧力に屈して余儀なく談判に望み、後戻しできないため心で欲してはいないが英断により調印を許可したに過ぎず、条約以外の事について井伊は従来の幕府独裁を変えてはならないという考えだったと考察されるという。また井伊は永井尚志川路聖謨岩瀬忠震など幕府の内外に信任が厚かった真に進歩的な人物を、将軍継嗣問題により外国局から追放した。水野忠徳のみ残留したが、彼はあたかも針の上に立つほどに不案内であったという。さらに福地と縁故のあった平山謙次郎木村敬蔵なども退けられ、福地は知遇者が殆どいなくなってしまい、外国局では井伊を快からず思っていた。それは外国局だけではなく陸海軍でも同様で、阿部・堀田両老中時代に欧州化で進歩改良し始めていた制度が井伊大老時代には歩みを止めてしまった。更にオランダイギリスフランスの書による洋学も 衰微したが、こちらは寧ろ井伊大老の意思だったというより、井伊が西洋の政治・学術を好まないのを知った幕府有司が迎合した状勢であったろう、と福地はい う。こうして尊攘論者のみならず幕府の進歩論者からも共に、幕政改革を挫折させた大老として井伊は失望と反感を買った地位におり、桜田事変により人々は井 伊の死を内治外交の一転機として歓迎した、と福地は述べている。また1859年ころ、水野は福地へ江戸で、「水野自身も堀も井伊から喜ばれておらず、他に 代わりがいないから残留しているだけで井伊にとって代役が見つかればすぐに排除され、岩瀬、永井、川路らと同様の災厄に陥るだろう」と語った。幕末の情勢 の中、森山栄之助は外交論をするたび常に福地へ阿部の人となりを賞賛し、「阿部老中が松平近直筒井政憲堀利煕、永井、川路、岩瀬らを途用して始めて調印がまとまったのであり、もし井伊大老が任に当たれば100人のハリスが来ても砲煙を見ずに平和の開国はできなかったろう」と語ったとされる。国立国会図書館 近代デジタルライブラリー、福地1894、「井伊大老の不人望」、2014年5月閲覧。
  156. ^ 桜田門外ノ変#映画の項を参照・
  157. ^ 東禅寺事件を参照
  158. ^ 事件当時、外国方として東禅寺にいた福地桜痴は目撃した事件の概要を記録している。
  159. ^ 幕末の事情を記した福沢諭吉自伝福翁自伝』によれば、大老・井伊直弼と徳川将軍家を含む全国諸藩そして日本国輿論はみな攘夷派だったが、井伊は外国折衝でやむなく条約調印したとされている。福沢p183。
  160. ^ 井伊家2014年現在の当主・井伊達夫によると、直弼は責任感が強いだけに小心者で、開国も外圧によるもの、彼の真の魂胆は富国強兵後に祖法(いわゆる鎖国)へ国を戻したかったのが本音という。『井伊直弼史記』井伊達夫、2012年1月、平成24年度特別展より、2014年5月閲覧。
  161. ^ 坂下門外の変の項を参照。
  162. ^ 『茨城新聞』2014年(平成26年)4月30日水曜日、19頁、幕末動乱――開国から攘夷へ、土浦市博物館学芸員野田礼子
  163. ^ a b 徳川、1966。
  164. ^ 水戸学の項を参照。
  165. ^ 1868年(慶応4年)1月19日山 城国にいた順公と水戸藩士・本圀寺勢(上洛中の順公と彼の実弟・徳川昭武(節公)らへ侍った水戸藩士ら)は次の順公の実弟・慶喜公からの書状を受け取っ た。それは「除奸反正の勅書(諸生党らを討伐し藩政を正常化せよという内容の勅状)を速やかに天皇より受諾しその通りに藩政を刷新せよ」という内容であっ た。こうして謹慎直前の弟から助言され、同年2月10日順公はその通りに勅命を明治天皇から受諾した。これ以後、福井県敦賀市での死刑を免れた天狗党生存者らは本圀寺勢と合流でき、江戸小石川・水戸藩邸側の実権を握った。
  166. ^ 市川三左衛門率いる水戸藩・諸生党約500名は慶応4年(1868年)3月に奥羽越列藩同盟側に加勢するべく水戸を出発、北越戦争で善戦後、会津へ戻り1868年会津戦争中の篭城戦に於いて会津藩内の婦女子を救済、その後も各地で奥羽越列同盟藩兵らと共に新政府軍に対して奮戦した。福島県会津若松市一箕町の白虎隊記念館敷地内に、会津で命を落とした水戸藩諸生党士らの「諸生党鎮魂碑」がある。『茨城新聞』2014年(平成26年)5月2日金曜日、17頁、福島会津若松、殉難志士の冥福祈る。
  167. ^ 弘道館戦争の項を参照。
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  185. ^ 旧・磯原尋常小学校。当時は豊田尋常小学校磯原分校。
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  188. ^ シャボン玉 (唱歌)の項を参照。
  189. ^ また、作曲家中山晋平の作曲になるこの歌曲はいわき湯本温泉の最寄駅である湯本駅の発車メロディーに使われている。
  190. ^ 野口雨情の項を参照。
  191. ^ 書は当時の精華小学校校長・大都直光のもの。
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  193. ^ a b [北茨城市立精華小学校。2014年閲覧。
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  195. ^ この花園山の歌碑は、1958年フロラ茨城の会の創設者・長谷川貞夫が建立した。財団法人・日本鳥類保護連名茨城県支部『かわせみ便り』第28号、2007年6月20日発行。
  196. ^ ほか茨城県外には、福島県いわき市湯本町には同地に滞在した野口雨情を記念した湯本温泉の童謡館がある。雨情が千葉県木更津小学校を尋ねた際に、木更津町長から頼まれ雨情が作詞した同県木更津市証誠寺がモチーフの童謡『証誠寺の狸囃子』に因み、木更津駅ではこの歌曲が発着メロディーになっている。また、1979年雨情の童謡『赤い靴』に登場した少女を模した銅像が赤い靴記念文化事業団(旧・赤い靴を愛する市民の会)から横浜市へ寄贈され、神奈川県横浜市横浜山下公園にこの銅像が設置されたほか、1982年この像のミニチュア版が横浜駅へ設置されのち2010年12月同駅自由通路へ移設された。2010年この少女像と同型の蔵が横浜市と姉妹都市のアメリカカリフォルニア州サンディエゴの海辺へ建てられた。その他にも、雨情の『赤い靴』に基づいて以下の銅像が各地へ作られている。 なお、神奈川県の地域開発で、1981年、一般公募された約2300点のなかから選出された名称・横浜みなとみらい21と最終決選投票で争ったのは、雨情の童謡に基づいた名称・赤い靴シティだった。横浜みなとみらい21#街の名称についてを参照。
  197. ^ このとき、横浜で働いていた武島勝蔵という職人を新たに雇い入れた。茨城県、いばらきもの知り博士。あんパンを初めて作った木村安兵衛 きむら・やすべい 常陸国河内郡田宮村(牛久市)。2014年5月閲覧。
  198. ^ 筑波山#筑波山とあんパンを参照。
  199. ^ また、このパンは、現在でも木村屋で一番の人気である。茨城県、いばらきもの知り博士。あんパンを初めて作った木村安兵衛 きむら・やすべい 常陸国河内郡田宮村(牛久市)。2014年5月閲覧。
  200. ^ なお山岡は木村親子の成長が嬉しく、水戸徳川邸行幸の年、木村家の看板を書いて贈ったが、この看板の文字は今も木村屋總本店で使われている。筑波山#筑波山とあんパンを参照。
  201. ^ 茨城県、いばらきもの知り博士。あんパンを初めて作った木村安兵衛 きむら・やすべい 常陸国河内郡田宮村(牛久市)。2014年5月閲覧。
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  204. ^ 日立鉱山#試験農場と植林事業の項を参照。
  205. ^ アメリカ・ワシントン州ポートエンジェルスにあるOcean View Cemeteryは、アメリカ側で犠牲となった当時26歳のElsie Mitchellを葬った。また、彼女らを弔う記念碑を持ったMitchell Recreation Areaが、同国オレゴン州ブライにあるFremont–Winema National Forestの中に、林業を営むウェアーハウザー社によって作られた。1976年、当風船の製造に携わった日本人科学者・足達左京が この地を訪れ、記念碑へ花輪を添えた。足達の書に『風船爆弾大作戦』(学芸書林、1975年)がある。彼はその後、当事故で子供を亡くしたPatzke家 の遺族へ謝罪の手紙を送った。1995年、日本人学生が千羽鶴を、日本の平和の象徴と犠牲者の遺族への癒しとして送った。また、6本の桜の木が当地・ブラ イへ贈られ、そのうち一本は当記念碑の近くに植え残りはフェンスエリアに植えられた。その後、500人の人々が50周年記念として当地を巡礼した。1996年、ウェアーハウザー社は当地をFremont–Winema National Forestへ寄付し、1997年そこへピクニックエリアが付加された。2003年このエリアは、意義深い歴史的価値を持つとしてアメリカ合衆国国家歴史登録財となった。
  206. ^ 風船爆弾の項を参照。
  207. ^ この時県庁が茨城郡水戸におかれたので、茨城県と命名された。
  208. ^ 当初は印旛郡佐倉に県庁を置く予定であったが、実際は加村の旧葛飾県庁舎を県庁とした。
  209. ^ 水戸弘道館近くの大手橋のたもとにある、水戸市「御製碑」案内板による。
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  216. ^ この映画は吉村昭小説『桜田門外ノ変』を題材にした。
  217. ^ 映画『桜田門外ノ変』の項を参照。
  218. ^ ロケセットの売店等で配られた限定冊子『桜田門外の変 SAKURADAMONGAI NO HEN』ライター・金澤誠、2010年(非売品)より。
  219. ^ 六角堂 (北茨城市)の項を参照。
  220. ^ 妹島和世の項を参照。
  221. ^ 青森県・栃木県・群馬県・埼玉県・富山県・石川県・福井県・岐阜県・和歌山県・鳥取県・島根県・岡山県・広島県・山口県・愛媛県・高知県・熊本県・宮崎県・鹿児島県なども同様に言われる。保守王国の項を参照。
  222. ^ 2014年5月の時点で石川県と並び4人と、全国最少。
  223. ^ 2013 年(平成25年)10月実施の茨城県政世論調査によれば、現在の暮らし向きに「十分満足している」(10.4%)と「十分とはいえないが一応満足してい る」(66.7%)を合わせた値。特にこの両者を合わせた現在の暮らし向きに満足している割合は、主婦・主夫層で約9割(86.8%)と高い。
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  333. ^ 磯山さやか、テレビで放映されない忘れられた被災地、茨城の惨状訴える - シネマトゥデイ、2011年3月17日。
  334. ^ 「被災地に伝える」姿勢を - 読売新聞、2011年4月5日。
  335. ^ ”関東被災地”茨城県の震災報道 新・週刊フジテレビ批評、2011年5月21日。
  336. ^ 水戸学の項を参照。
  337. ^ 作詞家作曲家中村泰士2000年(平成12年)12月10日に茨城県行方郡麻生町(現行方市)で開かれた講演会にて、「怒りっぽい」を「正義感が強い」、「理屈っぽい」を「ボキャブラリー豊かで文化が高い」という意味であると語った。茨城県水戸生涯学習センター 編(2001):4ページ
  338. ^ 常磐神社。2014年4月閲覧。
  339. ^ 楽書快評。2014年4月閲覧。
  340. ^ 水戸 弘道館から偕楽園を歩く 2014年4月閲覧。
  341. ^ 県民性研究会『茨城学』「はじめに」
  342. ^ 西内義雄『週刊アサヒ芸能』2007年11月15日特大号"ちょっとだけ、田舎暮らし 気候・風土・県民性…快適な住みやすさに茨城県知事が太鼓判":pp.150-151
  343. ^ 日本語の方言地図より
  344. ^ 青木智也(2004)『いばらぎじゃなくていばらき』(茨城新聞社)
  345. ^ Axis powers ヘタリア#北欧を参照。
  346. ^ a b c d 茨城港。観光庁 日本ブランド発信・外客誘致担当。2014年閲覧。
  347. ^ a b c d e f g h 茨城県庁『発見!! いばらき』「農林水産物」2014年5月閲覧。
  348. ^ カガミクリスタルの項を参照。
  349. ^ MCOは指揮者として小澤征爾や、シモン・ゴールドベルクルドルフ・バルシャイトレヴァー・ピノックジャン=フランソワ・パイヤールトン・コープマン準・メルクルヘルムート・ヴィンシャーマン若杉弘広上淳一ハインツ・ホリガー大野和士と協演してきた。或いはソリストではムスティスラフ・ロストロポーヴィチアンドラーシュ・シフブルーノ=レオナルド・ゲルバー園田高弘ドリス・ゾッフェルカール・ライスターナタリー・シュトゥッツマンライナー・クスマウルアンドレアス・シュタイアーと協演してきた。他に、 一柳慧の『汽水域』や、1995年に尾高賞を受賞した林光の『悲歌』、平義久の『彩雲』 などの作品が初演された。水戸芸術館。2014年5月閲覧。
  350. ^ 水戸芸術館。2014年5月閲覧。
  351. ^ 劇団いばらきHP。2014年閲覧。
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  367. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp bq br bs bt bu bv bw bx by bz ca cb cc cd ce cf cg ch ci cj ck cl cm cn co cp cq cr cs ct cu cv cw cx cy cz da db dc dd de df dg dh di dj dk dl dm dn do dp dq dr ds dt du dv dw dx dy dz ea eb ec ed ee いばらきフィルムコミッション。2014年5月閲覧。
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  370. ^ 常磐神社。三木神社(末社)。2014年閲覧。
  371. ^ 回天神社の項を参照。
  372. ^ 浅野長政の3男・浅野長重の家系は分家して後に、播磨国赤穂藩主となった。
  373. ^ 赤穂浪士の項を参照。
  374. ^ 徳川慶喜家第4代目当主の徳川慶朝氏は、主に茨城県のサザコーヒーにおける徳川将軍珈琲の仕事へ専念する為、2009年の数年前には茨城県へ東京から引っ越してきた。また、慶朝氏は仕事を通して茨城県に仲間ができ、その土地柄も気に入ったという。YUCASEE MEDIA(ゆかしメディア)、徳川慶喜家当主・慶朝氏【1】「もし18代将軍になっていたら」更新日:2009年03月25日。2014年5月閲覧。
  375. ^ 徳川慶喜家第4代目当主の徳川慶朝氏は、2008年1月に茨城県へ東京のマンションを処分して引っ越してきたという。水戸家の慶喜公出身地だったのは偶々で、仕事や趣味を通して仲間ができ、土地柄も気に入った事が茨城県へ来た一番の理由という。PRESIDENT、2008年11月17日号、徳川慶喜家当主 徳川慶朝さん。2014年5月閲覧。
  376. ^ 水戸徳川家第12代当主・徳川篤敬の次男である一橋徳川家第12代当主の伯爵・徳川宗敬太平洋戦争で戦火に遭わなかったがその家を米軍に接収された為、1946年(昭和21年)兄である水戸徳川家の牧場へ移り、その地を開墾して農業を始めた(石塚p71)。1984年(昭和59年)彼は伝来の家宝計5600点を茨城県立歴史館に寄贈した。このため一橋徳川家記念室が当館に設けられた(徳川宗敬の項を参照)。
  377. ^ 樋口清之監修・丹羽基二著『姓氏』秋田書店、1970年。
  378. ^ 甲斐武田氏・第20代当主・武田信吉は茨城県常陸太田市瑞龍町にある歴代水戸家の墓地・瑞龍山へ彼の甥にあたる第2代水戸藩主・徳川光圀により葬られた。
  379. ^ 初代・結城秀康結城氏として茨城県結城市の戦国大名。

参考文献[編集]

関連項目[編集]


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